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2012年8月

2012年8月31日 (金)

歌碑のある風景、「安波節」の歌碑は二つある

「安波節」の歌碑は二つある

 三線を習い始めると、最初の覚える名曲に「安波節」(アハブシ)がある。三線の先生についてならい、コンクールで新人賞に挑戦するさいは、だいたい安波節が課題曲だ。この唄の故郷が、沖縄北部の国頭村安波である。本島の一番北にある国頭村でも、交通不便だった東海岸にある。いまでも、高速道を使っても那覇から3時間以上かかった。
 国頭村で一泊したついでに、安波節の里を訪ねた。安波地区に入るのに、普久川橋(上)を渡ると橋のたもとに歌碑があった。昭和56年に建立された立派な碑である。
  「安波節」は、民謡と古典では歌詞の歌う順序が違うという。私の通うサークルでは、6番まで歌詞がある。歌碑に刻まれているのは、民謡では1番に歌う歌詞だ。
「♪安波ぬ真はんたや 肝(チム)すがり所(ドゥクル) 奥(ウク)の松下(マチシチャ)や 寝(ニ)なし所」。歌碑は「奥」が「宇久」となっている。
もっともふさわしいところだろう。008
 広場の奥まったところには、戦前まで樹齢500年といわれる松の大木があったそうだ。広場の赤瓦の建物の中には、スイッチを押すと「安波節」が流れる音声装置まであるという。
 「♪安波ぬまはんたや 肝(チム)すがり所 宇久(ウク)の松下や 寝なし所」。
 歌詞の中の「宇久」については、地名の奥(辺戸岬の近くには奥という名の集落がある)なのか、「奥まった」という意味なのか、二つの説がある。でも、マハンタ広場の奥まった場所に松の大木があったなら、地名ではないということがはっきりする。
 ただし、小浜さんの歌詞の解釈は、この琉歌がたんに安波の風景を詠ったものではなく、恋歌だと見ている。次のように解釈している。 「歌意ー安波の眺めのよい高台は、若い男女が集まって心楽しく遊び憩う所で、ウクの松の下は、恋人二人一緒に憩う所である」
 琉球古典音楽のルーツを突っ込んで調べている小浜さんが、こういう解釈をしているのなら、「安波節」の歌碑に刻まれた原歌には、若い男女の恋愛模様が秘められているのだろう。

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 歌は次のような歌意である。
「安波にある真ハンタの崖は心がすがすがしくなる所だ その奥の松の木の下は昼寝をするのによい所だ」
 歌に詠まれたマハンタは今、公園整備がされて、安波の集落を見渡せる憩いの場所として利用されているそうである。
 ところで、この歌意は一般的な解釈によったが、実は、まったく別の恋歌とも言われる。006_2
 「安波のマンタは心を通わせるところだ (そこで気が合えば)宇久の松下は愛し合う所」。
 こう解釈すると、とても艶っぽい歌になる。琉歌の前半と後半の関係がはっきりすることは確かだ。でも、琉歌を素直に読む限り、そこまで深読みできるのか、素人にはよく分からない。
 「♪安波ぬヌン殿内(ドゥンチ) 黄金灯篭(クガニドゥール)下ぎてぃ うりが明かがりば 弥勒世果報(ミルクユガフウ)」
 (安波のノロ(神女)屋敷に、黄金の灯篭を下げて それが明るくなれば 豊作で豊かな年になるよ)
 この琉歌は、平和で豊かな世の中への願いが込められている。
 安波といえば、この歌のようなのどかな場所だが、一時、海兵隊の普天間基地をこの国頭村安波地区に移設することが画策された。高速道路を延伸するなど地域の振興策を条件に、安波の東部の遊休農地などに、県道70号線にほぼ沿った形で、2500㍍の滑走路を建設するという。いまでも、国頭村のやんばるの森は、海兵隊の演習場として好きなように使われている。この大自然の中に、新基地を建設するなんて、ありえないことだろう。反対の声が強いし、日米政府もまともに取り合わないで頓挫している。
 この曲の歌碑について、2008年5月23日付の「琉球新報」で、小浜光次郎さん(野村流伝統音楽協会副会長)が投稿した記事のことを思い出して読んだ。
 小浜さんによると、私が見た橋のたもとの歌碑とは別に、清水山(ソウジヤマ)の中腹にある「マハンタ広場」に、別に歌碑があるという。マハンタ広場は、標高50㍍ほど。山道を登ると、安波集落の伝統行事あるシヌグ、ウンジャミ祭りが行われるヒラバンタ広場がある。さらに登ったところがマハンタ広場である。このマハンタ広場に「安波節」の歌碑がある。こちらは、文字通り安波節に歌われた由来の場所であり、歌碑がある

2012年8月30日 (木)

歌碑のある風景、鍛冶屋跡に建つ「かぎやで風節」歌碑

鍛冶屋跡に建つ「かぎやで風節」歌碑

沖縄でお祝いの席で必ず演奏される曲に「かぎやで風節」がある。「かじゃでぃふう」と読む。もっとも演奏される機会が多い曲かもしれない。祝いの場の種類によって、正月用とか、結婚式、新築などそれぞれに歌詞があるという。
 「かぎやで風」の歌碑が国頭村奥間にあるというので、訪ねた。たまたま奥間のリゾートホテルに泊りに行ったので、ぜひとも見ておきたいと思った。歌碑は、奥間東鍛冶屋(アガリカンジャヤー)跡にあるというが、その場所が分からない。

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 それであらかじめ、村役場で場所を訪ねると、「説明がややこしいので、奥間共同売店に行って聞けば分かります」とのこと。さっそく共同売店に直行した。
 ちなみに、かつては本島でも僻地にあたる国頭村は、住民が生活物資を手に入れるため共同で売店を営業してきた。各地で今も営業を続け、生活を支えている。店のおじさんに聞くと、喜んで教えてくれた。途中に拝所があり、カー(井戸)もあった。「金万川」と刻まれている。水はもう枯れていた。
 拝所には、塩がうず高く積まれていた。各地の拝所を見るが、これほど塩を積むのは珍しい。前置きが長い。いよいよ歌碑が見えてきた。

048 「人の屋敷の中にあるんですよ。たまに帰ってくるんですが」と店長さんは言っていた。
「あた果報のつきやす 夢やちやぅも見だぬ かぎやで風のつくり べたとつきやす」と刻まれていた。
 歌意は「大きな果報が得られようとは、夢にも見ないことであった。鍛冶屋でいろいろな物を作ってきたから、そのおかげで果報が身にぴったりとついた」である。
 実は、この琉歌はいま歌われている「かぎやで風」の歌詞とはまったく異なる。

049  歌碑に刻まれた琉歌が、原歌だという。そこには古いいわれがある。琉球王国で、琉球を統一した尚巴志の王統を倒しで第二尚氏の王統を開いた尚円王が、まだ金丸を名乗り、出身地の伊是名島を追われて本島に渡ってきて、不遇だった時、この奥間の裏山にあるインツキ屋取(ヤドゥイ)にかくまわれてた。
 金丸は国王に就くと、旧恩を忘れず、世話になった奥間鍛冶屋の次男正胤を国頭按司(アジ)に取り立てた。その時、正胤が喜びのあまりに即興で詠んだと伝えられる。
 現在歌われている歌詞は次の琉歌である。
「けふのほこらしゃや なをにぎやなたてる つぼでをるはなの つゆきやたごと」。意味は「今日のうれしさは何に例えようか つぼんでいる花が露にあたったようだ」
 まるっきり別の琉歌になっている。「かぎやで風節」は、国の繁栄、五穀豊穣、子孫繁栄、航海の安全、公事公務の遂行、慶事など祝意を表す時に歌われることが多いと、

この歌碑でものべている。
 建立者の名前に、奥間鍛冶屋子孫・座安家(屋号 東り) 建立参加・宮里繁・東嵩純と記されている。

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 国頭村奥間の「かぎやで風節」の歌碑のすぐ隣に、「奥間鍛冶屋発祥の地」の碑がある。奥間鍛冶屋はこの曲の由来の地であることは知っていたが、沖縄の鍛冶屋の祖であることは、この碑を見るまで知らなかった。
 国頭・奥間の地で生誕した奥間大親という人が、のちに奥間から浦添間切(マギリ、今の町村にあたる)謝名村に居住した。そこで生んだ子どもが、なんと長男はのちに浦添按司(アジ)で中山王となる察度(サット、1321-1395年)、次男は泰期(タイキ)・金満按司である。
 琉球が北山、中山、南山に分かれていた三山時代に、察度は1350年に浦添が王城だった中山王となると、異母弟である泰期を使者として、明国に派遣し、明皇帝から琉球の中山王として任命を受ける冊封を受けた。
 1372-1382年の間に5回、泰期を進貢に派遣して、明との通交を始めた。「明との交流は、その後の琉球の政治、経済、文化の発展に多大な影響を与えている」と碑文は記している。泰期はなぜか読谷村では同村宇座の出身だとして、商売の神様のように扱われ、

残波岬に銅像も建っている。
 この碑では、泰期は「金満按司」と記されている。「金満(カニマン)」とは鍛冶屋のことを指す。碑文から紹介する。泰期・金満按司は、明から当時貴重な品である陶器や鉄製品を持ち帰り、その製作・修理の知識・技術を身につけ、後に奥間に下って、鍛冶屋を始めたとされている。
 奥間は、山林が間近で水・炭が豊富にあり、近くに鉄材料の仕入れや製品の積み出しに好条件な港があったこと、父である奥間大親の生誕地であることが奥間の地を選んだ理由と思われるとのことだ。
 金満按司が始めた鍛冶屋によって、琉球各地に鉄製の農具や生活用品が普及

し、農耕・生活向上に大きな役割を果たしたと伝えられる。「この泰期・金満按司が奥間の鍛冶屋の始祖である」と記されている。
 金丸を助けた奥間鍛冶屋の子孫に当たるという意外な人がいた。それは、米軍普天間飛行場の辺野古移設に反対してがんばっている名護平和委員会会長の大西照雄さんである。国頭村の出身という大西さんは、ご自分のブログで、金丸=尚円王を助けた鍛冶屋の子孫だとのべている。

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 鍛冶屋の碑のさらに奥に、古い拝所がある(上)。なんだろうか?なかには、「かぎやで風節」の原歌の歌詞が掲げられていた。
 
 歌碑と同じ内容の歌詞である。これはやはり、金丸を助け、「かぎやで風」の原歌を詠んだ奥間鍛冶屋を祀り、御願(ウグヮン)の対象としたものだろう。

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 琉歌の掛け軸に両側には、昔の鍛冶屋の様子が描かれた絵画(上)が置かれている。
 鉄製の農具を製作する鍛冶屋は、住民からもとっても尊敬されたそうだ。だから、「金満御嶽」(カニマンウタキ)という鍛冶屋を祈願の対象とする拝所が、県内各地にある。
 奥間鍛冶屋は、沖縄の鍛冶屋の祖であり、金丸・尚円王を助けたわけだから、二重、三重に崇められる対象になったのではないだろうか。

