「艦砲ぬ⋯⋯」作者、比嘉恒敏さんの無念
反戦島唄の傑作「艦砲ぬ喰ぇー残さー」の作者、比嘉恒敏さんが、米兵の飲酒運転による交通事故で亡くなったことは、すでにブログに書いた。
2012年8月17日付け「琉球新報」の「島唄を歩く」(小浜司氏著)の「でいご娘」の巻で、事故の模様が詳しく書かれているので、紹介しておきたい。
沖縄の日本復帰の翌年、1973年10月10日夜10時頃、結婚式の余興に出演した後、車2台に乗って帰る途中、宜野湾市大山の国道58号線路上で二重衝突事故があり、比嘉さんの車1台が巻き込まれた。原因は米兵の飲酒運転だった。この事故で、比嘉家は母・シゲさん(49)が即死、父・恒敏さん(56)は4日後に亡くなった。米兵も一人死亡した。
5人が重軽傷を負ったが、娘の綾子さんは、気を失って気がついたら病院だった。千津子さんは、病院から帰されたけど、具合が悪くて別の病院に行ったら頭蓋骨にひびがはいっていた。いとこも重傷だった。
当時現場を取材した写真家の国吉和夫さんは「40年間新聞の写真を撮っていて、あの事故ほど凄まじいものは見たことがない」というほどの事故だったそうである。
この事故がきっかけになって、58号線に中央分離帯ができたという。
恒敏さんは、読谷村楚辺に生れ、1939年に23歳で大阪に出て、妻と次男を呼び寄せた。1944年、両親と長男を呼んだが、乗船したのが対馬丸で、米軍に撃沈され亡くなった。妻と次男は大阪の空襲で亡くなった。
戦後、読谷村に帰郷し再婚して、子どもたちを育て、「でいご娘」として活動していた。戦争で、両親、妻、長男、次男を失い、生き残った自分も、今度は夫婦ともに米兵の飲酒運転による犠牲になった。沖縄県民の不幸を集中して体現したような人生である。
不慮の事故で両親がなくなり、娘さん4人でつくる「でいご娘」は一時、芸能活動を休止していた。でも、お父さんが残した1曲だけでもレコードにしたいとの思いが募り、4人は普久原音楽事務所を訪ねた。「芭蕉布」の作曲家、普久原恒勇さんのところで録音する時に、普久原さんは「これはすごい歌だよ」と言われたそうだ。
75年6月に「艦砲ぬ⋯⋯」をプレスし、たちまちヒットしたという。
この曲を練習するたびに、その無念さや「艦砲ぬ」に込めた思いが胸をうつ。この曲の歌碑建立の事業が進められている。将来にわたって歌い継いでいくべき名曲である。
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