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2012年6月21日 (木)

沖縄戦・激戦の地を歩く、その2

真壁の千人壕

次に向かったのは、宇江城(うえぐすく)だ。やはり第二四師団の司令部壕があった激戦の地だ。旧真壁(まかべ)村の東にあたる。ウチナーグチ(沖縄語)では東はアガリという。大城さんは語る。「このあたりは、180戸中、60戸が一家全滅になった。犠牲者は住民の60%を超えます」。「首里から軍が来るから住民はそれぞれ安全な場所を見つけて行け」と言われ、避難していたガマを追われ、暗渠や岩陰など身を隠せるところを探して潜んでいたという。この地は、日本軍の陣地があったから、米軍が朝の8時から毎日毎日、砲撃をしてきて、小山のような宇江城跡もハゲ山のようになっていたという。

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        このガマは文中に出てくる場所ではない。別のガマである

 「このあたりは、村の下はみんなガマになっているんですよ」と大城さん。「ええ!ただ畑が広がっている風景なのに。その下がガマなんて?」。一瞬信じられない感じがした。でも、地表の土の下は琉球石灰岩に覆われており、その下はいたるところ空洞になり水が流れているという。「山雨の塔」が建っている。そのすぐそばは、谷川のような窪みになっており、降りて行くとぽっかりとガマが口を開けている。「アガリ(東)のクラガー」というガマだ。古くから住民の大切な水源となっていたそうだ。沖縄では水の湧き出る場所は「カー」と呼ばれ、小さな祠が置かれ、祈りのための拝所にもなっている。「水は命のもと」でもあるからだ。「このガマにはまだ遺骨がありますよ」と大城さんは言う。

 この師団司令部は、沖縄戦の組織的な戦闘が終結した日といわれる1945年6月23日以降も司令部壕に残っていたが、30日に師団旗を焼いて自決したという。「山雨の塔」が建ち、その脇に「軍旗奉焼地」の小さな碑がある。投降を許さない帝国軍隊の人命無視の軍規がなければ、死ななくてもよかった犠牲だ。ガマに隠れていた住民は、そのなかにハワイ帰りの人がいて「ケガ人がいるから外に出てみよう」と出て住民は助かったようだ。

このあと、真壁集落のはずれにある「アンティラガマ」というところに行った。千人壕と呼ばれるガマだ。たくさん人がいたからこう呼ばれているが、実際には1000人以上の人がいたそうだ。ガマでも水がない。隠れていた住民は、砲撃の止んでいる間をみて、水汲みに行かなければならなかった。でも外に出るのは危険だ。「水汲みや食糧を取りに行ったまま行方不明になったひとが犠牲者の七割くらいいるんですよ」と大城さん。

このガマにいた人の証言によると、ガマの奥に水があったそうだが、奥には日本軍がいた。米軍の攻撃で入口にいた負傷者は全滅したが、奥にいた人は助かったらしい。この証言者は、千人壕の少し離れた場所にある別のガマに移った。ここは兵士と住民が雑居していた。そこでは、親を亡くして泣き叫ぶ男の子を、黙らせるため兵士が殺すのを目撃したという。

異様なほど軍人の慰霊碑が林立


このガマのそばに、「萬華之塔」(写真)がある。真壁の住民が付近一帯に散在していた遺骨を集めて合祀したという。1万9200人余が祀られているというから、このあたりの犠牲がいかに多かったのかがしのばれる。この塔の周りは、「独立重砲兵第百大隊鎮魂碑」とか「砲兵山吹之塔」(野戦重砲兵第一連隊)など、日本軍の部隊、軍人の慰霊碑、墓が林立している。

  

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南部の戦跡地は、軍の部隊、軍人関係の慰霊碑、墓がいたる所に建てられている。無謀な侵略の戦争を開始したことから、この沖縄の地で多数の兵士が「捨て石作戦」の犠牲で尊い命を落としたことは痛ましいことである。県民の立場からすると、本来は住民の守ってくれると思っていた「友軍」兵士が、逆に住民をガマから追い出し死に追いやったり、虐殺する事態が続発した。その日本軍関係の慰霊碑があたりかまわず建てられ、しかも住民の苦難にはまったく触れないで、軍人をただ英霊扱いにし美化する碑文がほとんどだ。住民のための慰霊碑より、こうした軍関係の慰霊碑がやたら多くて目立つ状況に、複雑な思いを抱く県民がいるのも当然ではないかと感じる。

次に向かったのは真壁城跡だ。いまは真壁公園になっている。琉球が北山、中山、南山の三山(三つの国)に分かれていた時代に、ここに南山の出城が築かれていたそうだ。古琉球とよばれるまだ沖縄内部で争いがあった時代に、城(グスク)が築かれたところは、小高い見晴らしのよい場所である。それはやっぱり時代を超えて戦争の際には軍事的な要衝となる。だから、日本軍は、首里城をはじめ県内の各地で城跡に司令部や陣地を築いたのだ。この真壁城跡には、岩山をくり抜いて砲台が築かれ、砲兵隊の陣地となった。陣地作りに小学生まで動員されたという。

「真和の塔」が建っている。陣地を敷いていた第五砲兵団は1945年6月中旬、米軍によって全砲火を破壊され、残った兵士は全員が斬り込みを敢行し全滅したという。「軍が陣地をつくっていた場所は、米軍の砲撃の的になり被害が大きいですよ」と大城さん。旧真壁村が激戦の地となったのは、軍の陣地が各所にあったからだ。「それに比べて、軍の陣地があまりなかった知念、玉城の方は、米軍は素通りですからね」。軍事基地があると、ひとたび戦争になった時にどうなるのか、という実例がここにある。それに、「もし、日本軍が首里で降伏していたら住民の10万は助かった。日本兵の3万は助かった」と言われる。

 

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