2012年8月29日 (水)

歌碑のある風景、比謝橋を恨む吉屋チルー

比謝橋を恨む吉屋チルー

恩納村に行く途中、琉球王府の時代、2大女流歌人といわれた吉屋チルーの琉歌を刻んだ歌碑に立ち寄った。
 歌碑は、嘉手納町と読谷村の境を流れる比謝川(ヒジャガワ)に架かる比謝橋のたもとにある。国道58号線沿いにある。
 比謝川はいつ見ても美しい川だ。歌碑は、嘉手納側にあると思い込んでいたら、読谷村側にあった。


「恨む比謝橋や 情けないぬ人の わぬ渡さともて かけておきやら」
(恨めしい比謝橋は、情けのない人が、私を渡そうと思って掛けたのでしょうか)
 吉屋チルーは、1650年生れ1668年没というから、18歳で亡くなった薄幸の歌人である。家が貧窮して、8歳で那覇の仲島の遊郭に身売りされたと伝えられる。吉屋(ヨシヤ)は、姓ではない。売られた遊郭の名前だという。読谷山(ユンタンザ)の生れで、身売りされた時、この比謝橋を渡り、那覇に向かったので、自分の不幸を比謝橋に重ねて、詠んだ琉歌だといわれる。010

 まだ幼い少女が、親に売られて見知らぬ土地の遊郭に行かなければならない。この川は、沖縄本島の中部では、最も大きい川であり大きい橋である。その橋を渡ることは、もう元の親のいる土地と暮らしには帰れない。遊女に身を落とす分岐点のような心情だったのだろう。
 チルーが詠んだと思われる琉歌は、20首余りあるが、「その作品はほとんど叙情的である」という。この歌碑は、2005年に、読谷村文化協会が建立したとのこと。読谷村は、チルは読谷の出身と誇りにしている。ただ、旧読谷山間切(マギリ、いまの町村)の山田の生まれだと伝えられる。これが本当なら、山田はその後、読谷山間切から切り離され、恩納間切に属したので、現在山田は恩納村である。でも、「琉歌の里」を売り物にする恩納村は、恩納ナビーを誇りにするけれど、吉屋チルにはまったくふれない。不思議なことである。薄幸の歌人なので、読谷村で顕彰されることは嬉しいことである。 009


 チルーの歌碑は、嘉手納側にも一つある。歌碑というより、旧比謝橋模型碑だった。その中に琉歌が刻まれた部分だけ残っている。
 ただ同じチルーの琉歌を刻んでも、二つの碑には少し内容に違いがある。
「恨む比謝橋や」までは同じ。問題はその後である。嘉手納側の碑は「情けない人の」とある。でも読谷側の碑は「情けないぬ人の」となっている。
 「情けない人」では、大和口(共通語)のようになる。「情けないぬ人」と言う場合、「ぬ」の発音を「ん」に近く発音すれば、なめらかな琉歌の表現になり、字余りの感じもしない。だから、読谷の歌碑が正確なのだろう。ただ、民謡の「吉屋物語」の工工四(楽譜)で引用されている琉歌は「情けねん人ぬ」と書かれている。
  戦前の比謝橋の様子を写した写真が、比謝橋碑文の案内板に掲示されていた。 いまの比謝橋からは想像できない様変わりである(下)。

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 比謝橋は、昔は木造の橋だった。1717年に初めて石橋に改築したときの記念碑が、「比謝橋碑文」だ。碑の表面には石橋の由来など刻まれているが、もうほとんど読めない。嘉手納町公民館の方が紹介した文章があったので、そこから要約する。
 木橋だったが、木を食う虫や暴風雨のため、たびたび破損した。そのため人民は橋梁工事にかり出され、多大な供出に悩まされた。1667年、1689年に改修したが、危なくて渡りにくい。王府は二座(二つのアーチ)の石橋に改築することにした。

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 碑文左には、これを担当した官役(役人)と費用などが記されている。
 比謝橋の架かるところは、河口から少し入っているが、船がこのあたりまで入れたようで、昔は橋の付近は天然の良港となっていて、スラ場と呼ばれる唐船作事(造船)所もあったという。

「天川」の歌碑

 琉歌の歌人、吉屋チルーの歌碑を見るため、嘉手納町公民館の駐車場に車を止めた。駐車場の一角は、いろんな碑が立つ場所だった。チルーの歌碑を探していたのに、そこには思いかけず「天川」の歌碑があった。「天川」は琉球古典音楽の名曲として知られている。002
 「天川の池に 遊ぶおしどりの おもいばのちぎり よそや知らぬ」
(天川の池で、遊ぶおしどりのように、二人で交わした深い契りを、他の人は誰も知らない)
 この琉歌は、三線音楽の始祖とされている赤犬子(アカインコ)の作だと伝えられている。赤犬子は、読谷村の出身で、「赤」とは読谷の「阿嘉」の地名から来ているそうだ。琉球の古謡のオモロや初期の琉歌の作者として名前が伝わっている。碑の台座に、天川についての説明がある。比謝橋がすぐそばにある。
 説明によると、比謝橋を渡り、那覇へ向かって真っすぐに行くと、戦前まで石を敷き詰めた幅一間ほどの坂道があり、俗に天川坂(アマカワビラ)と言った。その登り口の東側、カシタ山のふもとの、ンブガーの西隣に、直径二尺くらいの円筒形に積み上げられた井戸があり、天川(天井戸=アマカー)と言われた。

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 このあたりは、樹木がうっそうと繁茂し、その側を流れる比謝川で遊浴する雌、雄のおしどりを見て、比謝橋と天川井戸を結びつけて、約450年前、赤犬子が上記の歌を詠まれたものと思われる。
 この歌碑は、1996年に建立されている。赤犬子が詠んだのは465年ほど前ということになる。
  橋のたもとに天川と表示されたカー(井戸)があった。円形に石を積み上げた見事なカーである。いまは橋と同じ高さになっているが、昔の橋はもっと低い位置にあり、橋から天川坂を登ったところに天川があったのだろう。石敷の急勾配の天川坂は、取り除かれて国道58号線になったそうである。

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2012年8月28日 (火)

歌碑のある風景、「琉歌の里」恩納村の歌碑

沖縄島唄・歌碑のある風景

「歌と踊りの島」といわれる沖縄には、琉歌や民謡、古典音楽の歌碑が各地にある。あちらこちらと訪ねた際に、なるべくその地にゆかりの歌碑を探して見ることにしている。といっても、まだ訪ねた歌碑はごく一部である。歌碑を訪ねると、その歌ができた背景やその地の歴史、人々の思いなど、よくわかることが多い。

すでに、ブログにはアップしてある。まだ少ないけれど、回って見た歌碑とその地や歌をめぐる逸話などを「沖縄島唄・歌碑のある風景」としてまとめてみた。

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         恩納村にある恩納ナビーの歌碑  

「琉歌の里」恩納村の歌碑

恩納村(オンナソン)といえば、「琉歌の里」を盛んにPRしている。18世紀に活躍した琉歌の二大女流歌人の一人、恩納ナビーの生まれたところである。恩納村の中でも、その中心である恩納区を歩いた。
恩納ナビー誕生の地の碑があった。ナビーが生きた時代は、琉球文化の黄金時代とも呼ばれ、庶民の間でも琉歌が流行ったという。「恩納村の美しい自然の中ナビーは、自由奔放かつ大胆な歌を数多く残しました」と説明文にも書かれていた。
 近くの昔の番所(役所)跡そばに有名な琉歌の歌碑がある。
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「恩納松下に 禁止の牌のたちゆさ 恋しのぶまでの 禁止やないさめ」。大きな松の木がある。その意味を解説した真新しい碑もそばに建てられていた。
 「恩納村の役所の前の松の木の下に、いろいろと禁止すると書いた立て札が立っているが、恋をしてはいけないとは書いていない、だから若い者は恋をするのになにも恐れることはない」。こんな歌意である。
 この立て札には背景がある。琉球王府時代、尚敬王が国王として中国皇帝に認めてもらう冊封を受けるため、琉球に来てい
た有名な徐葆光(ジョホコウ)が北部を旅した。そのさい恩納が宿泊予定地だった。若者が夜ごと野原に集まり、歌い踊る「モーアシビー」が盛んだったけれど、風紀を乱すものだからと「モーアシビー」を禁止する立て札を出したのだ。
 当時、庶民に君臨する王府の命令は絶対であったはずだ。それを「恋まで禁止とは書いていないから、大いに恋をしよう」と歌うのは、なかなか勇気がいることだろう。ナビーの自由奔放な精神と恋への燃
えるような思いが感じられるスゴイ琉歌である。

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 この琉歌で歌うのが「恩納節」(ウンナブシ)である。古典の名曲である。私の行っているサークルでも、覚えるため毎回練習する古典5曲に入っている。
 王府時代の恩納番所の様子を表す絵の看板があった(下)。琉球に来たペリー艦隊の一行が、訪れた際のスケッチだ。


 恩納ナビーの歌碑は、もう一つ、近くにある景勝の地・万座毛(マンザモウ)の入り口にもある。ちょうど万座毛の駐車場に入る手前に、碑がある。それも正確には2つある。
 この道を入ると、正面と右側の二か所ある。 「波の声もとまれ 風の声もとまれ 首里天かなし 美御機(ミウンチ)拝ま」。「波の音も静まれ 風の音も静かになれ 今私が国王様のお顔を拝しご機嫌を伺うのですから」という歌意である。
 この琉歌は、1721年に首里王府の尚敬王が、国頭巡視の折り、恩納村の万座毛(マンザモウ)で休息され、その時、ナビーはウスデーク(太鼓を打ちながら踊る)に唱和して歌を詠んだと伝わっているそうだ。

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 ナビーの琉歌でもう一つ、とても名高い作品がある。こちらは歌碑がないようだ。
「恩納岳あがた 里が生まり島 森んうし除きてぃ くがたなさな」
 「恩納岳の向うは 愛する彼が生まれた故郷である 森を押しのけて 間近に引き寄せようか」という歌意である。
 森も押しのけて彼氏を引き寄せたいとは、なんという激しい情熱だろうか。私的には、琉歌としては、ナビーの最高傑作だと思う。
 ナビーの恋とはどんな恋だったのだろうか。金武町のホームページの「金武の民話と伝説」のなかの「恩納ナビーと金武松金(キンマツガニ)」に詳しく記されている。伝説であったも、ナビーの琉歌の背景と意味がよくわかることは確かである。
 恩納ナビーの「恩納」は、恩納の出身を表すもので名前ではない。周りでは「マッコー屋のナビー」と呼ばれていた。「マッコー」とは、「はりつるまさき」という米粒ほどの実がなる低木のこと。ナビーの家の屋号が「マッコー屋」で、ナビーの家にマッコーが茂っていたからそう呼ばれたのではないかと見られている。確かに、誕生の地の碑には、「マツコウ家」と記されている。
 かつては、恩納は単独の間切(今の町村)ではなく、金武(キン)と読谷山(ユンタンザ)間切に属していた。金武の御前首里殿内(メースヌチ)に松金という美男の若者がいた。松
金の家は古くからの名家で、代々間切番所(役所)や王府と関わる役所(ヤクドコロ)を継いでいた。

