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2012年6月23日 (土)

沖縄戦・激戦の地を歩く、その5

嘉数高台

次に向かったのは、嘉数(かかず)高地と西嘉数高地だ。日本軍の陣地は、軍司令部のある首里の前方にあたるこの中部で、高地となっている地形に沿って三重にわたる防御線を築いていた。第一の防御ラインが、嘉数を中心とする線だ。第2の防御ラインが浦添市の前田高地を中心とする線。第3の防御ラインが那覇市の安里(あさと)を中心とする線だった。嘉数の高地の下にトンネル壕を掘り、陣地としていた。陣地壕は朝鮮から強制連行した人々に掘らせた。沖縄には、本島はじめ離島にまで多数の朝鮮人が連行され、こうした重労働を強いられていた。仲村さんは「壕を掘った朝鮮人のお墓もあります」という。

中部戦線には、第62師団(石部隊と呼ばれた)が配置されていた。この師団は前年の1944年8月にここに送られて来たそうだ。嘉数の部隊はなぜか京都の出身者が多かった。米軍は戦車を連ねて猛攻撃を加え、海と空からも砲撃と空爆を加えた。日本軍は、斬り込みの夜襲や爆薬箱を抱えて戦車に体当たりするなど玉砕戦法をとったが陥落した。沖縄戦の研究で知られる大城将保さんは、沖縄戦のガイド講習のさいに次のように指摘した。

「日本軍の特攻作戦として、『一機一艦船』」の名で神風特攻隊が米艦船に突っ込む。海では、ボートで米艦船に当たる特攻部隊を座間味島、渡嘉敷島に配置し準備していた。秘密を守るため住民は島外には出さない。軍民同居のもとで島民の集団自決も起きたのです。陸では『一人十殺、一戦車』と称して、爆薬を抱えて戦車に突っ込む。日本軍は、空でも海でも陸でも特攻をさせたのです」。

両方の高地には、「京都部隊激戦死守の地」の碑や、この地で全滅した「第62師団独立歩兵23大隊慰霊碑」などいくつもの碑が建てられている。「戦後、遺骨収集をしながら碑を建てたそうですが、まだ小さな骨はたくさん残っていますよ」と仲村さん。そういえば、「京都の塔」が嘉数台公園にある。「京都の塔」(写真)は、他の地方の碑が軍人を英霊扱いするだけで、沖縄県民の犠牲にほとんど触れていないなかで、「多くの沖縄住民も運命を倶(とも)にされたことは誠に哀惜に絶へない」と記している。きわめて稀な碑である。

これらの激戦地は、当時、どれほどの戦死者が横たわっていたことか。想像を絶する光景が広がっていただろう。観光ガイド講習を受けている講習生みんなで歩いて行っていると、ふと横の女性が、何か手にもって、それを頭の高さまで掲げながら進んでいることに気がついた。「あれ、何だろう。お菓子かな?」と思ってみた途端、他の人に勧めた。「これ使う人はどうぞ」。別の女性がさっそく袋から手にとって地面にパラパラと撒いた。「あっ、塩だ」。それは、戦死者の霊、魂を静めるための清めの塩だった。新しく買ってきたのか、大きなマース(塩)袋を一袋持って歩いている。このあとも、戦跡の先々で、このお塩がよく使われた。遺骨が見つかった場所では、塩を撒きながら「静かに眠ってね」と祈るようにつぶやいていた。

南部でも中部でも、慰霊碑を見る場合も、まず戦死者に黙祷するのが先だった。沖縄は死者をとても丁重に扱う。とくに、先祖は、自分たちを守護してくれる霊力をもつと考えられている。先祖神そのものだ。だから、仏壇は、大型タンスほどの大きさがあり、ことあるたびに仏壇やお墓にたくさんのお供えをして、御願を重ねる。そうした伝統と風習が、戦跡めぐりでも塩で清める気持ちの背景にあるのだろうか。

猛攻を受けた前田高地・仲間高台

次に浦添城跡を中心に前田高地・仲間高台に向かった。この丘陵に軍は、自然のガマ・トンネル壕・トーチカの連鎖陣地を張り巡らせていた。米軍はここに、太平洋戦争で最大規模といわれる猛砲撃と空からナパーム弾の投下を行い、この高地一帯を焼きつくした。首里主陣地防衛のための第62師団は、ここでの戦闘でほぼ全滅したほどの激戦だった。

浦添といえば、琉球王府の正史では、舜天王統、英祖王統の発祥の地とされている。浦添城跡には、王族のお墓である「浦添ようどれ」もあり、歴史的な由緒ある場所だ。この地に立てば、米軍が上陸した読谷方面まで一望にできるとっても眺望のよい所だ。「この浦添ようどれをはじめ琉球の歴史上も貴重な文化財、墳墓などが軍に陣地として使われたので、沖縄戦のさい徹底して破壊されたのです」と仲村さんは説明した。

