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2012年6月

2012年6月30日 (土)

地井武男の初主演は映画「沖縄」

 俳優の地井武男さんの訃報は驚きだった。まだ70歳。まだまだ活躍してほしい役者だ。代表作として、テレビドラマの「北の国から」などあげられる。

 だが、初主演映画は、武田敦監督の「沖縄」である。高卒後、1963年に俳優座に入った地井さんは、1969年製作のこの映画で、強烈な印象を残した。

 映画「沖縄」は、第1部、「一坪たりともわたすまい」。第2部、「怒りの島」の2部からなる大作だった。
 第1部は、戦後、米軍基地のため土地を奪われた農民のたたかいを描く。
 第2部は、ベトナム戦争が激しくなるなか、立ち上がる基地労働者をメインに描いた。
 地井さんは、米軍物資をかっぱらう「戦果アギャー」に走る若者を演じ、その後たたかいに立ち上がる男の姿を描いていたと記憶する。佐々木愛さんらが共演していた。
 中でも、中村翫右衛門が伊江島の基地反対闘争のリーダー、阿波根昌鴻さんを演じて圧倒的な存在感を持っていたことが印象深い。

 地井さんは、このあとも山本薩夫、今井正、岡本喜八監督らの社会派映画によく出演した。骨太な俳優のイメージが強かった。
 訃報を聞いて思い出すのは、この映画「沖縄」である。そういう意味では、沖縄と切っても切れないかかわりがある俳優だった。

 

2012年6月29日 (金)

50年前の歌謡界にタイムスリップ

 那覇市内のカラオケ店に三線愛好の仲間4人で行った。近く祭りで演奏するので、練習のためである。店は、民謡歌手が経営している。もう何回か来ている店だが、今回案内された部屋は、なんと「スタジオ」と表示されていた。中は広く、小さなステージもあり、ライブもできる。

 壁を見て驚いた。歌謡曲や演歌の歌手のポスターがずらりと張られている。いずれもこの一年ぐらいに沖縄に歌いにやってきた人たちだ。驚くのは、戦後の1950年代から60年代初めまでに活躍した歌手ばかりだ。

 「えっ! この人はまだ歌っているの?」。中には「ええっ!! まだ生きていたの?」と思う人さえいる。もうとっくにテレビなど表舞台から消えていて、引退したのでは、と思う人も少なくない。

 松島アキラは、7月で68歳になる。1961年「湖愁」でデビューしたとき17歳。62年にはNHK紅白歌合戦に出ていた。まだ歌っている噂も聞いいたことがなかった。でも現役だ。
 久保浩は、65歳。64年に「霧の中の少女」でデビュー。彼は2010年NHKの「第42回思い出のメロディー」に出た。

 大津美子は74歳。55年デビューし、「ここに幸あれ」が大ヒットした。沖縄に何回か来て、ラジオにも出ていた。テレビにも出演し、のびやかな声はいまだ健在である。

026  浦添市の「ヤフソオリオン」は懐かしの歌謡ライブをよくやる。ポスターが張られていた

 佐々木新一は、65歳。65年デビュー。「あの娘たずねて」がヒットした。彼も、昔の甲高い声は変わらない。

 宮地オサムは65歳。殿さまキングスのボーカルで「なみだの操」がヒットした。この曲がヒットしたのは67年だからまだ新しい方だ。

 ここまでは、まだ青春時代によく聞いた歌だ。驚くのはもっと古い世代の歌手たち。

 白根一男は75歳。53年に高校生でデビューし57年には紅白歌合戦に出ている。61年「はたちの詩集」がヒットした。50年代の歌手のイメージだ。なじみも薄かった。
 しかし、現在も新曲を発売して活動しているとか。ユーチューブで見ると、まだ年寄りじみていなくて、60代の感じ。声も昔とあまり変わりなく出ている。

 青木光一はまだ一回り年上だ。1950年デビューの86歳。57年の「柿の木坂の家」がヒットし、紅白にも3回出場している。つい最近、6月5日、NHK歌謡コンサートにも出ていて見たところだ。こうなるともう怪物だ。
 これらの歌手のポスターがずらりと並んでいるのだ。もう50年前にタイムスリップしたかのような錯覚にとらわれた。

 70代、80代でもよく歌えるなあ、と感心する。歌っていないと声も出なくなる。歌い続けていれば、声は出るものだ。加山雄三なんかも、75歳で同じ世代になる。

 あと沖縄に来ている歌手では、三船和子がいる。65年デビューで64歳になる。「他人船」がヒットしたが、デビュー作はなんと反戦歌の「ベトナムの赤い月」。ユーチューブで初めて見た。「ベトナム救う僧侶の悲願 いくさやめよと身を焼く祈り」と歌う。

 こまどり姉妹は双子姉妹でもう74歳。1951年に北海道から上京し、父親に連れられて浅草で三味線を弾き流していたという。13歳ごろだ。「浅草姉妹」がヒットし、61年に紅白歌合戦にも出た。先日も、NHK歌謡コンサートに出た。いまだに現役とは驚く。

 それにしても、沖縄にはこうした50年ほども昔に活躍した歌手たちがよく来る。沖縄は長寿県だから、また古い歌を愛する人たちも多いのだろう。

032 
 高齢でも歌っているといえば、もともと沖縄民謡界では、大御所として活躍しており、ごくフツーの光景である。金城実は、今年1月にライブを見たが、82歳と話していた。いつもコンビを組む山里ユキさんは73歳というので、二人で155歳になる。
 登川誠仁は、79歳で今年80歳になる。民謡界では他にもたくさんいる。そう思えば、あまり驚くことではないかもしれない。

2012年6月28日 (木)

平和祈願のエイサー歌

 「汗水節」を作詞した仲本稔さんの話の続きである。戦後1953年(昭和28)に「平和祈願のエイサー歌」をつくったとのこと。『沖縄の風土に生きる汗水節』で紹介されている。
 歌詞は7番まである。一部を書きだす。

1、戦争(イクサ)世ぬ哀りゆ 憶(ウ)び出(ンザ)ち 彼(ア)ぬ世ぬ御霊ゆ 弔らゆん 此ぬ世ぬ人々 慰さみん
 (戦争の世の哀れを思い出し 亡くなったあの世の霊を弔い 生き残った人々を慰めよう)

2、恐(ウトル)さや数多(アマタ)ぬ 命(ヌチ)宝 無駄によ捨てたる 浅間しさ 無茶によ捨てたる 命さみ
 (恐ろしいことだ 数多くの命の宝が 戦争によって無駄に捨てられた 浅ましいことだ 
 無惨に捨てられた)

5、原子ぬ爆弾 恐るさぬ 広島長崎 忘りるな 又とや落すな此ぬ世界に
7、世界ぬ国々 人々よ 仲良く平和に 暮さてい 誠な心に 愛込みて

042         エイサーのもともとの姿をよく残す平敷屋エイサー

 仲本さんは、この歌をつくった気持ちをこうのべている。
 「去った戦争で犠牲になった方々の霊を慰めつつ郷土の戦災復興に懸命の努力を捧げながら戦争の悲哀をなめ尽くした吾々が、世界人類と共に絶対にかかる悲劇をまたと繰り返さぬよう平和を祈る心でつくったものです」

 この曲は、1954年(昭和29)のお盆にラジオで放送されたそうである。
エイサーは、お盆に亡くなった人々を供養する行事である。戦争が終わって犠牲者の7回忌に捧げるつもりで用意したものだとのこと。仲本さんの平和への思いがおふれている。

 いまでは、この曲を聞く機会がない。一度聴いてみたいものである。

2012年6月26日 (火)

改作される沖縄民謡・「汗水節」

 働くことの大切さを歌った「汗水節」は、仲本稔さんが作った原歌と現在歌われている歌詞には、少しというか、でもかなり大きな改変がある。仲本さんにインタビューした宮城鷹夫さんによると、仲本さんは「いま盛んに歌われている“汗水節”は、歌詞も曲も宮良先生と私が作ったものとは違う箇所がたくさんあって困る」と語っていたという(『沖縄の風土に生きる汗水節』)。

015  その際、仲本さんが原曲でみずから三線を弾き、ガリ版刷りの楽譜も見せてくれたが、「“今様汗水節”とは違っていた」そうだ。

 例えば2番目の歌詞にある「守てそこねるな」というのは「守て損なゆみ」になったり、6番目の「百(モモ)勇みいさで」が、「百勇みいさみ」に変わっている。ひどいのは4番目の「二十歳さらみ」が「二十歳さだみ」と歌い、まったく意味まで変えている。

 私が民謡サークルでもらった工工四(楽譜)はさらに変わっている。「守て損なゆみ」は「貯めてぃ損(スン)なゆみ」とされている。原曲では「貯蓄に励み、守って損なうな」という意味だが「貯蓄に励み、貯めて損はない」という意味になる。この歌詞は、教訓歌としておかしな表現だ。原曲の歌詞がいいのは確かだ。

 「百(モモ)勇みいさで」も、私の楽譜では「肝勇みいさみ」となっている。これは意味あいはあまり変わらないだろう。「二十歳さらみ」とは「二十歳定め」の意味なので、分かりやすくしたということだろう。

 Photo

    この五線譜は「保存されている楽譜」とのこと。宮良長包さんが作曲した原曲だろう(『沖縄の風土に生きる汗水節』から) 

 曲(旋律)では、ある音から別の音に移るのに滑らかに音程を変える技法の「ボルタメンドを加えたところが多く、間奏のところに『スラハタラカナ』(そら働こう)」を勝手につけたのさえ出ている」と指摘している。

 いま歌われる「汗水節」はほとんど「シュラヨー シュラ働かな」と囃子をつけている。人によっては「シュラヨー シュラヨー」と繰り返す人もいる。沖縄民謡には、囃子は欠かせないので、自然にこの囃子がつくようになったのではないだろうか。

 仲本さんは、原歌が変えられることに、我慢ならなかったという。
「民謡歌手の中には、この曲に妙な抑揚をつけて歌い、ひどいのは歌詞まで勝手に変えた人がいるのです。それを聞かされると、まったく悪趣味としか言いようがありません」「宮良先生もきっと、草葉のかげで嘆いておられますよ」(同書)。

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 原歌、原曲は大切にしてこそ、歌に込めた本来の思いを知ることができる。
 ただし、民謡の場合は、昔から庶民に受け入れられ、広がり、歌い継がれるうちに、庶民の気分、感情に合うように、歌詞に手が入れられたり、歌詞が追加されたり、ときには替え歌がつくられて歌われることが当たり前になっている。
 八重山古謡なんか、同じ曲でありながら、シマ(集落)ごと、離島ごとに、旋律も歌詞も少しずつ異なるのが普通である。ひどい場合は、歌詞の意味が真逆に変わる場合さえある。

