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2012年9月

2012年9月30日 (日)

台風一過、中秋の名月

 台風17号は、那覇市内で瞬間最大風速61・2㍍を記録し、沖縄県内で停電が世帯の半分、33万戸にのぼる大被害を与えて過ぎ去った。風速では戦後3番目の強さだった。まだ30日夜でも6万戸が停電している。

 台風で一番身近な被害は停電だ。わが家は幸い、停電がなしで助かった。知り合いでも停電した家は多い。「停電だから冷蔵庫の食材をみんな出して調理し、今夜は豪勢な食事でした」「アイスクリームを真っ先に食べちゃった」などの声がラジオリスナーからも聞こえた。

006

 沖縄は、台風が過ぎても悪天候が残るのが通常だが、今回は一夜明けると見事に晴れ上がった。今夜は旧暦8月15日。中秋の名月である。スーパーでは、月見用の「フチャギ」が並べられていた。フチャギとは、おもちの周りに小豆をくっつけたもの。大和のおはぎに少し似た感じがあるが、でも大分違う。

 010  旧8月15日は、県内でいろんな祭、イベントが予定されていたが、台風の影響でかなり中止、延期された。ただ、糸満市の伝統ある大綱曳きは実行するとのこと。今回は行けなかったが、盛大に行われただろう。

 首里城での「中秋の宴」も29日は中止されたが、30日は行うとのことだった。昨年は、見に行った。中国から琉球国王の任命のために来る冊封使(サッポウシ)を歓待する行事を復元したものだ。首里城にのぼる満月は、格別であり、その月の下で観賞する琉球芸能も味わいが深い。056  写真は2011年の中秋の宴のときのものである。300年前の冊封使も同じ月を見ただろう。

 

高知新聞が尖閣諸島の命名者・黒岩恒を紹介

 尖閣諸島の命名者である黒岩恒のことを「高知新聞」が取り上げて9月28日付夕刊で掲載した。友人が記事をメールで送ってくれた。「『尖閣』命名は本県出身者」という見出しで報じている。

Kuroiwahisasi1  黒岩さんは、高知県佐川町立野の出身である。その人物と業績についてはこのブログで「知られざる高知人」ほか、何回か取り上げたので、興味のある方は、そちらを見てほしい。

 記事では、黒岩さんが沖縄の動植物や民俗を研究し、命名した動植物が数十種にのぼること、112年前に尖閣諸島を探検して、尖閣の命名をし、魚釣島には土佐清水市竜串に由来する命名もしたことなど記している。
 尖閣諸島をめぐり中国、台湾との領有権争いが激化するのは、好ましくないが、尖閣が問題になり、日本の領土となった歴史的な経過が焦点になると、黒岩さんの先駆的な活動が注目されている。

073            名護市にある黒岩恒さんの顕彰碑

 出身地の高知県では、黒岩さんの名前も業績も知る人は少ない。もっともっと知られるべき人だと思い、私も彼のことをブログで紹介してきた。「高知新聞」が、こうした記事を掲載したことで、黒岩さんの人と業績を県民が知る機会になることは、嬉しいことだ。黒岩さんも、きっとグソー(あの世)で、喜んでいるはずである。

2012年9月29日 (土)

赤犬子が吟遊詩人とは

 歌三線の始祖・赤犬子は、吟遊詩人だったと伝えられる。ただ、琉球王国の時代に吟遊詩人とは、どういうものだったのか、いまいちイメージがわかない。それを分かりやすく解説してくれているのが、与並岳生著『アカインコが行く(琉球吟遊詩人)』である。この本から、さわりを紹介しておきたい。

 赤犬子は、「阿嘉の犬子(イングヮー)」という意味で、自分を卑下して「犬子」と名乗った。読谷村の楚辺(ソベ)は、昔は阿嘉(アカ)、饒波(ノハ)の2つの村だった。「阿嘉」の名は童名(ワラビナー)の定まりの名の一つでどの村にも1人、2人いたという。
 阿嘉(赤犬子)は、御嶽(ウタキ、拝所)の祭祀に神司(神女)たちが、神歌ウムイ(おもろ)を歌いながら打つ臼太鼓を持つことを許されていた。その歌と太鼓は<セヂ>(精気、霊気)がこもるとさえ言われた。祝事(スージ)二呼ばれて歌うようになり、「阿嘉のお祝付(エツ)き」と呼ばれた。

 当時は、住民が住んでいる村・シマを出て他村へ転居することは禁じられていた。年貢を放棄することになるからである。「シマ抜け」は重い罪に問われることがあった。シマ抜けをした者は、フェーレ(追いはぎ)、盗人、グループを組んで山賊になる者もいた。

 大和では、「門付け」といって、家々の門口に立ち、あるいは祝祭、法事の家で音曲、芸能を演じて、金品をもらいながら放浪する芸人がいた。他領への移住は法度だが、門付け芸人は“非人”扱いで渡り歩いていたという。

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 赤犬子も、「阿嘉のお祝付き」と呼ばれたのなら、吟遊詩人とは、門付け芸人のような存在だったのだろうか。そんなイメージが浮かぶ。

 与並さんの著書は、小説仕立てだから、赤犬子の動向については、多分こんなことがあったのではないだろか、というフィクションだろう。でも、面白いのでもう少し紹介しておきたい。

 「阿嘉の犬子」を名乗って、お祝付き業を始めた彼のもとに、首里の役所から出頭命令がきた。密命が下された。隠密としての役目である。

 尚真王に招かれて御前で、王を讃えるおもろを歌った。明から伝わった三弦、二弦が取り出された。二弦は二胡のことである。犬子はその場で、三弦を弾いてみた。さっそく王から三弦が贈られた。

 三弦は、琉歌が作られるようになると、琉歌を三弦にのせて歌うようになった。
「歌と三線の むかし始(ハジマリ)や 犬子音東(ネアガリ)の 神の御作(ミサク)」とおもろに歌われた。
 音揚がり(音東)とは、「おもろ歌を声高く歌います」の意味。やがて、歌達者の意味になり、おもろを歌った「阿嘉」の別称ともなった。だから、「犬子音東」とはアカインコのことである。

 三弦が一般人民の前に披露されるのは、アカインコがもらった中国三弦でお祝付きをやったのがその始まりだと、与並さんは記している。

 

2012年9月27日 (木)

島唄で歌われる「赤犬子」

 歌・三線の始祖とされる「赤犬子」(アカインコ)は、沖縄民謡でも歌われている。平敷ナミ作詞、山内昌春作曲の「赤犬子」である。平敷さんは「平和の願い」などたくさん作詞している。昌春さんは、読谷出身でとても歌が上手い唄者である。

 「♪尋ね尋にやい 歌ぬ元とぅめてぃ 拝でぃ知りやびら 歌の御縁 歌の御縁」
 (尋ね尋ねてきた 歌の始祖を求めて 赤犬子宮を拝んで知ることができた 
  歌のご縁)
 「♪上る石段に 心我ね込みてぃ あやかりてぃ見ぶさ 歌の情き 歌の情き」
 (赤犬子宮へ登る石段に 私の心を込めて あやかってみたいなあ 歌の情け)
 「♪花ぬ読谷山(ユンタンザ) 歌ぬ花咲ちゅさ 押し寄しる波ぬ 音に乗してぃ 
音に乗してぃ」 
 (花咲く読谷に 歌の花を咲かせ 押し寄せる波の 音に乗せて響かせよう)
 歌詞は1,2,4と紹介した。5番まであるがあとは省略した。この曲を聴くと、前川朝昭作詞作曲の「歌の道」ととてもよく似ている。まあ沖縄民謡では、フツーのことであるが。

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 沖縄では毎年3月4日を語呂合わせで「さんしんの日」とされている。作詞もする上原直彦氏が提唱して、もうすっかり定着した。「さんしんの日」のイベントが、この読谷村の鳳ホールで開かれる。赤犬子宮からも近い場所である。読谷で開かれるようになった経緯はしらないが、多分、歌三線の始祖・赤犬子にゆかりのある地であるからこそ、読谷で開いているのではないだろうか。これは推測にすぎない。

 鳳ホールで開くイベントに合わせて、赤犬子宮で古典音楽に携わる人々が集って、演奏を行う。ここに参拝すると、三線の腕前が上達するという言い伝えがあるとか。だから参拝する人が絶えないそうである。
 私も一度、参拝したが、まあ腕前はあまり変化はないようだ。これは、赤犬子頼みではなく、自分で練習するしかないだろう。

2012年9月25日 (火)

琉球音楽の始祖・赤犬子の歌碑

 沖縄の歌・三線の始祖といわれる赤犬子(アカインコ)を祀る「赤犬子宮」が読谷村楚辺(ソベ)にあり、何年か前に、民謡三線サークルの「遠足」で行ったことがある。
 いまから500年ほど前、琉球王国が東アジア諸国と広く交易し「大交易時代」として発展したころ、歌・三線に優れて各地を巡り、活躍した吟遊詩人だったと見られている。

 「赤」とは地名の「阿嘉(アカ)」であり、自分のことを「阿嘉の犬子(イングヮー)」と卑下して名乗ったためではないと作家の与並岳生さんは書いている。

 王府が編纂した古謡集「おもろそうし」でも、「歌と三線の 昔始まりや 犬子ねあがり(音揚がりや)の 神のみさく(御作)」と歌われた。
 「歌と三線の昔からの始まりは 赤犬子の音であり 神の作ったようにすばらしい」。こんな歌意ではないだろうか。「おもろ」には赤犬子を讃える歌は40余首もあるそうだ。

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 「赤犬子宮」へ向かって石段を登っていくと、脇に歌碑がある。左側にあるのは「赤犬子終焉之地」の碑である。晩年に生れたこの楚辺の地にたどり着き、岩山に杖を立て、聖なる光に導かれて昇天したと言い伝えられているそうだ。
 右側の歌碑は「歌之道ひろく 世界に輝かち 犬子ねあがりや 末代までも」と讃えている。歌碑は野村流音楽協会読谷支部が建てた。だから古いものではない。

 楚辺区の古老伝承によれば、赤犬子は大屋のカマーと屋嘉のチラー小との子で、長じて三線を携えて各地を巡り歩き、歌三線を広めたという。面白いのは、それだけでなく、先々のことを予言したり、唐(中国)から楚辺むらに五穀(稲、麦、粟、豆、黍=キビ)を持ち帰った偉大な人物だと伝えられているとのこと。顕彰する碑がある。

Photo_2  この場所は、楚辺区では、古くからウガンジュ(拝所)として、崇拝され、毎年旧暦の9月20日(昇天した日)には、五穀のンバン(御飯)などを供えるとともに、琉球古典音楽や舞踊を奉納し、歌三線の始祖、五穀豊穣の神、むらの守り神として祀る「赤犬子スージ」を催しているという。下写真が「赤犬子宮」である。

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2012年9月24日 (月)

普久原恒勇さんは尚円王の末裔

 「芭蕉布」をはじめ戦後の沖縄民謡のヒットメーカーである普久原恒勇(フクハラツネオ)さんは、先祖は伊是名島(イゼナジマ)の出だという。伊是名島といえば、琉球を統一した第一尚氏の王統を倒して、第二尚氏の王統を開いた金丸、のちの尚円王の出身地である。

