無料ブログはココログ

« 沖縄戦・激戦の地を歩く、その2 | トップページ | 沖縄戦・激戦の地を歩く、その4 »

2012年6月22日 (金)

沖縄戦・激戦の地を歩く、その3

白梅学徒隊の碑のそばに「自決の壕」

真壁の少し北側になる国吉に向かった。最激戦地の一つだけに、日米の碑が多い所だ。有名な「白梅之塔」がある。県立第二高女の女子学生で作られた「白梅学徒隊」の碑だ。といっても、沖縄師範学校女子部と県立第一高等女学校の女子学生でつくる「ひめゆり学徒隊」のことは何度も映画にもなり、全国に知れ渡っているが、「白梅」の方は、県外にはあまり知られていない。動員されていた八重瀬岳の野戦病院壕で解散命令を受け、砲弾が飛び交う戦場に投げ出された。いま塔があるすぐ横に上下に壕がある。この壕に着き看護にあたったが、砲撃で殺されたり、「自決」をしたという。以前に一度、この塔を見に来た時は、壕を見ないままだったが、「自決の壕」と呼ばれているガマを降りて行くと、鍾乳石が垂れ、それがポキッと折られたようになっている。火炎放射器で焼かれたのか、黒ずんだ焼け跡のようなカ所も残っている。白梅学徒隊は46人が動員され、17人が亡くなったそうだ。

         写真は白梅学徒の「自決之豪」の碑 

Photo_4


女学校の生徒動員は、県立・私立合わせて7校、6部隊もあった。動員数は約457人に達し、その内、180人が死亡しており、死亡率が41%に及ぶ。男子の沖縄師範や県立・私立中学校の生徒は、鉄血勤皇隊や通信隊に動員された。その数は動員が約1766人でその内、約876人が死亡しており、死亡率は5割に達する(大田昌秀著『沖縄の「慰霊の塔」』から)。若い命がいかに無残な犠牲にされたことか、この数字でもうかがえる。

大城さんによると「この付近には山形連隊(第三二連隊)がいたけれど、戦争が終わっているのもわからず9月前まで将校55人、兵士300人が壕に隠れていた。投降して生き残って帰ったそうです」という。戦後、「八原参謀(首里の軍司令部にいた)が、米軍に捕まっている日本兵のなかに、この部隊の親分たちが生き残っているのを見てビックリしたという話があるけれど、自分が(生き残って米軍に捕まった)高級参謀なのにねえ」と皮肉交じりに話してくれた。


同じ日本軍でも、無謀な斬り込みで全滅したり、自決したり、住民を虐殺した人もいれば、冷静に判断して命を粗末にしなかった人もいた。同じ学徒隊でも、積徳学徒隊の病院長の少佐は、6月26日夕、「君たちは死んではいけない。必ず親元に帰りなさい」と言い、「手りゅう弾をください」という女子学徒に「君たちに渡す手りゅう弾はない」と断ったという。この学徒隊は、25人中亡くなったのは3人にとどまっている。

ここから少し西の真栄里(まえさと)に行くと、沖縄作戦を指揮していた米第一〇軍司令官のバックナー中将の碑がある。太平洋戦争中に米軍の戦死した将校では最高の階級である。バックナーは6月11日に、日本軍の牛島中将に、「今や戦勢は決定した。この上新たな戦闘を継続し、有為な多数の青年を犠牲にするのは真に忍び得ないし、また無益である」と人命を救助するために降伏を呼び掛けた。でも牛島中将は無視したという。

バックナーのような司令官は危険な前線には行かないのが常識だけれど、6月18日、この地で前線を視察中、攻撃を受けて戦死した。新しく立派な碑があるので、それがバックナーの碑かと思って見ると、戦死した日が1日遅い。大城さんも「これはバックナーじゃないね」と気付く。よくよく見ると、英語で「ディアス・エム・イースリ准将6月19日戦死」とある。その奥にある古い碑がバックナーのものだった。


巨大な轟(とどろき)の壕


この日の最後は、旧真壁村伊敷にある轟の壕(写真)だ。これはいままで見た中で一番大きいガマだ。ガマはポッカリと大きな口を開けている。奥はとっても深い。これならいくらでも入ることができそうだ。ガマの下から空を見上げると、緑が生い茂り、この風景は映画(「ガマ・月桃の花」)の舞台となったガマとそっくりだ。撮影に使われたのかもしれない。水はいくらでもあり、拝所もある。千羽鶴がたくさんかけられている。千羽鶴は沖縄の人はかけないそうだ。本土からの人がかけたのだろうか。

このガマには、中南部から避難した住民、県の職員、日本兵など400人以上がいた。米軍が壕に対する攻撃をかけてきた。餓死者も出始めて、住民を外に出すよう日本軍に申し出たが、内部の情報が漏れるのを恐れる軍は「出れば殺す」と脅したそうだ。「でも海軍の空手名人だった人が説得して助け出されたですよ」と大城さん。

065     


この人は、宮城嗣吉さんという。宮城さんは、このまま壕にいれば危ないと思い「私が壕を出ていく。絶対皆さんを助けに来る」と言って壕を出た。米軍に捕まった。米軍はガソリンを壕に流し込み焼き討ちにする作戦で出るという。宮城さんは「壕の下方に住民が千人もいる。兵隊はガソリンの流れない上方に潜んでいる。これでは住民が死ぬだけだ」と説明。命令は中止になり、6月24日、旧知の人3人と壕に戻り説得して住民を救出したという。勇気ある行動で多数の人が救われたのだ。(数字は人により違う)


« 沖縄戦・激戦の地を歩く、その2 | トップページ | 沖縄戦・激戦の地を歩く、その4 »

旅行・地域」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/1384216/45739415

この記事へのトラックバック一覧です: 沖縄戦・激戦の地を歩く、その3:

« 沖縄戦・激戦の地を歩く、その2 | トップページ | 沖縄戦・激戦の地を歩く、その4 »

最近のトラックバック

2017年9月
          1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30