 これは沖縄だけでなく、日本の民謡についても同じことだという。
だから、民謡は、創作したのは個人であるけれど、民衆のなかで普及するうちに、いつの間にか原歌は変容をとげながら歌い継がれる。一個人の作品から、民衆が育て歌われる作品となっていく。それが、民謡の宿命のようになっていることもまた現実ではないだろうか。

 

 

2012年6月25日 (月)

「汗水節」に込められた思い

 働くことの大切さを歌った民謡の名曲に「汗水節」(アシミジブシ)がある。歌碑を訪ねたことをすでにブログにアップしてある。八重瀬町具志頭(グシチャン)出身の仲本稔さんが1928年(昭和3)に沖縄県学務部が行った「貯蓄奨励民謡募集」に応募して入選した。「勤倹力行の奨」という題で、1,2等はなく3等入選だった。

 仲本さんは、字仲座青年団団長をしていたが、応募したときはまだ24歳の若さだった。翌1929年に作曲家の宮良長包さんが「汗水節」と改題して作曲して、県民に広く歌われるようになった。Photo  歌詞は、貯蓄の奨励というだけでなく、働くことの大切さ、喜び、教育によって人間を育て、働くことによって世間の人々に尽くし、自分も高めていくなど気高く歌っている。青年の作品とは思えない内容を持つ教訓歌である。

 その中で少し分かりにくいカ所がある。一番では「♪汗水ゆ流ち 働ちゅる人の 心嬉しさや 與所(ユシュ)の知ゆみ」と歌う。歌意は「汗を流して働く人の心嬉しいことよ その喜びは他所の人にはわかないだろう」ということ。

 この「與所の知ゆみ」は何を意味するのか、不思議だった。汗水節記念碑建立期成会発行の『沖縄の風土に生きる汗水節』を読むと興味深い記述があった。
 仲本稔さんに会って話を聞いた宮城鷹夫さん(沖縄タイムス代表取締役専務・主筆)は、次のように解説している。

 「昭和初期の沖縄は汗水を流して働くことを生きがいとする風潮が強かった」「ひたいに汗を流して働く喜びが、他人にわかるはずもない。まして他県出身の支配者や成り金の寄留商人などにたいしては『よその知ゆみ』であった」。013           「汗水節」の歌碑

 同書で「汗水節の時代の背景」を書いた拝根光正さん(記念誌編集委員)は、宮城さんの記述を引用しながら次のように解説する。
 「この歌は一節一句の直訳的な意味のほかに、支配者に対する抵抗の感情が含まれている」「これは私達の先輩が学問なきが故に、資力のなきがため政治、経済、教育の実権が他所者に支配された忍従の歴史に対する反発である」

 「汗水を流して働き、勤倹貯蓄を奨励して資力を築き、手墨学問を広めて知識をみがき、他所者の支配者を実力で沖縄社会から追放しようという抵抗の意味が含まれていると思う」。このように理解するとき、この歌の意義はもっと深く広く汲めど尽きぬ味わいがあると記している。抵抗の感情が含まれていることは、これを読みはじめて知った。

 もう一つ分かりにくいのは、2番の歌詞だ。「♪一日に五十(グンジュウ) 百日の五貫 守てそこねるな 昔言葉」。いま使われている工工四(楽譜)では、「五十」は「1厘」と直しているが、読み方は「グンジュウ」のままだから、最初は戸惑った。

 上原直彦さん(琉球放送ラジオ制作専門職部長)が、同書で昔の通貨の対比を載せてくれている。それはかつての琉球通貨と円との対比である。
 つまり、この「五十」や「五貫」は琉球通貨のことようだ。廃藩置県(明治一二年)後の円との対比では、「五十は一厘」「」五貫は十銭」となるそうだ。ただ、「守てそこねるな」という歌詞は、いま歌われている歌詞とかなれ違う。違いについては、長くなるので別途書こうね。
 

 仲本さんの写真は、記念誌から拝借した。執筆者の肩書は、出版当時のものである。

2012年6月24日 (日)

「慰霊の日」・平和の島唄が流れる

 沖縄戦で組織的戦闘が終わった1945年6月23日から67年。「慰霊の日」には、県民みんなが亡くなった人々を追悼し、平和への誓いを新たにした。ラジオの民謡番組、民俗番組では、平和の島唄が終始流れていた。

 平日に放送するRBC「民謡で今日拝なびら」では、23日は放送がないので、22日に玉城一美さんの歌う「平和の願い」など流れた。この歌は、お父さんの玉城安定さんが、復帰前の1969年に作った曲で、一美さんが歌い継いでいる。「沖縄という島はいつまで戦世か」と、戦後も米軍基地が置かれて、米軍が海外で行う戦争に沖縄の基地が使われ、やすやすと暮らせない、不安な思いと平和への願いを歌っている。

 23日のラジオ沖縄の「民謡の花束」は、平和の島唄特集だった。やはり「平和の願い」をはじめ、進行役の松田一利さんがナマ歌で「屋嘉節」を披露した。金武町屋嘉にあった捕虜収容所で作られた曲。戦争の哀れを歌う。

 「戦世のあとの焼け野原を見れば またんねんごとにお願しゃびら」という歌詞もある。「ふたたびこんな悲惨な戦争がないことを願う」という県民共通の思いが込められている。写真は金武町にある「屋嘉節」の歌碑。

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 番組では、4人姉妹でつくる「でいご娘」の長女、艶子さんが中継で出演し、「艦砲ぬ喰ぇーぬくさー」について語った。曲をつくったお父さんの出身地、読谷村楚辺で行われる慰霊の行事で、この曲をこれから歌うと話していた。すでにブログでこの曲について書いてきたので詳しくはそちらを見て下さい。

 「わが親を喰ったこの戦争、わが島を喰ったこの艦砲 生まれ変わっても忘れられない 誰が戦争を始めたのか 恨んで悔やんで飽き足りない 子孫末代までいい伝えていかなければ」と歌う。反戦島唄の最高傑作だと思う。名曲をつくったお父さんが、米兵の交通事故で亡くなったとは慙愧にたえない。

013        「艦砲ぬ⋯⋯」を歌う「でいご娘」のみなさん。NHKテレビから

 この曲の歌碑建立がすすめられ、募金を集め、チャリティー行事もあり、来年の「慰霊に日」には出来上がるようだ。最近、この曲がよく聞かれるようになったのは嬉しいことだ。いつまでも歌い継がれるべき曲だ。

 24日日曜日には、ラジオ沖縄「赤瓦ちょーびんのぐぶりーさびら」は、沖縄の民俗、歴史について「ちょうーびんさん」がわかりやすく話してくれる番組。この日はやはり沖縄戦の話をしながら「平和の願い」「艦砲ぬ⋯⋯」など流した。ラジオの民謡、民俗番組も、平和一色だった。

 私も23日に行われた恒例の「三線を楽しむ会」で「屋嘉節」を歌ってきた。慰霊の日に歌うと、特別思いがこもる感じだった。

 

2012年6月23日 (土)

沖縄戦・激戦の地を歩く、その6

精神異常が続出したシュガーローフの戦闘

 那覇市内に入った。米軍基地が返還されていま新都心として発展する「おもろまち」への国道330号線からの入口に、米軍が「シュガーローフ」と呼ぶ最激戦地がある。安里の「慶良間(けらま)チージ」と呼ばれた丘陵だ。米軍にとって、ここは太平洋戦争で硫黄島と並ぶ有名な激戦地となっているそうだ。この高地の争奪戦で日米軍が顔と顔が見えるほどの接近戦で、手りゅう弾を投げ合うなど死闘を繰り広げた。頂上部を11回も取ったり取られたりしたという。激しい戦闘で、米軍の死傷者は2662人にのぼった。ある意味でそれ以上に深刻だったのが、あまりに過酷な戦闘で精神に異常をきたす兵士が多発し、1289人の戦闘疲労者を出したことだった。

いまは、教会などが建つこの地は、もう激戦をうかがわせるものは何一つない。国道330号線を超えてすぐ東側にいくと、米軍が「ハーフムーン」と呼んだ丘がある。つい最近も遺骨が発掘された真嘉比(まかひ)の大道森だ。再開発する予定で道路が通るので、その前に発掘がされている。デイゴの大木がうっそうと茂る森のなかは、墓地があったが、墓を移転するためいま空墓になっている。ここに陣地壕がある。戦時中も、墓を無理やり空けさせ、墓を使って陣地壕を作ったという。あまりの米軍の猛爆撃で、遺骨もバラバラになっているほどだ。開発が進む那覇市内で遺骨収集ができる最後の場所になっている。今年、墓の裏の陣地壕を掘ると、遺骨、手りゅう弾、それに化学弾が出た。毒ガスではなく、催涙弾のようなものらしい。化学弾の出現で発掘は中止された。

 ここで遺骨収集ボランティアをしている具志堅隆松さんが説明してくれた。「今年6月22日、8月3日の2回掘った。6月には、遺骨は全身に近い形で出てきた。亡くなった日本兵を、爆弾でできた穴に土をかぶせて仮埋葬していた。持ち物からわかる。ポケットの位置に観音像があった。手がかりになる。8月は、土砂降りで壕の中に入ったら、遺骨が出てきた。日本兵だとわかったのは、飯ごうがいっしょに出てきたから。『クガ』と名前があった。この部隊に『クガ』は11人いる。飯ごうは将校用で3人将校がいて、いま2人に絞られている。中央部からもう一体出た。石鹸箱が出た。『真木』という名が見える。部隊に5人いるが、身長、年齢から2人に絞られている。来月、遺族が来るので希望すればDNA鑑定をする。遺骨はまだ現場に安置してあるんですよ」

遺骨収集もしない国は無責任

1946      沖縄戦の1年後の本島の航空写真。那覇市街地が見える


「日米が接近戦をしたことがよくわかるのは、手りゅう弾の破片がよく出る。この鉄カブトも出たんですが、ここに穴があるでしょう。銃弾が貫通したんです(写真)。米軍の骨は出ないんです。かれらは戦死すると、きちんと収容するから骨はみつからない。武器がでるのは負けた側なんですが、ここでは米軍の武器も出るんですよ」。いかに両軍の被害が大きかったかがわかる。具志堅さんは静かに、しかし力を込めて語った。

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「まだここは一部しか掘っていないです。改めて感じるのは、沖縄戦はなんだったのか、われわれは、もう戦争はないという保証を手にしたのかということです」。別のインタビューではこうも話している。「国は徴兵し異国や各地に送り込み、戦死させながらその遺骨さえ収集しない。そんな無責任極まるものはないだろう。国民の命を奪う行為は普段は犯罪ですよ。それをやりながら国は最後まで責任を果たしていない」「なぜ遺骨収集をしているかとよく聞かれる。そんなとき『それは徴兵拒否の理由になる』と言っている。遺骨収集さえしない国に従う必要があるのか」(インターネット新聞)。

