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2012年8月28日 (火)

歌碑のある風景、「琉歌の里」恩納村の歌碑

沖縄島唄・歌碑のある風景

「歌と踊りの島」といわれる沖縄には、琉歌や民謡、古典音楽の歌碑が各地にある。あちらこちらと訪ねた際に、なるべくその地にゆかりの歌碑を探して見ることにしている。といっても、まだ訪ねた歌碑はごく一部である。歌碑を訪ねると、その歌ができた背景やその地の歴史、人々の思いなど、よくわかることが多い。

すでに、ブログにはアップしてある。まだ少ないけれど、回って見た歌碑とその地や歌をめぐる逸話などを「沖縄島唄・歌碑のある風景」としてまとめてみた。

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         恩納村にある恩納ナビーの歌碑  

「琉歌の里」恩納村の歌碑

恩納村(オンナソン)といえば、「琉歌の里」を盛んにPRしている。18世紀に活躍した琉歌の二大女流歌人の一人、恩納ナビーの生まれたところである。恩納村の中でも、その中心である恩納区を歩いた。
恩納ナビー誕生の地の碑があった。ナビーが生きた時代は、琉球文化の黄金時代とも呼ばれ、庶民の間でも琉歌が流行ったという。「恩納村の美しい自然の中ナビーは、自由奔放かつ大胆な歌を数多く残しました」と説明文にも書かれていた。
 近くの昔の番所(役所)跡そばに有名な琉歌の歌碑がある。
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「恩納松下に 禁止の牌のたちゆさ 恋しのぶまでの 禁止やないさめ」。大きな松の木がある。その意味を解説した真新しい碑もそばに建てられていた。
 「恩納村の役所の前の松の木の下に、いろいろと禁止すると書いた立て札が立っているが、恋をしてはいけないとは書いていない、だから若い者は恋をするのになにも恐れることはない」。こんな歌意である。
 この立て札には背景がある。琉球王府時代、尚敬王が国王として中国皇帝に認めてもらう冊封を受けるため、琉球に来てい
た有名な徐葆光(ジョホコウ)が北部を旅した。そのさい恩納が宿泊予定地だった。若者が夜ごと野原に集まり、歌い踊る「モーアシビー」が盛んだったけれど、風紀を乱すものだからと「モーアシビー」を禁止する立て札を出したのだ。
 当時、庶民に君臨する王府の命令は絶対であったはずだ。それを「恋まで禁止とは書いていないから、大いに恋をしよう」と歌うのは、なかなか勇気がいることだろう。ナビーの自由奔放な精神と恋への燃
えるような思いが感じられるスゴイ琉歌である。

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 この琉歌で歌うのが「恩納節」(ウンナブシ)である。古典の名曲である。私の行っているサークルでも、覚えるため毎回練習する古典5曲に入っている。
 王府時代の恩納番所の様子を表す絵の看板があった(下)。琉球に来たペリー艦隊の一行が、訪れた際のスケッチだ。


 恩納ナビーの歌碑は、もう一つ、近くにある景勝の地・万座毛(マンザモウ)の入り口にもある。ちょうど万座毛の駐車場に入る手前に、碑がある。それも正確には2つある。
 この道を入ると、正面と右側の二か所ある。 「波の声もとまれ 風の声もとまれ 首里天かなし 美御機(ミウンチ)拝ま」。「波の音も静まれ 風の音も静かになれ 今私が国王様のお顔を拝しご機嫌を伺うのですから」という歌意である。
 この琉歌は、1721年に首里王府の尚敬王が、国頭巡視の折り、恩納村の万座毛(マンザモウ)で休息され、その時、ナビーはウスデーク(太鼓を打ちながら踊る)に唱和して歌を詠んだと伝わっているそうだ。

