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2012年6月13日 (水)

公務員となった芝居役者。戦後沖縄芝居事情、その1

公務員となった芝居役者

 

 沖縄戦が終わり、米軍統治の時代になったさい、慰問のために、沖縄芝居の役者たちを集めて、移動劇団がつくられ沖縄本島を三地区に分けて巡回したという。この話は、ラジオで沖縄芝居の役者、八木(ハチキ)政男さんから聞いたことがある。しかし、いまいち実情がよくわからなかった。

 いま読んでいる川平朝申(カビラチョウシン)著『終戦後の沖縄文化行政史』のなかに、当時の様子を知る記述があるので、紹介したい。川平氏は、終戦後、台湾から引き揚げてきて、沖縄民政府の文化部芸術課長として文化行政にかかわってきた人である。

 民衆の慰問のために、沖縄の音楽、芝居など芸能に優れた人たちを集めて、三つの移動劇団がつくられた。役者と音曲担当者を松、竹、梅の三グループに編成して、沖縄本島を三地区に分けて巡回した。
 沖縄民政府の文化部に設置された芸能審査委員会が一九四六年九月、最初の俳優採用試験を行ない、琉球芸能の俳優と音楽家の適任者五〇人を決定し、「芸能審査証」を交付。発足したばかりの民政府から給与を受けることになった。

 琉球王府の時代は、中国から琉球の国王として認証するために派遣されてくる冊封使(サッポウシ)を歓待するために伝統芸能の組踊など「御冠船踊り」(ウカンシンウドゥイ)を披露するために、王府の役人が芸能の腕を磨き、その任にあたっていた。でも、王朝最後の御冠船接待の終了後、給与を打ち切られた。

 戦後、約八〇年ぶりに俳優、音楽家らが「公務員」として復権したことになる。

 当時、公務員の最高一五級の月給は知事の千円、最低の一級は一二〇円だが、松・竹・梅の三劇団に配属された約一〇〇人の役者たち「文化部芸術技官」の正副団長は課長クラスと同じ四〇〇から五〇〇円。劇団員の平均は三〇〇円だったという。

 最初の芸能資格テスト合格者五〇人の配置は次のようになっている。

「松」=石川市を中心に中頭地区。団長・島袋光裕、副団長・鉢峯喜次。他団員。

「竹」=羽地、田井等地区を中心にした北部一円。団長・平良良勝、副団長・宮城能造。他団員。

「梅」=知念、百名、志喜屋を中心とする南部・島尻地区。団長・伊良波伊吉(尹吉)、副団長・名城政助。他団員。 

彼らの仕事は地方巡回公演であった。文化部が巡回日を予告し、市町村ではそのスケールを合わせて仮設舞台を用意、そこへ民政府陸運課さし回しのトラックに乗った団員が衣装や道具とともに乗りつける。

 060 写真は志田伯豊年祭。戦後の露天の芝居公演はこんな感じだっただろうか?

 熱狂的に歓迎された沖縄芝居

一九四七年一月二二日までは各地区間の往来は禁止されていたから公演は昼間である。ほかに娯楽はないし、何年ぶりかで見る郷土芝居だから、どこでも熱狂的に歓迎されて大入り満員。空缶三線(カンカラサンシン)に合わせて舞う役者たちに歓喜の涙がそそがれ、松劇団の初演では具志川村川田で観客七〇〇〇人を集める空前のレコードをつくった。
 役者たちは「公務員」として俸給をもらっていたが、木戸賃を住民から徴収していると問題になったことがあった。当時、公営劇場は石川市(現在うるま市石川)にしかなかった。公営劇場といっても、舞台があるだけで、露天の演説会場のようなものだった。それ以外に各地では私営劇場で上演するしかないから、劇場使用料が必要で、木戸銭をとらざるをえなかった。

 そのうち疎開していた芸能人たちが次々引き揚げてきた。大宜見小太郎氏の一座三〇名も帰ってきた。役者は引っ張り凧だったが、民政府の資格審査があった。のちに大伸座を組織した大宜見小太郎夫妻、宇根伸三郎、八木政男らは大阪から引き揚げて石川氏で二回目の芸能審査を受け、全員で「丘の一本松」を演じて合格、竹劇団に配置された。
 のちに一九四七年四月から自由開業になっても芸能審査は続いたから、合格者は年末には一二〇人にも達した。

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コメント

いつも読ませていただいております。
この話題は長年演劇記者をしていた私としては特別の関心を抱きました。
ヤマトンチュでは昔から“河原乞食”といわれてきた役者が琉球王府時代も戦後も「公務員」だったとは!?
「その2」は、さて…

宮城のつぶやきさん。コメントありがとうございます。久しぶりです。
 沖縄芝居を見たことありますか。芝居と言うだけではなく、歌劇です。役者はみんな歌が歌えないとつとまりません。それに、台詞も歌もすべてウチナーグチ(沖縄語)で、字幕もないので、ヤマトンチューが見ると、分かりにくさがあります。でもここには、ウチナーの肝心が詰まってます。
 戦後、荒廃のなかで、みんな沖縄芝居に飢えていたようで、熱烈歓迎されたとか。民衆の娯楽、慰問のために、役者に給料を払って各地を巡回公演させたとは、「芸能の島」沖沖縄ならではでしょうね。
 短いけれど、3回に分割してアップします。

沖縄芝居は、もう20年も前でしょうか、一度、劇場で見たことがあります。
見たのは喜劇だったのですが、すべてが方言。満員の客席は爆笑につぐ爆笑。
ところが言葉の分からない私は一人キョトン。
なんともバツの悪い思いをした思い出があります。
その後も沖縄に行ったとき、テレビをつけたら方言での沖縄芝居を放映していました。
これも何を言っているのか分からず、すぐチャンネルを回してしまいました。
タクシーに乗ったら、ニュースも方言でやっているのには驚きました。
カルチャーショック!!

宮城のつぶやきさん。やっぱり見ても分からなかったんですね。沖縄に移住して7年近くたち民謡を学んでいる私でも、劇場で見ると3分の1くらししかわかない。まあ、話の筋書きはだいたい分かったぐらいです。国立劇場おきなわの組踊は、字幕がつくから分かります。
 テレビでは最近はみんな字幕がつくので楽しめます。民謡も芝居も、ヤマトグチ(共通語)に翻訳すると、なんか言葉に含まれたニュアンスが伝わらないようで、ウチナーグチにこだわってます。方言が分からない人は沖縄芝居の役者にはなれない。だから、民謡をやっているヤマトンチューは多いけれど、役者はほとんどいないようです。

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