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 松金が15,6歳の頃、父が恩納村の「掟(ウッチ)」という現在の区長にあたる役に就任し、松金は父と共に恩納村に移った。
 マッコー屋のナビーと知り合い、いつの間にか二人は激しい恋仲になった。そのうち、松金が首里に奉公に上がることが決まった。恋人との別れを悲しんで次の歌を詠んだ。
 「明日からあさて 里が番上り たんちゃ越す 雨の降らなやすが」。次のような歌意である。「2,3日後にわが恋人が番上がりで首里に行くことになっているけれど 谷茶の村を越すような大雨が降ればよいのに そうすれば出発の日が延びて 少しの間でも一緒にいることができます」
 松金が奉公を終えて帰ってきて、しばらく二人は以前のように楽しい日々を過ごしていた。だが、父の仕事に任期が切れ、松金も金武に戻らなければならなくなった。一人になったナビーは、恋人に会いたい思いを歌に託した。
 ナビーの琉歌に感動した尚敬王は、金武に立ち寄ったさい、ナビーを呼ぶように伝えていた。ナビーは、金武に行ったが、行った本当の理由は、松金に会いたい一心からであった。

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 ナビーは松金の家の前に来るやいなや「マツガニー!」と大きな声で叫んだ。松金は、ナビーの声にビックリし、喜び、すっ飛んで行こうとした。そのとき、足の下まで届くほど長い髪をとかしていたところだった。あまりの急ぎに自分の髪を踏んでしまい、転んで床に頭を強く打って、そのまま意識がなくなったということである。
 実際には、『沖縄大百科事典』を見ても、ナビーの生没年も不詳で、尚敬王代(1713-1751年)か尚穆王代(1752-1794年)の人と考えられるとのことで、
はっきりしない。「金武に恋人がいたとか馬車引きと結婚したとかいわれる」とのことである。
 いずれにしても、金武の松金との恋が実在しても、結ばれなかったことは確かだろう。この時代は、士族の男性は、結婚は親が決めたので、自由に恋愛し結婚することはできなかった。だから恩納の村の娘と恋仲になったとしても、結ばれるのは難しかっただろう。伝説で、松金が自分の髪を踏んで転んで意識を失ったという話は、いかにも創作されたようなストーリーである。これも、結ばれない悲恋の結末が、こういう形の伝説になったのかもしれない。これは、私の勝手な推測である。ナビーは恩納村のシンボル。可愛い漫画のナビの看板がいたる所にある。

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  波の声もとまれ 風の声もとまれ」という表現が、とても素晴らしいと思う。
 ナビーの琉歌は、女性であるけれど、表現がとても大胆である。
 さきの「恩納松下⋯⋯」の琉歌では、王府の命令も気にしない勇敢さがあったが、こちらは逆に国王を歓迎する気持ちが表
現されている。

2012年8月27日 (月)

暴風域抜けても暴風続く不思議

 戦後最大級と言われた台風15号がやっと去った。36時間ほど暴風に閉じ込められた。それでも、沖縄気象台が最大級の警戒を呼び掛けたので、みんな警戒し自主的に公民館などに避難した人もこれまでになく多かった。

 「窓ガラスが割れるのでは」「トタン屋根が飛ばされるのでは」「車が飛ばされたらどうするか」「網戸が飛ばされるかも」など、みんな怖い思いをした。北部は台風の目が通過し、被害が出て停電も多かった。でも、南部は最大風速40㍍までで収まった。勢力のわりに被害は少ない方だった。

 不思議なのは、台風が本島を通過した後、暴風が激しくなったこと、加えて27日昼ごろには暴風域を抜けたのに、暴風は午後も続き、夜まで風雨が強かったこと。国頭、名護地方では、まだ夜9時過ぎに、過去に例がないほどの大雨が降ると警告している。

 どうも気象台の発表する暴風域と、実際に吹き荒れる暴風圏には違いがあるようだ。気象台による台風進路図では、台風は沖縄を遥かに遠ざかり、東シナ海を北上しているはずなのに、アメダスで見る雨雲は、巨大な雨雲が奄美、沖縄方面に大きくかかったままだ。あまり動かない。

 暴風域はあくまで机上の推定だ。きれいな円形に描かれている。でも、台風15号の通過の実際から見ると、昨夜暴風域に入って台風が沖縄本島に最接近しても、風雨はたいしたことがない。でも、本島を通過したあと暴風が激しくなった。だから実際の暴風は円形ではない。台風の前方はあまり強くなく、台風の後ろに巨大な暴風圏があった。それが体験的に見た現実である。それは、雨雲の強大な渦巻きの姿と対応しているのかもしれない。

 まあ気象台も、台風通過後の吹きかえしが強いので注意をと呼びかけていた。台風が通過してもまだ吹きかえしがあることは当然である。しかし、暴風域を抜ければもう暴風はおさまってくるだろうと思いがちである。そこに台風進路図の錯覚があるのではないか。

 それにしても、台湾からさらに西南に遠ざかったはずの台風14号がまたUターンして逆戻りしてくるとは、なんということか。台風が二つ並んであると、左の台風が右の台風にエネルギーを送り込み、右側の台風を強くすると、テレビで解説していた。台風同士で勢力を強くするようなことは、やめてくれ!と叫びたい。

 沖縄の台風は、何回経験してもわからない。奇怪なことがいっぱいある。

 

2012年8月26日 (日)

戦後最大級の台風が直撃

 瞬間最大風速70メートルと予想された戦後最大級の勢力をもつ台風15号が8月26日午後9時頃、沖縄本島を通過した模様だ。

 沖縄気象台も異例の記者会見で「最大級の警戒」を呼びかけたので、ベランダの鉢植えはじめあるものはすべて室内に撤去した。停電と断水を予想して、風呂や鍋などに水を貯めたり、懐中電灯、ロウソク、ラジオ、食糧も準備した。

 でもなぜか、今回も変な台風だ。朝から接近して暴風圏に入り、風雨が激しくなり出した。「やっぱり大型台風は違う」と思ったが、夕方になって本島にかなれ接近したはずなのに、それほど風雨は強くならない。テレビで見る限り、奄美の与論島などの方が強い感じだ。

 どうも、台風の進路が少し北に向き、本島の北部を横切る形になった。つまり、那覇市や南部は、台風の左側になった。台風は右側が強いので、そのせいで予想ほど風雨が強くならないのかもしれない。

 と思ったら、本島を通過したと伝えられた頃から、風が急激に強くなった。接近する前より、通過した後の吹きかえしが強い。これはこの前の台風も同じだった。

 暴風圏に入って17時間が経過している。まだ翌日、昼くらいまで風雨が強いらしい。とすれば、30時間くらい暴風を受けていることになる。いいかげん、速度を速めて去っていってほしい。といっても、沖縄本島や奄美諸島、予想進路にあたる韓国では、台風被害ができるだけないように願うばかりだ。

2012年8月24日 (金)

美空ひばりには3曲平和の歌がある

 美空ひばりの「花風の港」の歌碑についてブログに書いた。そのなかで、ひばりの反戦歌「一本の鉛筆」を紹介した。

 これも見たある方から、「ひばりさんには平和を歌った曲が3曲ありますよ」と教えてくれた。「一本の鉛筆」は聞いていたが、他の2曲は聞いたことがなかった。その2曲とも、録音を送っていただき、聴くことができた。いずれも平和への願いが込められたよい曲だった。2曲について、紹介したい。

022          那覇市「がじゃんびら公園」にある美空ひばり賛歌の碑

 1曲は、「8月5日の夜だった」。これは「一本の鉛筆」のB面だった。「一本の鉛筆」と同じ、脚本家の松山善三作詞、佐藤勝作曲である。8月5日とは、広島への原爆投下の前夜にあたる。

 「♪かすりの着物 赤い帯 提灯ポッカリぶら下げて 橋のたもとに影法師 二つ重ねた指きりの 8月5日の夜だった あなたはどこに あなたはどこに」
 「♪女心は綾結び ホタル一匹闇をさく 橋のたもとの願い事 いつかあなたのお嫁さん 8月5日の夜だった あなたはどこに」

 翌日にこの世の地獄が訪れるとは、夢にも思わなかった。若い二人が橋のたもとで交わした指きり。お嫁さんになる約束⋯⋯ 翌朝、一瞬にして無惨な夢となった。

 8月5日の夜、戦時中とはいえ、ヒロシマで多くの市民が明日の悲惨な被爆など夢にも思わず暮らしていただろう。そんなことを思い浮かべながら歌を聴くと、胸にジーンと響いてくる。

 もう1曲は「白い勲章」。宅島徳光作詞、美空ひばり補作詞、船村徹作曲である。
宅島さんは、海軍飛行予備中尉で、遺稿集「くちなしの花」で、その中で恋人を思って綴った詩がこの曲のもとになっている。宅島さんは、訓練中に事故死(24歳)だったそうだ。(ネット「うたごえ喫茶のび」から)
 

 「♪俺の言葉に泣いたやつが一人 俺を恨んでいるやつが一人 それでも本当に俺を忘れないでいてくれるやつが一人 俺が死んだらくちなしの花を飾ってくれるやつが一人 みんなあわせてたったの一人」

  「一本の鉛筆」についても、もう一度アップしておきたい。。
 松山善三作詞、佐藤勝作曲。1974年に開かれた第1回広島平和音楽祭でひばりさんが歌った。
「♪一本の鉛筆があれば 私はあなたへの愛を書く
 一本の鉛筆があれば 戦争はいやと書く 
 一枚のザラ紙があれば 子どもがほしいと書く 
 一枚のザラ紙があれば あなたを返してと私は書く 
 一本の鉛筆があれば 8月6日の朝と書く 
 一本の鉛筆があれば 人間の命と書く」

  ユーチューブでは、「一本の鉛筆」は見ることができるが、「8月5日の夜だった」「白い勲章」はアップされていない。
 美空ひばりは、横浜に生れ、太平洋戦争の恐ろしさは決して忘れることができないと語っている。平和への思いを心の奥に抱いていた歌手である。

 小笠原和彦著『美空ひばり 平和をうたう』という本がある。読んでみたい本である。

 

 

2012年8月20日 (月)

宮里美香さんの全米初優勝をみんなが祝う

 沖縄出身の宮里美香さんが、全米女子ゴルフツアーで待望の初優勝を飾った。セーフウェイ・クラッシックで、3日間1位をキープしての優勝だ。今回は、リードしての最終日なので、自分とのたたかいだと思ったが、一時は並ばれたが、また引き離す見事な優勝だった。