 普久原恒勇さんは、この尚円王の血筋にあたるという。彼へのインタビューをまとめた『芭蕉布 普久原恒勇が語る沖縄・島の音と光』でそのことを語っている。

 正確には、尚円の直系ではなく、その弟にあたる尚宣威(ショウセンイ)の子孫だという。
「普久原門中(ムンチュウ、男系血縁組織)というのは毎年、伊是名島にお祈りしに渡ります。わたしも行ったことがあります。普久原というのは尚宣威の子孫だと聞かされてはいるんですが、ま、ほんとかどうかわかりませんけれども、みながそう言っているからそうだろうと、思っております」。

029_2                  首里城

 普久原さんには、史曲「尚円」がある。まだ聴いたことがない。この曲は、同じ伊是名島出身の木版画家の名嘉睦稔(ナカボクネン)さんにたいして「伊是名のために何か書きたいね。君は銅像も作ったらしいからそれと一緒に曲を書きましょう」と話した。ちょうど村の方でも普久原さんに何か書いてもらえないか打ち合わせをしていたようで、書くことになったという。当初は、普通の歌を作ろうとしたけれど、「どうせなら器楽曲を書かせてほしいと、初めて自分から進んで書いたものが≪尚円≫です」と話している。

 普久原さんの先祖にあたる尚宣威は、不運な国王である。兄の尚円王が亡くなったとき、息子の尚真はまだ11歳と幼なかったので、尚円の弟が推されて即位した。しかし、わずか半年で王座を追われた。尚真の母であるオギヤカの策略があったのではないと見られている。尚真は11歳で即位し、幼い息子に代わりオギヤカが権力をほしいままにしたと伝えられる。

 尚宣威は退位後わずか半年で48歳で急死した。尚真王が建てた陵墓、玉陵(タマウドゥン)には、歴代国王が葬られているが、尚宣威は葬られていない。

 それはともかく、沖縄では歴史がいまも生きていることを書いてきた。今回も、よく知られた作曲家が、尚円王の血筋にあたるという話を本人が話しているのを読んで、驚いたのである。

 

2012年9月22日 (土)

「ひめゆり学徒隊」の歌はいくつあるのか、その3

 「ひめゆり学徒隊」をテーマとして歌に、混成三部合唱「ひめゆりの塔」もある。山本和夫作詞、岩川三郎作曲である。ユーチューブでも、杉並混声合唱団による合唱がアップされている。

 ひめゆり学園の卒業式の歌「別れの曲」はよく知られている。「想思樹の歌」とも言う。
 「♪目に親し 想思樹並木よ 行き帰り 去り難けれど 夢のごと 疾き年月の
 行きにけん 後ぞくやしき]
 「学舎の 赤きいらかも 別れなば なつかしからむ わが寮に 睦みし友よ 
忘るるな 離り住むとも」

 生徒らが戦場に動員された1945年、卒業生に送る歌として作られたという。音楽教師だった東風平恵位(コチンダケイイ)助教授が作曲、福島出身の陸軍少尉、太田博作詞。
 ひめうりの乙女たちは、この歌を口ずさみながら死んでいったそうだ。
 太田少尉は、青年詩人だったとか。この後、25歳で亡くなった。東風平助教授も、いま「ひめゆりの塔」のある壕で亡くなったという。

Photo          県立第2高女でつくられた「白梅学徒隊」の「自決之壕」の碑

 沖縄民謡には「姫百合の唄」がある。
 「♪広く知られた沖縄の 犠牲になった女学生 姫百合部隊の物語」と始まる。
 歌は10番まであり、物語はだんだん残酷な戦場を反映するリアルな内容に変わっていく。

 「♪何時か敵は上陸と 聞いた時には姫百合も 共に散ろうとひとしずく」

 「♪無理に心を励ませど 体をささえる食もなく のどをうるおす水もなし」

 「♪焼けて飛び散る我が郷土 見るにしのびぬ焼野原 天地に神も召しませぬ」

 「♪根気も意地もつきはてて 死なばもろとも姫百合は 散って惜しまぬ若桜」

 「♪とうとう玉砕ひめゆりは 地下で共に泣くかしら 淋しく泣いている夏の虫」

 「食もなく、水もない」「根気も意地もつきはてて」、最後は「玉砕」に追いやられる、という悲惨な最期が歌われている。
 「散って惜しまぬ若桜」という歌詞があるが、死を美化する意味ではないだろう。戦争のため命を犠牲にして尽くすという軍国教育と米軍につかまれば惨殺されるという宣伝のため、「自決」「玉砕」に追いやられた悲しい現実をそのまま描いた歌詞だと思う。哀切きわまりない物語になっている。
 
 「ひめゆり学徒隊」の事実は、決して繰り返してはならない悲劇である。それだけに、歌もたくさん作られている。ここで紹介した歌もすべてではない。まだ知らない曲があるだろう。

2012年9月21日 (金)

「ひめゆり学徒隊」の歌はいくつあるのか、その2

 「ひめゆり学徒隊」を歌った曲の続きである。
 
 森鑑之作詞・作曲の鎮魂歌「ひめゆりの歌」がある。

 「♪東風に揺れる ユウナの花 小鳥囀(サエズ)る 木立の台地に 戦さで散った 若き乙女よ あなたたちの心の勇気を ひめうりの花とともに ぼくらは忘れはしない とこしへに」
 「戦さで散った若き乙女ら」の鎮魂歌ではあると思うけれど、「心の勇気を⋯⋯忘れはしない」というのは、戦争の痛ましい犠牲を、すこし美化している印象があり、ちょっと気になる。

 古都清乃さんの歌う「ひめゆりの唄」は、ある方が音源を送ってくれて初めて聴いた。鈴鹿一作詞、紺野朗作曲である。

 「♪なにも知らない幼い身にも 心細かろ夕日の色は 燃える沖縄 戦さの巷 
 母のない子に 母のない子に 風が吹く」
 「♪唄も踊りも忘れて捨てて 娘ざかりを嵐の庭に 響くつつ音さんごの島に 
 散って悔いない 散って悔いない このいのち」
 「♪二度とこの世に咲く日はないが きっと咲きます またくる春に 娘ごころを
 ひといろ赤く 染めた桜の 染めた桜の 九段坂」

 よめゆり学徒隊の悲劇を歌っているのはいいけれど、「散って悔いない このいのち」という 歌詞には、ちょっと抵抗がある。看護隊として献身して死んだから「悔いない」といえば、痛ましい犠牲となった女子学徒隊を美化することにつながるのではないか。
 それに、「この世で咲く日はないが きっと咲きます⋯⋯九段坂」と歌う。 九段坂といえば、靖国神社を指す。
 戦前・戦中の軍歌は、天皇のために戦死しても、靖国神社で英霊として祀られ、花を咲かすという歌詞がよくあった。
 軍歌「同期の桜」は、「咲いた花なら散るのは覚悟 見事散りましょう 国のため」「花の都の靖国神社 春の梢に咲いて会おう」と歌っている。

023             沖縄陸軍病院本部壕跡

 
 ひめゆり学徒隊の生存者は、自分たちの体験を「悲劇としても美化してほしくないし、国のために命をささげたなどと美化してほしくもない」と話している。もっともである。
「ひめゆり学園」の240人(生徒222人、教師18人)の人たちは、3月23日の動員から、6月18日の解散命令までの約90日間の犠牲者は19人にとどまっていた。日本軍の司令部が首里から南部の摩文仁に撤退したあと、米軍が迫りくる中で、解散命令が出て戦場に放り出され、わずか数日間で100名余りが亡くなっている。死亡者は136人(生徒123人、教師13人)の大半は、この時に犠牲になった。
 県全体では、7つの女子学徒隊がつくられ、約505人の動員数で、189人が戦死した。学徒隊以外にも225人生徒が戦死した(「琉球新報」2009年6月23日付)。
 沖縄は、本土防衛の捨て石にされ、本土進攻を遅らせるため、首里から摩文仁に撤退し、抵抗を続けたために、地獄のような戦場で、多くの県民、学徒隊の人々が痛ましい犠牲になった。首里で戦争を終結させていれば、こんな犠牲は避けられたのだ。
 犠牲者を英霊扱いにすれば、無謀な戦争への反省はかき消される。悲劇を決して繰り返さないために「美化してほしくない」という気持ちは痛切なものがある。

 

2012年9月20日 (木)

「ひめゆり学徒隊」の歌はいくつあるのか、その1

 沖縄戦の悲劇の象徴の一つ、「ひめゆり学徒隊」を歌った曲がいくつもある。「美空ひばりの平和の歌は3曲ある」と教えてくれたある方が「ひめゆりの唄はご存知ですか」と教えてくれた。    

 一つは伊藤久男の歌う曲。彼の「ひめゆり」をテーマとした歌は、実は2曲ある。一つは「ひめゆりの塔」である。これは、1953年封切りされた今井正監督の名作映画「ひめゆりの塔」の主題歌だった。西条八十作詞、古関裕而作曲である。
 「♪首途(カドデ)の朝は愛らしき 笑顔に母を振り返り 振りしハンケチいまいずこ⋯⋯」と歌う。
 映画は、大ヒットしたけれど、歌はあまりヒットしなかったらしい。当時、私も映画は見て感動したが、この歌はもう覚えていない。ユーチューブで聴くことができる。

 沖縄師範学校女子部と県立第一高等女学校の女子学生らで作られたのが「ひめゆり学徒隊」。米軍が沖縄に上陸する直前、1945年3月23日、学園から240人(生徒222人、教師18人)が戦場へ動員された。南風原(ハエバル)の沖縄陸軍病院で看護に従事した。日本軍司令部が首里から南部の摩文仁に撤退するのに伴い、5月28日、撤退命令が出て南部の伊原周辺に移った。だが、米軍包囲が迫る6月18日、解散命令が出て、みんな戦場に放り出され、多数の犠牲者が出た。002     糸満市山城にある沖縄陸軍病院之塔。傷病兵市や看護の学徒らの慰霊碑

 伊藤久男は1962年に公開された大蔵プロの「太平洋戦争と姫ゆり部隊」でも「姫ゆり部隊の歌」を、能沢佳子とともに歌っている。これは歌詞がまだわからない。

 この映画では、織井茂子が「あゝ姫ゆりの花」を歌っている。野村俊夫作詞、古関裕而作曲である。これも、歌詞がまだ分からない。
 古関や野村らは戦時中、戦意高揚の歌をつくることを余儀なくされたなかでも、実は兵士たちのために、厭戦歌や鎮魂歌を作っていたという。これは「福島民友」の「古関裕而うた物語」によった。
 古関、野村と伊藤久男は、ともに福島県出身で、コンビを組んで何曲も歌っている。伊藤は、戦時歌謡を歌った責任感から、戦後一時、ひきこもって酒におぼれる状況にもあったが、1947年にカンバックした。「あざみの歌」など私も好きな名曲である。

 田端義夫の歌う「きけ ひめゆりの歌」は、1950年12月発売された。清水みのる作詞、長津義司作曲である。ユーチューブで聴くことができる。なぜか、少し軍歌調の勇ましい感じの曲である。歌詞とはあまりそぐわない気がする。

 「♪小雨はけむる 日はくれる 嵐の夜はまた迫る 急ごう級友(トモ)よ 妹よ
 小島のはての 山蔭に」
 「♪傷つき斃れ 励ましつ 涙の胸を よせ合って 級友を呼ぶ声はたえだえに
 母恋う声は さめざめと」
 「♪焔と燃える 草に寝て 地軸をゆする 土を食む どこまで辿る この身なら
 命の瀬戸は どこかしら」
 戦場で追い詰められ、極限状態におかれたひめゆりの女子学生の苦境が描かれている。

 B面には、菊池章子の歌う「島のひめゆり」が入っていた。くわしくはまだ資料がない。

 長くなるので、この後は次にしようね。

2012年9月19日 (水)