講習の最後の講師は、やはり沖縄戦を体験した吉嶺全一さん(77歳)だった。とかく、沖縄戦では、日本軍は住民を守らない、そればかりか、県民をスパイ視して虐殺するなどの事件が相次ぎ、「米軍より日本兵が怖かった」という証言が多い。

ただ、吉嶺さんはいう。「戦争は人間が人間でなくなること。その点では日本兵も米兵も同じです。米軍も残酷なこともしている。ある伍長は、戦場で袋を持ち歩いていたが、それは日本兵の死体から金歯を抜き取り入れるためだった。こんなこともやっていた。捕虜を殺した事件もある。バックナー中将が撃たれた日は、特に米軍は荒れていた。その日捕まった人は、民間人もほとんど殺されたそうです。広島、長崎で原爆も使ったでしょう。お配りしたこの紙を見て下さい。

Photo_8 これは『jap hunthinng licennse』とある。つまり日本人を射殺する免許証です。人数の制限なし。絶滅まで有効、と書かれています。こんなものまで発行していたんです。だからとにかく、戦争だけはやってはいけません」と力説した。

この言葉は、戦後の沖縄での横暴なアメリカ占領支配といまなお続く米軍基地の被害、さらに沖縄を足場とした、ベトナム、イラクなどへの侵略戦争での、米兵による残虐な殺戮にもつながる意味あいを感じさせた。

このような戦争は二度と繰り返してはならない、観光は平和があってこそ、だとの思いを改めて肝に銘じたフィールドワークだった。      

      (おわり。2008年12月31日 文責・沢村昭洋

沖縄戦・激戦の地を歩く、その5

嘉数高台

次に向かったのは、嘉数(かかず)高地と西嘉数高地だ。日本軍の陣地は、軍司令部のある首里の前方にあたるこの中部で、高地となっている地形に沿って三重にわたる防御線を築いていた。第一の防御ラインが、嘉数を中心とする線だ。第2の防御ラインが浦添市の前田高地を中心とする線。第3の防御ラインが那覇市の安里(あさと)を中心とする線だった。嘉数の高地の下にトンネル壕を掘り、陣地としていた。陣地壕は朝鮮から強制連行した人々に掘らせた。沖縄には、本島はじめ離島にまで多数の朝鮮人が連行され、こうした重労働を強いられていた。仲村さんは「壕を掘った朝鮮人のお墓もあります」という。

中部戦線には、第62師団(石部隊と呼ばれた)が配置されていた。この師団は前年の1944年8月にここに送られて来たそうだ。嘉数の部隊はなぜか京都の出身者が多かった。米軍は戦車を連ねて猛攻撃を加え、海と空からも砲撃と空爆を加えた。日本軍は、斬り込みの夜襲や爆薬箱を抱えて戦車に体当たりするなど玉砕戦法をとったが陥落した。沖縄戦の研究で知られる大城将保さんは、沖縄戦のガイド講習のさいに次のように指摘した。

「日本軍の特攻作戦として、『一機一艦船』」の名で神風特攻隊が米艦船に突っ込む。海では、ボートで米艦船に当たる特攻部隊を座間味島、渡嘉敷島に配置し準備していた。秘密を守るため住民は島外には出さない。軍民同居のもとで島民の集団自決も起きたのです。陸では『一人十殺、一戦車』と称して、爆薬を抱えて戦車に突っ込む。日本軍は、空でも海でも陸でも特攻をさせたのです」。

両方の高地には、「京都部隊激戦死守の地」の碑や、この地で全滅した「第62師団独立歩兵23大隊慰霊碑」などいくつもの碑が建てられている。「戦後、遺骨収集をしながら碑を建てたそうですが、まだ小さな骨はたくさん残っていますよ」と仲村さん。そういえば、「京都の塔」が嘉数台公園にある。「京都の塔」(写真)は、他の地方の碑が軍人を英霊扱いするだけで、沖縄県民の犠牲にほとんど触れていないなかで、「多くの沖縄住民も運命を倶(とも)にされたことは誠に哀惜に絶へない」と記している。きわめて稀な碑である。

これらの激戦地は、当時、どれほどの戦死者が横たわっていたことか。想像を絶する光景が広がっていただろう。観光ガイド講習を受けている講習生みんなで歩いて行っていると、ふと横の女性が、何か手にもって、それを頭の高さまで掲げながら進んでいることに気がついた。「あれ、何だろう。お菓子かな?」と思ってみた途端、他の人に勧めた。「これ使う人はどうぞ」。別の女性がさっそく袋から手にとって地面にパラパラと撒いた。「あっ、塩だ」。それは、戦死者の霊、魂を静めるための清めの塩だった。新しく買ってきたのか、大きなマース(塩)袋を一袋持って歩いている。このあとも、戦跡の先々で、このお塩がよく使われた。遺骨が見つかった場所では、塩を撒きながら「静かに眠ってね」と祈るようにつぶやいていた。

南部でも中部でも、慰霊碑を見る場合も、まず戦死者に黙祷するのが先だった。沖縄は死者をとても丁重に扱う。とくに、先祖は、自分たちを守護してくれる霊力をもつと考えられている。先祖神そのものだ。だから、仏壇は、大型タンスほどの大きさがあり、ことあるたびに仏壇やお墓にたくさんのお供えをして、御願を重ねる。そうした伝統と風習が、戦跡めぐりでも塩で清める気持ちの背景にあるのだろうか。

猛攻を受けた前田高地・仲間高台

次に浦添城跡を中心に前田高地・仲間高台に向かった。この丘陵に軍は、自然のガマ・トンネル壕・トーチカの連鎖陣地を張り巡らせていた。米軍はここに、太平洋戦争で最大規模といわれる猛砲撃と空からナパーム弾の投下を行い、この高地一帯を焼きつくした。首里主陣地防衛のための第62師団は、ここでの戦闘でほぼ全滅したほどの激戦だった。

浦添といえば、琉球王府の正史では、舜天王統、英祖王統の発祥の地とされている。浦添城跡には、王族のお墓である「浦添ようどれ」もあり、歴史的な由緒ある場所だ。この地に立てば、米軍が上陸した読谷方面まで一望にできるとっても眺望のよい所だ。「この浦添ようどれをはじめ琉球の歴史上も貴重な文化財、墳墓などが軍に陣地として使われたので、沖縄戦のさい徹底して破壊されたのです」と仲村さんは説明した。

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006            嘉数高台にあるトーチカ跡

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仲間・前田部落は、日本軍の陣地化した地域だけに、大激戦に巻き込まれ多数の住民が戦死したという。浦添城跡の下には、かなり大きな陣地壕があり、この付近にたくさんの住民の避難壕がある。その一つ「クチグァーガマ」(写真)に行った。人間の口のようにポッカリと洞窟の口が開いているのでこの名前がついたという。


この日はガマに入るから、懐中電灯や手袋を用意し、虫がくるので黒や赤の衣服は着ないように注意され、みんな「装備よし」と構えてきた。でも行ってみると、このガマは、入口が金網で封じられていまは入れない。戦時中は、この仲間地区の6班の住民が隠れる壕だった。前田高地が戦場になると、住民は南部に避難し、動けない人たちがこの壕に残り、ここで亡くなったという。南部に避難しても、南部に住んでいるわけではないので、どこに隠れればよいのかもわからない。それでたくさんの人が亡くなったそうだ。前田部落の戦死者は住民934人中、549人にのぼり、戦死率59%に達する。仲間部落は503人中、278人が戦死し、戦死率55%にのぼる。どちらも全戸数の3割前後が一家全滅の悲劇にあっているというから、凄まじい。

この高地の北側の断崖の尾根道を進んでいくと、為朝岩(米軍はニードルロックと呼ぶ)という巨岩がそそり立つそばに着く。岩までは行けないが、その手前が高地でも一番高い地点になる。北は読谷、嘉手納から南は那覇、首里城まで、四方がすべて見渡せる絶景の地だ。それはまた軍事上の要所だった。制空権を米軍に握られた日本軍にとって、ここは米軍の動きを監視するうえで絶好の場所だ。「ここから日本軍は見張っていて、米軍への砲撃の着弾の様子を見て、命中率を上げるために首里の司令部に連絡していたんですよ。ここを攻略されると日本軍はもう何も見えなくなる」と仲村さんは言う。

この高地と防御線を突破されると、もはや県都の那覇市、司令部のある首里まで一挙に攻め込まれることになる。この上から眺めると、軍事上の重要性が手に取るようにわかる。前に、日米の沖縄戦史を読んでいたが、地理的な軍事上のイメージはいまいちあいまいだった。やっぱりこうした戦跡地を実際に見ると、なぜここで激闘が繰り広げられたのかがよくわかる。前田高地では、日米両軍の接近激闘の争奪戦が続き、双方に多数の戦死者が出たという。

岩山の尾根道を降りてくると、「前田高地平和之碑」がある。「山三四七五部隊第二大隊戦友会」が建てたという。なぜか碑名は堂垣内北海道知事の書となっている。というのは、この部隊は、北海道出身者が多く「どさんこ部隊」とも呼ばれたそうだ。山形、沖縄の人たちもいた。

碑を建てた生存者名のなかに、沖縄の叙事的な歌謡集「おもろそうし」の研究で知られる外間守善(ほかましゅぜん)さんの名がある。外間さんは、山形第三二歩兵連隊第二大隊に配属になり、南部から中部戦線に移動になって、4月末から5月初めに激戦を体験した。「この戦いで、800人から1000人いたと思われる大隊のうち、9月3日の投降までに生き残ったのはわずか29人。そのうち沖縄初年兵は私を含め9人しかいませんでした」と証言している。この体験を『前田高地』として出版した。

慰霊碑は通常、表に戦死者名を刻み、裏側に碑を建てた生存者名を刻む。でも前田高地の戦死者はあまりに多いので、碑の裏手に、別に戦死者名を数㍍にわたって刻んだ岩板を掲げてある。ここにも、いかに悲惨な戦闘が繰り広げられたのか、がうかがえる。碑の付近には陣地壕も4カ所ほどある。

 前田高地といえば思いだす軍首里司令部のエピソードがある。防御線を突破され、窮地に立つ日本軍は「死中に活を求める」として、5月4日に「総攻撃」の作戦に出る。といっても、現実には無謀な作戦だった。だが、その前夜、首里の司令部では、牛島満司令官、長勇参謀長ら将官9人が、なんと「戦勝前祝会」を開いた。盛装した女性の華やかな接待を受けて宴会をしたという。ちなみに、首里司令部の洞窟内には、良家の子女や内地から招いた芸者、那覇・辻町の遊女らを集め、炊事の手伝いをさせていた。炊事だけでなく、宴会の接待までさせていたのだ。結局、作戦は初動から大損害を受け大失敗をした。一般兵士は決死の作戦に駆り立て、多数の兵士の尊い命を犠牲にしながら、司令部の幹部はこのような有様だった。当時司令部にいた八原博通氏が『沖縄決戦―高級参謀の手記』でこの事実を記しているから確かなことだ。