 今年は、このところ優勝争いにからみ、初優勝は時間の問題だと言われていた。といっても、高卒後、日本のプロテストは飛ばして、アメリカゴルフに挑戦して、4年目だった。だから早く一度、優勝してほしかった。沖縄県民もみんなが期待していた。22歳での優勝は、藍さんの24歳を抜いて、日本人女性としては最年少である。

 宮里藍さんも、アメリカツアーでは初優勝は4年目。やはりそれくらいのキャリアを積まないとなかなか世界の強豪を相手にしては優勝できないのだろう。

 美香さんは、14歳で日本女子アマゴルフ選手権で最年少優勝をして、2006年、世界ジュニアゴルフ選手権でも優勝した逸材だ。004                こちらはパークゴルフ場

 沖縄では、高校野球で浦添商業が3回戦で惜しくも敗北した。そのすぐ後、美香さんの初優勝の嬉しいニュースが飛び込んできたので、みんなわがことのように喜んでいる。ラジオのメッセージでも、「美香ちゃん、おめでとう!」の声が飛び交っている。父親は、那覇市内で居酒屋を営んでいるとか。そこにみんな集まり祝っている映像も流れた。

 全米女子ゴルフには、日本の女子選手も何人も参加しているけれど、トップテンに入って、優勝争いに加わっているのは、W宮里。藍さんと美香さんの2人だ。いずれも沖縄出身である。これは偶然ではない。
 日本女子ゴルフではいつも何人も沖縄出身のプロが上位に食い込んでいる。さらに比嘉真美子ちゃんも、2011,2012年と日本女子アマゴルフ選手権で2連覇を果たした逸材だ。プロテストに合格して、これから本格参戦する。彼女もすごくハートが強い選手で、期待される。沖縄ゴルフ界は底辺が広い。その頂点に立っているのがW宮里である。

 美香さんも、これで壁を一つ乗り越えて、優勝を重ねてくれるだろう。まずは9月の全英女子オープンが楽しみだ。

 

2012年8月19日 (日)

上演禁止された組踊「手水の縁」

 平敷屋朝敏作の組踊「手水の縁」が、琉球王府時代だけでなく、明治になっても上演禁止にされていたことは、これまでも書いた。でも、いつどのように禁止措置がされ、いつ許可になったのか、具体的な経過はよくわからないままだった。『沖縄県史6 文化2』の巻に経過が書かれていたので、紹介したい。

 この作品は、国家反逆の罪で処刑された朝敏の作品であることと、結婚は親が決める封建秩序を乗り越え、自由な恋愛を成就させる組踊のため、権力者から問題視されたと伝えられる。
 「封建社会の中で遂げられぬ恋に終始する民衆の間では、それ故になおさら愛誦され人気があった。しかし、山戸と玉津の忍びの後の場で伝統の様式からひどく逸脱し男女jの濡れ場を強調したという理由で明治の末期に上演を禁止した。その後大正7年3月に後任の高橋署長が赴任すると世論の要求を受け入れ、署長直々の観賞もあって問題なしととして上演が許可された。各座とも競って上演をし観客の要望に応えた。新聞社もその粋なはからいに讃辞を呈し、改めて『手水の縁』の文学的な価値を説いて啓蒙した」

003   組踊の一場面。「手水の縁」ではない(「沖縄テレビ」の画面から)

 「手水の縁=昨日上場許可さる」(大正7年3月16日「琉球新報」)
 「那覇前署長時代一部の不見識極まる警官連に依りて久しく上場禁止となり居たる平敷屋朝敏作組踊『手水の縁』は昨日高橋署長に依りて許可されたり」

 「高橋署長の感想」(大正7年3月29日「琉球新報」)
 「私の素人評ですが何うも中々いい芝居です。最初筋書きで見た時は如何だろうかと怪しんで居りましたが、板に掛けて見ると少しも風俗紊乱の所はなく、殊にあの美文学的な台詞を流暢に語る所は聞いてゐてもいい心持がします。一番よかった所は何と云っても山戸が真玉津の所へ忍んで行く所で門外での横笛はその場を緊張せしめて一種の凄みさえ伝へてゐました。その場の音楽も実に何とも言へぬものです⋯⋯

 前任者が是れを許可しなかったと云うのも仄聞するところによると7,8年前に演った時は甚だ改悪して如何はしい点もあったと云ふ事でした」

 前任者とは、那覇署の坂本警部だろうと思われるそうだ。
 歌劇も世論と警察側の糾弾にあい、廃止に追い詰められていった。

 坂本警部の談話が「琉球新報」大正6年4月11日に掲載されている。
 「本県の歌劇は見物をして悪感を抱だかしむる、卑猥極まるものが多い。それで警察の方でも風俗を乱す虞れのあるものは全然之を許さず」

 しかし「坂本警部は余程の硬骨漢」だったらしく、潮会の芝居を上演直前に禁止した。「その偏向ぶりに世間の顰蹙(ヒンシュク)をかっている」とのこと。
 高橋署長といえども、真面目に「手水の縁」を観賞すれば、「風俗を乱す」などいう非難は的外れであることが分かるだろう。なかなか愉快な感想である。

2012年8月17日 (金)

「艦砲ぬ⋯⋯」作者、比嘉恒敏さんの無念

 反戦島唄の傑作「艦砲ぬ喰ぇー残さー」の作者、比嘉恒敏さんが、米兵の飲酒運転による交通事故で亡くなったことは、すでにブログに書いた。
 2012年8月17日付け「琉球新報」の「島唄を歩く」(小浜司氏著)の「でいご娘」の巻で、事故の模様が詳しく書かれているので、紹介しておきたい。

005      比嘉恒敏さん(右端)とその家族(NHK沖縄の画面から)

 沖縄の日本復帰の翌年、1973年10月10日夜10時頃、結婚式の余興に出演した後、車2台に乗って帰る途中、宜野湾市大山の国道58号線路上で二重衝突事故があり、比嘉さんの車1台が巻き込まれた。原因は米兵の飲酒運転だった。この事故で、比嘉家は母・シゲさん(49)が即死、父・恒敏さん(56)は4日後に亡くなった。米兵も一人死亡した。

 5人が重軽傷を負ったが、娘の綾子さんは、気を失って気がついたら病院だった。千津子さんは、病院から帰されたけど、具合が悪くて別の病院に行ったら頭蓋骨にひびがはいっていた。いとこも重傷だった。

 当時現場を取材した写真家の国吉和夫さんは「40年間新聞の写真を撮っていて、あの事故ほど凄まじいものは見たことがない」というほどの事故だったそうである。

 この事故がきっかけになって、58号線に中央分離帯ができたという。

 恒敏さんは、読谷村楚辺に生れ、1939年に23歳で大阪に出て、妻と次男を呼び寄せた。1944年、両親と長男を呼んだが、乗船したのが対馬丸で、米軍に撃沈され亡くなった。妻と次男は大阪の空襲で亡くなった。

 戦後、読谷村に帰郷し再婚して、子どもたちを育て、「でいご娘」として活動していた。戦争で、両親、妻、長男、次男を失い、生き残った自分も、今度は夫婦ともに米兵の飲酒運転による犠牲になった。沖縄県民の不幸を集中して体現したような人生である。

 不慮の事故で両親がなくなり、娘さん4人でつくる「でいご娘」は一時、芸能活動を休止していた。でも、お父さんが残した1曲だけでもレコードにしたいとの思いが募り、4人は普久原音楽事務所を訪ねた。「芭蕉布」の作曲家、普久原恒勇さんのところで録音する時に、普久原さんは「これはすごい歌だよ」と言われたそうだ。

 

006       デビュー当時の「でいご娘」(NHK沖縄の画面から)

 75年6月に「艦砲ぬ⋯⋯」をプレスし、たちまちヒットしたという。

  この曲を練習するたびに、その無念さや「艦砲ぬ」に込めた思いが胸をうつ。この曲の歌碑建立の事業が進められている。将来にわたって歌い継いでいくべき名曲である。

2012年8月14日 (火)

エイサー曲「久高マンジュ主」の真実

ブログにアップした「エイサー曲は面白い、久高マンジュ主」に対して、その子孫にあたる久高さんから「不愉快だ」というコメントをいただいた。それは、久高マンジュ主が「私の祖先に対する歌らしいですが、いつもお盆の時や沖縄の行事時にこの歌が流れていて耳にします。この歌の意味が分かっているので正直言って不愉快です。歌を考えた人が許せない。だから面白いとか言わないでほしいです」という内容だった。

 伝統エイサーでは、「仲順流れ」と「久高マンジュ主」は定番の曲だ。親や先祖への恩を歌う「仲順流れ」にたいして「久高マンジュ主」は、いい歳をして、美しい女性を追いかけるとか家計は窮乏して仏壇もきれいにできないなど、面白おかしくはやし立てる内容だ。歌詞の内容を知った時、遠い過去の伝説上の人物をモデルにしている受け止めだった。でも、当たり前ではあるが、実在の人物である。もし私の祖先がこのように歌われたとしたら、やはり不愉快に感じるだろう。ブログのタイトル名を「不思議なエイサー曲、久高マンジュ主」と改めた。

     003            旧盆にエイサーの演舞をして地域を回る古蔵青年会

 立派な人だった「久高マンジュ主」

 久高さんから追加のコメントが寄せられた。そこには、久高マンジュ主がどのような人物だったのかについて、調べられたことが書かれていた。とても興味深い内容だった。エイサーを演舞する人たちも、是非知ってほしい。それで、久高さんのコメントを改めてここで紹介したい。
 「私の祖先は、もともと琉球が栄えていた時代、当時の王の側近で警護の仕事をしていたそうで、階級も上の位で立派な人だったそうです。ある日、王の命令で久高島に派遣され、そこで功績を上げて首里に帰って来た時に、当時の祖先の姓が照屋だったにもかかわらず、王が『姓を久高に変えなさい』と言ってそれからずっと久高になっているみたいです。でも酒と女遊びがとても激しかったらしく、庶民らがとてもひがんで<久高マンジュ主>をつくったそうです。まあ唄になるくらいだから、相当ひどかったでしょう」

 酒と女遊びが激しかったとしても、王府で大事なな役職にあり、久高の姓もその功績によって王から授けられた立派な人だったことがよくわかる。エイサー曲は、久高マンジュ主の真実を反映していない。一面が誇張され、面白おかしく仕立てられたのだろう。 

 久高さんは、初めて家系について調べていろんなことが発見できるよい機会だった、とのべている。

 
 前に「歴史が生きている沖縄」と題してブログにアップした。狭い島国の琉球・沖縄では、伝説や歴史上の人物や出来事について、関係した人たちを祖先にもつ人たちがいまもたくさんおられる。とかく、民謡に歌われた出来事や歴史で学んだ事柄を、現実と切り離された遠い過去のことと思いがちだ。でも、それぞれの家系は綿々とつながっていて、歴史がいまも生きていることを改めて痛感した。

