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2012年5月 7日 (月)

護佐丸父祖の墓を訪ねる

 古琉球の時代、座喜味城を築き、中城城を拡張して城主となり、築城の名手といわれた護佐丸(ゴサマル)。勝連城主の阿麻和利(アマワリ)の謀反の告げ口により、討たれた。護佐丸・阿麻和利の乱で有名だ。恩納村に行く途中、山田の国道58号線の東側に、護佐丸が最初に居城としていた山田グスク跡など史跡があり立ち寄った。

031  歴史の道に出た。山田グスク跡は、今回は行けなかった。グスク跡の下に護佐丸の父祖の墓があった。護佐丸の出身はもともと、恩納村でも読谷村でもない。ルーツは、今帰仁(ナキジン)にある。曾祖父が先今帰仁城主で、1322年に北山王帕尼芝(ハニシ)によって滅ぼされた。

022  今帰仁城主の子が読谷山按司(山田按司)として山田城主となったが、嗣子がなく、兄弟の伊波按司の次男が養子となって読谷山按司を継いだ。その子が護佐丸だと伝えられる(ウィキペディアから要約)。

 023  つまり、護佐丸の父祖が山田城主であり、護佐丸は3代目として居城したそうだ。それで父祖一族の墓となっている。石灰岩の洞穴を利用している。墓の前には、一族によって建てられた碑文がある。

025  碑文は、もう読めない。説明板によると、おおむね次のようなことを記しているそうだ。
護佐丸は山田城主として居城したが、その後読谷山の城塞を構え居住するにより、この洞に墓所を定め、内は屋形作りにて一族を葬った。然るに幾年の春秋を経て、石造材破壊におよび、康熙53年修復した。
 このように碑文では、墓の修復(1714年)や碑建立(1750年)などを記している。

026  墓の奥は鍾乳石が下がり、拝所になっている。3年前、NHK大河ドラマで、上杉謙信が鍾乳石の洞窟に毘沙門堂があり、そこに籠る場面があったのを思い出した。雰囲気が似ているからだ。

027  護佐丸は、中山王となった尚巴志が、1416年に北山征伐の軍をおこすと、この軍に合流して、北山国を滅ぼした。曾祖父が今帰仁で滅ぼされてからおよそ100年近く後に、仇討ちをした恰好になる。

030                父祖の墓に上る道は険しい

 北山平定の後、今帰仁城主の血筋をひく護佐丸は、北山守護職に任じられた。ただ、尚巴志はその後、次男の尚忠を北山監守に任じ、護佐丸を読谷山の座喜味に移した。護佐丸は、その際に山田グスクの石垣を崩して、大量の石材を運んで座喜味城を築いたと伝えられる。

030_2  ただし、座喜味城跡は見事な石積みであり、城の規模も大きいから、山田グスクを崩して持ってきた石材だけではとても足りなかったのではないだろうか。他からも大量の石材を集めたのだろう。この築城のために奄美諸島からも島民が動員されたそうだ。これは、もう余談である。

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コメント

山田グスク跡がわからないのはなぜでしょうね~。石を座喜味グスクの築城に使ったからない、ということですかね。
墓は残ってるんだから、石積みがなくなっても、跡地の指定はあってもよさそうですけどね~。歴史街道をもっと昇っていけば、あるんですかね。
 尚巴志とともに護佐丸が北山を滅ぼしたのなら、尚巴志の墓が読谷にあってもおかしくないですかね~。

 護佐丸父祖の墓の上が山田グスクというので、もっと登ればあるでしょう。歴史の道をゆっくり歩けるといいですね。城跡は少し低い石垣が残っているようです。
護佐丸の娘が尚泰久王に嫁いで、尚巴志王統と姻戚関係にもあったので、護佐丸の居城があった読谷に墓を隠したのではないかな。尚巴志の父の墓、佐敷ようどれがある南部の佐敷方面では、分かりやすいから避けたのかもしれないですね。

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