083         高く突き出た岩が為朝岩

2012年6月22日 (金)

沖縄戦・激戦の地を歩く、その4

最激戦の中部戦線の戦跡を見る

 12月15日には、宜野湾(ぎのわん)・浦添(うらそえ)・那覇地区の中部戦線の戦跡を見た。この日の案内は、沖縄県平和祈念資料館友の会の仲村眞さん。われわれよりも若い世代だ。会社で年次有給休暇をとって案内のために来てくれたという。米軍は1945年4月1日に読谷村、嘉手納、北谷町の海岸に上陸した。

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沖縄作戦に動員された米軍は約55万人。これに対し、沖縄守備軍は11万人にすぎない。決戦をすれば1週間で全滅する。「捨て石」にされた沖縄は、時間稼ぎのために、水際作戦は放棄した。上陸する米軍たいしに日本軍はまったく攻撃しなかった。


上陸が4月1日なので、米軍は「エイプリルフールではないか」と気味悪がるほどだった。日本軍は、持久戦のために壕を掘りめぐらせ、地下にもぐっていた。特に、この宜野湾から浦添方面は、高地に陣地を構え、米軍を待ち受けていた。上陸した米軍の南下する部隊は、宜野湾の大山、牧港付近まで、直線距離で8㌔㍍、一週間は、ほとんど


無抵抗で一気に進攻してきた。ここから本格的な戦闘が始まった。そして宜野湾から首里までのわずか同6㌔㍍の間に50日もかかるという戦史に残る激戦が戦われた。このため、日本軍は6割の兵力をこの中部戦線で失ったという。


井戸の下のガマに2カ月間も隠れる


最初に向かったのは、宜野湾市の我如古(がねこ)にある「チンガ―ガマ」だ。ガマといっても、井戸を降りて行くと横穴のようにガマがある。住宅地の地下に鍾乳洞が伸びており、長さ170㍍あるが、幅は狭く天井も1,2㍍と低い。まるで地下水道のようだ。このガマに通じる縦穴が井戸であり、この付近に5カ所あるそうだ。

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訪れたのは、呉屋さん宅の庭にある井戸(写真)だ。いま使われないので蓋をしてあり、呉屋さんが蓋を開けてくれた。井戸は深さが7,8㍍もあり、用意した金属製のハシゴを降ろしてくれた。時間の関係で入る人は代表3人に絞った。住民はガマに雨戸を持ち込み床や壁に張りつけて生活した。夜間に外に出て食料を調達したという。ちょうど、当時隠れていた89歳の仲宗根さんというおばあさんが出てきて、当時のことを次のように話してくれた。仲宗根さんは、宜野湾より少し北になる中頭(なかがみ)に嫁いでいたそうだ。


                  「米軍が上陸したので、ここの実家に逃げてきたけれど、実家の人たちは島尻(南部)に逃げていて家にはいなかった。このガマに隠れた。一緒に10人くらい隠れていた。近くには30人くらい隠れていた。ガマは狭くて、立つことも歩くこともできない。食べるものもないし、寝るところもない。外に出てやられた人も

  


いた。水を飲み、黒糖をなめて生きていた。2カ月くらい隠れていて、5月14日に救出されたが、そのとき私はまだ22,23歳だったけれど、もう今の年寄りよりもっと歳をとっていたよ」。この壕に住民が避難していることを知っていた米軍は、我如古出身者の協力を得て、ガマにいる人々に呼びかけて救出したという。

沖縄戦・激戦の地を歩く、その3

白梅学徒隊の碑のそばに「自決の壕」

真壁の少し北側になる国吉に向かった。最激戦地の一つだけに、日米の碑が多い所だ。有名な「白梅之塔」がある。県立第二高女の女子学生で作られた「白梅学徒隊」の碑だ。といっても、沖縄師範学校女子部と県立第一高等女学校の女子学生でつくる「ひめゆり学徒隊」のことは何度も映画にもなり、全国に知れ渡っているが、「白梅」の方は、県外にはあまり知られていない。動員されていた八重瀬岳の野戦病院壕で解散命令を受け、砲弾が飛び交う戦場に投げ出された。いま塔があるすぐ横に上下に壕がある。この壕に着き看護にあたったが、砲撃で殺されたり、「自決」をしたという。以前に一度、この塔を見に来た時は、壕を見ないままだったが、「自決の壕」と呼ばれているガマを降りて行くと、鍾乳石が垂れ、それがポキッと折られたようになっている。火炎放射器で焼かれたのか、黒ずんだ焼け跡のようなカ所も残っている。白梅学徒隊は46人が動員され、17人が亡くなったそうだ。

         写真は白梅学徒の「自決之豪」の碑 

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女学校の生徒動員は、県立・私立合わせて7校、6部隊もあった。動員数は約457人に達し、その内、180人が死亡しており、死亡率が41%に及ぶ。男子の沖縄師範や県立・私立中学校の生徒は、鉄血勤皇隊や通信隊に動員された。その数は動員が約1766人でその内、約876人が死亡しており、死亡率は5割に達する(大田昌秀著『沖縄の「慰霊の塔」』から)。若い命がいかに無残な犠牲にされたことか、この数字でもうかがえる。

大城さんによると「この付近には山形連隊(第三二連隊)がいたけれど、戦争が終わっているのもわからず9月前まで将校55人、兵士300人が壕に隠れていた。投降して生き残って帰ったそうです」という。戦後、「八原参謀(首里の軍司令部にいた)が、米軍に捕まっている日本兵のなかに、この部隊の親分たちが生き残っているのを見てビックリしたという話があるけれど、自分が(生き残って米軍に捕まった)高級参謀なのにねえ」と皮肉交じりに話してくれた。


同じ日本軍でも、無謀な斬り込みで全滅したり、自決したり、住民を虐殺した人もいれば、冷静に判断して命を粗末にしなかった人もいた。同じ学徒隊でも、積徳学徒隊の病院長の少佐は、6月26日夕、「君たちは死んではいけない。必ず親元に帰りなさい」と言い、「手りゅう弾をください」という女子学徒に「君たちに渡す手りゅう弾はない」と断ったという。この学徒隊は、25人中亡くなったのは3人にとどまっている。

ここから少し西の真栄里(まえさと)に行くと、沖縄作戦を指揮していた米第一〇軍司令官のバックナー中将の碑がある。太平洋戦争中に米軍の戦死した将校では最高の階級である。バックナーは6月11日に、日本軍の牛島中将に、「今や戦勢は決定した。この上新たな戦闘を継続し、有為な多数の青年を犠牲にするのは真に忍び得ないし、また無益である」と人命を救助するために降伏を呼び掛けた。でも牛島中将は無視したという。

バックナーのような司令官は危険な前線には行かないのが常識だけれど、6月18日、この地で前線を視察中、攻撃を受けて戦死した。新しく立派な碑があるので、それがバックナーの碑かと思って見ると、戦死した日が1日遅い。大城さんも「これはバックナーじゃないね」と気付く。よくよく見ると、英語で「ディアス・エム・イースリ准将6月19日戦死」とある。その奥にある古い碑がバックナーのものだった。


巨大な轟(とどろき)の壕


この日の最後は、旧真壁村伊敷にある轟の壕(写真)だ。これはいままで見た中で一番大きいガマだ。ガマはポッカリと大きな口を開けている。奥はとっても深い。これならいくらでも入ることができそうだ。ガマの下から空を見上げると、緑が生い茂り、この風景は映画(「ガマ・月桃の花」)の舞台となったガマとそっくりだ。撮影に使われたのかもしれない。水はいくらでもあり、拝所もある。千羽鶴がたくさんかけられている。千羽鶴は沖縄の人はかけないそうだ。本土からの人がかけたのだろうか。

このガマには、中南部から避難した住民、県の職員、日本兵など400人以上がいた。米軍が壕に対する攻撃をかけてきた。餓死者も出始めて、住民を外に出すよう日本軍に申し出たが、内部の情報が漏れるのを恐れる軍は「出れば殺す」と脅したそうだ。「でも海軍の空手名人だった人が説得して助け出されたですよ」と大城さん。

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この人は、宮城嗣吉さんという。宮城さんは、このまま壕にいれば危ないと思い「私が壕を出ていく。絶対皆さんを助けに来る」と言って壕を出た。米軍に捕まった。米軍はガソリンを壕に流し込み焼き討ちにする作戦で出るという。宮城さんは「壕の下方に住民が千人もいる。兵隊はガソリンの流れない上方に潜んでいる。これでは住民が死ぬだけだ」と説明。命令は中止になり、6月24日、旧知の人3人と壕に戻り説得して住民を救出したという。勇気ある行動で多数の人が救われたのだ。(数字は人により違う)


2012年6月21日 (木)

沖縄戦・激戦の地を歩く、その2

真壁の千人壕

次に向かったのは、宇江城(うえぐすく)だ。やはり第二四師団の司令部壕があった激戦の地だ。旧真壁(まかべ)村の東にあたる。ウチナーグチ(沖縄語)では東はアガリという。大城さんは語る。「このあたりは、180戸中、60戸が一家全滅になった。犠牲者は住民の60%を超えます」。「首里から軍が来るから住民はそれぞれ安全な場所を見つけて行け」と言われ、避難していたガマを追われ、暗渠や岩陰など身を隠せるところを探して潜んでいたという。この地は、日本軍の陣地があったから、米軍が朝の8時から毎日毎日、砲撃をしてきて、小山のような宇江城跡もハゲ山のようになっていたという。

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        このガマは文中に出てくる場所ではない。別のガマである

 「このあたりは、村の下はみんなガマになっているんですよ」と大城さん。「ええ!ただ畑が広がっている風景なのに。その下がガマなんて?」。一瞬信じられない感じがした。でも、地表の土の下は琉球石灰岩に覆われており、その下はいたるところ空洞になり水が流れているという。「山雨の塔」が建っている。そのすぐそばは、谷川のような窪みになっており、降りて行くとぽっかりとガマが口を開けている。「アガリ(東)のクラガー」というガマだ。古くから住民の大切な水源となっていたそうだ。沖縄では水の湧き出る場所は「カー」と呼ばれ、小さな祠が置かれ、祈りのための拝所にもなっている。「水は命のもと」でもあるからだ。「このガマにはまだ遺骨がありますよ」と大城さんは言う。

 この師団司令部は、沖縄戦の組織的な戦闘が終結した日といわれる1945年6月23日以降も司令部壕に残っていたが、30日に師団旗を焼いて自決したという。「山雨の塔」が建ち、その脇に「軍旗奉焼地」の小さな碑がある。投降を許さない帝国軍隊の人命無視の軍規がなければ、死ななくてもよかった犠牲だ。ガマに隠れていた住民は、そのなかにハワイ帰りの人がいて「ケガ人がいるから外に出てみよう」と出て住民は助かったようだ。