 

2012年8月13日 (月)

アルテで「懐かしき故郷」を唄う

 毎月恒例のアルテ・ミュージック・ファクトリーの8月のテーマは「音」。真っ先に浮かんだのは、「懐かしき故郷」。故郷は、「フルサト」ではなく、「コキョウ」と読むのが正しいそうだ。
 戦前、戦後に民謡の名曲をたくさん世に出した普久原朝喜さんの作詞作曲である。
大阪にいた普久原さんが、沖縄戦で焼け野原となった故郷を憂う心情にあふれている。

001  「♪夢(イミ)に見る沖縄(ウチナー) 元姿やしが 音に聞く沖縄 変て無らん 
  ※行ちぶさや 生り島」と歌い出す。
 夢に見る沖縄は元の姿のままだ でも伝え聞こえてくる沖縄は戦争ですっかり変わり果てたようだ 行ってみたいなあ わが生まれ島へ、という歌意である。「音に聞く」と出てくるので、テーマに合っていると思った。

 027  「♪ 平和なて居むぬ 元の如自由に 沖縄行く船に 乗してたぼれ ※繰り返し」
 (平和になっている 元のように自由になっているなら 沖縄に行く船に乗せて下さい )

 「♪ 何時か自由なやい 親兄弟ん揃て うち笑い 笑い 暮すくとや ※繰り返し」
  (何時か自由になるだろう 親兄弟みんな揃って 笑い合って暮らす日が来るだろう )

 3,4番の歌詞を紹介した。
 日頃の練習、リハーサルでは上手く三線が弾けたのに、本番になるとやっぱりダメ。手が動かないというか勝手にミスタッチをする。歌はなんとか歌えた。

024 普久原朝喜さんの作った民謡は、その時々の社会の動きの中で敏感にとらえて作った曲が多い。戦前の「軍人節」は、出征する兵士と家族の別れがテーマ。でも勇ましさはどこにもない。妻、母親を残して出ていく悲哀がにじみ出る。「無情の唄」も、やはり男が出征したのか、愛する人と引き裂かれた無情な現状を憂う。「移民小唄」は貧しい沖縄から海外に希望の託して出ていく移民の心情を歌った。「通い船」は、大和と沖縄を結ぶ船に多くの人たちと共に乗り込み出ていく情景が歌われる。いずれも社会の一断面を切り取って描いた名曲だ。

 話がアルテから離れてしまった。今回の出演者では一番の聞きものは、宮古民謡の名手、平良俊夫さんの「伊良部トーガニ」である。奥田さんのたて笛が加わった演奏だった。

046  さすがうっとり聞き惚れる。三線も表情豊かである。歌は情感がこもり、声もよく伸び、味わいがある。さすが、宮古民謡のグランプリ受賞者を集めた大会でグランプリをとったといわれるだけある。この曲でこれ以上の謡い手をまだ見たことがない。

 ツレは、今回でアルテは10回目の登場。ピアノ独奏は2回目だった。スコット・ジョブリン作曲、映画「スティング」のテーマ曲として使われた「ザ・エンターテイナー」。少しミスはあったが、よくリズムにのり、軽快に弾いてとても習い出して4カ月とは思えない演奏だった。

042  打ち上げ会では、三線は私だけなので、「島人ぬ宝」を歌った。beginの島を愛する気持ちがこもった島唄ポップスの名曲である。長く歌い継がれるだろう。
 途中で歌詞を忘れたが、歌っていると思い出し、最後まで歌えた。ファクトリーの本番舞台より、打ち上げ会の方が三線はリラックスして上手く弾けるから不思議だ。

058  

2012年8月12日 (日)

泊高橋の歌碑を見る

 那覇市の離島へのフェリー埠頭のある泊(トマリ)の、安里川の河口付近にかかる泊高橋のたもとに歌碑が建っている。前から「泊高橋の歌碑は見ましたか?」と何人かから声をかけられた。魚の卸売市場の直売所「泊いゆまち」があり、よく買い物に行く時、泊高橋を通るのに、いつも見過ごしていた。改めて、見に行った。001  この橋は、国場川にかかる真玉橋(マダンバシ)、嘉手納の比謝川にかかる比謝橋とともに沖縄の名高い橋にあげられる。
 もともとは木の橋だったが、1700年の尚貞王の時代に石の橋に架け替えられた。工期6カ月を要し、重さが1個で1トン以上の石材も使われたそうだ。

007  歌碑は、橋の左岸たもとにある。
 「泊高橋に なんじゃじふわ落ち いちか夜ぬ開きて とめてさすら」
 「なんじゃじふわ」とは、銀のかんざしのこと。
 泊高橋から大切な銀のかんざしを落としてしまった 夜が明けてから探しだすことができるだろうかという歌意である。

002  「詠み人知らず」といい、説明文は何もない。これだけ読めば、女性が恋人と橋の上で会っていて、誤って大事なかんざしを落としてしまった。夜が明けてから探し出せるだろうかと心配する。そんな情景を詠んだ琉歌のようだ。歌の一つの説はその通りだという。でもいくつかの説があるそうだ。
 この歌詞の表面を見るだけではわからない隠された思いが込められた琉歌だとも言われる。

 それは、1734年に当時、王府で辣腕をふるった政治家・蔡温(サイオン)の政治を批判したとして、安謝港で磔の刑にされた平敷屋朝敏(ヘシキヤチョウビン)の妻が詠んだといわれている。
 朝敏の処刑にともない、男の子どもたちが先島に流刑にされた。そのとき、朝敏の妻・真亀(マカミ)が、濡れ衣を着せられた夫の処刑にたいし、断腸の思いで詠んだと言われる。泊高橋の地名が歌い込まれているのは、子どもたちは、泊港から船で出ていったのだろうか。

 003  秘められた歌意とは、次のような内容だ。泊高橋でかんざし(夫や子ども、地位や名誉)をなくしてしまった。時代が変わり、名誉が回復される日が来るだろうか。

 そう思って読めば、琉歌に込められた深い悲しみが伝わってくる。朝敏の妻は、娘とともに、いまのうるま市の高離島(宮城島)に流され、身分も士族から百姓に落とされた。
 朝敏は、組踊「手水の縁」の作者として名高い。琉球王府の時代には、名誉回復されることはなかった。でも今日では、その作品と人格は高く評価されている。名誉は回復され、朝敏ゆかりのうるま市平敷屋では、毎年偲ぶ会が行われている。

005  歌碑の裏側にはこんな「泊竜宮神」も祀られていたい。

006  泊高橋から河口の泊港の方面を見ると、泊大橋が見える。

 
 

 

2012年8月10日 (金)

民衆に愛される沖縄歌劇、お望み次第で上演とは

お望み次第の劇上演とは

芝居では、珊瑚座と真楽座が競い合い、活発な活動を続けていた。驚くのは、芝居の演目を、観客のリクエストに応えて上演するという興行をしていたことである。演歌など歌手がリクエストに応えて歌うのならわかるが、芝居までそんな器用なことができるとは、さすが沖縄芝居である。

大野氏によれば、昭和15年(1941)4月11日付の「沖縄日報」に、珊瑚座の旧3月興行の広告が出ている。「お望み次第どの劇でも上演 お待ち兼ねの三月超特別昼夜二回興行」。
 この広告に出ている演目は全部で184ある。それを「お望み次第どの劇でも上演」するという。同じ日の新聞に真楽座の旧三月興行の広告が出ていて、こちらは89項目ある。やはり「左記名番組の中からお申込みのお芝居を毎夜取替上演」となっている。当時の劇団は、これだけの演目をいつでも上演出来るように、役者たちは日頃、精進して準備していたというだろうか。

珊瑚座の184項目の内訳は、歌劇が86、時代劇が56、舞踊劇25、現代劇11、喜劇6となっている。この時期でも歌劇が圧倒的に多く、芝居の主流を占めていたことがわかる。

聞くところによると、沖縄芝居では、入った観客の反応を見て、座長が急きょ予定の演目を変えて、上演することもあった。役者の方も、演目の変更にもいつでも対応できるようにしておかなければならない。それくらい出来なければ、一人前の役者といえないだろう。なかなか大変な苦労である。

まあ、「お望み次第」でリクエストに応えて上演することもやっていたのなら、演目の変更など朝飯前なのだろう。台本を書かないで芝居を演じるというやり方をしていたことが、逆にこういう臨機応変な上演を可能にしたのかもしれない。

戦争で消された歌劇

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      首里城も沖縄戦で第32軍司令部が置かれ、廃墟と化した

昭和16年(1941)12月には、日本軍の真珠湾攻撃で太平洋戦争に突入した。戦争中の芝居事情はどうだったのか。

その翌17年1月には、真楽座から出された再興行願いに対して、那覇署は「演劇は全て標準語を使用すること、歌劇は全廃すること、但し標準語演劇は1日1題以上上演すればよい」という条件をつけて許可したと大阪朝日沖縄版が伝えている。

やはり、歌劇は全廃とされている。日本が、侵略の戦争にひた走り軍事一色に染め上げられるなかでは、歌劇の灯も消されたのだ。沖縄芝居、歌劇も平和であってこそ楽しめるのだ。

 県民の4人に1人が犠牲になった沖縄戦。その後は、米軍による占領統治という異民族支配のもとで、県民は苦難の道を歩んだ。

 終戦の直後、沖縄芝居、歌劇がどのように演じられのか。沖縄戦で打ちひしがれた県民の心の癒し、楽しみとなったのかについては、すでにブログに「戦後沖縄芝居事情」としてアップしているのでそちらをみてほしい。 

 「民衆の愛される沖縄歌劇」と題したが、オリジナルの研究はまったくない。大野道雄氏、矢野輝雄氏、真栄田勝朗氏、大城學氏の著作から、勝手につまみ食いさせていただいた。ご容赦願いたい。

        2012年8月10日    文責・沢村昭洋         

2012年8月 8日 (水)

民衆に愛される沖縄歌劇、歌劇への偏見と規制

主流になった歌劇が廃止に

 明治43年(1910)の歌劇「泊阿嘉」の大成功によって、沖縄の芝居のなかで、歌劇の占める位置が高くなった。大野氏によれば、新聞で見られる限り、明治44年に上演された歌劇と思われる演目数は59を数えた。明治42年、43年と方言せりふ劇の年間上演数は60を越えて最盛期だったけれど、44年になると歌劇の方が多くなり、歌劇主流の時代がはじまった。

歌劇全盛時代を迎えていた大正6年(1917)、人気の歌劇を全廃するという事態が起きた。4月11,12日付の「琉球新報」によると「帽子職工が仕事しながら其の折々の芝居で演っている歌劇の文句を唱ふのは好いとしても甚だしきは小学校の子供でさえ其の口真似をしたりして歌劇の悪影響は甚だ恐る可きものであった」ので「一時的に歌劇全廃を唱へたる事」があった。子どもまで、歌劇の口真似をするとは、絶大な人気があったことをうかがわえる。

