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2012年6月22日 (金)

沖縄戦・激戦の地を歩く、その4

最激戦の中部戦線の戦跡を見る

 12月15日には、宜野湾(ぎのわん)・浦添(うらそえ)・那覇地区の中部戦線の戦跡を見た。この日の案内は、沖縄県平和祈念資料館友の会の仲村眞さん。われわれよりも若い世代だ。会社で年次有給休暇をとって案内のために来てくれたという。米軍は1945年4月1日に読谷村、嘉手納、北谷町の海岸に上陸した。

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沖縄作戦に動員された米軍は約55万人。これに対し、沖縄守備軍は11万人にすぎない。決戦をすれば1週間で全滅する。「捨て石」にされた沖縄は、時間稼ぎのために、水際作戦は放棄した。上陸する米軍たいしに日本軍はまったく攻撃しなかった。


上陸が4月1日なので、米軍は「エイプリルフールではないか」と気味悪がるほどだった。日本軍は、持久戦のために壕を掘りめぐらせ、地下にもぐっていた。特に、この宜野湾から浦添方面は、高地に陣地を構え、米軍を待ち受けていた。上陸した米軍の南下する部隊は、宜野湾の大山、牧港付近まで、直線距離で8㌔㍍、一週間は、ほとんど


無抵抗で一気に進攻してきた。ここから本格的な戦闘が始まった。そして宜野湾から首里までのわずか同6㌔㍍の間に50日もかかるという戦史に残る激戦が戦われた。このため、日本軍は6割の兵力をこの中部戦線で失ったという。


井戸の下のガマに2カ月間も隠れる


最初に向かったのは、宜野湾市の我如古(がねこ)にある「チンガ―ガマ」だ。ガマといっても、井戸を降りて行くと横穴のようにガマがある。住宅地の地下に鍾乳洞が伸びており、長さ170㍍あるが、幅は狭く天井も1,2㍍と低い。まるで地下水道のようだ。このガマに通じる縦穴が井戸であり、この付近に5カ所あるそうだ。

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訪れたのは、呉屋さん宅の庭にある井戸(写真)だ。いま使われないので蓋をしてあり、呉屋さんが蓋を開けてくれた。井戸は深さが7,8㍍もあり、用意した金属製のハシゴを降ろしてくれた。時間の関係で入る人は代表3人に絞った。住民はガマに雨戸を持ち込み床や壁に張りつけて生活した。夜間に外に出て食料を調達したという。ちょうど、当時隠れていた89歳の仲宗根さんというおばあさんが出てきて、当時のことを次のように話してくれた。仲宗根さんは、宜野湾より少し北になる中頭(なかがみ)に嫁いでいたそうだ。


                  「米軍が上陸したので、ここの実家に逃げてきたけれど、実家の人たちは島尻(南部)に逃げていて家にはいなかった。このガマに隠れた。一緒に10人くらい隠れていた。近くには30人くらい隠れていた。ガマは狭くて、立つことも歩くこともできない。食べるものもないし、寝るところもない。外に出てやられた人も

  


いた。水を飲み、黒糖をなめて生きていた。2カ月くらい隠れていて、5月14日に救出されたが、そのとき私はまだ22,23歳だったけれど、もう今の年寄りよりもっと歳をとっていたよ」。この壕に住民が避難していることを知っていた米軍は、我如古出身者の協力を得て、ガマにいる人々に呼びかけて救出したという。

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