歌碑のある風景、美空ひばりの歌碑

沖縄にある美空ひばりの歌碑

昭和の歌姫、美空ひばりには、沖縄を舞台とした歌が1曲だけある。生涯に1500曲余り持ち歌があるなかで、唯一沖縄県と関わりのある曲だという。「花風の港」という曲だ。
 この歌の歌碑が建立されている。那覇市金城の那覇港を見下ろす高台の「がじゃんびら公園」にある。沖縄には「花風」(ハナフウ)という男女の別れを歌った民謡があり、琉舞も踊る。これにモチーフにした曲だという。

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「♪赤いサンゴの波散る島を何であんたはすててゆく 出船ほろほろ花風の港 紅の手さじを前歯で噛んで しのび泣くのも恋のため」というのが1番の歌詞だ。
 「ひばりの佐渡情話」など作詞した西沢爽さんの作詞である。
 歌碑の前にはオートサウンドシステムが設置され、足型に立つつ曲が流れるという仕組みだ。聞いてみたいけれど、いまは作動しなかった。
 この歌碑を建てたのは石原エミさんという沖縄の歌手の方だ。彼女の作詞、作曲、唄で「美空ひばり賛歌」も作られている。歌詞の2,4番を紹介したい。
「♪戦がすんだ沖縄で つらく淋しいあの日々を ひばりの歌で乗り越えた 生きる
 勇気をありがとう ※繰り返し」
「♪ここは沖縄 神の島 世界平和を祈る島 ひばりは今も天高く 世界平和を歌っ
 ている ※繰り返し」
 石原さんの思いが歌に込められている。

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 あえて書かなくても、写真を見
れば一目でわかるように、立派な歌詞の看板が建っている。なぜこの歌碑を建立したのか、という経過と思いを詳しく記した看板も建てられている。
 戦後の日本で「一筋の希望の光と生きる勇気と大きな夢を与え続けたのが日本の歌姫、美空ひばりさんの歌声でした」と記している。そして「平和の使者美空ひばりさんへの恩返しになれば」という思いで、1997年12月8日に歌碑を建立したという。

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 石原さんは、沖縄と日本全国、海外の「平和を願う多くの人々の心が一つになり、世界の平和が築かれることを心から願っております」と記しており、ひばりさんと平和への熱い心がつたわってくる。
 美空ひばりは、横浜に生れ、太平洋戦争の恐ろしさは決して忘れることができないと語っている。平和への思いを心の奥に抱いていた歌手である。彼女が平和への祈りをこめて歌った名曲に「一本の鉛筆」がある。
 この曲は、脚本家で映画監督の松山善三さんの作詞で、1974年に開かれた第1回広島平和音楽祭でひばりさんが歌った。
「♪一本の鉛筆があれば 私はあなたへの愛を書く
 一本の鉛筆があれば 戦争はいやと書く 
 一枚のザラ紙があれば 子どもがほしいと書く 
 一枚のザラ紙があれば あなたを返してと私は書く 
 一本の鉛筆があれば 8月6日の朝と書く 
 一本の鉛筆があれば人間の命と書く」
 「ユーチューブ」に、この曲を歌っているNHKの映像があり見た。ひばりさんは「2度とあのような戦争が起こらないように祈りたいと思います イバラの道が続こうと平和のため我歌う」とこの曲を歌う前に語っていたという(NHKのナレーションから)
 「がじゃんびら公園」の歌碑を見ながら、「一本の鉛筆」のことを思い起こした。

(終わり 2012年8月22日   文責・沢村昭洋)    

2012年9月18日 (火)

85歳以上が10人の民謡サークル敬老会

 私が通っている民謡三線サークルで、18日に恒例の敬老会が開かれた。サークルは参加資格が60歳以上なので、全員高齢者ではあるが、敬老会では85歳以上を特待扱いにして祝っている。今年は、10人を数えた。昨年まで見えていた人が来れなくなり寂しさがあるが、新たに85歳に達する人もいるので、85歳以上は増えている。90歳も3人いる。あやかりたいものである。

 敬老会の余興では、祝いの席では定番の「かぎやで風節」の舞踊で始まり、女性3人が扇をもって舞う。手巾(ティサージ、手拭)を持った軽快な「加那よー」が続く。男性も「上り口説(ヌブイクドゥチ)」「揚作田(アゲチクテン)」を踊った。

 歌三線では、Hさんと私の2人が「永良部百合の花」「通い船」の2曲を演奏した。昨年までリーダー格だったKおじいが、交通事故にあってから来なくなり、2人での演奏は初めて。出だしが少しつまづいたが、あとはなんとか弾けた。
 「よく合っていたよ」「歌詞をよく覚えているね」との感想があった。

 今回の余興は、エントリーが多く、10人ほどが演奏した。なかでもUさんが歌った「時代の流れ」は大受けだった。嘉手苅林昌の名曲だ。
「♪唐ぬ世(ユ)から大和ぬ世 大和ぬ世からアメリカ世 ひるまさ変たるくぬ沖縄(ウチナー)」と歌い出す。

 中国、薩摩・日本、アメリカ、日本と大国の影響と支配を受け、世替わりを繰り返した琉球・沖縄。時代の流れによる社会の世相の変化を面白く歌い込んだ曲だ。Uさんは、10番くらいまで歌った。さっそく「その歌詞をコピーさせて」と何人も欲しがっていた。

 私ももう一度、八重山の叙情性豊かな名曲「トゥパラーマ」を歌ってみた。歌い出すと、八重山出身の女性が「ツンダサー、ツンダサー」と囃子を入れてくれた。囃子はないものと諦めていたので、嬉しい。歌いやすい。

 サークルでは、八重山の民謡はほとんど歌わない。大和出身の私が八重山の名曲を歌ったので少し驚ろかれたようだ。歌い終わると「どこの研究所で習っているの?」「あれだけ声が出れば上等ですよ」との声が寄せられた。

 少し無理して高音を出して歌ったせいか、午後のカラオケタイムになると、声があまり出なくなった。もっと声を鍛えないとダメだなあ。

2012年9月17日 (月)

歌碑のある風景、「艦砲ぬ喰ぇーぬくさー」の歌碑建立へ

番外編「艦砲ぬ喰ぇーぬくさー」の歌碑建立へ

 反戦島唄の傑作「艦砲ぬ喰ぇーぬくさー」の歌碑建設事業が進められている。この曲は、読谷村楚辺(ソベ)出身の比嘉恒敏さんが1971年ごろに作詞作曲した。「艦砲ぬ喰ぇーぬくさー」とは、米軍の艦砲射撃、空爆など「鉄の暴風」の中をなんとか生き残った人々を指す言葉だ。歌の歌詞は5番まである。強烈な平和のメッセージが込められている。訳文で紹介したい。

003          NHK沖縄のテレビ画面から
「♪若い時は戦争の世 若い花は咲くことができなかった 家の先祖、親兄弟も艦砲の的になり 着る物食べ物なにもない ソテツ食べて暮らした ※あんたも私も艦砲の喰い残しだ」
「♪神も仏も頼りにならない 畑は基地に囲われ 金にはならない 家は風で吹き飛ばされ 戦果(米軍物資を持ちだす)担いでしょっ引かれ ひっくり返されもてあそばれて 心は誠実だったのに ※繰り返し」(3,4番は略)
 「♪親や島を喰った戦争、艦砲を恨んで悔やんでも飽き足りない、子孫末代まで遺言して語り継がなければ」
 歌碑建立は、楚辺の住民が中心になり、実行委員会を立ち上げ、スタートした。2013年6月23日、慰霊の日に建立式をする計画だという。
 歌碑建立の趣意では、この歌の歌詞が「艦砲射撃によって犠牲になった人々の哀悼とともに、悲惨な沖縄戦を生き残った“うちなーんちゅ”の強さと戦争を恨み平和を願う心情がつづられ」ている、とのべている。

 005     比嘉恒敏さん(右端)と家族。NHK沖縄のテレビ画面から。
 戦後67年が経過し、歴史の過ちを繰り返さないため、沖縄戦の体験の継承が課題となっているとして、「沖縄戦の実相を伝える象徴として、楚辺から世界へ戦争の悲惨さと平和の尊さを発信するため『艦砲ぬ喰ぇーぬくさー』歌碑建立事業を実施する」とその趣意をのべている(「艦砲ぬ喰ぇーぬくさー歌碑建設活動のブログ」から)。
 それにしても、作者の比嘉恒敏さんは、沖縄戦とその後の米軍支配によって、県民に降りかかってきた悲劇と苦難を丸ごと体現した人ではないだろうか。
 父と長男は、学童疎開船「対馬丸」で失い、妻と次男は仕事で出ていた大阪で大空襲によって亡くした。恒敏さん自身は、戦災に会わず、生き残った。再婚して子どもを育て、娘さん4人で「でいご娘」を結成して、活躍していた。それが沖縄の日本復帰の翌年、1973年10月10日夜10時頃、結婚式の余興に出演した後、車2台に乗って帰る途中、宜野湾市大山の国道58号線路上で二重衝突事故があり、比嘉さんの車1台が巻き込まれた。原因は米兵の飲酒運転だった。この事故で、比嘉家は母・シゲさん(49)が即死、父・恒敏さん(56)は4日後に亡くなった。
 なんという残酷な運命だろうか。娘さんたちは、お父さんが残した1曲だけでもレコードにしたいと1975年にプレスして発売した。当時は、大ヒットしたそうだ。
 戦争を絶対に繰り返さないため、この曲は、長く歌い継がれていかなければならない。

2012年9月16日 (日)

歌碑のある風景、読谷に立つ「さとうきび畑」の歌碑

読谷に建つ「さとうきび畑」の歌碑


 故・寺島尚彦さんが沖縄戦の悲しみをテーマに作詞・作曲した名曲「さとうきび畑」の歌碑が読谷村高志保に建てられたので、訪ねた。「ざわわ ざわわ」とサトウキビの葉が風に揺れる様子が印象的な曲だ。
 
 歌碑は、「集団自決」の悲劇がおきた「チビチリガマ」を通り過ぎて、少し行った先にあり、案内の看板がある。この付近は、墓地が集中するところで、歌碑の周りは畑である。
 読谷村から北谷にかけての海岸に67年前の1945年4月1日、米軍が上陸し、沖縄本島は地獄と化した。その4月1日に除幕式が行われた。この曲と読谷村は直接、関係はない。でも、歌詞の中の「昔、海の向こうからいくさがやてきた」と歌われるが、読谷の沖は、海を埋め尽くすほどの米艦船が押し寄せ、上陸した地点でもあるので、歌碑を建てるにはふさわしいのかもしれない。
 入り口に「ざわわ憲章」が展示されている。

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「1、いくさのない世界をめざすために活用する」
「3、戦没者の無念の思いを後世に伝えるため活用す
 る」など6項目の憲章が記されている。
  この曲の生れたいきさつなどが碑に記されている。寺島さんは、1964年に34歳で初めて沖縄を訪れ、激戦の地である糸満市の摩文仁(マブニ)でサトウキビ畑に立った。そのとき「戦没者たちの怒号と嗚咽を私は確かに聴いた」という。
 2年近くをかけて、サトウキビ畑をわたる風の音を表す表現として「ざわわ ざわわ」という言葉にたどり着いた。1967年、66回繰り返される「ざわわ」に思いを込めて、この曲が誕生したという。

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 歌碑の横の楽譜が記された台のボタンを押すとオルゴールで曲が流れる。
 これが歌碑の本体である。歌詞が全部刻まれている。
 ただし、茶色の歌碑と刻まれた文字が同色なので、極めて読みにくい。これが潮風と風雨に長年さらされると、ほとんど読めなくなるのではないか。それが心配だ。
 歌碑の中ほどの下部は、空洞になり、サトウキビに見立てたステンレスの棒が立っている。22本が3列並び、合計66となり、「ざわわ」66回を表しているそうだ。

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 この歌碑は、歌碑建立実行委員会によって建立され、読谷村に寄贈された。寺島さんは、1930年生れで、2004年3月に亡くなったが、きっと「グソウ」(あの世)で歌碑が出来たことを喜んでいるだろう。

2012年9月15日 (土)

台風は沖縄に上陸しない!

