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2012年6月14日 (木)

雨後のタケノコのように露天劇場。戦後沖縄芝居事情、その2

各地に雨後のタケノコのように露天劇場できる

県民から芝居、芸能は熱く歓迎され、各地で雨後のタケノコのように露天劇場ができた。ところが、劇団は三つしかないから、劇場主は劇団を招くのに必死で、劇団を増やせという声が起こった。当時は、劇場での興業は、警察署の許可が必要で、許可証を持たない劇団の興業願いは受け付けなかった。

 一劇団平均四〇名もの大所帯になった三劇団から「もう、役者はいらない」という声が起こった。芸能審査を受ける前に入団を拒否された俳優たちが出る。新しい劇団をつくらざるをえない。こうした「はみ出し組」が認可申請をしてきた。「新生劇団」「鶴劇団」。申請した二一名全員が合格、鶴劇団と新生劇団は誕生した。劇団の新設が認められると聞くと、三劇団に加入させられていた大宜味小太郎などの大阪組も分離独立をはかった。芸能連盟会員は二百数十名にのぼった。

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       中国からの冊封使を歓待するため始まった伝統芸能「組踊」。沖縄テレビから

  

 軍政府から時代劇禁止の通達が出たことがあった。沖縄では通達があったのは、東京から二年遅れの一九四七年で、沖縄芸能連盟では一応自粛を申し合わせた。「村芝居の組踊りを禁止するとは何ごとだ」「沖縄芝居はほとんどチャンバラなんだぞ。時代劇を禁止したら沖縄芝居は幕を開けられないんだぞ」という声が上がった。

 その後、「時代劇を禁止したら、沖縄の芝居は開店休業になります」と米側を説得して治めた。

 一九四七年三月二一日、民政府文化部が解散になり、九名の画家と一二〇人の役者たちは、文化部の「芸術技官」の身分を解かれた。戦後の過渡期が終わり、彼らは月給制から解放され、本来の自由業に戻った。
 松、竹、梅の三劇団、大伸座、新生劇団、乙姫劇団は、文化部解散とともに、民政府から解放され、一九四八年四月から自由興業となった。


 一九四八年の劇団自由開業後の露天劇場は、沖縄本島で、南部から国頭まで那覇市三、首里市一、真和志村二、糸満町二、東風平村二、石川市二、具志川村(現うるま市)四、越来村三、今帰仁村二など、合計三一市町村で四四カ所を数える。
 自由人となった三劇団は、散髪代が一円のころ、入場料を大人二円、子ども一円の統一料金とし、劇場と七対三で分け、七割を役者に配当した。

 どの劇場でも、観客は一〇〇〇人単位、二〇〇〇、三〇〇〇人という超満員が普通で、五〇〇を割ると公園中止がまじめに議論されるほどの売手市場だから、下っ端の役者が知事と同じ一〇〇〇円を楽にもらった。三劇団の寡占時代で、空前絶後の全盛時代であった。

一九五〇年までに認可された沖縄芝居として次の劇団がある。

松劇団、竹劇団、梅劇団。大伸座、ときわ座、乙姫劇団、新生座、翁長座、新富座、奥間英五郎劇団、鶴劇団、新興劇団、新国座、ことぶき座、朝日座、ゆたか座、みつわ座、演技座、俳優座、天川座、でいご座、双子座、なじみ座、ともえ劇団、旭座、衆楽座。

以上は川平氏の著作から、関わりのあるところだけを要点を抜書き、補足したものである。

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