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2012年7月 6日 (金)

ギター伴奏によるテナーの調べ

 「ギター伴奏によるテナーの調べ」と題するコンサートが、沖縄都ホテルの「虹のチャペル」で開かれ、聴きに行った。アルテ・ミュージック・ファクトリーで顔なじみの糸数剛さんと奥さんの秀子さんが出演するからだ。

008_2  糸数さんは、もとは高校教師だが、声楽を学んで、アルテで見事なテナーを披露している。同時にギターも練習しており、自分でギター伴奏をしながら歌えるという珍しいテナー歌手である。

019  拍手に迎えられて入ってきた。アルテで一緒の仲間もたくさんいる。この日は、1,2部で11曲を歌い、それ以外に「ふるさと」「オーソレミオ」を全員で合唱した。

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 この中で新しい発見があったのは、秀子さんが歌った「平城山(ナラヤマ)」である。楽曲紹介で「平城山は高知県出身の二人の作詞、作曲による曲です」とあった。高知県出身の私も、初耳であった。学生時代に聞いたけれど、もう忘れたのかもしれないが⋯⋯。

 歌詞を紹介する。訳は自己流である。

 1、人恋ふは 悲しきものと 平城山に もとほり来つつ たえがたかりき
  (人を恋するのは哀しいもの 平城山に めぐってきたが 耐えがたいことだ)

 2、古へも 夫(ツマ)に恋ひつつ 越へしとふ 平城山の路に 涙おとしめ
  (古い時代にも 夫を恋して 越えてきたという 平城山の路に いま涙を落している)

 

027  歌詞は、宿毛市に生まれた北見志保子(1885-1955年)が大正9年(1920)に詠んだ短歌。奈良県の平城山の丘陵にある磐之姫陵(イワノヒメリョウ)の周辺をさまよったさいに詠んだ連作の一つ。歌には、この当時の彼女の思いが込められている。
 志保子は歌人の橋田東声と結婚したが、弟子で12歳年下の浜忠次郎と恋に落ちた。いわば不倫の恋。志保子と引き離すため、浜は親族によってフランスに留学させられたという。ただ、その後、彼女は夫と離婚し、浜と再婚したとのこと。
 磐之媛というのは、仁徳天皇の皇后だった。それが、紀州に旅に出ている間に、仁徳天皇は八田姫を迎えたので怒って筒城宮に帰ってしまった、という。
 そんな磐之媛の夫への思いと哀しみに自分を重ねて詠んだのだろう。

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 作曲は、平井康三郎(1910-2002年)は伊野町生れ。東京音楽学校バイオリン科に学び、作曲や合唱指導者として活動した。「平城山」は名曲だが、ほかに「スキー」「ゆりかご」「お江戸日本橋」など多くの童謡も作曲していることで知られる。
 ネットの「二木紘三のうた物語」など参考にさせていただいた。
 

 「平城山」はもう何回となく聞いたけれど、こんなに生々しい恋心が込められた歌謡だとは思わなかった。それに、作詞、作曲とも郷土の先達の作品であることも知らないままだった。平井康三郎が高知出身というのは、かすかに聞いた記憶がある。
 糸数さんは、息子さんのお嫁さんが高知県出身で、高知にも行ったことがある、と高知との縁を話していた。

 剛さんのテナー、秀子さんのソプラノといずれも素晴らしい歌声に魅了された。

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コメント

珍しいチャペルを使ってのコンサートなのに、「平城山」のことだけが詳しくて、コンサート自体の様子がよくわかりません。それは私のブログにアップしましょう。
「平城山」に込められている思いはわかりましたが、秀子さんがどれほどそれを理解して歌ったかが、この日のコンサートでは重要ではないでしょうか。秀子さんの歌から、それが聴き手にどれだけ伝わってきたかが重要ではないでしょうか。
アキアキさんのブログタイトルは「テナーの調べ」より「平城山」について。の方がよかったんじゃないですか。
だって、「テナーの調べ」の様子がわからないさ~。
 

 いくぼーさんのおっしゃる通りですが、コンサートの全体像は書かないで、あえて平城山にしぼって書きました。いくぼーさん。書いて下さいよ。
平城山の歌の由来に興味があったので、表現がどうだったのか、はふれませんでした。
まあ、ブログの題名も「平城山」でよかったですね。

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