 2012年は台風の当たり年だ。次々に発生する台風は、みんな沖縄本島を直撃する。台風16号も瞬間最大風速75メートルという戦後最大級の台風だ。ただし、先の15号台風のさい、沖縄気象台は「戦後最大級の台風」といって警告したわりに、影響は大きくなかったので、今回も同じくらい猛烈な大型台風なのに、その表現を避けている。「最大級の警戒を」というのにとどめている。

 まるで15号台風のリプレイを見るようなコースで台風が直撃している。台風が本島に来襲するたびに不思議なのは、「沖縄本島に上陸する」とは絶対に言わないことだ。「最接近する」という言い方しかしない。これは日本語的には間違いだ。「最接近」だと、本島に上陸して横断するのではなく、本島に接近はするが上陸はしないでそばを通る印象を与える。
 台風が本島を横断して東シナ海に抜けると「台風が通過した」と言う。なぜ「接近」していても「上陸」はなくて、いきなり「通過」になるのだろうか? 
 それは、気象用語では「台風の上陸」というのは、いわゆる「本土」、本州、九州、四国などの場合は「上陸」というが、沖縄など離島は「上陸」とは言わないからだ。

 本州だろうが、四国だろうが、沖縄だろうが、みんな島であり、大小はあっても大陸から見れば離島である。でも「離島」と定義された沖縄では、いくら大型台風が横断や縦断をしても「上陸」とはいわない。だから、何回、大きな台風が来襲しても、一度も沖縄に台風は「上陸」しないのである。

 「上陸」という表現が使えないため、台風襲来のたびに、いくら直撃して横断することが目に見えていても、げんにいま横断していても「最接近する」としか気象台は言わない。テレビ、ラジオの台風の予報でも「最接近」という言葉が呪文のように繰り返される。それを聴くたびに「接近だけじゃないだろう。もう本島を横断しているぞ、通過しているぞ、それがなぜ最接近なんだよ!」と叫びたくなるわけである。

 とくに、テレビで進路予想図を見ていれば、まだ一目で分かるからよいが、ラジオで聴いていると「最接近」といわれるのでは、台風が沖縄本島のどのあたりを横断して通過するのか、まるで実感としてわからない。「沖縄本島の北部を通過する予想」だとか言えないのだろうか。ラジオでの例外は、パーソナリティの柳卓さんなんかは、気象台の予報では、リスナーは分かりにくいと思ってのことだろう。自分の言葉で、台風がどのあたりを直撃して通過しそうだ、と率直に語ってくれる。これだと、とてもイメージしやすい。

 沖縄気象台の人たちは、台風シーズンで昼夜をわかたず働き続け、感謝する。ただ、日本語として正確で、台風情報を頼りにしている県民に、もうすこし分かりやすいというか、的確な日本語で予報してほしいと願いたい。

 

歌碑のある風景、竹富島の安里屋クヤマの歌碑

竹富島の安里屋クヤマの歌碑

 石垣島の目の前に竹富島が浮かぶ。高速艇で10分の近さだ。赤瓦の家が並び、沖縄らしい風景を伝える島だ。2011年3月11日、石垣島に行った日に、東日本大震災が起き、津波警報が出た。その翌日も警報は続き、島に渡る船は止まった。でも午後2時ごろになり、津波注意報に変わったので、船が出ることになった。島に滞在する時間は、1時間しかない。だが、石垣に来て、竹富に行かないのでは、心残りになるので船に乗った。
 竹富島と言えば、有名な民謡「安里屋ユンタ」の生れた地である。といっても「♪サー 君は野中のいばらの花かー サーユイユイ」と歌う曲ではない。こちらは、昭和9年に八重山生れの作曲家・宮良長包さんが元歌をアレンジして作曲した「新安里屋ユンタ」である。

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 元歌は、実在の人物をもとに歌われた曲である。人物とは安里屋に生れた美女クヤマさんである。
 写真は、島の中央部にある島一番の高台、なごみの塔(下)から見た竹富島の風景である。このなごみの塔のすぐ南側に、クヤマさんの生誕の地があった。
 竹富島で歌われる「安里屋ユンタ」の歌詞を紹介する。歌詞は方言で長い物語になっているので、出だしは次のようになっている。454_2


 「♪安里屋のクヤマによ あん美(チュ)らさ生りなしよ 目差主(メザシシュ)ぬくゆだらよ あたろやぬ望(ヌズ)むたよ 目差主や ぱなんぱよ あたろやや くりやおいす⋯⋯」と続く。
 「安里屋のクヤマ女は 素敵な美人に生れていた 目差主(メサシシュ)に見染められ 当る親に望まれた 目差主は私はいやだ 与人役へご奉公します⋯⋯」。
 琉球王府の時代、島を統治する役人に与人(ユンチュ=村長、あたる親と尊称していた)と目差(助役)などがいた。役人は島に3年勤務で交代する。妻子の同伴は禁止されていたので、賄女(マカナイ)を奉公させる慣例があった。

  歌は続く。クヤマに嫌われた目差主は、面当てに隣の中筋村に走り行き、村を探しまわっていたら、素敵な美人に出会った。イシケマという。親のもとに飛んで行き、娘さんを私に下さいと頼み、親は欲しいなら連れて行って下さいと言う。宿舎に連れ帰り、腕を組んで寝むった。男の子は島の統治者 女の子は良妻賢母に生まれますように。

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 こんなお話である。クヤマ生誕の地の入り口には、歌詞の一部が書かれていた。 
 「安里屋ぬクヤマによう 目差主ぬくゆだらよう」
 ただし、竹富島ではこの歌詞だが、石垣島など他の地域では、歌詞がまるで違った展開になっている。
 「♪目差主ぬくゆだら あたろやぬ望もたら 目差主やぱなんぱ あたろやや くりゆむ」
 「目差役人に見染められ 当る親に望まれた 目差役人は私はいやです 当る親(与人)も私は否やです」と村長も助役もイヤですと拒否する。そして、「後のことを思っ
て⋯⋯島 の夫を持たなければ」と、島の男を夫にすることが後のためになる、ときっぱりと歌う。クヤマさんの気高い姿が描かれている。
 実際はどうなのか。安里屋のクヤマさんは、1722年に安里屋に生れ、1799年に78歳で亡くなった。1738年に新任役人が赴任したさい、16歳の若さで村長である与人の賄女として奉公し、与人の寵愛(チョウアイ)を受けた。いよいよ転任のとき、与人は竹富きっての一等地をクヤマに与えたという。
 以上の歌の歌詞や歌の解説などは、喜舎場永珣(キシャバエイジュン)氏著『八重山民俗誌下巻』を参考にさせてもらった。
 クヤマの例に見るように、役人の賄女になれば、恩典があった。だから「若い女性にとっては憧れでもあり羨望の的であり、また名誉でもありました」と喜舎場さんは言う。

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 その点には私は異論がある。別の島では、賄女にされることを嫌がった、恐れたという例もたくさんあるからだ。詳しくは、別稿の「愛と哀しみの島唄」をブログにアップしてあるので、関心のある方は読んでみて下さい。
 ではなぜ、石垣島などでは、逆の抵抗の歌詞になったのだろうか。喜舎場さんは「これは治者階級の士族に対する平民のレジスタンスであります。不可能とは知っていたが、せめてこの歌を謡って自ら慰安を求めていたような感じがします」と指摘している。これは、的を射た見解だと思う。
 島の美人といえば、若者たちの憧れでもある。それを役人が権威にまかせて賄女として横取りすることに、民衆は面白くない。不満も感じていただろう。だから、クヤマさんが、役人の要求を拒否して島の男を選ぶという、気高い女性像として描いたのではないだろうか。
 喜舎場さんは、竹富島の歌詞で歌うべきだと言う。ただ、自分で歌ってみると、役人の要求を拒否して島の男を選ぶという、石垣島などの歌詞の方が好きだ。気持ちが入る。

2012年9月14日 (金)

歌碑のある風景、久米島にはたくさん歌碑がある

久米島にはたくさん歌碑がある 

 

 久米島には、島が舞台になった民謡がたくさんある。歌碑もいくつも建てられている。歌碑めぐりをしたわけではないが、島内を回っていると、いくつか出合った。
 最初は、久米島の名木「五葉の松」の前にあった。五葉の松は、右写真で見るように、巨大な松の枝が、上に登るのではなく、下にはっている。松の木の根元にある、土の神、農業の神の土帝君(トーテークン)を祀ったとき植えた松だという。
 歌の歌碑は「久米島はんた前節」。「♪久米の五葉の松 下枝の枕 思童無蔵や我腕まくら」。意味は、久米島の五葉の松は、下枝が枕のようだが、愛しい人(彼女)は私の腕を枕にしている。

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 左写真は、「仲里節」の歌碑。「♪聞けば仲里や 花の本てもの 咲き出らば一枝 持たちたばうれ」。歌意は、右写真にある。「聞けば仲里は花の本場であることだから、花が咲き出たら一枝ください。花とは美しさにたとえて美しいものを意味し、仲里とは現在の宇江城城址一体の場所である」。

  この唄は、とてもとても、ゆったりと歌う。琉歌であるから、字数は「8886字」だ。けれども、「聞けば仲里」の 8字だけで曲の一番の歌詞になっている。だから歌詞の1字、2字で、「チキーーーーーーーーーーーーーーーーーー」「バーーーーーーーーーーーー」という具合に、12~19拍も朗々と歌う。これで4回歌うことになる。

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 この歌碑のあるのは、宇江城の海岸、「タチジャミ」という巨岩がある場所の駐車場に建てられている。タチジャミを見に行ったら、偶然この歌碑があった。
 次の歌碑も、まったくの偶然だった。帰り路に車で走っていると、「白瀬川」(シラシカワ)の地名の看板を見つけた。これは、「民謡に出てくる場所だ」と思って向かった。なるほど、川があり、そのそばに歌碑が建っていた。

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「白瀬走川節」(シラシハイカー節)の歌詞にある。「♪白瀬走川に 流れよる桜 すくて思里に 貫きやりはけら」。 歌意は「白瀬の流れの早い川に流れる桜を すくい上げて愛しい彼氏に貫いて花輪(レイ)にしてあげよう」。この歌詞は、舞踊曲の「貫花」(ヌチバナ)の中の「武富節」(タキドゥ
ン節)になっている。
 「武富節」では、これに続けて次の歌詞がある。「♪赤糸貫花や 里にうちはけて 白糸貫花や よ得れ童」。この歌詞は、上写真の碑だ。歌意は下写真にある。「赤い糸で抜いて集めた首飾りの花輪は、わが恋する彼の胸にかけて 
白糸で抜き集めた花輪は、必要ないからもらいなさい子供たちよ」。本来なら、この白糸の抜いた花輪は、彼女がつけようとなりそうだが、白糸の花輪は縁起がよくないから必要ないと言っているようだ。Photo_11

