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2012年5月24日 (木)

「艦砲ぬ喰ぇーぬくさー」歌碑建立へ

 反戦島唄の傑作「艦砲ぬ喰ぇーぬくさー」の歌碑建設事業が進められている。この曲は、読谷村楚辺(ソベ)出身の比嘉恒敏さんが1971年ごろに作詞作曲した。このブログでも、2011年6月、7月に2度にわたり、この曲の紹介と誕生秘話をアップしてある。

 歌碑建立は、楚辺の住民が中心になり、実行委員会を立ち上げ、スタートした。来年の6月23日、慰霊の日に建立式をする計画だとのことだ。

 歌碑建立の趣意では、この歌の歌詞が「艦砲射撃によって犠牲になった人々の哀悼とともに、悲惨な沖縄戦を生き残った“うちなーんちゅ”の強さと戦争を恨み平和を願う心情がつづられ」ている、とのべている。003          「艦砲ぬ喰ぇーぬくさー」のレコード。NHK画面から

 戦後67年が経過し、歴史の過ちを繰り返さないため、沖縄戦の体験の継承が課題となっているとして、「沖縄戦の実相を伝える象徴として、楚辺から世界へ戦争の悲惨さと平和の尊さを発信するため『艦砲ぬ喰ぇーぬくさー』歌碑建立事業を実施する」とその趣意をのべている(「艦砲ぬ喰ぇーぬくさー歌碑建設活動のブログ」から)。

 この曲がレコードで発売された当時は、大ヒットしたそうだが、最近ではあまり歌われない.。ラジオなどで流れる機会も少ない。こういう曲こそ、趣意で述べているように、歌い継がれるべきであり、歌碑の建設がふさわしいと思う。

005         比嘉恒敏さん(右端)と家族。NHK画面から

 それにしても、作者の比嘉恒敏さんは、沖縄戦とその後の米軍支配によって、県民に降りかかってきた悲劇と苦難を丸ごと体現した人ではないだろうか。
 父と長男は、学童疎開船「対馬丸」で失い、妻と次男は仕事で出ていた大阪で大空襲によって亡くした。恒敏さん自身は、戦災に会わず、生き残った。再婚して子どもを育て、娘さん4人で「でいご娘」を結成して、活躍していた。それが、復帰直後の1973年に那覇市の舞台を終えて帰宅途中に、宜野湾市大山で米兵の飲酒運転車両と激突して、妻は即死、自身も4日後に亡くなった。くしくも10月10日、あの沖縄戦の始まりともいえる「10・10大空襲」の日だったという(同ブログ)。

 なんという残酷な運命だろうか。「艦砲ぬ」の歌詞は最後に、<親や島を喰った戦争、艦砲を恨んで悔やんでも飽き足りない、子孫末代まで遺言して語り継がなければ>と歌っている。戦争を絶対に繰り返さないため、この曲は、長く歌い継がれていかなければならない。歌碑はそれに役立つだろう。

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コメント

読谷にはこのあいだ「さとうきび畑」の歌の碑ができましたが、「艦砲ぬ喰えぬくさー」のような歌碑こそ、早く建立されていいはずですね。
それにしても比嘉恒夫さんの人生は、沖縄戦と米軍支配に奪われたような、残酷極まりないです。比嘉さんのように戦争で家族を亡くした人も、みずから米軍の事件事故にあって命を奪われた人もたくさんいます。
そういう方々の思いを汲まないといけないですね。

 そうですね。歌碑の建立には資金がいるので、募金を集めたり、チャリティーグランドゴルフ大会も催すそうです。比嘉恒雄さんの残酷な運命に思いをはせると胸がつまるようです。古謝美佐子さんのお父さんも米兵による事故で亡くなったそうですね。
 読谷の比嘉さんの生れた楚辺付近は、いまも米軍のトリイステーションがあり、グリーンベレーもいて、この前も住民が米兵にひき逃げで殺されたばかり。こんな悲劇は繰り返させてはならないですね。

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