このあと、真壁集落のはずれにある「アンティラガマ」というところに行った。千人壕と呼ばれるガマだ。たくさん人がいたからこう呼ばれているが、実際には1000人以上の人がいたそうだ。ガマでも水がない。隠れていた住民は、砲撃の止んでいる間をみて、水汲みに行かなければならなかった。でも外に出るのは危険だ。「水汲みや食糧を取りに行ったまま行方不明になったひとが犠牲者の七割くらいいるんですよ」と大城さん。

このガマにいた人の証言によると、ガマの奥に水があったそうだが、奥には日本軍がいた。米軍の攻撃で入口にいた負傷者は全滅したが、奥にいた人は助かったらしい。この証言者は、千人壕の少し離れた場所にある別のガマに移った。ここは兵士と住民が雑居していた。そこでは、親を亡くして泣き叫ぶ男の子を、黙らせるため兵士が殺すのを目撃したという。

異様なほど軍人の慰霊碑が林立


このガマのそばに、「萬華之塔」(写真)がある。真壁の住民が付近一帯に散在していた遺骨を集めて合祀したという。1万9200人余が祀られているというから、このあたりの犠牲がいかに多かったのかがしのばれる。この塔の周りは、「独立重砲兵第百大隊鎮魂碑」とか「砲兵山吹之塔」(野戦重砲兵第一連隊)など、日本軍の部隊、軍人の慰霊碑、墓が林立している。

  

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南部の戦跡地は、軍の部隊、軍人関係の慰霊碑、墓がいたる所に建てられている。無謀な侵略の戦争を開始したことから、この沖縄の地で多数の兵士が「捨て石作戦」の犠牲で尊い命を落としたことは痛ましいことである。県民の立場からすると、本来は住民の守ってくれると思っていた「友軍」兵士が、逆に住民をガマから追い出し死に追いやったり、虐殺する事態が続発した。その日本軍関係の慰霊碑があたりかまわず建てられ、しかも住民の苦難にはまったく触れないで、軍人をただ英霊扱いにし美化する碑文がほとんどだ。住民のための慰霊碑より、こうした軍関係の慰霊碑がやたら多くて目立つ状況に、複雑な思いを抱く県民がいるのも当然ではないかと感じる。

次に向かったのは真壁城跡だ。いまは真壁公園になっている。琉球が北山、中山、南山の三山(三つの国)に分かれていた時代に、ここに南山の出城が築かれていたそうだ。古琉球とよばれるまだ沖縄内部で争いがあった時代に、城(グスク)が築かれたところは、小高い見晴らしのよい場所である。それはやっぱり時代を超えて戦争の際には軍事的な要衝となる。だから、日本軍は、首里城をはじめ県内の各地で城跡に司令部や陣地を築いたのだ。この真壁城跡には、岩山をくり抜いて砲台が築かれ、砲兵隊の陣地となった。陣地作りに小学生まで動員されたという。

「真和の塔」が建っている。陣地を敷いていた第五砲兵団は1945年6月中旬、米軍によって全砲火を破壊され、残った兵士は全員が斬り込みを敢行し全滅したという。「軍が陣地をつくっていた場所は、米軍の砲撃の的になり被害が大きいですよ」と大城さん。旧真壁村が激戦の地となったのは、軍の陣地が各所にあったからだ。「それに比べて、軍の陣地があまりなかった知念、玉城の方は、米軍は素通りですからね」。軍事基地があると、ひとたび戦争になった時にどうなるのか、という実例がここにある。それに、「もし、日本軍が首里で降伏していたら住民の10万は助かった。日本兵の3万は助かった」と言われる。

 

沖縄戦・激戦の地を歩く、その1

 沖縄戦・激戦の地を歩く

2010年にこの文章をブログにアップしたが、ダウンロードしないと全文が読めない形式だったので、そのまま全文が読める形でアップする。

沖縄県シルバー人材センター連合が、観光ガイド養成のため開いた講習を受講した。太平洋戦争で、唯一激しい地上戦がたたかわれ、県民の4人に1人が犠牲になるという未曽有の受難の地である沖縄では、県外から訪れる観光客を案内するのに、沖縄戦の戦跡はぜひ見てほしい場所である。それだけに沖縄県民自身がガイドとして、沖縄戦の実相と戦跡をよく学ぶことをとっても重視している。だから、合計11回にわたる講習のなかで、4回は沖縄戦にかんする講習であり、とくに激戦の地を現地で実習するフィールドワークは、南部と中部の2回にわたり、実施した。沖縄に住んで3年を超え、いくつか戦跡を見たけれども、まだ有名な場所しか見ていない。今回、なかなか自分だけでは見学にも行けないような戦跡にも、案内してもらえたのは、とても貴重な体験だった。まだまだ沖縄戦の実相や戦跡の現状も、県外では十分知られていない。そこで、自分で歩いた戦跡をいくつか紹介したい。


南部の戦跡からPhoto_3

住民が遺骨収集して建てた南北乃塔

「沖縄戦のなによりの特徴は、軍人よりも一般住民の戦死者がはるかに上回っているところにあり、その数は10数万におよびました」。県立平和資料館・設立理念にはこう記されている。県民の犠牲がとくに多かったのは南部だ。中部の読谷から北谷にかけての海岸に1945年4月1日、上陸した米軍が、沖縄守備軍(第32軍)の司令部のあった那覇市首里に迫ると、第32軍は司令部を摩文仁に移した。中南部に住む県民も、南部にこぞって避難したからだ。

               

 もし、首里陥落の5月末に日本軍がいさぎよく降伏していれば、どんなにたくさんの県民の命が救われたことだろう。しかし、現実には米軍の本土への攻撃を遅らせる時間稼ぎの「捨て石作戦」のために、日本軍は南部に撤退し、県民はさらに地獄に突き落とされたのだった。避難していたガマ(洞窟)から日本軍に追い出され砲弾に撃たれる、軍民雑居のもとで、スパイ扱いされたり、ガマからの追い出しや食糧強奪に少しでも抵抗すれば虐殺される。さらには集団自決に追いやられる。数知れない悲劇が生まれた。

 2008年12月10日、沖縄平和学習ガイド友の会会長の大城藤六さん(78歳)の案内で糸満市を中心に戦跡を巡った。大城さんは、沖縄戦の体験者であり、元校長先生や糸満市教育長も経験した人だ。最初に行ったのは糸満市の真栄平(まえひら)。「このあたりは日本軍の山部隊の陣地があり当時800人くらいいた。向こうに見える海は米軍艦がたくさんつながっていて、もう海が見えないほどだった。6月19日にはここまで米軍が進攻してきた。日本軍による虐殺事件で7,8人やられたこともあります」。

 ここに「南北之塔」が建っている。真栄平では住民の6割がなくなり、兵士と合わせて6000人の犠牲を出した激戦地だという。戦後1946年、収容所から戻ってきた住民は家を建てる前から遺骨収集をしたそうで、ここに納骨堂を建て、66年に改築するさい、現在の塔を建立したという。

043_2 ちょっと複雑なのは、この塔がいまアイヌ兵士を祀っていると誤解され、アイヌの人々が定期的に来て「イチャルパ」(供養祭)を催し、祈り、踊りなどしていることだという。塔の片面に「キムンウタリ」と彫られている。アイヌ語で「山の仲間」という意味だそうだ。大城さんによると、山部隊にアイヌ兵士が一人いて、戦後20数年ぶりに沖縄を訪ねて来た際、塔を建てることを知り250ドル(当時は大金だった)寄付をしたので、片側のデザインを任せたら、この字を勝手に彫ったという。ところが、その後、アイヌ兵士と住民の交流があり、「アイヌの墓」があるという話になって伝わり、本になった(橋本進『南北の塔 アイヌ兵士と沖縄戦の物語』)。そして、あたかもこの塔が「アイヌの墓」であるかのような誤解が生まれたという。「アイヌの墓というのはまったく嘘なんです」と大城さんは言う。誤解をもとにして祀りを行うのはアイヌの人にとっても不本意だろう。こんな問題によって戦争で被害を受けた人々の対立が生まれるのは不幸なことだ。はやく互いに納得できる形で解決するように願うばかりだ。

 塔の横には「山三四七八部隊故将兵霊」という第二四師団の慰霊碑がある。「山」というのは日本軍の秘匿のために、この名称で呼ばれた。他の部隊にも「石部隊」「武部隊」などの別称がある。「この碑は住民に相談なしに勝手に作ったんですよ。地代も払っていない」と大城さんはにがにがしげに話す。塔の裏にはガマがあり、そのそばにも軍関係の個人墓、碑が建っている。これも勝手に作られたと言う。

 

 

2012年6月20日 (水)

改善された台風の進路予想図

 台風シーズンになると、一番知りたい情報は、台風の強さ、規模よりも、進路である。沖縄本島に上陸するのか、どれだけ接近するのか、本島の北を通るか南を通るか。台風は、東側が暴風雨が強い。どのあたりを通るのかで、風雨は大きな違いがある。進路によって対策を考えなければいけない。
 それで頼りは、テレビの台風情報。進路予想図をなにより見る。ところが、NHK沖縄のデータ情報では、「沖縄台風情報」とあるのに、日本列島全域、千島列島まで入る大きな地図で進路予想を描いているので、沖縄あたりは小さな図になり、ぐちゃぐちゃになっていて、何時にどのあたりを通るのか、よくわからない。「拡大する」にしても、たいして拡大されず、依然として北海道まで入った地図で、沖縄付近は分からない。これでは、大和・本州に住む人には役にたつが、沖縄県民にとっては役に立たない。034       ことしもオオバナサルスベリが咲きだした。写真は2010年のものだ

 それで、思い切ってNHK沖縄に電話して、その旨を伝えて改善を要望した。「貴重なご意見をありがとうございました」と一応、受付の方は述べていた。ちなみに、OTVも同じ日本列島全体の地図。QABは台風情報のコーナーがない。RBCだけが、九州南部から南の地図で沖縄近辺を大きく描いていて、進路予想が分かりやすくなっていた。

 さて、 4号に続いて5号がやってくるので、またNHKの台風情報を開いてみた。すると、今度は日本列島ではなく、九州南部から南、琉球列島が大きく描かれ、台風の進路と到達時間もよくわかる。まあ、5号は南シナ海にいるので、中国南部、台湾の西側から描かないと、進路予想が描けない。だから、南シナ海から九州南部までの地図で描いたという面もあるだろう。

 それにしても、要望をしたら、次の5号台風から進路予想が改善されていたので、大助かりである。5号も本島よりだいぶ北の東シナ海を進み、温帯低気圧に変わるとのことなので、あまり心配なさそうだ。