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 ナビーの琉歌でもう一つ、とても名高い作品がある。こちらは歌碑がないようだ。
「恩納岳あがた 里が生まり島 森んうし除きてぃ くがたなさな」
 「恩納岳の向うは 愛する彼が生まれた故郷である 森を押しのけて 間近に引き寄せようか」という歌意である。
 森も押しのけて彼氏を引き寄せたいとは、なんという激しい情熱だろうか。私的には、琉歌としては、ナビーの最高傑作だと思う。
 ナビーの恋とはどんな恋だったのだろうか。金武町のホームページの「金武の民話と伝説」のなかの「恩納ナビーと金武松金(キンマツガニ)」に詳しく記されている。伝説であったも、ナビーの琉歌の背景と意味がよくわかることは確かである。
 恩納ナビーの「恩納」は、恩納の出身を表すもので名前ではない。周りでは「マッコー屋のナビー」と呼ばれていた。「マッコー」とは、「はりつるまさき」という米粒ほどの実がなる低木のこと。ナビーの家の屋号が「マッコー屋」で、ナビーの家にマッコーが茂っていたからそう呼ばれたのではないかと見られている。確かに、誕生の地の碑には、「マツコウ家」と記されている。
 かつては、恩納は単独の間切(今の町村)ではなく、金武(キン)と読谷山(ユンタンザ)間切に属していた。金武の御前首里殿内(メースヌチ)に松金という美男の若者がいた。松
金の家は古くからの名家で、代々間切番所(役所)や王府と関わる役所(ヤクドコロ)を継いでいた。

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 松金が15,6歳の頃、父が恩納村の「掟(ウッチ)」という現在の区長にあたる役に就任し、松金は父と共に恩納村に移った。
 マッコー屋のナビーと知り合い、いつの間にか二人は激しい恋仲になった。そのうち、松金が首里に奉公に上がることが決まった。恋人との別れを悲しんで次の歌を詠んだ。
 「明日からあさて 里が番上り たんちゃ越す 雨の降らなやすが」。次のような歌意である。「2,3日後にわが恋人が番上がりで首里に行くことになっているけれど 谷茶の村を越すような大雨が降ればよいのに そうすれば出発の日が延びて 少しの間でも一緒にいることができます」
 松金が奉公を終えて帰ってきて、しばらく二人は以前のように楽しい日々を過ごしていた。だが、父の仕事に任期が切れ、松金も金武に戻らなければならなくなった。一人になったナビーは、恋人に会いたい思いを歌に託した。
 ナビーの琉歌に感動した尚敬王は、金武に立ち寄ったさい、ナビーを呼ぶように伝えていた。ナビーは、金武に行ったが、行った本当の理由は、松金に会いたい一心からであった。

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 ナビーは松金の家の前に来るやいなや「マツガニー!」と大きな声で叫んだ。松金は、ナビーの声にビックリし、喜び、すっ飛んで行こうとした。そのとき、足の下まで届くほど長い髪をとかしていたところだった。あまりの急ぎに自分の髪を踏んでしまい、転んで床に頭を強く打って、そのまま意識がなくなったということである。
 実際には、『沖縄大百科事典』を見ても、ナビーの生没年も不詳で、尚敬王代(1713-1751年)か尚穆王代(1752-1794年)の人と考えられるとのことで、
はっきりしない。「金武に恋人がいたとか馬車引きと結婚したとかいわれる」とのことである。
 いずれにしても、金武の松金との恋が実在しても、結ばれなかったことは確かだろう。この時代は、士族の男性は、結婚は親が決めたので、自由に恋愛し結婚することはできなかった。だから恩納の村の娘と恋仲になったとしても、結ばれるのは難しかっただろう。伝説で、松金が自分の髪を踏んで転んで意識を失ったという話は、いかにも創作されたようなストーリーである。これも、結ばれない悲恋の結末が、こういう形の伝説になったのかもしれない。これは、私の勝手な推測である。ナビーは恩納村のシンボル。可愛い漫画のナビの看板がいたる所にある。

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  波の声もとまれ 風の声もとまれ」という表現が、とても素晴らしいと思う。
 ナビーの琉歌は、女性であるけれど、表現がとても大胆である。
 さきの「恩納松下⋯⋯」の琉歌では、王府の命令も気にしない勇敢さがあったが、こちらは逆に国王を歓迎する気持ちが表
現されている。

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