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2012年6月15日 (金)

芸術課長は「現代の踊奉行」。戦後沖縄芝居事情、その3

芸術課長は「現代の踊奉行」

沖縄戦で県民の四人に一人が犠牲になり、郷土は焼け野原となり、生き残った人々も、捕虜、難民収容所で暮らした。ようやくもとの居住地に帰れても、家々ともとの集落は破壊され、食糧や生活物資も不自由な苦しい状態にあった。

そんなとき、沖縄芝居をはじめ芸能は、人々の苦しみや悲しみを癒し、慰め、元気づけ、明日への勇気をもたらすかけがえのない娯楽だった。県民は、悲しみを乗り越えて、気合いを入れて奮い立つ「ヒヤミカチ精神」を発揮して、復興に向けて立ち上がっていった。

それにしても、こんな戦争直後から民政府の機構として、文化部芸術課があったことに驚いた。荒廃した状況だったからこそ、ウチナーンチュが暮らし、生きる上で芸能は不可欠なものだっただろう。
 もっとも民政府の機構は米軍と協議してできたという。
 戦後の芸能活動の発端は、米軍の発案であったらしい。一九四五年末、米軍少佐の発案で、生存俳優の調査と集合を命じ、「沖縄芸能連盟」(護得久朝章会長)を石川で組織、文化部の指導で芸能人の一部を集めて米軍部隊回りで稼ぐ「沖縄ダンシングチーム」を結成していたとのことだ。

王府時代は、冊封使を歓待するための御冠船踊(ウカンシンウドゥイ)だったのが、戦後は「アメリカさんのための踊りになった」(川平朝申氏著『終戦後の沖縄文化行政史』)という。

 川平氏が課長をつとめた芸術課の仕事は、演劇、舞踊、音楽の指導奨励と公演から美術の奨励と展示、映画館、劇場の指導監督、博物館、図書館の整備陳列などだった。

まだ食うや食わずの社会で、これだけの芸術担当の部署がきちんとあったのは、さすが「芸能の島」である。しかも、役者、音楽家、画家まで給料を払って採用して公務員扱いだったというのには、二度ビックリだ。

これも、かつて琉球王府の時代に、中国からの冊封使を歓待するため、王府の中に「踊奉行」(ウドゥイブジョウ)という専門の役職が置かれ、役人、士族が芸能を仕事として訓練していた。そんな歴史を思い起こさせる。著者の川平氏自身、文化部芸術課長の役職を王府時代の「踊奉行」に例えている。

戦後の沖縄県内に、一九四八年当時、芸能を上演する露天劇場が四四カ所もあり、劇団は一九五〇年当時で二六を数えたとは、スゴイことである。それだけ県民が劇場と芝居はじめ芸能を欲していたということだ。芝居の観客が最大七〇〇〇人とか、一〇〇〇人単位で超満員などと聞くと、いかに芝居や芸能が沖縄県民にとって、熱烈歓迎されたのかがよくわかる。

001     国立劇場おきなわ。組踊だけでなく、沖縄芝居も上演される

もちろん、その後、映画が隆盛をきわめ、さらにテレビが普及して、沖縄芝居の劇団や観客も相当減少したことはいうまでもない。テレビでも「郷土劇場」という番組があり、いまでも定期的に芝居を放送してくれる。

少なくなったとはいえ、いまでも沖縄芝居の劇団は、私にはまだ覚えきれないほどたくさんある。「でいご座」の中田幸子さんは絶大な人気を誇る。沖縄おばあのハマり役の平良とみさんと夫さんも、現役の役者として劇団でバリバリ活動している。
 「母の日」になると、沖縄芝居の劇団は、競い合って各地で公演をする。お年寄りにとっては、ウチナーンチュの肝心に響く伝統的な沖縄芝居は、ヤマトの映画やテレビドラマでは、絶対に味わえない。劇場に足を運び、ナマで役者の演技を見る感動は、何にも代えがたいものがあるだろう。

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