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2012年6月23日 (土)

沖縄戦・激戦の地を歩く、その6

精神異常が続出したシュガーローフの戦闘

 那覇市内に入った。米軍基地が返還されていま新都心として発展する「おもろまち」への国道330号線からの入口に、米軍が「シュガーローフ」と呼ぶ最激戦地がある。安里の「慶良間(けらま)チージ」と呼ばれた丘陵だ。米軍にとって、ここは太平洋戦争で硫黄島と並ぶ有名な激戦地となっているそうだ。この高地の争奪戦で日米軍が顔と顔が見えるほどの接近戦で、手りゅう弾を投げ合うなど死闘を繰り広げた。頂上部を11回も取ったり取られたりしたという。激しい戦闘で、米軍の死傷者は2662人にのぼった。ある意味でそれ以上に深刻だったのが、あまりに過酷な戦闘で精神に異常をきたす兵士が多発し、1289人の戦闘疲労者を出したことだった。

いまは、教会などが建つこの地は、もう激戦をうかがわせるものは何一つない。国道330号線を超えてすぐ東側にいくと、米軍が「ハーフムーン」と呼んだ丘がある。つい最近も遺骨が発掘された真嘉比(まかひ)の大道森だ。再開発する予定で道路が通るので、その前に発掘がされている。デイゴの大木がうっそうと茂る森のなかは、墓地があったが、墓を移転するためいま空墓になっている。ここに陣地壕がある。戦時中も、墓を無理やり空けさせ、墓を使って陣地壕を作ったという。あまりの米軍の猛爆撃で、遺骨もバラバラになっているほどだ。開発が進む那覇市内で遺骨収集ができる最後の場所になっている。今年、墓の裏の陣地壕を掘ると、遺骨、手りゅう弾、それに化学弾が出た。毒ガスではなく、催涙弾のようなものらしい。化学弾の出現で発掘は中止された。

 ここで遺骨収集ボランティアをしている具志堅隆松さんが説明してくれた。「今年6月22日、8月3日の2回掘った。6月には、遺骨は全身に近い形で出てきた。亡くなった日本兵を、爆弾でできた穴に土をかぶせて仮埋葬していた。持ち物からわかる。ポケットの位置に観音像があった。手がかりになる。8月は、土砂降りで壕の中に入ったら、遺骨が出てきた。日本兵だとわかったのは、飯ごうがいっしょに出てきたから。『クガ』と名前があった。この部隊に『クガ』は11人いる。飯ごうは将校用で3人将校がいて、いま2人に絞られている。中央部からもう一体出た。石鹸箱が出た。『真木』という名が見える。部隊に5人いるが、身長、年齢から2人に絞られている。来月、遺族が来るので希望すればDNA鑑定をする。遺骨はまだ現場に安置してあるんですよ」

遺骨収集もしない国は無責任

1946      沖縄戦の1年後の本島の航空写真。那覇市街地が見える


「日米が接近戦をしたことがよくわかるのは、手りゅう弾の破片がよく出る。この鉄カブトも出たんですが、ここに穴があるでしょう。銃弾が貫通したんです(写真)。米軍の骨は出ないんです。かれらは戦死すると、きちんと収容するから骨はみつからない。武器がでるのは負けた側なんですが、ここでは米軍の武器も出るんですよ」。いかに両軍の被害が大きかったかがわかる。具志堅さんは静かに、しかし力を込めて語った。

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「まだここは一部しか掘っていないです。改めて感じるのは、沖縄戦はなんだったのか、われわれは、もう戦争はないという保証を手にしたのかということです」。別のインタビューではこうも話している。「国は徴兵し異国や各地に送り込み、戦死させながらその遺骨さえ収集しない。そんな無責任極まるものはないだろう。国民の命を奪う行為は普段は犯罪ですよ。それをやりながら国は最後まで責任を果たしていない」「なぜ遺骨収集をしているかとよく聞かれる。そんなとき『それは徴兵拒否の理由になる』と言っている。遺骨収集さえしない国に従う必要があるのか」(インターネット新聞)。

講習の最後の講師は、やはり沖縄戦を体験した吉嶺全一さん(77歳)だった。とかく、沖縄戦では、日本軍は住民を守らない、そればかりか、県民をスパイ視して虐殺するなどの事件が相次ぎ、「米軍より日本兵が怖かった」という証言が多い。

ただ、吉嶺さんはいう。「戦争は人間が人間でなくなること。その点では日本兵も米兵も同じです。米軍も残酷なこともしている。ある伍長は、戦場で袋を持ち歩いていたが、それは日本兵の死体から金歯を抜き取り入れるためだった。こんなこともやっていた。捕虜を殺した事件もある。バックナー中将が撃たれた日は、特に米軍は荒れていた。その日捕まった人は、民間人もほとんど殺されたそうです。広島、長崎で原爆も使ったでしょう。お配りしたこの紙を見て下さい。

Photo_8 これは『jap hunthinng licennse』とある。つまり日本人を射殺する免許証です。人数の制限なし。絶滅まで有効、と書かれています。こんなものまで発行していたんです。だからとにかく、戦争だけはやってはいけません」と力説した。

この言葉は、戦後の沖縄での横暴なアメリカ占領支配といまなお続く米軍基地の被害、さらに沖縄を足場とした、ベトナム、イラクなどへの侵略戦争での、米兵による残虐な殺戮にもつながる意味あいを感じさせた。

このような戦争は二度と繰り返してはならない、観光は平和があってこそ、だとの思いを改めて肝に銘じたフィールドワークだった。      

      (おわり。2008年12月31日 文責・沢村昭洋

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