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2012年8月29日 (水)

歌碑のある風景、比謝橋を恨む吉屋チルー

比謝橋を恨む吉屋チルー

恩納村に行く途中、琉球王府の時代、2大女流歌人といわれた吉屋チルーの琉歌を刻んだ歌碑に立ち寄った。
 歌碑は、嘉手納町と読谷村の境を流れる比謝川(ヒジャガワ)に架かる比謝橋のたもとにある。国道58号線沿いにある。
 比謝川はいつ見ても美しい川だ。歌碑は、嘉手納側にあると思い込んでいたら、読谷村側にあった。


「恨む比謝橋や 情けないぬ人の わぬ渡さともて かけておきやら」
(恨めしい比謝橋は、情けのない人が、私を渡そうと思って掛けたのでしょうか)
 吉屋チルーは、1650年生れ1668年没というから、18歳で亡くなった薄幸の歌人である。家が貧窮して、8歳で那覇の仲島の遊郭に身売りされたと伝えられる。吉屋(ヨシヤ)は、姓ではない。売られた遊郭の名前だという。読谷山(ユンタンザ)の生れで、身売りされた時、この比謝橋を渡り、那覇に向かったので、自分の不幸を比謝橋に重ねて、詠んだ琉歌だといわれる。010

 まだ幼い少女が、親に売られて見知らぬ土地の遊郭に行かなければならない。この川は、沖縄本島の中部では、最も大きい川であり大きい橋である。その橋を渡ることは、もう元の親のいる土地と暮らしには帰れない。遊女に身を落とす分岐点のような心情だったのだろう。
 チルーが詠んだと思われる琉歌は、20首余りあるが、「その作品はほとんど叙情的である」という。この歌碑は、2005年に、読谷村文化協会が建立したとのこと。読谷村は、チルは読谷の出身と誇りにしている。ただ、旧読谷山間切(マギリ、いまの町村)の山田の生まれだと伝えられる。これが本当なら、山田はその後、読谷山間切から切り離され、恩納間切に属したので、現在山田は恩納村である。でも、「琉歌の里」を売り物にする恩納村は、恩納ナビーを誇りにするけれど、吉屋チルにはまったくふれない。不思議なことである。薄幸の歌人なので、読谷村で顕彰されることは嬉しいことである。 009


 チルーの歌碑は、嘉手納側にも一つある。歌碑というより、旧比謝橋模型碑だった。その中に琉歌が刻まれた部分だけ残っている。
 ただ同じチルーの琉歌を刻んでも、二つの碑には少し内容に違いがある。
「恨む比謝橋や」までは同じ。問題はその後である。嘉手納側の碑は「情けない人の」とある。でも読谷側の碑は「情けないぬ人の」となっている。
 「情けない人」では、大和口(共通語)のようになる。「情けないぬ人」と言う場合、「ぬ」の発音を「ん」に近く発音すれば、なめらかな琉歌の表現になり、字余りの感じもしない。だから、読谷の歌碑が正確なのだろう。ただ、民謡の「吉屋物語」の工工四(楽譜)で引用されている琉歌は「情けねん人ぬ」と書かれている。
  戦前の比謝橋の様子を写した写真が、比謝橋碑文の案内板に掲示されていた。 いまの比謝橋からは想像できない様変わりである(下)。

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 比謝橋は、昔は木造の橋だった。1717年に初めて石橋に改築したときの記念碑が、「比謝橋碑文」だ。碑の表面には石橋の由来など刻まれているが、もうほとんど読めない。嘉手納町公民館の方が紹介した文章があったので、そこから要約する。
 木橋だったが、木を食う虫や暴風雨のため、たびたび破損した。そのため人民は橋梁工事にかり出され、多大な供出に悩まされた。1667年、1689年に改修したが、危なくて渡りにくい。王府は二座(二つのアーチ)の石橋に改築することにした。

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 碑文左には、これを担当した官役(役人)と費用などが記されている。
 比謝橋の架かるところは、河口から少し入っているが、船がこのあたりまで入れたようで、昔は橋の付近は天然の良港となっていて、スラ場と呼ばれる唐船作事(造船)所もあったという。

「天川」の歌碑

 琉歌の歌人、吉屋チルーの歌碑を見るため、嘉手納町公民館の駐車場に車を止めた。駐車場の一角は、いろんな碑が立つ場所だった。チルーの歌碑を探していたのに、そこには思いかけず「天川」の歌碑があった。「天川」は琉球古典音楽の名曲として知られている。002
 「天川の池に 遊ぶおしどりの おもいばのちぎり よそや知らぬ」
(天川の池で、遊ぶおしどりのように、二人で交わした深い契りを、他の人は誰も知らない)
 この琉歌は、三線音楽の始祖とされている赤犬子(アカインコ)の作だと伝えられている。赤犬子は、読谷村の出身で、「赤」とは読谷の「阿嘉」の地名から来ているそうだ。琉球の古謡のオモロや初期の琉歌の作者として名前が伝わっている。碑の台座に、天川についての説明がある。比謝橋がすぐそばにある。
 説明によると、比謝橋を渡り、那覇へ向かって真っすぐに行くと、戦前まで石を敷き詰めた幅一間ほどの坂道があり、俗に天川坂(アマカワビラ)と言った。その登り口の東側、カシタ山のふもとの、ンブガーの西隣に、直径二尺くらいの円筒形に積み上げられた井戸があり、天川(天井戸=アマカー)と言われた。

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 このあたりは、樹木がうっそうと繁茂し、その側を流れる比謝川で遊浴する雌、雄のおしどりを見て、比謝橋と天川井戸を結びつけて、約450年前、赤犬子が上記の歌を詠まれたものと思われる。
 この歌碑は、1996年に建立されている。赤犬子が詠んだのは465年ほど前ということになる。
  橋のたもとに天川と表示されたカー(井戸)があった。円形に石を積み上げた見事なカーである。いまは橋と同じ高さになっているが、昔の橋はもっと低い位置にあり、橋から天川坂を登ったところに天川があったのだろう。石敷の急勾配の天川坂は、取り除かれて国道58号線になったそうである。

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