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2012年8月10日 (金)

民衆に愛される沖縄歌劇、お望み次第で上演とは

お望み次第の劇上演とは

芝居では、珊瑚座と真楽座が競い合い、活発な活動を続けていた。驚くのは、芝居の演目を、観客のリクエストに応えて上演するという興行をしていたことである。演歌など歌手がリクエストに応えて歌うのならわかるが、芝居までそんな器用なことができるとは、さすが沖縄芝居である。

大野氏によれば、昭和15年(1941)4月11日付の「沖縄日報」に、珊瑚座の旧3月興行の広告が出ている。「お望み次第どの劇でも上演 お待ち兼ねの三月超特別昼夜二回興行」。
 この広告に出ている演目は全部で184ある。それを「お望み次第どの劇でも上演」するという。同じ日の新聞に真楽座の旧三月興行の広告が出ていて、こちらは89項目ある。やはり「左記名番組の中からお申込みのお芝居を毎夜取替上演」となっている。当時の劇団は、これだけの演目をいつでも上演出来るように、役者たちは日頃、精進して準備していたというだろうか。

珊瑚座の184項目の内訳は、歌劇が86、時代劇が56、舞踊劇25、現代劇11、喜劇6となっている。この時期でも歌劇が圧倒的に多く、芝居の主流を占めていたことがわかる。

聞くところによると、沖縄芝居では、入った観客の反応を見て、座長が急きょ予定の演目を変えて、上演することもあった。役者の方も、演目の変更にもいつでも対応できるようにしておかなければならない。それくらい出来なければ、一人前の役者といえないだろう。なかなか大変な苦労である。

まあ、「お望み次第」でリクエストに応えて上演することもやっていたのなら、演目の変更など朝飯前なのだろう。台本を書かないで芝居を演じるというやり方をしていたことが、逆にこういう臨機応変な上演を可能にしたのかもしれない。

戦争で消された歌劇

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      首里城も沖縄戦で第32軍司令部が置かれ、廃墟と化した

昭和16年(1941)12月には、日本軍の真珠湾攻撃で太平洋戦争に突入した。戦争中の芝居事情はどうだったのか。

その翌17年1月には、真楽座から出された再興行願いに対して、那覇署は「演劇は全て標準語を使用すること、歌劇は全廃すること、但し標準語演劇は1日1題以上上演すればよい」という条件をつけて許可したと大阪朝日沖縄版が伝えている。

やはり、歌劇は全廃とされている。日本が、侵略の戦争にひた走り軍事一色に染め上げられるなかでは、歌劇の灯も消されたのだ。沖縄芝居、歌劇も平和であってこそ楽しめるのだ。

 県民の4人に1人が犠牲になった沖縄戦。その後は、米軍による占領統治という異民族支配のもとで、県民は苦難の道を歩んだ。

 終戦の直後、沖縄芝居、歌劇がどのように演じられのか。沖縄戦で打ちひしがれた県民の心の癒し、楽しみとなったのかについては、すでにブログに「戦後沖縄芝居事情」としてアップしているのでそちらをみてほしい。 

 「民衆の愛される沖縄歌劇」と題したが、オリジナルの研究はまったくない。大野道雄氏、矢野輝雄氏、真栄田勝朗氏、大城學氏の著作から、勝手につまみ食いさせていただいた。ご容赦願いたい。

        2012年8月10日    文責・沢村昭洋         

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