 まあ、電話をしたから改善したということではないかもしれない。でも、改善はとても役立つので、すぐにNHK沖縄に電話してお礼を述べた。「これからも続けてほしい」と。そういえば、昨年は沖縄気象台にも、やはり電話して改善を要望した。台風の常襲県だから、台風情報にはみんな敏感だ。気付いたことは遠慮せず伝えることがよい。

2012年6月18日 (月)

今年は、へんな台風が続く

 台風4号が沖縄本島の140キロほど南を通過中だ。暴風圏に入ると言ったけれど、風雨はあまり強くならない。時速30キロで進んでいるので、通過は早い。朝にはもう通り過ぎて、四国・本州に接近し上陸しそうだ。

 この台風の経過は、この前の3号とそっくりである。曜日まで同じだ。
つまり、前の台風も本島の南を通り、大東島は直撃したが、本島は夜中に通り過ぎて、朝起きると「台風はどうなったの?」という感じだった。夜中に何も強風など感じないうちに通り過ぎたというわけでる。
 それに、曜日も月曜日の夜に接近し、火曜日朝には抜けていた。001       昨年の台風2号の直撃で信号機もねじ曲がった

 今回もまた、月曜日の夜接近して、夜中に通過し、火曜日朝は平常に戻るというパターン。まるでそっくり。リプレイを見ているようだ。

 今年は、デイゴはたいして咲かなかった。台風は少ないのか、と思えばもう2回沖縄に接近してきて、それに本島の近くを通るコースが続いている。さらに5号も南シナ海で発生していて、今後東の方向に進み、21日(木)には東シナ海に進む。沖縄にも影響が出そうだ。

 数年前は、台風といえば先島ばかり襲って、本島にはほとんど接近しなかった。それが昨年からは変わった。台風といえば本島に接近するものばかり。先島にも行ってほしくないが、本島ばかり来るのもヤナ感じ。でも沖縄では台風は避けられない。雨を降らしてくれるという面もある。接近しても被害が出ない、少ないことを願うばかりだ。012         2010年の糸満ハーレー

 今年は、梅雨入りが4月末と例年より相当早かったので、少しくらい早く梅雨明けしてくれないかと思っていたら、梅雨明けしそうな時期に、台風が相次いでいる。
 例年、旧暦5月4日は、糸満を始め各地でハーレーが行われる。「那覇ハーリー(新暦5月連休)で梅雨入りし、糸満のハーレー鉦が鳴ると梅雨明け」と言われている。今年は6月23日がハーレーの日にあたる。ちょうど「慰霊の日」と重なる。旧暦で動く海の行事だから、重なっても暦通りで行われる。
 23日のハーレーと慰霊の日には、梅雨明けとなっているだろうか。

 台風が過ぎ去り「台風一過」で朝のうちは晴れ間が広がった。でも、昼から雷を伴う大雨になり、台風接近中よりも、台風が通過したあとの方が、台風らしい大雨になった。これも珍現象だ。

2012年6月17日 (日)

「お笑い米軍基地8」に笑う

 「基地を笑え!」をキャッチフレーズにした「お笑い米軍基地8」の本島縦断オール新作ツアーが始まった。16日は那覇市パレット市民劇場。400人余り入っているだろう。客席は若い人が多く、子ども連れや友人グループ、家族連れなどで満席。立ち見もでる盛況だった。

Photo  開会で、演劇集団FECの山城智二社長と企画・脚本・演出の小波津正光(まーちゃん)の2人があいさつしたが、のっけから米軍の垂直離着陸輸送機オスプレイの墜落の話になる。
沖縄に配備予定のオスプレイが2カ月で2機も墜落事故を起こす。基地を笑いの対象とするお笑い集団にとっては、恰好のネタを提供してくれているようなもの。

 前半は、8本の新作コント、後半は喜劇「阿波根食堂」だった。この企画が始まったときは、こんなに長くやるとは思わなかったとか。でも、米軍基地は次々に問題を引き起こす。浜の真砂は尽きるとも、基地を笑うネタは尽きない、といったところだろう。県民として基地はなくしてほしい、お笑い集団としては、基地があるから続けられる。この矛盾を抱えながらの、新作ツアーである。

 「お笑い米軍基地」シリーズが始まって以来、公演のあるごとに首相が交代している。これもお笑いのネタを提供している。
 コント1.「タンカーユーエー」。子どもの1歳の誕生祝いのこと。子どもに本と算盤、筆と墨、お金、赤飯など並べて選ばせて子の将来を占う大事な行事だ。首相として誕生1年の野田佳彦ちゃんは、覚えたての言葉「アップ、アップ」ばかり口ずさむ。「消費税アップ」と。選びの対象は、なんと普天間基地の移設先。親は県外、国外を選ばせたいが、佳彦ちゃんは興味ない。やっと選んだのは「辺野古」。来年はまた別の首相に交代か。2歳の誕生祝いはないだろう

 コント「沖縄体験ツアー」は、本土からの観光客に「シーサー作り」「琉球ガラス作り」の怪しげな体験を勧める。インチキさに嫌がる客に最後に勧めたのが「不発弾探査ツアー」。なぜか観光客のギャルは面白がっていた。

 こんな具合でコントは続く。今回は、田中前防衛大臣、沖縄防衛局までお笑いの対象になった。

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 喜劇「阿波根食堂」では、なんと戦後沖縄政界のヒーロー、瀬長亀次郎をモデルにした「やせ長亀次郎」が登場。復帰40年がたっても米軍基地の現状がなにも変わらないで居座る現状に怒る。「米軍は沖縄から出ていけ」と叫ぶ。

 それに、今回は沖縄戦で死んだ女の子が登場。阿波根食堂のおばあの子どもだった。「なぜ私は死に、お母さんは生き残ったの。なぜ私は食べ物がなかったのに、いまここにいる人はたくさん食べていられるの?」と問いかける。お笑いの中に、ウルウルしそうになった。

 反米の闘士・亀次郎や戦争で死んだ女の子を登場させて、現代に生きる人々に問いかける創作の意図は意欲的だった。

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 公演には、県内だけでなく、県外からもたくさん見に来ていた。福岡、熊本、大阪、名古屋、東京、群馬など。県外の人には、少しウチナーグチや沖縄の習慣が分かりにくいところもあっただろうが、でも会場は爆笑に次ぐ爆笑だった。

 今回も、ウチナーお笑い芸人ならではの舞台だ。たくさんの人々に見てもらいたい公演である。

2012年6月16日 (土)

オスプレイ、墜落しても墜落しても配備するのか

 米軍が沖縄に配備を計画する垂直離着陸輸送機オスプレイがまたまた墜落した。4月にモロッコで墜落してまだ2カ月にしかならない。「世界一危険」は海兵隊普天間基地に「世界一危険なオスプレイ」を配備するのは「危険の二乗」と仲井真知事も表現するほどだ。

 米フロリダ州で墜落したのは空軍のCV22オスプレイ。基本構造は海兵隊のМV22オスプレイと変わらない。米軍側は事故原因も分からないのに「機体の基本設計に欠陥を疑う理由はない」と早々と欠陥機ではないと会見でのべた。

 この7月にも沖縄に配備しようとして、13日には防衛省は環境審査書を県に提出し、「重大な環境問題も生じない」と述べたばかりだ。モロッコの事故原因についても、米側の「人為的ミス」ですまそうとした。立て続けに墜落することをみても、欠陥機であることは疑いない。人為的ミスとしても、それが起きやすいこと自体、欠陥があることを意味するだろう。

003  驚くのは、政府の対応だ。森本敏防衛相は「事故の中身が分からないので、淡々として計画通りに進めていきたい」と話した。立て続けに墜落したのだから、いくら閣僚だといっても、事故の中身も原因もわからないなら、計画は棚上げして、究明して検討するというのが、当たり前だ。まだ分からないから計画通り進めるというのは、無責任極まりない。

 オスプレイは、試作段階から墜落事故が相次ぎ、「未亡人製造機」と呼ばれたほどだ。もしエンジンが停止しても緊急着陸できるオートローテーション機能がない。即、重大事故につながる危険も指摘されている。だから、沖縄では、自治体を含めて配備にはこぞって反対してきた。

 しかも、環境審査書では、普天間飛行場だけでなく、沖縄本島全域を飛行することや伊江島では年間訓練回数が現行ヘリの2・3倍の6760回にものぼることが判明した。改めてその危険や騒音被害が恐るべきものであることが明らかになったばかりだ。

 そこへこの「2か月に1回墜落」という事実である。いかに米軍、防衛省が「安全」「重大な環境問題は生じない」と強弁しても、そのウソ、偽りが、もうはや誰の目にもはっきりと見えている。
 仲井真知事が「潮目が変わった」というほど。保守系の翁長那覇市長も、配備反対の県民大会を検討することを表明している。これでもなお、配備を撤回しないなら、県民総ぐるみで反対運動が燃え上がる。「島燃ゆ」の再現となるだろう。日米両政府は墓穴を掘ることにしかならない。

2012年6月15日 (金)

芸術課長は「現代の踊奉行」。戦後沖縄芝居事情、その3

芸術課長は「現代の踊奉行」

沖縄戦で県民の四人に一人が犠牲になり、郷土は焼け野原となり、生き残った人々も、捕虜、難民収容所で暮らした。ようやくもとの居住地に帰れても、家々ともとの集落は破壊され、食糧や生活物資も不自由な苦しい状態にあった。

そんなとき、沖縄芝居をはじめ芸能は、人々の苦しみや悲しみを癒し、慰め、元気づけ、明日への勇気をもたらすかけがえのない娯楽だった。県民は、悲しみを乗り越えて、気合いを入れて奮い立つ「ヒヤミカチ精神」を発揮して、復興に向けて立ち上がっていった。

それにしても、こんな戦争直後から民政府の機構として、文化部芸術課があったことに驚いた。荒廃した状況だったからこそ、ウチナーンチュが暮らし、生きる上で芸能は不可欠なものだっただろう。
 もっとも民政府の機構は米軍と協議してできたという。
 戦後の芸能活動の発端は、米軍の発案であったらしい。一九四五年末、米軍少佐の発案で、生存俳優の調査と集合を命じ、「沖縄芸能連盟」(護得久朝章会長)を石川で組織、文化部の指導で芸能人の一部を集めて米軍部隊回りで稼ぐ「沖縄ダンシングチーム」を結成していたとのことだ。

王府時代は、冊封使を歓待するための御冠船踊(ウカンシンウドゥイ)だったのが、戦後は「アメリカさんのための踊りになった」(川平朝申氏著『終戦後の沖縄文化行政史』)という。

 川平氏が課長をつとめた芸術課の仕事は、演劇、舞踊、音楽の指導奨励と公演から美術の奨励と展示、映画館、劇場の指導監督、博物館、図書館の整備陳列などだった。

まだ食うや食わずの社会で、これだけの芸術担当の部署がきちんとあったのは、さすが「芸能の島」である。しかも、役者、音楽家、画家まで給料を払って採用して公務員扱いだったというのには、二度ビックリだ。