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     歌劇「奥山の牡丹」の一場面(『沖縄芝居とその周辺』から。花城勝子さん撮影)

 大城氏は「歌劇が男女の恋愛をテーマにし(た)うえに俗受けをねらいすぎたために、道義的に世論と警察の糾弾にあい、劇団の自主的廃止の形をとった」とのべている。

 世俗的な恋愛物が「卑猥極まる、風紀を乱す」という根深い固定観念がまだ支配していたのだろう。 

 廃止となる以前にも、すでに規制があり、「警察の方でも風俗を乱す虞れがあるものは全然之を許さず従来も出願数の4割位は不許可になって居た」ともいう。

「沖縄の『近代化』を本土への同化と考えた一部知識人、それに同調した新聞、そして権力を握って演劇の内容にまで踏み込んだ警察が三位一体となって、劇場側を自主的歌劇全廃に追い込んだのでした」と大野氏はのべている。

このような古い倫理観や「近代化」を志向する立場から、庶民に愛される歌劇を卑下して排撃する姿勢は、言語のうえで共通語を第一として、方言の追放に走った歴史を想起させるものがある。

 「しかし、大衆にもっとも人気のあった歌劇がそんなに簡単に廃止できるはずではなく、その禁止もあまり長くは続かなかったようである」(矢野氏著作)
 歌劇の看板ではなく舞踊劇の名目で逃げたり、臨監席に警官がいる時は、役者が歌わず、地謡に歌わせる方法を考え出したそうである。

結局、廃止も長くは続かず、翌年には禁止が解かれ、大正8年(1919)の辻遊郭の大火事の後は完全に復活した。

沖縄歌劇にたいする非難は、昔のことだけではない。先に引用した『琉球芝居物語』を書いた真栄田勝朗氏も「歌劇の悪影響」を次のように力説している。

「この歌劇こそ実に演劇の向上を阻害し堕落に導いたくせものである。叡智と良心を持ち合せない彼らは無知のアフィー(青年)アン小(田舎娘)達の好みに迎合し、悪どい恋愛ものを次々に自作自演して、演劇水準を下落させただけでなく、社会風教をも毒するに至った」

沖縄演劇を愛する人が、これほどまでに歌劇を口汚く指弾するのには、ちょっと抵抗がある。「伊江島ハンドー小」をはじめ名作歌劇を見る限りでは、こうした非難はまったく当てはまらない。
 庶民の風俗、恋愛などを題材にした歌劇には、この孤島苦とよばれた琉球弧の島々で生きる人々の生きざま、愛と哀しみ、苦しみと喜び、人生のドラマが凝縮して映し出されている。それだけに、観客の心をゆさぶり、ともに笑い、涙し、感動をおぼえるのだろう。
 とくに人気のある恋愛物を古めかしい倫理観で抑圧しようとしても、到底無理である。組踊でも恋愛物の傑作「手水の縁」が、長く上演禁止になった時期があった。そんな企てはいまでは笑い話のたぐいである。それと同様のことではないだろうか。

日本の各地を見回しても、沖縄ほど独自の題材と伝統芸能を駆使して、たくさんの歌劇を創造した地方は、ほかにはないだろう。名作歌劇は、いまやもう古典として価値をもつ歌劇となっている。歌劇は魅力と価値をもつ立派な沖縄芸能であると思う。

海外のオペラも、恋愛をテーマとした人気のある演目が多い。イタリアオペラを「俗物大衆文化」と言い切る人もいる。オペラを高尚な音楽のように接するのではなく、人間ドラマを満載した「俗物大衆文化」と思って見る方が親しみやすく、かつ楽しめる。

オペラと沖縄歌劇は、異なる芸能ではあるが、歌舞劇としては共通する点もある。沖縄歌劇は、芸能の島」ならではの芸能であり、誇りある民衆の文化である。

『沖縄県史6』は、「明治30年代より顕著に台頭した大正期に最盛を極めた歌劇は沖縄演劇の一大傑作である」「一種のミュージカルな方法で筋を運ぶスタイルの演劇は日本の演劇の中でもユニークであり今後大いにその可能性や評価については検討されねばならないものである」と評価している。008

    沖縄は「芸能の島」。みんな歌と踊りが大好きだ(第28回チャリティー芸能祭から)               

すでにのべたように、歌劇にはさまざまな規制があったが、歌劇だけでなく沖縄県では、演劇に対して早くから規制が加えられてきた。

明治25年(1892)の演芸場取締規則は、芸人鑑札や劇場に警察官の監臨席をつくることが義務づけられ、多くの芸題が変更、禁止されたりした。

昭和4年(1929)の興行場及興行取締規則では、①勧善懲悪の趣旨に背戻するもの②嫌悪卑猥又は惨酷に渉るもの③犯罪の手段方法を誘致助成する虞あるもの④濫に時事を諷し又は政談に紛はしきものと認むるもの、などが掲げられていた。これでは、大抵のことは警察の判断で自由に処置できる。

規制が厳しくなるなかでも、沖縄芝居、歌劇は盛んに上演がされてきた。

   

        

2012年8月 7日 (火)

民衆に愛される沖縄歌劇、芝居をささえた女性客

白眼視された女性の芝居見物

 沖縄の芝居は、女性観客に支えられてきたとよくいわれる。ただ、はじめから女性客が多かったわけではない。明治36年(1903)頃には、男性客が女性客よりも多く、劇場の主役が男性であったという。

 もちろん、女性が芝居に関心を持たなかったわけではない。当時、芝居は風紀を乱すものとして蔑視されていた。特に女性が芝居を見ることは非難されていたからだ。

明治32,33年ごろには、沖縄各地で芝居見物禁止の規則なるものがつくられて、罰金を取られたりしていた。

大野氏は、その一例として、明治32年(1899)10月21日の「琉球新報」の記事をあげている。

「芝居見物禁止の規約」として、与那原村で芝居を興行したさい、村民らが嫌悪し「一同申合せの上見物禁止の規約を結ひたる」、芝居見物を放任すると「小女處女等か身を誤り風俗紊乱の媒介」となるとして、芝居を見物するものは金三円の科料を徴収すると協議一決し、取り締まりのため、毎日毎晩見張りをしたという。

 このように芝居見物、とくに女性の芝居見物は白眼視されていた。それに当時の女性は自分の自由になる財布を持っていなかった。

そんななかでも例外は漁業の町、糸満の女性観客だった。男が漁業で獲ってきた魚を女性が売りさばき、糸満の女性は経済的に自立していた。この経済的自立が演劇興行を支えたそうだ。

 次第に女客の方が男性より多くなっていった。明治43年(1910)2月22日付「琉球新報」によると、首里寒水川の春日座では「⋯⋯9分通りの大入りである其の内7分通りは婦人で他の2分は男子であった」。

 同年6月には、沖縄座の「浜千鳥」(歌劇「泊阿嘉」)の記事で「十中八九分(通)りは婦女子が占めて居た」となる。明治40年ころから歌劇の上演が次第に多くなってくるのにつれて、女性客が多くなってきたことがうかがえる。

    015          現代の国立劇場おきなわも女性客が多い

歌劇ささえた「帽子くまー」

歌劇の上演に女性客が多くなった一つの背景として、注目されるのは、アダン葉帽子編みの帽子女工の姿が目立つようになったことである。これは、アダンの葉を使って編んだ夏物の帽子のこと。俗にパナマ帽と呼ばれていた。

「大正時代の観客は、辻の遊女たちや、帽子あみの女工、町屋の主婦たち」であり、「芝居小屋は女たちのただ一つの解放された世界であった」(矢野氏著作)

『沖縄芝居とその周辺』によれば、明治35年(1902)片山徳次郎がアダン葉の帽子製造法を開発し、1904年に特許を得てから、アダン葉帽子の製造は急速に発達していった。那覇市に製帽と原料漂泊の工場を建てて以来沖縄県の特産品になり、西欧にも輸出していた。
 生産額は、はじめはわずか5~6万円に過ぎなかったが、明治41年(1908)には28万7700円余に激増し、44年(1911)には、55万7160円に達した。これは砂糖、泡盛に次ぐ生産額となり「本県唯一の世界的商品」といわれるほどになった。
 大正元年(1912)には、アダン葉帽子製造工場が那覇に20あった。「琉球新報」によれば、当時の職工数は5~6000人を数え、自分の家で家事の余暇に賃仕事をする人を含めると優に3万人はいたという。

「比較的多くの資金と労力を要せず屋内にありて1日優に30銭以上の労銀を得るにより老若男女の区別なく滔々(とうとう)として帽子職工たらんとする趨勢を示せり」(大正2年2月1日「琉球新報」)という具合だった。

地方にも作業場があり、当時は自給自足の生活のなかで、このアダン葉帽子の製造は、一週間に一度現金収入が得られる貴重な手段だったという。女性にとって、現金収入は生活費だけでなく、芝居見物などに行くことも可能にした。

「娯楽場と云う一種定まった場所の殆どない本県で、芝居丈は兎も角沖縄の一大娯楽場となっている⋯⋯帽子女工も女学生も小学生も全てか口吟む歌は一度芝居で歌った歌である」(「琉球新報」)という状況になった。

「誕生したばかりの琉球歌劇はこうした帽子くまあ(帽子編み女性)に支えられたわけで、その意味で間違いなく、沖縄近代の産物だと言えると思うんです」(大野氏著作)。

アダン葉帽子の製造のピークは大正1~2年だった。原料を主として野生のアダンにたよっていたことから次第に原料が枯渇してしまった。

 民謡に「帽子くまー」という男女掛け合いの曲がある。

「♪女 頭小(グヮ)やちゅくてぃ ぬちさぐや知らん かなし思里に習いぶさぬ サー習いぶさぬ」

(帽子の組み始めの部分を作って 編み方は知らない 愛しい彼に習いたい)

「♪男 天止みてぃ呉(クイ)らば わが妻(トゥジ)になゆみ 女 組み上ぎてぃ呉てぃん 妻やならん 男 サーにんぐる小どぅ すんなあ」

(男 帽子の上の天のところをとめてあげれば 私の妻になってくれるかな 女 組み上げても妻にはならないわよ 男 サー 愛人になってくれるかい?)

