ソテツと島唄
近くの漫湖公園で、ソテツの新しい芽が勢いよく伸びている。
ソテツといえば、昔は飢餓の時に、飢えをしのぐための食糧となった。20世紀になってからも、1920年前後の大恐慌の時は、やはり黒糖が暴落し、大打撃を受けて、ソテツまで食べたので「ソテツ地獄」と呼ばれた。
この赤い実は、毒抜きして食べたそうだ。ただし、ソテツは裸子植物で実はつかないので、種子だとのことだ。
田端義夫のヒット曲「島育ち」に「♪赤いソテツの実も熟れるころ 加那も年頃、加那も年頃 大島育ち」と歌われている。この曲は、「大島育ち」というから、奄美大島が歌われている。
ソテツの実はとても食べられそうな感じはしない。
ソテツの実だけでなく、この幹を食べた。水にさらして、やはり毒抜きをして乾燥させ、それを粉にしてお粥をつくったそうだ。
奄美の民謡に「豊年節」がある。その中で「蘇鉄(すてぃてぃ)ぬ どかき粥や半くぶすぃよ」と歌われる。「蘇鉄で作られたお粥は打ち捨ててしまえ」という意味。奄美は薩摩の支配下で、サトウキビ栽培と黒糖生産を強いられ、イモが主食で、米は作っていなかった。米はよそから持ってきた。
この歌は、船に米を積んできたから、蘇鉄の粥は捨てようということのようだ。
三沢あけみが歌いヒットした「島のブルース」では、「奄美なちかしゃ ソテツのかげで 泣けばゆれます サネン花よ」と歌われる。これもやはり奄美が舞台だ。
沖縄民謡では、ソテツを歌う曲はあまり聞かない。私の歌う曲では、沖縄戦をテーマとした反戦島唄の傑作「艦砲ぬ喰ぇーぬくさー」がある。
「♪家ん元祖ん 親兄弟ん 艦砲射撃ぬ 的になてぃ 着るむん喰ぇむん むるねえらん スーティーチャー喰でぃ 暮ちゃんや」
(家も先祖、親兄弟も 米軍の艦砲射撃の的になって破壊され 着るものも食べ物もなにもなくなった ソテツを食べて暮らしたことだ)
ソテツの方言名は「スーティーチャー」。奄美でも「スティティ」と呼んでいるから、同じ呼び名になっている。
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コメント
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蘇鉄の実や皮を食べなければならなかった時代があったことは、沖縄に来て初めて知りました。
奄美の「豊年節」の歌詞の意味は、よくわかりませんね。「米をよそからもってきたから、蘇鉄の粥は捨ててしまえ」って、なんかおかしくないですか?薩摩に支配されてた当時を歌った唄だとするなら、米は年貢になるのだから、島の人の口には入れられないぐらい高価なものだったんじゃないんですかね?
投稿: いくぼー | 2012年5月 4日 (金) 09時23分
蘇鉄は昔、飢餓対策として植えることが奨励され、食べ方を教えたりもしたようです。
琉球は薩摩支配下で、米や粟、サトウキビも作ったけれど、奄美は、薩摩からサトウキビと黒糖作りだけを強いられたので、米は他所から持ち込まなければならないから、庶民は年に何回も食べられなかったそうですから、この歌詞は不思議ですね。島の人々の願望が込められているのかもしれないですね。
投稿: レキオアキアキ | 2012年5月 4日 (金) 09時33分