 久米島の嘉手苅に流れる白瀬川の川べりに降りてみると、この琉歌の雰囲気が少しわかるような気がする。
 久米島は、久米島絣が年貢の米の代納とされ、貢納する税の7割ほどが貢布だったという。八重山や宮古の人頭税をめぐってはあ、つらく哀しい唄がたくさんある。久米島でもきっと、貢布をめぐって多くの女性が、悲哀を味わっただろう。地元の人にたずねると「仲里村誌」を見ればのっているのではないか、と聞いていたが、掲載されていなかった。
 『仲里村誌』には、久米島の歌謡が掲載されている。それを見てちょっと驚いた。それは、一つは「オモロ(古代歌謡)にくらべると、いっぱん歌謡の数はひじょうに少ない。もともとそれは少なかったのではなく、採録と伝承が不十分であったために、次々と忘れられたのではないか」ということ。残念なことである。
 もう一つは「仲里節とか白瀬走川節などと、こちらの地名が取り入れられているからといって、その歌詞や曲節が、こちらで生れたと決めてしまうことはできないし、近頃の琉歌の注釈書などに、久米島の歌としてあるからと、それを鵜呑みにすることもどうかと思う」とのべていることだ。      


 これまで読んできた民謡、琉歌の解説では、だいたい両方の琉歌とも、久米島の歌とされていたので、驚いた次第だ。自分では、まだ確かめようがない。とりあえず、歌碑は久米島にあるので、久米島の歌としてお164こう。

 
 まだ歌碑があった。阿嘉のひげ水(アカノヒジミジ)という名所にある。ここは、断崖の割れ目から水が湧き出ていて、それが強風にあおられると、水は下に落ちるのではなく、逆に吹きあげら

れて、水煙のように上に伸びる。あたかも、長い白いひげのように見える。それが「ひげ水」の名前の由来だ。でもこの日は、風は結構あったけれど、水量が少ないから、舞い上げられない。下に落ちていた。地元の人に聞くと、いまは取水しているから、水が少ないとのことだった。
 ここに「阿嘉から節」の碑がある(右上写真)。「♪阿嘉のひげ水や 上んかいど吹ちゅる かまど小(グヮ)が肝や のぼりくだり」。その横にこの唄の説明があった(左写真)。これは、景観を詠んだのではなく、恋歌だという。
 阿嘉の美しい娘と若い村役人(文子=テグ)との恋仲がうわさに上がり、その2人の仲をひげにたとえるなど、大変ユーモラスに歌われている、ということだ。

2012年9月13日 (木)

歌碑のある風景、伊江島にある歌碑

離島編  伊江島にある歌碑

 沖縄には、島ごとに言葉があり、民謡をはじめ芸能がある。伊江島にまつわる民謡、古典音楽がいろいろな曲がある。島の公民館に行くと、敷地内に歌碑があった。
 琉球古典音楽の「東江節」(アガリエブシ)の碑がある。大きな石には琉歌、小さな石には歌意が刻まれている。

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 「東あかがれば 夜の明けんともて 月どぬきゃがゆる 恋し夜半」
 歌意は次のように記している。
 「東の空が白みかけると夜が明けると思っていたら、そうではなく月がのぼって来るのであった。それならば恋人ともう少し語り合う時間があったのに、急いで別れてしまって惜しいことをした。ああいつまでも忘れぬことのできぬ恋しい夜半だ」
 とっても優雅で味わいのある恋歌である。伊江島は、東江上、東江前などの地名がある。歌の題はそこに由来するのだろうか。
 

 010 古典の曲なので、まだ三線で弾いたことがない。
 20万株のテッポウユリが咲くリリーフィールドにも、恋歌の歌碑がある。これも琉球古典音楽の有名な曲で「仲村渠節」(ナカンダカリフシ)という。ただし、伊江島にある歌碑は、題名が少し違っている。琉歌は同じ内容である。
 歌碑は「仲村柄節」(ナカムラカラブシ)とある。
琉歌は「仲村柄そばいど 真簾(マスィダシ)は下げて あにらはもとまば 忍(シヌ)でいまうれ」。下に歌意が書かれている。
 「仲村柄家の母屋のそばいど(屋戸口)に すだれをさげてあるときは大丈夫だから 忍んでい
らっしゃい」

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 この歌には、哀しい伝説がある。仲村渠家は、島の旧家で、娘の交際にもうるさかった。この家の娘のマカトゥーは絶世の美女で、島の若者の憧れの的だった。しかし、彼女は海を隔てた伊平屋島(イヘヤジマ)に、松金という恋人がいた。彼に逢うのに海岸に出かけたところ、運悪く島の若者に見られてしまった。若者は嫉妬して、「マカトゥーを見たぞ!」と叫んだ。見られた彼女は、恥ずかしさのあまり、断崖から身を投げたという。そんな悲劇の伝説が残されている。この部分は、仲宗根幸市氏編著の『琉球列島 島うた紀行第三集』を参考にした。

106  伊江島を舞台にした名作歌劇がある。「伊江島ハンドー小(グヮー)」という悲劇である。国頭村辺土名の娘、ハンドー小は、船が難破した伊江島の男・加那を助け、愛し合うようになる。ところが加那は突然、島に帰る。加那を信じるハンドー小は彼を追って島に渡るが、加那には実は妻がいた。ハンドー小はタッチュー(城山、右写真)で死を選ぶ。文字通り、伊江島を歌った民謡がある。
 タッチューも、ハンドー小も登場する。前川朝昭作曲の「伊江島渡し船」である。
♪離り伊江島や あざやかな心 人ぬ咲く浜に 船路渡てぃ サー渡てぃ見(ン)だな 伊江島かい
♪伊江島ぬ村や 守り神祭てぃ 絶ゆる間やねさみ 人ぬ拝み ハヤシ
♪城岳タッチュウ 眺みゆる姿 昔物語い ハンドーアバ小   ハヤシ
♪島村ぬ屋敷 見(ン)だん人居らん 世渡りぬ人ぬ 知らし所 ハヤシ
♪船頭主ぬ誠 志情(シナサキ)ぬ心 恵でぃ何時までぃん 人ぬ手本 ハヤシ

 歌意は大体分かるが、自己流で解釈してみた。
♪本島から離れた伊江島は 素晴らしい心もつ島の人々の花咲く浜に 船で渡ってみ
 よう サー渡ってみよう伊江島へ
♪伊江島の村は守り神をお祀りしている 絶える間もなく人々が祈願する ハヤシ
♪島のシンボル・城山の姿を眺める 昔の物語にハンドー小の悲劇がある ハヤシ
♪島村の屋敷を見ない人はいない 世間の人々に広く知らせる所だ ハヤシ
 (ハンドー小の物語の舞台になった島村の屋敷跡が観光公園になっている)
♪船頭主の誠実で、情けある心は いつまでも人々の手本になるよ ハヤシ
 (ハンドー小が加那を追って伊江島に渡るのを助けた舟の船頭を讃えている)
 歌詞はこの後、6番まであるが、省略する。伊江島ハンドー小の悲劇が歌詞の柱になっている。テンポがよくて人気のある曲だ。でも弾きこなすのはけっこう難しい。
 忘れてはならないのが、米軍基地の建設の
ため土地を奪われた住民が、米軍の横暴に立ち向かいたたかった時に歌われた曲である。有名なのが、本島に島民の窮状を訴えるためにつくられ、歌われた「陳情口説」(チンジョウクドチ)である。本島を縦断する「陳情行進」を、みずから「乞食行進」とも称した。だから「乞食口説」とも呼んでいる。 
 歌碑はないが、土地を守るたたかいを伝える反戦平和資料館「ヌチドゥタカラの家」がある(右)。

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 作詞は島の人で野里竹松さん。「口説」は、75調で歌い、旋律は共通している。抜粋して紹介する。
♪さてむ世ぬ中 あさましや いせに話せば 聞ちみしょり 沖縄うしんか うんに  
 ゅきら(さても世の中はあさましいことだ 腹の中から話しますから 聞いて下さい 
 沖縄の皆 さん聞いて下さい)
♪世界にとゆまるアメリカぬ 神ぬ人びと わが土地ゆ 取て軍用地 うち使てぃ(世
 界にとどろきわたるアメリカの 神のような人々が わが土地を取って うち使っ
 てしまった)
♪畑ぬまんまる金網ゆ まるくみぐらち うぬすばに 鉄砲かたみてぃ 番さびん(畑
 の周りに金網を 丸くめぐらして そのそばに 鉄砲かついで番をしています)
♪親ぬゆじりぬ畑山や いかに黄金(クガニ)ぬ土地やしが うりん知らんさ アメリカ
 や(親譲りの畑があってこそ 命がつながっています すぐに私らの畑を取り返して
 下さい)
♪たんでぃ主席ん 聞ちみしょり わした百姓がうめゆとてぃ う願いさびしんむて
 ぃぬふか(どうか主席様聞いて下さい 私ら百姓があなたの前に出て お願いするの
 はただごとではありません)
♪那覇とぅ糸満 石川ぬ 町ぬ隅(シミ)うてぃ 願さりば わしたう願いん 聞ちみせ
 ん(那覇や糸満、石川の町の隅々で お願いをしたならば 私らの願いを聞いて下さ
 いました)
 歌詞と訳文は沖縄国際大学大学院地域文化研究科「ウチナーンチュのエンパワーメントの確立ーー沖縄音楽社会史の変遷を通して」を参照しました。
 「乞食行進」では、三線を弾きながらこの「陳情口説」を歌って回ったという。伊江島の土地を守るたたかいは、その後の全県的な「島ぐるみ闘争」へのつながっていったのである。

2012年9月12日 (水)

歌碑のある風景、働く尊さ歌う「汗水節」

働く尊さ歌う「汗水節」の歌碑

 働くことの尊さを歌った民謡の名曲に「汗水節」がある。「アシミジブシ」と発音する。八重瀬町具志頭(グシチャン)に歌碑があるので訪ねた。
階段を登った上に歌碑がある。普通、有名な歌碑でも、公園や道路わきの一角にあるのが多い。でもここは専用の台地がつくられている。012
 旧具志頭村仲座で生れた仲本稔さん(1904-1977年)が作詞した。仲本さんは、沖縄県の養蚕指導員や具志頭郵便局長などつとめた。作詞は、1928年に県の貯蓄奨励民謡募集に応募して当選したものだ。仲座の青年団長だった時で、まだ25歳の青年時代である。
 仲本さんは、花や自然に親しみ、ふるさとをとても愛していた。膨大な日記をつけ、折々につづられた詩の数々は、読む人の心を打つ人間愛に満ちているという。
 汗水節の歌詞は次の通り。018
1、汗水ゆ流ち 働らつる人ぬ 心嬉しさや 余所ぬ知ゆみ(他人には分からない)
2、一日に一厘(五〇とも) 百日に五貫貯めてぃ損なゆみ 昔言葉
3、朝夕働らちょてぃ 積み立てぃる銭や 若松ぬ栄い 年とぅ共に
4、心若々とぅ 朝夕働きば 五六〇になてぃん 二十歳定み
5、寄ゆる年忘てぃ 育てぃたる産子 手墨学問や 広く知らし
6、御万人(公衆)ぬ為ん 我為ゆとぅ思てぃ 肝勇み勇み 尽しみしょり