 こんな掛け合いで歌は進み、帽子を編み上げる作業が歌われるが、途中は省略する。

「♪男 帽子組まー 哀り 女 組まんしが知ゆみ 勘定前になりば さら夜明かち サー さら夜明かち」

(男 帽子組み工は哀れだよ 女 作らない人はその苦労が分らないでしょう 納期の前になれば 徹夜して サー徹夜して)

 この民謡では「私の妻になってくれ」と歌っているが、私のツレが、戦前に帽子くまーをしていたおばあさんに話を聞いたことがある。その人の体験によると、作業場で男と女の恋愛話のようなことはまったくなかったとのことだった。実際には、作業に追われてそんな余裕もなかったのだろう。

2012年8月 6日 (月)

 台風11号は変な動きをする台風だった。5日に大東島方面から本島に時速20キロくらいで接近した。お昼頃、最接近という予想だった。

 進路予想図でチャックすると、本島最北端と奄美諸島の与論島の間くらいを通過して北西に進み、東シナ海に抜けそうだ。接近しているはずなのに、風も雨もほとんど平常と変わらない。辺戸岬の北を通過している時間に、歩いてスーパーまで買い物に行ったくらいだ。

 奄美諸島との間を通過すれば、どんどん遠ざかるのかと思った。でも台風は、本島と久米島に夕方最接近すると予報に変わった。「ええっ! いったいどういうことだ」。

 午後の3時頃から、風雨が次第に強くなった。夜にかけてさらに強くなる。台風が通過したはずなのに、強くなるとはどういうことなのか? 大和的な感覚がまだ抜けきらないので、首をかしげていた。

 台風の進路予想図をたびたびチャックしてやっとわかった。台風は、北部を通過してそのまま北西の大陸方面に進むのではなく、本島を回り込むように西に進んだ。つまり本島の周囲を回り込む軌道で進んだ。しかも、速度はだんだん遅くなる。逆に、勢力は強くなり、本島に接近するまで、暴風雨域はなかったのに、東シナ海に抜けてから、暴風雨域が出来た。

 だから沖縄本島の西北のあたりで、のろのろして、本島は暴風雨域にずーっと長く巻き込まれたままだ。雨雲の写真を見ると、渦巻状の台風の雲は、本島にかかったまま長く停滞した感じだ。

 5日には、オスプレイ配備反対の県民大会が予定されていたが、延期した。台風の状態を見れば、とても開催は無理だった。

 5日の夜中も風雨が強いまま。朝になれば過ぎ去って風雨も止んでいるかと思ったが、いやはやまだまだ続いていた。午後は少し小止みになったと思ったが、6日夜午前12時前でもまた雨が降り、風もある。もう36時間くらいは、続いている。雨量も半端なく多い。いったいいつまで続くのか。台風は、早く通り過ぎてほしい。ノロノロ台風ハンタイ!

民衆に愛される沖縄歌劇、人気集めた三大歌劇

人気を集めた三大歌劇の世界 

初期にはまだ「踊り」といわれていた沖縄歌劇が、明治の後期には「歌劇」という言葉が使われるようになる。だがしばらくは「歌劇」と「踊り」の両方が使われる混在時代が続いた。「歌劇」という呼び方が定着したのは、大正3年(1914)ごろからだという。

歌劇が発展してくる中で、空前の大当りとなる名作歌劇が生まれる。明治43年(1910)に初演された「泊阿嘉(トゥマイアカ)」である。女性に圧倒的な人気を集めた。この「泊阿嘉」とその後の「奥山の牡丹」「伊江島ハンドー小(グヮ)」を合わせて、沖縄の三大歌劇と呼ばれた。これに「薬師堂」を加えて四大歌劇ともいう。

    Photo   歌劇「薬師堂」の一場面(『沖縄芝居とその周辺』から。花城勝子さん撮影)

       

その「泊阿嘉」は、阿嘉家の嫡男、樽金(タルガ二)が旧暦3月3日の「浜下り(ハマウリ)」(女の浜遊び)の日に、思鶴(ウミチル)を見掛けて一目ぼれするが、樽金は伊平屋島に出される。帰ってみると彼女は病気で死に、樽金もその後を追う。そんな悲劇である。

歌劇「泊阿嘉」には、民謡、古典合わせて16曲が使われている。歌劇で使われる曲は、既存の曲を使い、その旋律に新しく歌詞をのせて歌う、つまり替え歌で歌うというやり方である。喜びや悲しい場面など、それぞれの場面にふさわしい曲が演奏される。歌三線がはいることによって、通常の台詞だけの芝居以上に、ドラマを盛り上げる。

大正3年(1914年)に初演され、人気を集めた歌劇が、伊良波尹吉(イラハインキチ)の「奥山の牡丹」である。

「奥山の牡丹」は、士族の息子・三郎と身分の低い家庭の娘チラーの悲恋物語である。子どもを生みながら三郎の立身出世のため身を引くチラー。その20年後、母を尋ねてきた息子の山戸に対して、またも立身出世の妨げになるとチラーは身を投げる。女性の自己犠牲の姿が際立つ内容である。

「奥山の牡丹」には、18曲が使われており、古典曲が多くなっている。

こうした歌劇がなぜ人気を集めたのか。池宮正治氏は、次のように指摘している。
「封建的な身分制がとり払われたはずの明治=近代は、⋯⋯女は夫や子供、あるいは夫の家族のために、まさに自己犠牲的に生きることを、社会通念上要求されていたのだ⋯⋯歌劇の女性たちの運命は他人事とは思えなかったはずである。⋯⋯『泊阿嘉』や『奥山の牡丹』を見て、熱狂的に自らの運命に泣いたのである。この意味で私は、明治社会から疎外された女性の悲哀が、歌劇を生み出したのだと考えている」(「『泊阿嘉』評判記」、大野氏著作から)。

 同じ悲恋物でありながら、前の2作とは異なる女性像が登場する歌劇が「伊江島ハンドー小」である。最初は、方言せりふ劇だったが、大正13年(1924)に歌劇として初演された。

この歌劇は、伊江島の青年加那が国頭村辺土名(ヘントナ)で難破して助けられ、そこでハンドー小と深い仲になるが、島に妻がいる加那は伊江島に帰る。加那に思いを寄せるハンドー小は、船頭主に頼み島に渡るが、加那は心変わりをしていた。絶望した彼女は城山に登り自分の黒髪で首をくくる。その後、加那は病に臥し、亡霊が現れ、実家の島村屋は家族全員が死んで、島村屋は滅びる。

      

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             歌劇の舞台となった伊江島

古典、民謡のべ23曲が使われていて、歌劇のなかでも曲数の多い芝居の一つである。「明治43年には、『泊阿嘉』の運命に従うだけの悲恋に涙し、大正3年には『奥山の牡丹』のあくなき自己犠牲を貫く姿に同情の涙を流した女性客は、大正13年の『伊江島ハンドー小』に至って勧善懲悪劇ながら不実と無情に自ら断罪を下す主体的な女性の側に立って拍手と喝采を送ったのです。そこに歌劇が生みだした新しい女性像とともに、歌劇を支えた女性観客の意識の変化をも見ることが出来ましょう」。

大野氏は、観客の女性の意識の変容をこのように分析している。

「恋愛の自由」への夢託す歌劇

 昭和9年(1934)ころ初演された親泊興照作の歌劇に「中城情話」がある。これまでの歌劇から、さらに一歩踏み出した女性像が見える。

 この歌劇は、首里から里之子(サトヌシ、王府の若い役人の職名)が村に遊びに来た。村一番の美人ウサ小(グヮー)は許嫁のアフィ小がいたが里之子に恋する。アフィ小は、ウサ小を惑わせる里之子にうちかかる。許嫁がいた事情を知った里之子は去るが、ウサ小の思いは募るばかり。アフィ小を振り捨てて里之子のもとに走る。

      Photo_4     歌劇「中城情話」の一場面(『沖縄芝居とその周辺』から。花城勝子さん撮影)

 私的には、首里から来た里之子が村の娘と恋仲になり、村の許嫁を捨てていくというストーリーは、あまり好感が持てなかった。でも、自由な恋愛への願望という立場から見れば、違った見方ができる。

 かつての封建社会の沖縄では、親の決めた許嫁は絶対であり、他の村の者との結婚も通常はありえなかった。しかも、相手は身分の違う首里の士族とあれば、かなわない恋だった。しかし、そういうしがらみを振り捨てて、自分の意思を貫いて愛する人のもとへ走るというのは、それまでにない新しい女性像である。そこには、時代の進歩の反映があるのだろう。

大野氏は次のようにのべている。「『泊阿嘉』にしろ『奥山の牡丹』にしろ、これまでの歌劇の恋愛は、封建社会の桎梏にはばまれて実る事はありませんでした。純粋な愛がかなわないところに悲劇が生まれ、身につまされた女性観客の同情と涙がそそがれたのでした。ところが、『中城情話』は違います。里之子とウサ小の身分を越えた恋は一応実るのです。悲劇は二人の恋の行方にではなく、捨てられてアフィ小、許嫁の身の上に起こるのです。

⋯⋯ウサ小とアフィ小の関係は、封建時代の村落共同体のなかでつくられたものです。⋯⋯明治以前から引き続く共同体の桎梏から自由でありたい、恋愛の自由がほしいという女性の夢が、ウサ小に託されたのだと思えるのです」

     

       

2012年8月 5日 (日)

民衆に愛される沖縄歌劇、芝居に台本がなかった

芝居には台本がなかった!

 初期の歌劇は一幕、一曲の単純なものだった。まだ劇というよりは踊りに近い喜劇である。明治41年には回り舞台が出来て、一幕ではなく多幕物の上演が可能となり、琉球故事、伝説、歴史による長編の方言せりふ劇がふえた。
 明治40年、41年は、いずれも20前後だった方言せりふ劇の上演が、42年、43年には急増して年間それぞれ60をこえるなど、方言せりふ劇の全盛期を迎えた。

       058       狂言「大按司願い」が演じられた志多伯豊年祭

 現在の演劇の感覚からいえば、ちょっと想像できないが、沖縄芝居の場合、たいてい書かれた台本はなかった。「一座の座長や主だった役者がある筋をつくり、それぞれの役者が役と筋にそって、即興でせりふをしゃべり、演技していくというやりかた、つまり口立(クチダ)てでした」(大野氏著作)。

 「奥山の牡丹」の作者・伊良波尹吉(イラハインキチ)は、字が書けなかったと伝えられているけれどが、その尹吉がつくった歌劇は、なんと200編にも及ぶといわれている。

ただ、台本がないことが沖縄の演劇が進歩しない要因になっているという意見もある。演劇担当の新聞記者だった真栄田勝朗氏は、次のように書いている(『琉球芝居物語』)。

「(演劇が足踏みしている)大きな原因は内容の充実したよい脚本を採用しないで演出家の指導がなかったことである」「沖縄の芝居では組踊りを除いてまったく脚本なしで芝居をしてきたのだから、本当の意味の演劇はなかったといってもいい」

「戯曲と演劇は鳥の双翼、車の両輪のようなもので戯曲があってはじめて芝居ができるのである。しかし沖縄では戯曲も演出もなく、彼らの自作による芸題を怪しげな方法でやり通してきたのだから進歩する筈がない」

