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2012年8月 3日 (金)

民衆に愛される沖縄歌劇、沖縄芝居の始まり

民衆に愛される沖縄歌劇

沖縄民謡を歌っていると、なんか由来のありそうな民謡が多い。なかでも沖縄芝居、とくに歌劇で使われた曲がけっこう多い。たとえば「西武門節(ニシンジョウブシ)」「白浜節」「中城情話」などその一例である。男女の掛け合いの恋歌である。
 最近、大野道雄著『沖縄芝居とその周辺』を読んだ。とくに、沖縄歌劇をめぐる興味深い話が書かれていてとても参考になった。大野氏は名古屋生まれで、中部日本放送でドラマ制作などしていた人である。1960~61年に沖縄で琉球歌劇を見て驚き、沖縄通いをはじめ、退社後4年間、病気で倒れるまで沖縄に住んで研究したという。 

 明治26年から昭和20年まで、新聞から芸能関係の記事を抜き出し資料集成をつくりあげ、書いたとのこと。

せっかくなので沖縄歌劇に関心のある人のために、大野氏の著作と矢野輝雄著『沖縄芸能史話』、真栄田勝朗著『琉球芝居物語』、大城學著『沖縄芸能史概論』を参考にして、沖縄歌劇のあゆみというか、興味を引く出来事を紹介してみたい。

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      首里城御庭で芸能が演じられた「中秋の宴」

     

沖縄芝居の始まり

沖縄での商業演劇として、沖縄芝居はいつ始まったのだろうか。そこには前史がある。それは琉球王朝時代、王府には古典舞踊と歌三線、台詞、踊りの総合芸能である組踊(クミウドゥイ)があった。庶民の間でも、村祭りなど芸能があった。王府で古典芸能にたずさわっていた士族は、明治12年(1879)の沖縄の廃藩置県=琉球処分によって禄を失った。

「廃藩当時の家禄を失った士族の家では、家を継ぐ長男はともかく、二男三男の部屋住み連中は、新しい時代の役人になるには新知識がなく、といっても手足を動かす労働者や職人にも身を落としたくないし、思い悩んだ揚句、袂(タモト)を連ねて役者稼業に身を投ずる者が多かった」(真栄田勝朗著『琉球芝居物語』)。

芸能に従事していた役者たちが、「首里から商業の街・那覇に移り、遊郭近くに劇場を設け、商業劇場をはじめた。近代の沖縄芝居の創始である」(大城氏著作)。

明治中期以後の役者は、その8、9割が首里、那覇出身の士族で占めていたという。

明治15,6年になると、那覇に客席の周囲を菰(コモ)で囲っただけの、カマジー小屋がつくられ、芝居が演じられ「カマジー芝居」と呼ばれた。

明治22年(1889)には、那覇の仲毛(ナカモー)埋立地にはじめての木造建築、屋根のある芝居小屋、仲毛演芸場ができた。

この演芸場を建てたのは、王府で最後の冠船踊り奉行(中国の冊封使を歓待する芸能を担当する役職)を務めた小禄御殿(ウルクウドゥン)で、彼は沖縄の伝統芸能の組踊や舞踊が亡びてしまうのを憂慮して建てた。「私財をなげうって建物を作り、冠船の生き残りの役者たちを集め、あるいは衣装なども貸し与えて古典芸能の再興に打ちこんだ」そうである(矢野氏著作)。

翌23年には那覇市辻の端道に本演芸場、25年に同じ端道に2階建ての新演芸場、26年には首里演芸場と本格的な芝居小屋が次々と誕生したという。

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           「中秋の宴」で踊られた古典舞踊「老人踊」

 「古典舞踊や組踊はこれまで宮廷のなかだけで演じられ、庶民の目にふれる機会はほとんどありませんでしたから、はじめは面白がられたのですが、次第にあきられ、新しいものが求められるようになりました。そして出来たのが、狂言(チョーギン)といわれた短い喜劇や庶民風俗や民謡をとりいれた雑踊り(ゾウオドリ)なのです。沖縄民謡には掛け合い歌がたくさんあります。この男女掛け合い歌を基礎に、歌詞に忠実に振り付けたものが打組踊(ウチクミオドリ)で、越来節、川平節、金細工(カンゼークゥ)などがそれにあたります」(大野氏著作)

 仲毛時代の狂言で、その名が残っているものに「親んまあ」(ウヤンマー)がある。これは、首里から八重山に派遣された役人が島の女性を現地妻(ウヤンマー)とし、子どもももうけながら、任期があけて島を去る悲恋を描いた作品だ。この作品は、組踊ではきわめて少ない男女の恋愛物であり、せりふは俗語となり、大部分は歌でつづられ、民謡の与那国ションカネー節なども使われていた。もうその後誕生する歌劇に近い感じだ。

「親んまあ狂言も古典の組踊りと新しく生まれて来る新派劇や史劇、あるいは歌劇とを結ぶ一つの橋がかりだったといえよう」と矢野氏は評している。

 古典舞踊ばかりではなく、庶民的な踊り「雑踊り」が生まれた。それまでの踊りのどの分類にも入らないから雑踊りと呼ばれた。庶民の日常の風俗をそのまま写し、曲も古典ではなく民謡を取り入れている。矢野氏は「一種の風俗舞踊」と見る。同時に「雑踊りこそ大衆の生んだ舞踊であり、しかも今日なお準古典として高い評価を得ている庶民芸能の華である」と指摘する。

 そして宮廷芸能人たちが王府から市井の舞台に飛び込んでいき、「狂言や雑踊りといった形式のなかに民衆的なエネルギーをくみあげていった」のである。

 男女掛け合い歌を基礎に、歌の歌詞に忠実に男女が絡み合うように振り付けた打組踊りは、まだ歌うのは、あくまで踊り手ではなく地謡だった。これが踊る人たちが自分で歌えばもう歌劇に近づく。

「掛け歌から打組み舞踊へ、そして役者自らが歌うという、観客の嗜好に投ずるところから歌劇は生まれたといってよい。それだからこそ沖縄の商業演劇の歴史の中で、歌劇は常に中心的演目であった」と矢野氏はのべている。

       

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