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 歌詞は、私のサークル使っている工工四(楽譜)から紹介した。歌碑とは若干異なるカ所がある。歌詞を読むと、たんに貯蓄奨励にはとどまらない。汗を流して働くことの尊さ、喜び、働くからこそ元気でいられる、働くことを通して世の中に尽くし、自分のためにもなる、と教える。教訓歌である。
 この歌詞に、近代沖縄音楽の父とも呼ば
れた宮良長包さんが作曲した。当初、題名は「勤倹貯蓄の奨」だったのを、宮良さんが改題して「汗水節」とした。これがヒットして、多くの県民に愛される歌となった。ただ、仲本さんと宮良さんは、生涯に一度も対面することはなかったそうだ(「琉球新報」2012年6月1日付)
 歌碑は、作詞55周年、生誕80周年を記念して1984年に建立された。生誕百周年には記念植樹もされていた。

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 これだけ立派な歌碑がつくられているところに、この「汗水節」が具志頭の人たちに愛され、人々の誇りになっていることがよくわかる。
 なおこの付近は、坂道を登った山頂には多々名城(タタナグシク)跡があるという。
 13世紀末から14世紀初期の頃、花城按司(アジ、豪族)が築城した。花城と言われたが後に多々名城と呼ばれた。本丸、二の丸、三の丸、御内原跡というように各城郭で囲まれていたというから、立派な造りだっただろう。
 盛んに海外貿易を行い、素鉄を輸入して武器をつくり武力を高め、農具をつくって領地の農民に配り、農業を盛んにしたという。沖縄本島の南部のそれほど大きくない地域の支配者でも、これだけの城郭を築き、海外貿易まで行っていたというから驚く。
 八重瀬町にある「汗水節」の歌碑を見たあと、近くにある具志頭(グシチャン)中学校に立ち寄った。「汗水節」が学校教育にも生かされていると聞いたからだ。

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 校舎に看板が掲げられているのが見える。看板には歌詞が記されている。
「汗水節の心を行動に!」と呼びかけている。この歌が、郷土の大先輩が作詞し、村内はもとより沖縄を代表する民謡として歌い継がれていること。具志頭中学校の生徒も、自分たちの歌として誇りを持っているとして、看板にある5つのことの教えとしてまとめている。
 「汗水節の心」の歌として、具志頭琉歌愛好会の人たちが詠んだ琉歌10の作品が、この看板の裏側に掲げられている。

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 歌碑を各地で見たけれど、民謡が学校教育の現場にも掲げられているのは初めて見た。沖縄民謡には、教訓歌が一つのジャンルをなしている。「汗水節」もその代表だ。
 ほかに、県民に愛されている民謡トップの「てぃんさぐぬ花」、八重山民謡の「デンサー節」、宮古民謡の「なりやまあやぐ」、「新宮古節」「物知り節」など。人として生きる上での大切なことを、民謡として、歌い継いでいる。それは県民の共通の肝心(チムグクル)ともなってきたのだろう。

2012年9月11日 (火)

歌碑のある風景、沖縄の肝心を歌う「兄弟小節」

沖縄の肝心歌う「兄弟小節」の歌碑 

 沖縄の肝心(チムグクル)を表現するウチナーグチ(沖縄語)の一つに「イチャリバチョーデー」がある。「一度出会えば兄弟」という意味である。島に生きるウチナーンチュの、人とのつながりを大切にする気質を表す代表的な言葉である。その名言をそのまま唄にした名曲がある。前川朝昭作詞、屋良朝久作曲の「兄弟小節(チョウデーグヮーブシ)」という。その歌碑が、与那原町の東浜(アガリハマ)にあるので、以前訪ねたことがある。

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 すでにブログにアップしてある「戦世と平和の沖縄島唄」でも、紹介してある。大理石だろうか、黒光りがしている。歌碑としては、これ以上立派なものは、まだ見たことがないほどである。私の通っている民謡サークルも、前川流の流れを汲んでいる。だから、「名護ぬ七曲い」「伊江島渡し船」「我した生まれ島」など、前川作の民謡がいくつも課題曲に入っている。これらの曲を弾けば、その世界では「ああ、前川流ですね」といわれるそうだ。ただし、「兄弟小節」は入っていない。早弾きの感じで、少し難しいからかもしれない。
 この唄にはエピソードがある。前川さんが戦後、雨がしとしと降る日、那覇市のメインストリートである国際通りを歩いていた。そこでばったりと戦友に会った。その時、前川さんの口から出た言葉がある。
「汝(イヤ)ーん 生ちょーてーさやー 元気やてぃまた、行逢ちょーる節(シチ)んあてーさやー」
 やあ、あなたも生きていたか、お互いに生き抜いて元気だから、またこうして出会える時節もあったよ、というような意味だ。
「兄弟小節」の三番に、ほとんど同じ言葉が歌われている。

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「♪嵐世(ユ)ぬ中ん 漕(コ)ぢ渡(ワ)て互(タゲ)に 又行逢(イチャ)るくとん あてる嬉しゃ 行逢りば兄弟 何隔(ヌウフィダ)てぬあが 語れ遊ば」=嵐のような戦争の世も こぎ渡ってお互いに会えることができた うれしいことよ。一度会えば兄弟 何の隔てがあろうか 語り合い遊ぼう。
「♪たまに友(ドシ)行逢て いちゃし別りゆが 夜(ユ)ぬ明きて太陽(ティダ)ぬ 上がるまでん (同じハヤシ)」=たまに友人と会って どのようにして別れようか 夜が明けて太陽が上がるまで 遊ぼう。

 
 なぜ与那原町に歌碑があるか。前川氏の出身地だから。歌碑は二〇〇五年に、与那原町顕彰碑・歌碑建立事業会とこれに賛同した前川朝昭門下、一門会によって建立された。2011年3月4日「さんしんの日」には、私のサークルの仲間であるHさんも、この碑の前にかけつけ、一門の人たちが一緒に演奏したという。
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上写真には「いきやへば兄弟 何うち隔のあが」(いちゃりばちょうでー ぬーふぃだてぃぬあが)の言葉の由来が刻まれている。
 もともとは、伝統芸能「組踊」の「大川敵討」の一節だとのこと。「右の台詞は、沖縄の先人たちが、つねに持ち合せていた美しい心である。『諸国万民は皆兄弟と思い慈
しみ合いなさい』との先人の教えで、万人友好と永久平和を愛する願望である。この台詞を与那原町出身の民謡歌手・前川朝昭氏が『兄弟小節』の囃子言葉に用い広く知らしめた。沖縄が全世界へ向けて発信しなくてはならない指針である」と刻まれている。
実に、格調高く、永久平和への願いが込められた碑である。
 ついでに、前川さんといえば「前川大主(ウフシュ)」という民謡まで作られている。
「♪神ぬ手どぅやゆる 神ぬ声どぅやゆる 綾歌ゆ残す 前川大主シュラヨイ誇らさよ」(神のような手だよ 神のような声だよ 美しい歌を数々残した前川大主 誇らしいことだ)
 これは「前川本流寿の会の歌」だという。前川朝昭さんへの賛歌である。
 わがサークルの今年の新年会でHさんと一緒に演奏したことだった。作詞は上原直彦、作曲は金城実といずれも大家である。初めてこの曲の譜面をもらった時は、「神の手、神の声」とすこし神格化しすぎではないのか、と違和感があった。でも、前川朝昭さんのCDアルバムを聞くと、三線も歌も、とっても上手いし味わいがあり、見事。思わず「うーん」と唸ってしまった。生演奏を一度聞いてみたかった。

2012年9月10日 (月)

アルテで「遊び仲風」を歌う

 毎月恒例のアルテ・ミュージック・ファクトリーの9月のテーマは「遊」。「遊」は、民謡ではたくさん登場する言葉である。上原直彦作詞、普久原恒男作曲の「遊び仲風」を歌った。

 「遊(アシ)び」は、沖縄ではとっても大事な言葉がある。「遊びの美らさ」と歌われるし、「遊び庭(アシビナー)」があり「村遊び」「毛遊び(モーアシジ)」もある。これらは、大和ではない言葉である。

 「遊び」とは、なにより歌と踊りであり、芸能である。歌い踊る広場として「遊び庭」がどこの村にもあった。ウチナーンチュが暮らしと人生に欠かせないのが「遊び」といっても過言ではないだろう。

今回は、嬉しいことに歌三線が4人も登場した。最初は、八重山民謡の名手、大工哲弘さんの弟子で、もうあちこちに舞台に立っている杉田園さん。

008 「月ぬかいしゃ」を披露した。透き通るような美しい声に魅了された。この歌は、やはりこういう美声で歌う方がやっぱり映える。

010  次は、玉那覇宗造さん。「遊びションカネー」。声はよく通るし、三線もしっかりと弾けていて味わいがある。ギターサークルのメンバーで、ギター、三線の両刀使いだ。
 もう一人katuraさんが「ちんぬくじゅーしー」を歌った。大阪出身でまだ5年くらいだというのに、上手に弾けるのはスゴイ。
 大工仲間でつくるという「カーペンターズ」はマンドリン主体だが、民謡「遊び庭」を演奏し、三線もメンバーの一人に入っている。先に書いたように、「遊」はなにより歌と踊りだから、「遊び」が題名につく曲も多い。

 さて、私の番。出番の前に「上がり症」なので、ノンアルコールビールを飲んで出たが、関係なし。逆にゲップが出る。やはり、出鼻でつまづいた。ただその後は、なんとか軌道にのった。難しい曲だが、演奏のやりがいはある。014

 歌った「遊び仲風」の「遊び」はあまり意味がない。「仲風」とは、8・6字数で作る琉歌と7・5字数でつくる和歌の両方の要素を取り入れた歌だから「仲風」と呼んでいる。
 「♪忘らりみ 忘ららん たげに染みなちゃる 玉ぬ御縁 里よ⋯⋯」
 「♪手枕ん 言語(イカタ)れん 仮に通わちゃる 縁やあらん 里よ⋯⋯」
 「♪語らてぃん 語らてぃん 思い云言葉(イクツバ)ぬ 残る恨めしゃ 里よ⋯⋯」

 歌詞は、前半は75調、後半は86調で作られている。
 忘れられない、お互いに心を染めあった深い仲だった。手枕をして 語り合った 心を通わせた仲だった。彼が語った言葉の数々が 今も耳元に残る 恨めしいことよ。こんな歌意だろう。

 作曲者の普久原さんがインタビューに応えて語った『芭蕉布 普久原恒男が語る 沖縄・島の音と光』の中で、「遊び仲風」(1982年)について、次のように語っている。

 「これも今までの民謡になかったものを目指したわけです。 古典風というものがない。古典風の旋律の運びがある民謡というものがないんです」。古典といっても民謡をもとに作られたといわれているので「それなら民謡のほうも古典を取り入れた民謡もあっていいんじゃないか、と。そういう発想です」。こんな作曲の動機を話している。

 ツレは、最後のトリで、仲村清美さんのピアノ演奏とハモリで、大塚博道の名曲「めぐり逢い紡いで」を歌った。 032  のびやかな声が場内いっぱいに響き渡り、曲の心をよく表現していた。ハモリの清美さんはマイクなしでも声が響く。清美さんは、昼間バーベキューでもう酔っていて、ピアノは少しもつれかかったところがあったがハーモニーはバッチリ。熱演だった。「トリにふさわしい演奏でした」と主宰する越智さんが評した。曲目の選択もよかった。

 来月のテーマは「心」。まだ何を歌うのか未定だが、心は沖縄では「肝(チム)」とも表現する。「心、肝」が歌われた歌はいくらでもある。さてどうなるだろうか。

2012年9月 9日 (日)