相当に手厳しい。ただし、台本がなく劇を演じるには、それはそれで役者としても苦労があった。

「俳優は、各段について作者もを兼ねるところがあった。うまく俚諺(リゲン、ことわざ)などを織込んで名せりふを作りあげるのが役者の工夫であった。したがって平素から役者は組踊りなどを勉強して、語彙を豊富にし、観客をうならせるせりふを考えるのに余念がなかったのである」(矢野氏著作)

           

2012年8月 4日 (土)

民衆に愛される沖縄歌劇、歌劇の誕生

沖縄歌劇の誕生

 ここで改めて、沖縄芝居(ウチナーシバイ)と歌劇との関係を整理しておきたい。大和的には、芝居と歌劇は別ジャンルとなる。でも、沖縄芝居は、歌劇が含まれる。つまり沖縄芝居は歌劇と方言せりふ劇に分類されるのである。

 沖縄歌劇は、歌とせりふ、舞踊、しぐさで組み立てられた歌舞劇である。庶民の風俗、人情を描いた作品が多く、悲恋物が人気をよんだ。

 

 方言せりふ劇は、沖縄方言に近いせりふで演じられ、本土の歌舞伎や新派の影響を受け、主に歴史や故事、伝説に題材をとった史劇が多い。せりふ劇でも、歌三線など音曲がつく。

 沖縄芝居を見るたびに、感心するのは、役者たちはたんに芝居を演じられるだけではだめ、歌い踊れないといけないということ。だから、役者たちは、演技だけでなく、歌と踊りの芸も磨く。

 いまでも、芝居の役者と歌三線の古典音楽、民謡の唄者を兼ねている人がかなれいる。

最初につくられた沖縄歌劇は、明治26年(1893)頃、上演された玉城盛政の「あば小(グワ)へい」(へい!娘さん)、「りんちゃあばあちい」(やきもちやきのかみさん)で、ついで渡嘉敷守儀(トカシキシュギ)の「茶売(チャウヤア)やあ」、「主ん妻(スントゥジ)」だといわれている。

 初期の歌劇は、「歌劇」とは銘打っていなかった。「踊り」と呼ばれていた。もっとも、王府時代の「組踊」も「踊り」の名がついているけれど、歌舞劇だから、組踊を古典歌劇、古典楽劇とでも呼ぶほうがふさわしいと思う。

 そんなことからも、初期の歌劇が「踊り」の範疇に入れられていたとしても不思議ではない。

094     首里城での「中秋の宴」で演じいられた組踊「花売りの縁」

「あば小へい」は、地謡が歌う踊りから、登場人物の歌唱による所作へ変化しただけの単純な作品だった。それだけに打組踊から歌劇への変化の道筋がよくわかるという。

 それにしても、沖縄の歌劇は、本土の歌劇に比べて時期的にはかなり早い。沖縄では、明治26年から33年までには歌劇が作られた。それに比べ、本土の創作歌劇の始まりは明治38年というから、沖縄より遅れてはじまっている。大野氏は「沖縄の歌劇は日本最初の創作歌劇だといえるでしょう」と位置付けている。

 考えてみると、沖縄で独自の歌劇が早く生まれたのは偶然ではない。琉球王国では長い組踊の伝統があったからだ。組踊は、ユネスコの無形文化遺産にも登録された世界に誇る総合芸能である。そんな組踊の伝統と技能が継承されてきた沖縄であればこそ、歌劇もいち早く創作されたのではないだろうか。

ただし、中国から国王任命のために派遣された冊封使(サッポウシ)を歓待するために創られた組踊は、演目のほとんどが、敵討ちや孝行といった忠孝物である。その土台には儒教道徳がある。恋愛物は、「手水の縁」などごく一部しかなかった。

忠孝物ばかりでは、民衆を満足させることはできない。恋愛物をはじめとする大衆的な芝居、歌劇は、民衆から歓迎されたのだろう。

このあと紹介するが、「泊阿嘉(トゥマイアカ)」や「薬師堂」といった恋愛をテーマとした歌劇が生まれて、人気を集める。

「『泊阿嘉』や『薬師堂』の世界はいわば組踊りの『手水の縁』の世界をひくものである」、「手水の縁」で繰り広げられた「恋愛至上主義的な考え方はロマンの世界を美しく構築する」ものとなった。「かけ歌の世界が踊りと結びつき、さらに組踊りによって劇的構成が付与されることによって、今日の歌劇作品が生まれている」と矢野氏は指摘している。
 しかも「歌劇の場合は、民謡を基盤とすることにより、組踊りよりもさらに親しみやすいものとなり、大衆の中に根を下ろした。そこでは組踊りのもつせりふと音楽の一体性が、古典音楽と民謡にのせたせりふの一体性におきかえられ、より庶民性を増し土着性を強めつつ民衆の中へ入って行った」と矢野氏はのべている。

組踊を「王府の歌舞劇」とすれば、歌劇は「庶民の歌舞劇」と言えるのではないだろうか。

081         「中秋の宴」の組踊で演奏する地謡の方たち

2012年8月 3日 (金)

民衆に愛される沖縄歌劇、沖縄芝居の始まり

民衆に愛される沖縄歌劇

沖縄民謡を歌っていると、なんか由来のありそうな民謡が多い。なかでも沖縄芝居、とくに歌劇で使われた曲がけっこう多い。たとえば「西武門節(ニシンジョウブシ)」「白浜節」「中城情話」などその一例である。男女の掛け合いの恋歌である。
 最近、大野道雄著『沖縄芝居とその周辺』を読んだ。とくに、沖縄歌劇をめぐる興味深い話が書かれていてとても参考になった。大野氏は名古屋生まれで、中部日本放送でドラマ制作などしていた人である。1960~61年に沖縄で琉球歌劇を見て驚き、沖縄通いをはじめ、退社後4年間、病気で倒れるまで沖縄に住んで研究したという。 

 明治26年から昭和20年まで、新聞から芸能関係の記事を抜き出し資料集成をつくりあげ、書いたとのこと。

せっかくなので沖縄歌劇に関心のある人のために、大野氏の著作と矢野輝雄著『沖縄芸能史話』、真栄田勝朗著『琉球芝居物語』、大城學著『沖縄芸能史概論』を参考にして、沖縄歌劇のあゆみというか、興味を引く出来事を紹介してみたい。

   037

         

      首里城御庭で芸能が演じられた「中秋の宴」

     

沖縄芝居の始まり

沖縄での商業演劇として、沖縄芝居はいつ始まったのだろうか。そこには前史がある。それは琉球王朝時代、王府には古典舞踊と歌三線、台詞、踊りの総合芸能である組踊(クミウドゥイ)があった。庶民の間でも、村祭りなど芸能があった。王府で古典芸能にたずさわっていた士族は、明治12年(1879)の沖縄の廃藩置県=琉球処分によって禄を失った。

「廃藩当時の家禄を失った士族の家では、家を継ぐ長男はともかく、二男三男の部屋住み連中は、新しい時代の役人になるには新知識がなく、といっても手足を動かす労働者や職人にも身を落としたくないし、思い悩んだ揚句、袂(タモト)を連ねて役者稼業に身を投ずる者が多かった」(真栄田勝朗著『琉球芝居物語』)。

芸能に従事していた役者たちが、「首里から商業の街・那覇に移り、遊郭近くに劇場を設け、商業劇場をはじめた。近代の沖縄芝居の創始である」(大城氏著作)。

明治中期以後の役者は、その8、9割が首里、那覇出身の士族で占めていたという。

明治15,6年になると、那覇に客席の周囲を菰(コモ)で囲っただけの、カマジー小屋がつくられ、芝居が演じられ「カマジー芝居」と呼ばれた。

明治22年(1889)には、那覇の仲毛(ナカモー)埋立地にはじめての木造建築、屋根のある芝居小屋、仲毛演芸場ができた。

この演芸場を建てたのは、王府で最後の冠船踊り奉行(中国の冊封使を歓待する芸能を担当する役職)を務めた小禄御殿(ウルクウドゥン)で、彼は沖縄の伝統芸能の組踊や舞踊が亡びてしまうのを憂慮して建てた。「私財をなげうって建物を作り、冠船の生き残りの役者たちを集め、あるいは衣装なども貸し与えて古典芸能の再興に打ちこんだ」そうである(矢野氏著作)。

翌23年には那覇市辻の端道に本演芸場、25年に同じ端道に2階建ての新演芸場、26年には首里演芸場と本格的な芝居小屋が次々と誕生したという。

026

           「中秋の宴」で踊られた古典舞踊「老人踊」

 「古典舞踊や組踊はこれまで宮廷のなかだけで演じられ、庶民の目にふれる機会はほとんどありませんでしたから、はじめは面白がられたのですが、次第にあきられ、新しいものが求められるようになりました。そして出来たのが、狂言(チョーギン)といわれた短い喜劇や庶民風俗や民謡をとりいれた雑踊り(ゾウオドリ)なのです。沖縄民謡には掛け合い歌がたくさんあります。この男女掛け合い歌を基礎に、歌詞に忠実に振り付けたものが打組踊(ウチクミオドリ)で、越来節、川平節、金細工(カンゼークゥ)などがそれにあたります」(大野氏著作)

 仲毛時代の狂言で、その名が残っているものに「親んまあ」(ウヤンマー)がある。これは、首里から八重山に派遣された役人が島の女性を現地妻(ウヤンマー)とし、子どもももうけながら、任期があけて島を去る悲恋を描いた作品だ。この作品は、組踊ではきわめて少ない男女の恋愛物であり、せりふは俗語となり、大部分は歌でつづられ、民謡の与那国ションカネー節なども使われていた。もうその後誕生する歌劇に近い感じだ。

「親んまあ狂言も古典の組踊りと新しく生まれて来る新派劇や史劇、あるいは歌劇とを結ぶ一つの橋がかりだったといえよう」と矢野氏は評している。

 古典舞踊ばかりではなく、庶民的な踊り「雑踊り」が生まれた。それまでの踊りのどの分類にも入らないから雑踊りと呼ばれた。庶民の日常の風俗をそのまま写し、曲も古典ではなく民謡を取り入れている。矢野氏は「一種の風俗舞踊」と見る。同時に「雑踊りこそ大衆の生んだ舞踊であり、しかも今日なお準古典として高い評価を得ている庶民芸能の華である」と指摘する。

 そして宮廷芸能人たちが王府から市井の舞台に飛び込んでいき、「狂言や雑踊りといった形式のなかに民衆的なエネルギーをくみあげていった」のである。

 男女掛け合い歌を基礎に、歌の歌詞に忠実に男女が絡み合うように振り付けた打組踊りは、まだ歌うのは、あくまで踊り手ではなく地謡だった。これが踊る人たちが自分で歌えばもう歌劇に近づく。

「掛け歌から打組み舞踊へ、そして役者自らが歌うという、観客の嗜好に投ずるところから歌劇は生まれたといってよい。それだからこそ沖縄の商業演劇の歴史の中で、歌劇は常に中心的演目であった」と矢野氏はのべている。

       

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