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2012年8月30日 (木)

歌碑のある風景、鍛冶屋跡に建つ「かぎやで風節」歌碑

鍛冶屋跡に建つ「かぎやで風節」歌碑

沖縄でお祝いの席で必ず演奏される曲に「かぎやで風節」がある。「かじゃでぃふう」と読む。もっとも演奏される機会が多い曲かもしれない。祝いの場の種類によって、正月用とか、結婚式、新築などそれぞれに歌詞があるという。
 「かぎやで風」の歌碑が国頭村奥間にあるというので、訪ねた。たまたま奥間のリゾートホテルに泊りに行ったので、ぜひとも見ておきたいと思った。歌碑は、奥間東鍛冶屋(アガリカンジャヤー)跡にあるというが、その場所が分からない。

045
 それであらかじめ、村役場で場所を訪ねると、「説明がややこしいので、奥間共同売店に行って聞けば分かります」とのこと。さっそく共同売店に直行した。
 ちなみに、かつては本島でも僻地にあたる国頭村は、住民が生活物資を手に入れるため共同で売店を営業してきた。各地で今も営業を続け、生活を支えている。店のおじさんに聞くと、喜んで教えてくれた。途中に拝所があり、カー(井戸)もあった。「金万川」と刻まれている。水はもう枯れていた。
 拝所には、塩がうず高く積まれていた。各地の拝所を見るが、これほど塩を積むのは珍しい。前置きが長い。いよいよ歌碑が見えてきた。

048 「人の屋敷の中にあるんですよ。たまに帰ってくるんですが」と店長さんは言っていた。
「あた果報のつきやす 夢やちやぅも見だぬ かぎやで風のつくり べたとつきやす」と刻まれていた。
 歌意は「大きな果報が得られようとは、夢にも見ないことであった。鍛冶屋でいろいろな物を作ってきたから、そのおかげで果報が身にぴったりとついた」である。
 実は、この琉歌はいま歌われている「かぎやで風」の歌詞とはまったく異なる。

049  歌碑に刻まれた琉歌が、原歌だという。そこには古いいわれがある。琉球王国で、琉球を統一した尚巴志の王統を倒しで第二尚氏の王統を開いた尚円王が、まだ金丸を名乗り、出身地の伊是名島を追われて本島に渡ってきて、不遇だった時、この奥間の裏山にあるインツキ屋取(ヤドゥイ)にかくまわれてた。
 金丸は国王に就くと、旧恩を忘れず、世話になった奥間鍛冶屋の次男正胤を国頭按司(アジ)に取り立てた。その時、正胤が喜びのあまりに即興で詠んだと伝えられる。
 現在歌われている歌詞は次の琉歌である。
「けふのほこらしゃや なをにぎやなたてる つぼでをるはなの つゆきやたごと」。意味は「今日のうれしさは何に例えようか つぼんでいる花が露にあたったようだ」
 まるっきり別の琉歌になっている。「かぎやで風節」は、国の繁栄、五穀豊穣、子孫繁栄、航海の安全、公事公務の遂行、慶事など祝意を表す時に歌われることが多いと、

この歌碑でものべている。
 建立者の名前に、奥間鍛冶屋子孫・座安家(屋号 東り) 建立参加・宮里繁・東嵩純と記されている。

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 国頭村奥間の「かぎやで風節」の歌碑のすぐ隣に、「奥間鍛冶屋発祥の地」の碑がある。奥間鍛冶屋はこの曲の由来の地であることは知っていたが、沖縄の鍛冶屋の祖であることは、この碑を見るまで知らなかった。
 国頭・奥間の地で生誕した奥間大親という人が、のちに奥間から浦添間切(マギリ、今の町村にあたる)謝名村に居住した。そこで生んだ子どもが、なんと長男はのちに浦添按司(アジ)で中山王となる察度(サット、1321-1395年)、次男は泰期(タイキ)・金満按司である。
 琉球が北山、中山、南山に分かれていた三山時代に、察度は1350年に浦添が王城だった中山王となると、異母弟である泰期を使者として、明国に派遣し、明皇帝から琉球の中山王として任命を受ける冊封を受けた。
 1372-1382年の間に5回、泰期を進貢に派遣して、明との通交を始めた。「明との交流は、その後の琉球の政治、経済、文化の発展に多大な影響を与えている」と碑文は記している。泰期はなぜか読谷村では同村宇座の出身だとして、商売の神様のように扱われ、

残波岬に銅像も建っている。
 この碑では、泰期は「金満按司」と記されている。「金満(カニマン)」とは鍛冶屋のことを指す。碑文から紹介する。泰期・金満按司は、明から当時貴重な品である陶器や鉄製品を持ち帰り、その製作・修理の知識・技術を身につけ、後に奥間に下って、鍛冶屋を始めたとされている。
 奥間は、山林が間近で水・炭が豊富にあり、近くに鉄材料の仕入れや製品の積み出しに好条件な港があったこと、父である奥間大親の生誕地であることが奥間の地を選んだ理由と思われるとのことだ。
 金満按司が始めた鍛冶屋によって、琉球各地に鉄製の農具や生活用品が普及

し、農耕・生活向上に大きな役割を果たしたと伝えられる。「この泰期・金満按司が奥間の鍛冶屋の始祖である」と記されている。
 金丸を助けた奥間鍛冶屋の子孫に当たるという意外な人がいた。それは、米軍普天間飛行場の辺野古移設に反対してがんばっている名護平和委員会会長の大西照雄さんである。国頭村の出身という大西さんは、ご自分のブログで、金丸=尚円王を助けた鍛冶屋の子孫だとのべている。

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 鍛冶屋の碑のさらに奥に、古い拝所がある(上)。なんだろうか?なかには、「かぎやで風節」の原歌の歌詞が掲げられていた。
 
 歌碑と同じ内容の歌詞である。これはやはり、金丸を助け、「かぎやで風」の原歌を詠んだ奥間鍛冶屋を祀り、御願(ウグヮン)の対象としたものだろう。

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 琉歌の掛け軸に両側には、昔の鍛冶屋の様子が描かれた絵画(上)が置かれている。
 鉄製の農具を製作する鍛冶屋は、住民からもとっても尊敬されたそうだ。だから、「金満御嶽」(カニマンウタキ)という鍛冶屋を祈願の対象とする拝所が、県内各地にある。
 奥間鍛冶屋は、沖縄の鍛冶屋の祖であり、金丸・尚円王を助けたわけだから、二重、三重に崇められる対象になったのではないだろうか。

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