003

006            嘉数高台にあるトーチカ跡

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仲間・前田部落は、日本軍の陣地化した地域だけに、大激戦に巻き込まれ多数の住民が戦死したという。浦添城跡の下には、かなり大きな陣地壕があり、この付近にたくさんの住民の避難壕がある。その一つ「クチグァーガマ」(写真)に行った。人間の口のようにポッカリと洞窟の口が開いているのでこの名前がついたという。


この日はガマに入るから、懐中電灯や手袋を用意し、虫がくるので黒や赤の衣服は着ないように注意され、みんな「装備よし」と構えてきた。でも行ってみると、このガマは、入口が金網で封じられていまは入れない。戦時中は、この仲間地区の6班の住民が隠れる壕だった。前田高地が戦場になると、住民は南部に避難し、動けない人たちがこの壕に残り、ここで亡くなったという。南部に避難しても、南部に住んでいるわけではないので、どこに隠れればよいのかもわからない。それでたくさんの人が亡くなったそうだ。前田部落の戦死者は住民934人中、549人にのぼり、戦死率59%に達する。仲間部落は503人中、278人が戦死し、戦死率55%にのぼる。どちらも全戸数の3割前後が一家全滅の悲劇にあっているというから、凄まじい。

この高地の北側の断崖の尾根道を進んでいくと、為朝岩(米軍はニードルロックと呼ぶ)という巨岩がそそり立つそばに着く。岩までは行けないが、その手前が高地でも一番高い地点になる。北は読谷、嘉手納から南は那覇、首里城まで、四方がすべて見渡せる絶景の地だ。それはまた軍事上の要所だった。制空権を米軍に握られた日本軍にとって、ここは米軍の動きを監視するうえで絶好の場所だ。「ここから日本軍は見張っていて、米軍への砲撃の着弾の様子を見て、命中率を上げるために首里の司令部に連絡していたんですよ。ここを攻略されると日本軍はもう何も見えなくなる」と仲村さんは言う。

この高地と防御線を突破されると、もはや県都の那覇市、司令部のある首里まで一挙に攻め込まれることになる。この上から眺めると、軍事上の重要性が手に取るようにわかる。前に、日米の沖縄戦史を読んでいたが、地理的な軍事上のイメージはいまいちあいまいだった。やっぱりこうした戦跡地を実際に見ると、なぜここで激闘が繰り広げられたのかがよくわかる。前田高地では、日米両軍の接近激闘の争奪戦が続き、双方に多数の戦死者が出たという。

岩山の尾根道を降りてくると、「前田高地平和之碑」がある。「山三四七五部隊第二大隊戦友会」が建てたという。なぜか碑名は堂垣内北海道知事の書となっている。というのは、この部隊は、北海道出身者が多く「どさんこ部隊」とも呼ばれたそうだ。山形、沖縄の人たちもいた。

碑を建てた生存者名のなかに、沖縄の叙事的な歌謡集「おもろそうし」の研究で知られる外間守善(ほかましゅぜん)さんの名がある。外間さんは、山形第三二歩兵連隊第二大隊に配属になり、南部から中部戦線に移動になって、4月末から5月初めに激戦を体験した。「この戦いで、800人から1000人いたと思われる大隊のうち、9月3日の投降までに生き残ったのはわずか29人。そのうち沖縄初年兵は私を含め9人しかいませんでした」と証言している。この体験を『前田高地』として出版した。

慰霊碑は通常、表に戦死者名を刻み、裏側に碑を建てた生存者名を刻む。でも前田高地の戦死者はあまりに多いので、碑の裏手に、別に戦死者名を数㍍にわたって刻んだ岩板を掲げてある。ここにも、いかに悲惨な戦闘が繰り広げられたのか、がうかがえる。碑の付近には陣地壕も4カ所ほどある。

 前田高地といえば思いだす軍首里司令部のエピソードがある。防御線を突破され、窮地に立つ日本軍は「死中に活を求める」として、5月4日に「総攻撃」の作戦に出る。といっても、現実には無謀な作戦だった。だが、その前夜、首里の司令部では、牛島満司令官、長勇参謀長ら将官9人が、なんと「戦勝前祝会」を開いた。盛装した女性の華やかな接待を受けて宴会をしたという。ちなみに、首里司令部の洞窟内には、良家の子女や内地から招いた芸者、那覇・辻町の遊女らを集め、炊事の手伝いをさせていた。炊事だけでなく、宴会の接待までさせていたのだ。結局、作戦は初動から大損害を受け大失敗をした。一般兵士は決死の作戦に駆り立て、多数の兵士の尊い命を犠牲にしながら、司令部の幹部はこのような有様だった。当時司令部にいた八原博通氏が『沖縄決戦―高級参謀の手記』でこの事実を記しているから確かなことだ。

083         高く突き出た岩が為朝岩

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