これも、かつて琉球王府の時代に、中国からの冊封使を歓待するため、王府の中に「踊奉行」(ウドゥイブジョウ)という専門の役職が置かれ、役人、士族が芸能を仕事として訓練していた。そんな歴史を思い起こさせる。著者の川平氏自身、文化部芸術課長の役職を王府時代の「踊奉行」に例えている。

戦後の沖縄県内に、一九四八年当時、芸能を上演する露天劇場が四四カ所もあり、劇団は一九五〇年当時で二六を数えたとは、スゴイことである。それだけ県民が劇場と芝居はじめ芸能を欲していたということだ。芝居の観客が最大七〇〇〇人とか、一〇〇〇人単位で超満員などと聞くと、いかに芝居や芸能が沖縄県民にとって、熱烈歓迎されたのかがよくわかる。

001     国立劇場おきなわ。組踊だけでなく、沖縄芝居も上演される

もちろん、その後、映画が隆盛をきわめ、さらにテレビが普及して、沖縄芝居の劇団や観客も相当減少したことはいうまでもない。テレビでも「郷土劇場」という番組があり、いまでも定期的に芝居を放送してくれる。

少なくなったとはいえ、いまでも沖縄芝居の劇団は、私にはまだ覚えきれないほどたくさんある。「でいご座」の中田幸子さんは絶大な人気を誇る。沖縄おばあのハマり役の平良とみさんと夫さんも、現役の役者として劇団でバリバリ活動している。
 「母の日」になると、沖縄芝居の劇団は、競い合って各地で公演をする。お年寄りにとっては、ウチナーンチュの肝心に響く伝統的な沖縄芝居は、ヤマトの映画やテレビドラマでは、絶対に味わえない。劇場に足を運び、ナマで役者の演技を見る感動は、何にも代えがたいものがあるだろう。

2012年6月14日 (木)

雨後のタケノコのように露天劇場。戦後沖縄芝居事情、その2

各地に雨後のタケノコのように露天劇場できる

県民から芝居、芸能は熱く歓迎され、各地で雨後のタケノコのように露天劇場ができた。ところが、劇団は三つしかないから、劇場主は劇団を招くのに必死で、劇団を増やせという声が起こった。当時は、劇場での興業は、警察署の許可が必要で、許可証を持たない劇団の興業願いは受け付けなかった。

 一劇団平均四〇名もの大所帯になった三劇団から「もう、役者はいらない」という声が起こった。芸能審査を受ける前に入団を拒否された俳優たちが出る。新しい劇団をつくらざるをえない。こうした「はみ出し組」が認可申請をしてきた。「新生劇団」「鶴劇団」。申請した二一名全員が合格、鶴劇団と新生劇団は誕生した。劇団の新設が認められると聞くと、三劇団に加入させられていた大宜味小太郎などの大阪組も分離独立をはかった。芸能連盟会員は二百数十名にのぼった。

           002

        

       中国からの冊封使を歓待するため始まった伝統芸能「組踊」。沖縄テレビから

  

 軍政府から時代劇禁止の通達が出たことがあった。沖縄では通達があったのは、東京から二年遅れの一九四七年で、沖縄芸能連盟では一応自粛を申し合わせた。「村芝居の組踊りを禁止するとは何ごとだ」「沖縄芝居はほとんどチャンバラなんだぞ。時代劇を禁止したら沖縄芝居は幕を開けられないんだぞ」という声が上がった。

 その後、「時代劇を禁止したら、沖縄の芝居は開店休業になります」と米側を説得して治めた。

 一九四七年三月二一日、民政府文化部が解散になり、九名の画家と一二〇人の役者たちは、文化部の「芸術技官」の身分を解かれた。戦後の過渡期が終わり、彼らは月給制から解放され、本来の自由業に戻った。
 松、竹、梅の三劇団、大伸座、新生劇団、乙姫劇団は、文化部解散とともに、民政府から解放され、一九四八年四月から自由興業となった。


 一九四八年の劇団自由開業後の露天劇場は、沖縄本島で、南部から国頭まで那覇市三、首里市一、真和志村二、糸満町二、東風平村二、石川市二、具志川村(現うるま市)四、越来村三、今帰仁村二など、合計三一市町村で四四カ所を数える。
 自由人となった三劇団は、散髪代が一円のころ、入場料を大人二円、子ども一円の統一料金とし、劇場と七対三で分け、七割を役者に配当した。

 どの劇場でも、観客は一〇〇〇人単位、二〇〇〇、三〇〇〇人という超満員が普通で、五〇〇を割ると公園中止がまじめに議論されるほどの売手市場だから、下っ端の役者が知事と同じ一〇〇〇円を楽にもらった。三劇団の寡占時代で、空前絶後の全盛時代であった。

一九五〇年までに認可された沖縄芝居として次の劇団がある。

松劇団、竹劇団、梅劇団。大伸座、ときわ座、乙姫劇団、新生座、翁長座、新富座、奥間英五郎劇団、鶴劇団、新興劇団、新国座、ことぶき座、朝日座、ゆたか座、みつわ座、演技座、俳優座、天川座、でいご座、双子座、なじみ座、ともえ劇団、旭座、衆楽座。

以上は川平氏の著作から、関わりのあるところだけを要点を抜書き、補足したものである。

2012年6月13日 (水)

公務員となった芝居役者。戦後沖縄芝居事情、その1

公務員となった芝居役者

 

 沖縄戦が終わり、米軍統治の時代になったさい、慰問のために、沖縄芝居の役者たちを集めて、移動劇団がつくられ沖縄本島を三地区に分けて巡回したという。この話は、ラジオで沖縄芝居の役者、八木(ハチキ)政男さんから聞いたことがある。しかし、いまいち実情がよくわからなかった。

 いま読んでいる川平朝申(カビラチョウシン)著『終戦後の沖縄文化行政史』のなかに、当時の様子を知る記述があるので、紹介したい。川平氏は、終戦後、台湾から引き揚げてきて、沖縄民政府の文化部芸術課長として文化行政にかかわってきた人である。

 民衆の慰問のために、沖縄の音楽、芝居など芸能に優れた人たちを集めて、三つの移動劇団がつくられた。役者と音曲担当者を松、竹、梅の三グループに編成して、沖縄本島を三地区に分けて巡回した。
 沖縄民政府の文化部に設置された芸能審査委員会が一九四六年九月、最初の俳優採用試験を行ない、琉球芸能の俳優と音楽家の適任者五〇人を決定し、「芸能審査証」を交付。発足したばかりの民政府から給与を受けることになった。

 琉球王府の時代は、中国から琉球の国王として認証するために派遣されてくる冊封使(サッポウシ)を歓待するために伝統芸能の組踊など「御冠船踊り」(ウカンシンウドゥイ)を披露するために、王府の役人が芸能の腕を磨き、その任にあたっていた。でも、王朝最後の御冠船接待の終了後、給与を打ち切られた。

 戦後、約八〇年ぶりに俳優、音楽家らが「公務員」として復権したことになる。

 当時、公務員の最高一五級の月給は知事の千円、最低の一級は一二〇円だが、松・竹・梅の三劇団に配属された約一〇〇人の役者たち「文化部芸術技官」の正副団長は課長クラスと同じ四〇〇から五〇〇円。劇団員の平均は三〇〇円だったという。

 最初の芸能資格テスト合格者五〇人の配置は次のようになっている。

「松」=石川市を中心に中頭地区。団長・島袋光裕、副団長・鉢峯喜次。他団員。

「竹」=羽地、田井等地区を中心にした北部一円。団長・平良良勝、副団長・宮城能造。他団員。

「梅」=知念、百名、志喜屋を中心とする南部・島尻地区。団長・伊良波伊吉(尹吉)、副団長・名城政助。他団員。 

彼らの仕事は地方巡回公演であった。文化部が巡回日を予告し、市町村ではそのスケールを合わせて仮設舞台を用意、そこへ民政府陸運課さし回しのトラックに乗った団員が衣装や道具とともに乗りつける。

 060 写真は志田伯豊年祭。戦後の露天の芝居公演はこんな感じだっただろうか?

 熱狂的に歓迎された沖縄芝居

一九四七年一月二二日までは各地区間の往来は禁止されていたから公演は昼間である。ほかに娯楽はないし、何年ぶりかで見る郷土芝居だから、どこでも熱狂的に歓迎されて大入り満員。空缶三線(カンカラサンシン)に合わせて舞う役者たちに歓喜の涙がそそがれ、松劇団の初演では具志川村川田で観客七〇〇〇人を集める空前のレコードをつくった。
 役者たちは「公務員」として俸給をもらっていたが、木戸賃を住民から徴収していると問題になったことがあった。当時、公営劇場は石川市(現在うるま市石川)にしかなかった。公営劇場といっても、舞台があるだけで、露天の演説会場のようなものだった。それ以外に各地では私営劇場で上演するしかないから、劇場使用料が必要で、木戸銭をとらざるをえなかった。

 そのうち疎開していた芸能人たちが次々引き揚げてきた。大宜見小太郎氏の一座三〇名も帰ってきた。役者は引っ張り凧だったが、民政府の資格審査があった。のちに大伸座を組織した大宜見小太郎夫妻、宇根伸三郎、八木政男らは大阪から引き揚げて石川氏で二回目の芸能審査を受け、全員で「丘の一本松」を演じて合格、竹劇団に配置された。
 のちに一九四七年四月から自由開業になっても芸能審査は続いたから、合格者は年末には一二〇人にも達した。

2012年6月10日 (日)

アルテで「平和の琉歌」を歌う

 毎月恒例の首里赤田での「アルテ ミュージック ファクトリー」は今月のテーマは「季」。桑田圭祐作詞作曲の「平和の琉歌」を選んだ。といっても歌ったのは「ネーネーズ」版である。

011  6月23日は「慰霊の日」であり、今月は平和の季節だ。それと、「ネーネーズ」版の歌詞は、サビの部分で桑田版にはない歌詞が追加されている。
 「♪御月様前たり泣ちゃ呉みそな やがて笑ゆる節んあいびさ」と歌う。「お月さまの前で泣いてくれるな やがて笑えるときがあるよ」という意味である。「節」は「季節」の意味であり「時節」の意味もある。民謡ではよく出てくる。というわけで「平和の琉歌」を歌ってみた。

012  日々の練習はしっかりやり、当日も早く会場についてリハーサルもしっかりやったのに、本番になると、単純なイントロからうまく弾けない。歌だけはなんとか歌った。だが、終わってから、「いったい何回出演すれば平常通り演奏できるのか」と少し落ち込んだ。