オスプレイ配備反対、県民大会に10万人余参加

 オスプレイ配備に反対する沖縄県民大会に、ジッとしてはいられないので駆け付けた。日米両政府にレッドカードを示すためシンボルカラーの赤いTシャツをツレとともに着て、手作りプラカードを持参した。002  午前10時前に宜野湾市の海浜公園多目的広場に到着した。ぞくぞくと人々が集まる。会場は、レッドカラーで埋まった。東京あたりの集会とは、様相が大違い。東京では、労組の動員が多く、組合旗が林立するが、この会場は組合旗は目立たない。

 41市町村の代表はじめ、自治体から大学、専門学校、老人クラブ、女性団体、家族連れはじめ各界から多彩な人々が集まった。012  「琉球新報」「沖縄タイムス」は、県民大会成功へ、大特集を組んで無料配布を競い合う。

004_3 005  大手スーパー「カネ秀」の旗も翻っていた。カネ秀女性部のノボリも見えた010  みんな創意をこらして手作りのプラカードなど持ち込んでいた。

022_2 大会の始まる前には、アトラクションで歌手が3人登場して、平和にかかわる歌をそれぞれ歌い上げた。013 最初の登場したのは、意外にも美空ひばりの歌碑を建てたことで、このブログでも紹介した石原エミさんだった。

 031  大会が始まった。喜納昌春県議会議長をはじめ5人の共同代表がそれぞれ、県民の反対する欠陥機の配備をあくまで強行しようとする日米政府に怒りを込めて抗議し、配備撤回を求めた。

038  仲井真弘多県知事は、欠席しメーセージを寄せた。配備反対は変わらないといいながら沖縄振興予算への思惑があるのか、欠席したことに、参加者の抗議のブーイングがわき上がった。

 「未来へのメッセージ」として、沖縄国際大学学生の加治工綾美さんが「この青い空はアメリカのものでもない、日本政府のものでもない、沖縄県民のものだ。危険な軍用機は飛ばせない」と力強く訴えた。思わず「その通りだ!」と叫んだ。042

 県民大会は、台風直撃で8月5日から9月9日に延期された。政府は延期によって参加者が少なくなるではないか、と淡い期待をかけたようだ 
 しかし、県民は見事にそんな思惑を打ち破り、炎天下にもかかわらず、主催者発表で10万1000人が参加した。
 会場内はぎっしり人々で埋まり、会場周辺の木立の下など大勢の人々が取り巻いていて、帰り際にもまだまだ集まってきていた。発表前に「普天間の県内移設反対の読谷村での県民大会より多いかもしれないね」と話していた。やっぱり、米軍関係の県民大会としては、過去最大の参加だった。

 大会は「オスプレイ配備計画を直ちに撤回し、同時に米軍普天間基地を閉鎖・撤回するよう強く要求する」という大会決議を採択した。

  Img_0076  大会は、都合で最後までいられなくて、帰途に就いたが、もう大会速報の号外が配布されていた。
 夜のラジオポップス番組でも、リスナーはみんな「県民大会に参加したよ」「仕事で参加できなかったけど、気持ちは同じだ」「洗濯で赤い衣類を洗って干してきた」など、熱い思いを届けていた。ここにも、オスプレイ配備反対が県民の総意であることが示されていた。

2012年9月 8日 (土)

歌碑のある風景、県民を鼓舞した「ヒヤミカチ節」

県民を鼓舞した「ヒヤミカチ節」

 沖縄民謡「ヒヤミカチ節」をつくったことで知られる山内盛彬の生誕120年を記念して建立された歌碑が完成した。それで沖縄市に出かけた。 
 「ヒヤミカチ」とは「えいっと気合いを入れる」意味のウチナーグチ(沖縄語)である。戦禍にあえぎ、米軍支配に苦しむ戦後の沖縄で、県民を鼓舞するのに一役かったのがこの民謡だった。 

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 歌碑建立実行委員会がつくられ、資金集めをして、完成して除幕式が2011年3月27日に行われたばかりである。碑が建立された場所は、沖縄市胡屋の沖縄長寿センター「緑樹苑」の敷地内である。なぜこの場所なのか? 
 それは、山内さんが、1979
年に建設された緑樹苑に最初に入所し、妻ツルさんとともにここで過ごしたという。同施設を運営する緑樹会の金城和昌理事長は「1年8カ月の(施設の)生活で山内さんは古謡を行事の折々に歌い、利用者間の親睦に努められた」と話している(「琉球新報」4月15日付)。

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 歌碑は、ひらがなの「ひやみかち節」の歌詞と、この曲の五線譜が刻まれている。珍しい歌碑である。前にもブログで書いたように、この歌は、沖縄自由民権運動の活動家で、ハワイからアメリカに移民として渡った平良新助さんが、戦後、沖縄に帰ってきて詠んだ琉歌に山内氏が作曲した。上が歌碑の歌詞である。
 歌詞は、1番が平良新助、2番、3番が山内盛彬の作詞である。歌詞を自己流の解釈で紹介しておきたい。
 「♪七転び転び、気合いを入れて起き上がり、われらの沖縄を世界に知らせよう」
 「♪花が咲いた美しさ 音楽の鳴りひびく美しさ 聞かせよう世界に 音楽の腕前を」
 「♪私は虎だもの 羽をつけて下さい 波路太平洋を 飛び渡って見せよう」
 五線譜は、前奏からではなく、歌の部分の楽譜である。
 この曲が誕生したエピソードを『山内盛彬著作集第3巻』から紹介しておきたい。
 戦後、東京にいた山内氏の家に恩人の玉代勢法雲先生が見えて「大戦で打ちひしがれた人心を復興するには、この歌を作曲して奮い立たしたらどうか」作曲を勧められた。
「その歌を一回見るや、その熱意に動かされ、ヨシー、ヒットして同胞の目をさまそうと決意した。作曲というものはその意欲のクライマックスの感じをとらえることだ」。この歌が、多くの人の心をとらえ「燃えひろがったのは、平良氏の情熱の結晶した結果」だと記している。021
 しかし、山内氏自身が、平良に負けないような県民を奮い立たせる歌詞をつくっている。
 この曲のいきさつを知った当初は、平良が作詞し、山内が作曲したと単純に思っていた。でも実際は山内氏も作詞した。
 歌碑には、山内氏が80歳のときに詠んだという琉歌も刻まれている。 
「滅びゆく文化 忍で忍ばれぬ もちと命かけて譜文に遺さ」。山内氏の自筆だという。
 立派な歌碑が完成したことで、山内氏もグソー(あの世)から見て、きっと喜んでいるだろう。
 山内盛彬も、「ヒヤミカチ節」が、高校野球の興南高校の応援歌になったり、東日本大震災の被災者を支援する歌になったりしていることまでは、予想できなかっただろう。 下写真は「ヒヤミカチ節」を歌う登川誠仁(NHK沖縄のテレビ画面から)011  
 でも、沖縄民謡は、よい曲はすぐに替え歌をつくり歌ったり、歌詞をつくって付け加えたりすることは、ごく当たり前のことだので、なにも驚くことではない。
 それにしても、私が練習している「ヒヤミカチ節」の工工四(楽譜)では、この歌碑の歌詞よりも先に、平良、山内両氏以外の人が付け加えた歌詞が先に出てくる。でも本来は、この歌碑にある歌詞で歌うのが、この曲の精神にあっているではないだろうか。

2012年9月 7日 (金)

歌碑のある風景、歌が流れる「梅の香り」歌碑

歌が流れる「梅の香り」歌碑

 沖縄民謡の名曲に「梅の香り」がある 。沖縄に来て、三線を弾き出してすぐこの曲を知り、魅力にとりつかれて、毎日弾いていた。新川嘉徳氏が作詞作曲した。出身地の西原町小那覇(おなは)に、顕彰碑があるので出掛けた。

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 児童公園の一角にある。そこには、梅の木が植えられ、白梅がちょうど咲き誇っていた。碑を訪ねるには、もっともふさわし時節だ。
 中央に歌碑があり、右に新川さんの顕彰碑、左に「梅の香り」の歌詞が刻まれている。
 この曲の歌詞は、1~4番まである。要旨を紹介する。

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  「朝夕水をかけ、心をこめて育てた梅が咲くのはいつだろうか、奥山の花も季節を
待って咲く、梅が咲かないはずがない。さあ咲いた初花の香りのいいことよ」。清楚で美しい梅の花と香りをほめたたえた唄である。
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 1937年にレコードが発売された。「琉球音楽に洋楽の影響が潜み、グローバルで斬新な曲と評価され親しまれている」。顕彰碑では、こう記されている。
 そういえば、沖縄民謡ではあるが、他の曲とは曲調がまるで異なり、どこかセンスがよく、それが魅力として感じていたようだ。やはり、洋楽の影響があるという。それは、経歴を見れば納得がいく。

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 1899年2月10日に生れた新川氏は、14歳でハワイに渡った。一旦帰郷したのは1936年だから、20年余りハワイなど外国暮らしをしていたようだ。沖縄から戦前、たくさんの人たちがハワイへ移民として出掛けた。ハワイで、働きながら電気機械工学を学び、蓄音器関連の発明で、米政府から特許もとった。蓄音器の針を自動交換する仕組みだという。その一方では、音楽にも関心を持ち、演奏会なども行っていた。  
 電気機械工学の知識があり、音楽でも作詞、作曲、演奏まで行うとは、とても豊かな才能を持っていたのだろう。
 ところで、「梅の香り」に親しみだした時から、不思議だったのは、沖縄にはあまり梅の木がない。あるけれど少ない。それに、大和では、寒い冬を過ぎて、梅が咲き出すと「梅一輪、一輪ほどの温かさ」の句がすぐ頭に浮かぶように、春の兆しを感じる花である。でも、冬でもいろんな花が咲く沖縄で、梅への思い入れはあまりない。なのに、これほど、梅への思いを込めた唄がなぜ、できたのだろうか、と思っていた。041
 新川氏は、14歳で沖縄を離れ、1936年にいったん帰郷した後、大阪に渡り、「梅の香り」などの新作レコード吹き込みを行ったという。沖縄だけでなく、外国暮らし、大阪などの生活を体験しているので、こうした「梅の香り」のような曲が作れたのだろう、と自分で
勝手に納得した。新川氏は、他にも「平和行進曲」を広島市平和文化センターへ寄贈したというから、平和への思いも深かったのだろう。
 この顕彰碑のある場所で、一番の目玉は、実は「梅の香り」の唄が聞けることだ。写真に見るように、赤いボタンを押すと、録音がスピーカーから流れる。しかも、3種類の歌手の録音がある。せっかくだから、全部聞いてみた。古いのは、なんと1939年の録音だ。さすがにシャリシャリと音を出しながら唄が流れる。あとの2つは、2006年のもの。有名な女性歌手、古謝美佐子さんの唄も聞ける。周りの住宅にうるさがられないか、心配しながらも、全部聞いてみた。

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 この録音は、なんと小那覇では、正午を知らせる時報代わりに流れるそうだ。
 これらの顕彰碑は、有名な「梅の香り」を作った新川氏が、小那覇の出身だと知った地元の有志が歌碑建立実行委員会を立ち上げ、10年前の2001年に建立した。唄が聞ける装置だけは2006年に追加して、設置された。
 2002年からは毎年、「『梅の香り』うた遊び大会」を開いているという。一度、聞いてみたいものである。

2012年9月 6日 (木)

歌碑のある風景、平敷屋朝敏の妻・真亀の碑

朝敏の妻・真亀の歌碑

朝敏が処刑されたとき、妻・真亀(マガミ)と娘は、首里からうるま市の高離島(宮城島)に流され、身分も士族から百姓に落とされた。この地で妻が詠んだ琉歌の歌碑が建っている。高離バンタと呼ばれる高い崖の上の眺めのよい場所にある。
「高離島や 物知らせどころ にゃ物知やべたん 渡ちたぼれ」

