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2012年8月 6日 (月)

民衆に愛される沖縄歌劇、人気集めた三大歌劇

人気を集めた三大歌劇の世界 

初期にはまだ「踊り」といわれていた沖縄歌劇が、明治の後期には「歌劇」という言葉が使われるようになる。だがしばらくは「歌劇」と「踊り」の両方が使われる混在時代が続いた。「歌劇」という呼び方が定着したのは、大正3年(1914)ごろからだという。

歌劇が発展してくる中で、空前の大当りとなる名作歌劇が生まれる。明治43年(1910)に初演された「泊阿嘉(トゥマイアカ)」である。女性に圧倒的な人気を集めた。この「泊阿嘉」とその後の「奥山の牡丹」「伊江島ハンドー小(グヮ)」を合わせて、沖縄の三大歌劇と呼ばれた。これに「薬師堂」を加えて四大歌劇ともいう。

    Photo   歌劇「薬師堂」の一場面(『沖縄芝居とその周辺』から。花城勝子さん撮影)

       

その「泊阿嘉」は、阿嘉家の嫡男、樽金(タルガ二)が旧暦3月3日の「浜下り(ハマウリ)」(女の浜遊び)の日に、思鶴(ウミチル)を見掛けて一目ぼれするが、樽金は伊平屋島に出される。帰ってみると彼女は病気で死に、樽金もその後を追う。そんな悲劇である。

歌劇「泊阿嘉」には、民謡、古典合わせて16曲が使われている。歌劇で使われる曲は、既存の曲を使い、その旋律に新しく歌詞をのせて歌う、つまり替え歌で歌うというやり方である。喜びや悲しい場面など、それぞれの場面にふさわしい曲が演奏される。歌三線がはいることによって、通常の台詞だけの芝居以上に、ドラマを盛り上げる。

大正3年(1914年)に初演され、人気を集めた歌劇が、伊良波尹吉(イラハインキチ)の「奥山の牡丹」である。

「奥山の牡丹」は、士族の息子・三郎と身分の低い家庭の娘チラーの悲恋物語である。子どもを生みながら三郎の立身出世のため身を引くチラー。その20年後、母を尋ねてきた息子の山戸に対して、またも立身出世の妨げになるとチラーは身を投げる。女性の自己犠牲の姿が際立つ内容である。

「奥山の牡丹」には、18曲が使われており、古典曲が多くなっている。

こうした歌劇がなぜ人気を集めたのか。池宮正治氏は、次のように指摘している。
「封建的な身分制がとり払われたはずの明治=近代は、⋯⋯女は夫や子供、あるいは夫の家族のために、まさに自己犠牲的に生きることを、社会通念上要求されていたのだ⋯⋯歌劇の女性たちの運命は他人事とは思えなかったはずである。⋯⋯『泊阿嘉』や『奥山の牡丹』を見て、熱狂的に自らの運命に泣いたのである。この意味で私は、明治社会から疎外された女性の悲哀が、歌劇を生み出したのだと考えている」(「『泊阿嘉』評判記」、大野氏著作から)。

 同じ悲恋物でありながら、前の2作とは異なる女性像が登場する歌劇が「伊江島ハンドー小」である。最初は、方言せりふ劇だったが、大正13年(1924)に歌劇として初演された。

この歌劇は、伊江島の青年加那が国頭村辺土名(ヘントナ)で難破して助けられ、そこでハンドー小と深い仲になるが、島に妻がいる加那は伊江島に帰る。加那に思いを寄せるハンドー小は、船頭主に頼み島に渡るが、加那は心変わりをしていた。絶望した彼女は城山に登り自分の黒髪で首をくくる。その後、加那は病に臥し、亡霊が現れ、実家の島村屋は家族全員が死んで、島村屋は滅びる。

      

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             歌劇の舞台となった伊江島

古典、民謡のべ23曲が使われていて、歌劇のなかでも曲数の多い芝居の一つである。「明治43年には、『泊阿嘉』の運命に従うだけの悲恋に涙し、大正3年には『奥山の牡丹』のあくなき自己犠牲を貫く姿に同情の涙を流した女性客は、大正13年の『伊江島ハンドー小』に至って勧善懲悪劇ながら不実と無情に自ら断罪を下す主体的な女性の側に立って拍手と喝采を送ったのです。そこに歌劇が生みだした新しい女性像とともに、歌劇を支えた女性観客の意識の変化をも見ることが出来ましょう」。

大野氏は、観客の女性の意識の変容をこのように分析している。

「恋愛の自由」への夢託す歌劇

 昭和9年(1934)ころ初演された親泊興照作の歌劇に「中城情話」がある。これまでの歌劇から、さらに一歩踏み出した女性像が見える。

 この歌劇は、首里から里之子(サトヌシ、王府の若い役人の職名)が村に遊びに来た。村一番の美人ウサ小(グヮー)は許嫁のアフィ小がいたが里之子に恋する。アフィ小は、ウサ小を惑わせる里之子にうちかかる。許嫁がいた事情を知った里之子は去るが、ウサ小の思いは募るばかり。アフィ小を振り捨てて里之子のもとに走る。

      Photo_4     歌劇「中城情話」の一場面(『沖縄芝居とその周辺』から。花城勝子さん撮影)

 私的には、首里から来た里之子が村の娘と恋仲になり、村の許嫁を捨てていくというストーリーは、あまり好感が持てなかった。でも、自由な恋愛への願望という立場から見れば、違った見方ができる。

 かつての封建社会の沖縄では、親の決めた許嫁は絶対であり、他の村の者との結婚も通常はありえなかった。しかも、相手は身分の違う首里の士族とあれば、かなわない恋だった。しかし、そういうしがらみを振り捨てて、自分の意思を貫いて愛する人のもとへ走るというのは、それまでにない新しい女性像である。そこには、時代の進歩の反映があるのだろう。

大野氏は次のようにのべている。「『泊阿嘉』にしろ『奥山の牡丹』にしろ、これまでの歌劇の恋愛は、封建社会の桎梏にはばまれて実る事はありませんでした。純粋な愛がかなわないところに悲劇が生まれ、身につまされた女性観客の同情と涙がそそがれたのでした。ところが、『中城情話』は違います。里之子とウサ小の身分を越えた恋は一応実るのです。悲劇は二人の恋の行方にではなく、捨てられてアフィ小、許嫁の身の上に起こるのです。

⋯⋯ウサ小とアフィ小の関係は、封建時代の村落共同体のなかでつくられたものです。⋯⋯明治以前から引き続く共同体の桎梏から自由でありたい、恋愛の自由がほしいという女性の夢が、ウサ小に託されたのだと思えるのです」

     

       

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