 三線を弾く仲間として、玉那覇宗造さんが「浦波節」を歌った。「物知り節」ともいう。教訓歌である。なかなか難しい曲だけれど、三線は巧みで、歌も味わいがある。

008 民謡では、川上明さんらがマンドリンとベース、ピアノで「安里屋ユンタ」とカチャーシー曲を演奏した。リハーサルの時、「三線で演奏に参加しませんか」と声をかけられたので、舞台に出てみた。マンドリンと一緒に演奏するのは初めて。軽快なマンドリンになんとかついていった。

020  

 ツレは、これまでピアノやギターの演奏を頼んで、歌を歌ってきた。しかし、自分でピアノを弾けるようになりたい、弾き語りをしたいという思いで、電子ピアノを買いピアノ教室に通いはじめた。今回、初めてピアノ演奏でデビューした。演奏は「LOVE」 。少しミスは出たけれど、リズムよく弾けた。わずか一か月余りの練習でこれだけ演奏できればグッドだ。024  来月のテーマは「流」。流すものは水や谷川だけでなく、汗も流れる。というわけで「汗水ゆ流ち 働らちゅる人ぬ」と歌う「汗水節」にしよう。

2012年6月 6日 (水)

歴史がいまも生きている沖縄、その3

 歴史上の人物というわけではないが、八重山や宮古島では、離島や遠隔地に派遣された役人が、賄い女、現地妻(旅妻)を囲っていた。民謡には、現地妻との別れを悲しむ曲など現地妻にかかわる唄がかなれ多い。その現地妻が生み育てた子どもの子孫といわれる人々がいまもいる。
 その一人が、連合沖縄会長をつとめた狩俣吉正氏である。彼が郷里の宮古島の狩俣の歴史や民俗など記した著書『狩俣民俗誌』を読んでいると、みずからの出自について記していた。
 「私は狩俣で生まれ育った。琉球王国時代の役人が赴任先で囲った現地妻(旅妻)に生ませた息子が祖父・狩俣吉蔵である。若い頃から歴史、民俗、歌謡に興味を持ち、厳しいタブーの中で神歌を盗み聞きして覚え込んだ人である」「父・金吉は一二年間大城元(うぷぐふむとぅ)でアーグ(神歌担当職)をしていた。母・ヨシ子も一〇年ほど志立元(したでぃむとぅ)のウヤバー(世ぬ主)をしていたので、ウヤーン(秘祭)のことを知る環境は揃いすぎていた」。

005              文章とは関係ない、飾りの写真。花の名はわからない

 『狩俣民俗誌』では、狩俣に伝わる祖神歌、ニーリ、フサ、ピャーシ、タービについて、生まれ育った狩俣の方言で、読み解き、これまで「恐い歌」だと思い込んでいた神歌が、「どれも大変すばらしい内容の歌であることがわかった」という。私は、まるでド素人だが、従来の解釈とは相当異なることを指摘しており、狩俣出身者ならではの研究結果ではないだろうか。

 同じ現地妻を先祖にもつ人に、黒島出身の當山善堂氏がいる。當山氏が書いた「『賄女』に関する一考察」(『人頭税廃止百年記念誌 あさぱな』)で書かれた黒島の実例について、拙文「人頭税哀歌」でも紹介させてもらった。

 この「考察」では、黒島のトゥヌスク・カマトさんが十六歳の時、黒島に赴任してきた目差役人の賄女となった。役人は任期満了により妻子の待つ石垣島に帰り、カマトは二人の幼児を抱えて黒島に置き去りにされた。
 その後、カマトは連れ子を持つ身で島の百姓と結婚して五男二女をもうけた。人並みには幸せだったかもしれない。
 ところが生前、カマトは胸をえぐるような言葉を繰り返し話した。「決して綺麗な女の子を産むもんじゃないよー。女の子は綺麗になるもんじゃないよー」。これは美人に生まれると、すぐ役人に目をつけられることを恐れたからだ。「カマトの悲痛・無念の叫びが、心に響いてくるではないか」と當山氏は記している。

 このカマトさんは、実は當山氏の母方の曾祖母だという。しかもカマトを賄女にして、捨てて帰った役人と正妻との間の子どもの子、つまり孫にあたる人物が、なんと當山氏が人生の師匠と仰いでいる人だったという。歴史が生きている実例がここにもある。

004

 當山氏は、実は八重山古典民謡について、曲目ごとに詳しく解説した『精選八重山古典民謡集』を三冊に分けて出版している。八重山民謡について最良の手引きとなる本である。
 当初は、黒島の賄女についての「考察」を書いた人と八重山民謡解説本の著者が同一人物とは分からなかった。八重山民謡の本を読んでいるうちに、「おや? この名前はどこかで見た記憶があるぞ」と思って、調べてみると、同一人物であることが分かった。

 これらの人々は、それぞれの仕事や活動で頑張ってきた人たちだが、みずからの系譜に関心を持っている。同時に、それぞれ地域の歴史と伝統、民俗、文化に強い関心を持ち、先祖の残した伝統を受け継ぎ、伝えることなどに情熱を注いでいることで共通しているように思う。

 追記
 エイサー曲「久高マンジュ主」について書いたところ、久高マンジュ主の子孫にあたる久高さんから、この歌は「不愉快」「面白いといわないでほしい」とコメントをいただいた。伝説上の人物のように思っていた「久高マンジュ主」は、琉球王朝が栄えていた時代、国王を警護する役職につき、位階も上の位だったという。久高島に派遣され功績を上げたので国王から、それまで照屋姓だったけれど「久高姓に変えなさい」と言われて久高姓になった。立派な人だった。ただ酒と女遊びが激しくて、「久高マンジュ主」のように歌われたとのこと。

 歴史的な人物や出来事にかかわった人たちの子孫がいまもたくさんいることを改めて感じた。沖縄は狭い島国であり、人々のかかわりが濃密である。その子孫も、大和のように各地に散らばっていくのではなく、大半は島に暮らすという環境がある。それに士族はみんな家譜を作成していた。沖縄戦で焼けてなくなったのも多いが、なお多くの家譜が残され、男系の血縁組織である門中(ムンチュウ)も存在し、自分たちの祖先への関心も他府県以上に強い。これらも、沖縄で歴史が生きていることを感じさせる要因だろう。

 

2012年6月 2日 (土)

歴史がいまも生きている沖縄、その2

 第二尚氏をひらいた金丸(後の尚円王)が、かつて伊是名島を追われて国頭に逃れてきたとき、金丸をかくまい救ったと伝えられる奥間の東の鍛冶屋(アガリカンジャー)のことを書いた。その東の鍛冶屋は母の実家の先祖にあたるという人がいる。名護市辺野古への新基地建設に反対してがんばっている大西照雄さんである。

048
 そのお母さんは、13歳でノロ職(神女)に就いた。琉球王国は、聞得大君(キコエノオオキミ)を宗教的柱として、各地にノロを置いた。奥間ノロは、国頭でも最高のノロの位置にある。その最後のノロが母である、と大西さんは、ブログ「宝の海」に記している。

 尚円王といえば、伊是名島出身のシンガーソングライター、伊禮俊一は、その子孫だという。子孫だというなにか史料があるのだろうか、そのあたりはよくわからない。
 尚円王は、いまでは伊是名島の誇りであり、銅像も建立されている。でも、もともとは百姓だった金丸は、水田の水を盗んだと疑われ、島を出て本島に逃れたと伝えられる。 

 金丸に倒された第一尚氏の末裔と自称する方にも最近、お会いした。
沖縄ジョン万次郎会の定期総会で会ったSさんという女性は、沖縄にきて39年になる人だ。栃木県の出身だという。だが、意外にも「私のもともとの姓は尚なんです。それも第二尚氏ではなく、第一尚氏の子孫にあたるそうです」と語る。

076      第一尚氏の初代国王、尚思詔らを祀る「佐敷ようどれ」

 金丸が尚円王となったあと 第一尚氏の子孫が迫害を恐れて逃げたことは予想される。でも、栃木に子孫がいたとは、にわかには信じがたい。ただ、ご本人は、自分が沖縄に移り住んだこと自体に、強い縁を感じていた。琉球を統一した尚巴志は、もともと祖父は伊平屋島から本島の佐敷に移ってきたという。Sさんの娘さんが、伊平屋島に行っところ、どこからか「よく来てくれた」というような声が聞こえたともいう。第一尚氏の子孫を裏付ける史料はなさそうだ。

 ただ、クーデターで倒された第一尚氏最後の尚徳王の子どもは、3人が殺されたが、3男は乳母に抱かれて先祖の地、佐敷に落ちのびたとされる。後に屋比久(ヤビク)の地頭になり、屋比久大屋子と称したとのこと。しかも、その子孫は、王府から首里移住を許され、首里士族としての道を歩んだといわれる。ということは、廃藩置県の後、その子孫のなかから、上京して大学に学んだり、就職して、首都圏やなかには栃木県に住んだ人がいても不思議ではないかもしれない。

 まあこんな具合に、歴史上も重要な人物の子孫を名乗る人に、意外なところで出会うところが、沖縄ならではである。歴史がいまも生きていることを感じるのだ。

 

2012年6月 1日 (金)

「オキナワグラフ」に歌碑の写真掲載される

 沖縄で発行されているグラフ誌「オキナワグラフ」6月号に私の撮った写真が掲載された。久米島にある「仲里節」の歌碑である。

Photo  県議会議員選挙が始まったので、「選挙特集」だが、これとは関係ない。山城善雄さんという方が書いている「現代琉歌を愉しむ」というページのなかに「琉歌の心」というコーナーがあり、ここで「仲里節」を紹介している。そのわきにこの琉歌を刻んだ「歌碑をたずねる」ということで、写真が掲載された。

Img108  私のブログに「仲里節」の歌碑を紹介していたのを編集部の方が見て、写真転載の依頼があり、提供したというわけである。撮影者名も記載された。

 「仲里節」は「きけば仲里や 花のもとでむぬ 咲き出らば一枝 持たち呉てたぼうれ」という琉歌である。山城さんが次のように歌意を紹介している。
 「仲里は、美しい花が沢山咲く所と言われます。花が咲いたら、私にひと枝くださいませんか」。

Img108_2  この琉歌は、歌うのがなかなか難しい。なにしろ、字数は「8886」の30字にすぎないが、これを「きけば仲里や」の8字だけで1番を歌う。「花のもとでむね」だけで2番と言う具合である。だから30字だけで4番まで歌う。1字で「チキーーーーーーーーーーーーー」「バーーーーー」と何拍も伸ばす。
 とくに、驚くのは「仲里」の「ざ」では、なんと40拍も息継ぎなしに、声を出し歌い続けることだ。通常の歌謡曲なんかではありえない発声である。途中で息切れして、息を継ぐことがしばしばある。でも上手く歌えると、味わいのある曲である。

182 「仲里節」の歌碑は、2010年11月に久米島に旅行した時に撮影した。歌碑は裏側に歌意が刻まれている。

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