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 高離島はさまざまなことを教えてくれるところです。離島の苦しみ、人の情けもよく思い知ることができました。私の育った故郷の地に帰れますように。 こんな歌意である。真亀はこの地で亡くなったという。

 

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那覇市の離島へのフェリー埠頭のある泊(トマリ)の、安里川の河口付近にかかる泊高橋のたもとに歌碑が建っている。前から「泊高橋の歌碑は見ましたか?」と何人かから声をかけられた。魚の卸売市場の直売所「泊いゆまち」があり、よく買い物に行く時、泊高橋を通るのに、いつも見過ごしていた。改めて、見に行った。
 
 この橋は、国場川にかかる真玉橋(マダンバシ)、嘉手納の比謝川にかかる比謝橋とともに沖縄の名高い橋にあげられる。

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 もともとは木の橋だったが、1700年の尚貞王の時代に石の橋に架け替えられた。工期6カ月を要し、重さが1個で1トン以上の石材も使われたそうだ。
 歌碑は、橋の左岸たもとにある。
 「泊高橋に なんじゃじふわ落ち いちか夜ぬ開きて とめてさすら」
 「なんじゃじふわ」とは、銀のかんざしのこと。泊高橋から大切な銀のかんざしを落としてしまった 夜が明けてから探しだすことができるだろうかという歌意である。
 「詠み人知らず」といい、説明文は何もない。これだけ読めば、恋人と橋の上で会っていて、誤って大事なかんざしを落としてしまった。そんな情景を詠んだ琉歌のようだ。だが、この歌詞の表面を見るだけではわからない隠された思いが込められた琉歌だとも言われる。

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  それは、処刑された平敷屋朝敏の妻が詠んだという説である。
 男の子どもたちが先島に流刑にされたとき、朝敏の妻が、濡れ衣を着せられた夫の死を断腸の思いで詠んだと言われる。泊高橋の地名が歌い込まれているのは、子どもたちは、泊港から船で出ていったのだろうか。
  秘められた歌意とは、次のような内容だ。泊高橋でかんざし(夫や子ども、地位や名誉)をなくしてしまった。時代が変わり、名誉が回復される日が来るだろうか。
 そう思って読めば、琉歌に込められた深い悲しみが伝わってくる。組踊「手水の縁」の作者として名高い朝敏は、琉球王府の時代には、名誉回復されることはなかった。でも今日では、その作品と人格は高く評価されている。民衆によって、名誉は回復されたと言えるだろう。朝敏ゆかりのうるま市平敷屋では、毎年偲ぶ会が行われている。

2012年9月 5日 (水)

歌碑のある風景、平敷屋朝敏の歌碑

悲劇の文学者・平敷屋朝敏の歌碑

 

「琉球悲劇の文学者・平敷屋朝敏(ヘシキヤチョウビン)覚書」を書いた。琉球の歌舞劇である「組踊」の「手水の縁」の作者として名高い。結婚は親が決めるという封建道徳のしがらみを乗り越えて男女の恋愛を結実させる異色の作品である。 その朝敏は、当時王府でらつ腕をふるった政治家。蔡温(サイオン)の政治を批判する文書を薩摩藩吏の館に投げ込み、国家反逆者として一七三四年に磔で処刑された。

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朝敏ゆかりと地と云えば、うるま市の平敷屋だ。朝敏は、脇地頭(村を領有する)として在任中、平敷屋の農民の水不足を解消するために、用水池を掘り、その土を盛りつけてタキノー(小高い丘)を造った。この地には、朝敏を偲んで一九八六年、歌碑と碑が建てられた。

「あはれその畑打ち返す せなかより 流るる汗や 瀧つ白波」。働く農民を見て詠んだ和歌である。自分は貧しいがまだ安楽に暮らせるだけ農民より恵まれていると感じる。首里を追われてこの地にいた。そんな士族の貧しさと民・百姓の悲哀が映し出されている。そこには、この境遇を強いられているものとして、現実社会への厳しい目と弱者に対して注がれる愛情が感じ取られる。こうした体験を通して、政治に対する鋭い現実感覚が養われたのだろう。

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 碑文には、次のように記されている。「朝敏は、薩摩支配下における苦難の時代に、士族という自らの自分におごることなく、農民を始めとした弱い立場の人たちに暖かい眼差を向けることの出来た、沖縄近世随一の文学者でありました。思えば、朝敏の憂き目は、当時の封建支配の原理道徳に背を向けようとする、人間としての優しさゆえの到達点であった、と言い得ることである」。
 朝敏とその一門のお墓は、八重山と宮古諸島の中間に位置する多良間島(タラマジマ)にある。磔の刑にされた。長男の朝良は多良間島、次男は与那国島、三男は水納島に流刑にされた。墓には、1935年に朝敏夫妻ほか5人の遺骨が納められた。遺骨の護送は、沖縄本島の門中(ムンチュウ、父系の血縁組織)の一人、大宜味氏とマクルヤーの饒平名(ヨヘナ)長健氏によってなされたという。

 朝敏作の組踊「手水の縁」は、豊見城市の瀬長島が、主人公山戸(ヤマト)と美しい玉津(タマシン)の出会いの舞台になっている。手水を汲んでもらった縁で恋仲になる。親の決めた結婚しか認められなかった王府時代に、命がけで愛をつらぬく恋物語である。

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ゆかりの瀬長島に立派な碑が三つも建立されている。
 真ん中は、朝敏生誕300年記念顕彰碑である。両脇に「手水の縁」で歌われる琉歌の歌碑がある。                     

左側「世間とよまれる 瀬長山見れば 花や咲き美しさ 匂しほらしゃ」(世に名高い瀬長山を見れば、花は美しく咲き匂いも香しい)。山戸が瀬長島の情景をのべた歌。

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 右側「語て呉れ 恋ひ渡ら 浮世鳥鳴かぬ 島のあらは」(「語ってくれ、恋をしに島に渡ろう この世で夜明けを告げる鳥が鳴かない島があるならば」。瀬長島を恋を語る理想の島と見たてて詠んだ歌だとのこと。
 こんな立派な碑が三つもあるのは、朝敏と「手水の縁」がみんなに愛され、慕われているということだろう。

2012年9月 3日 (月)

歌碑のある風景、激戦の地・嘉数高台に建つ歌碑

激戦の地・嘉数高台に建つ歌碑

 宜野湾市にある嘉数(カカズ)高台。そこは「世界で一番危険な基地」とアメリカも認める米海兵隊普天間飛行場がよく見える場所として知られている。
 この嘉数高台は、沖縄戦の激戦の地として知られる戦跡である。読谷方面に上陸した米軍が南下して、最初に激しい戦闘が闘われたのが、この高台である。日本軍が高台を陣地としていたからだ。いまもトーチカ跡が残る(右)。

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 この高台でどれほどたくさんの日本兵、住民の血が流されたことだろう。日本軍はとくに京都の部隊が多かったので、「京都の塔」が建つ。朝鮮半島の出身者の犠牲を追悼する碑も建っている。
 嘉数高台の悲劇は、民謡にも歌われた。その歌碑(下写真)も建っている。
「嘉数高台(カカジタカダイ)」という唄だ。唄は戦争が終わったあとから、戦争をしのび平和を祈る内容だ。

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 「♪大戦終(ウフイクサオワ)て、一昔(ヒトンカシ)過て、世界(シケ)に知らりゆる きざし見して アー嘉数高台」=あの大きな戦争が終わって ひと昔が過ぎて この激戦が広く世間に知られる きざしが見えてきた ※アー嘉数高台よ(以下ハヤシは同じ)。
「♪年や新(アラタ)まて 平和御代拝(ミユウガ)で 願事(ニゲゴト)ん叶て 名うち出(ン)じて アー嘉数高台」=年は新たになり 平和の世の中を迎えて 願い事もかなって 嘉数高台の名前をうち出した。
「♪新名(アラタナ)ゆ取たる 村人ぬ手本(テフン) 弾ぬ雨(アミ)降りたる 戦偲(シヌ)ぶ=嘉数高台の新たな名が広がった 村人の努力のたまものだ 弾の雨が降った戦争をしのぶ。
「♪あまた御仏(ミフトキ)ん 安々(ヤシヤシ)とみそり 合掌(ニゲグト)や永久(トワ)に村ぬ守り」=数多くの戦没者の方々 安らかにお眠り下さい 手を合わせて祈ることは 永久に村を守ること。
「♪大嶽(ウフタキ)や後(クサ)て 花に囲まりて 共に村起(ムラ)ち 幾世(イクユ)迄ん」=守り神のいる御獄(ウタキ)を後ろにひかえ 花に囲まれて ともに村を起こそう いつの世までも幸せに。
 ここでは戦争は過去のものではない。まだ隣り合わせにある。宜野湾市の心臓部に居座るこの普天間基地は、即刻閉鎖してほしい、というのが市民、県民の願いである。

2012年9月 2日 (日)

歌碑のある風景、戦場の哀れ歌う「二見情話」

「戦場の哀れ」歌う「二見情話」

名護市の東海岸にある二見(フタミ)には沖縄戦のあと、難民収容所があったそうだ。そこにいた照屋朝敏氏が作った民謡に「二見情話」がある。ウチナーンチュがとても好きな曲だ。男女掛け合いで歌う。私たち夫婦も好きだ。
「♪二見美童(ミヤラビ)や だんじゅ肝清(チムヂュ)らしゃ 海山の眺み 他所(ユス)にまさてぃよ」=二見の乙女は とっても心が美しい 海山の眺めは またどこにもまさる美しさだ。081

「♪待ちかにて居(ウ)たる 首里上(スイヌブ)いやしが 出(イン)ぢ立ちゅる際(チワ)や 別りぐりしゃよ」=待ちかねていた 首里に戻る日がやってきた 出発する際に お別れしなければならないこの辛さよ。

「♪戦場(イクサバ)ぬ哀(アワ)り 何時(イチ)が忘(ワシ)りゆら 忘りがたなさや 花ぬ二見よ」=戦争による悲惨さは いつか忘れられるだろうか それにしても忘れがたいのは 花の二見のことだ。

二見の女性、親しんだ人々の心の清らかさ 景色のうつくしさ、別れの辛さを歌いながら、平和への思いが込められている。

曲を作った照屋さんは、南部の摩文仁から米軍の命令によって、他の投降者らとともに船で、名護市の大浦湾に入り、この二見に来た。村民は快く迎え入れてくれ安心したそうだ。ある日、村長事務所で年長者会議があり、その席上で二見の唄の創作の要請があり、二カ月後に完成したのがこの唄だという。

「これは平和祈念と二見の人への命からなる感謝をこめた御礼のメッセージでもある」。いま二見に建立されているこの唄の歌詞を刻んだ記念碑に、照屋さんはこう記している。074

      

歌碑を見ていて奇妙なことに気付いた。いま歌われている歌詞は六番まであるのに、この歌碑は五番までしかない。いま歌っている「行逢(イチャ)たしや久志小(クシグヮ)⋯⋯」(出会ったのは久志だった)という三番の歌詞の部分がない。なぜなのか。照屋さんが作詞した当初はなかったのが、その後付け加わったのだろうか。沖縄民謡では、他の人が付け加えるというのは、よくある話だ。それに、歌詞集にのっている歌詞と歌碑とまた少し違いがあるのもよくあることである。

この美しい二見と大浦湾はいま危機に立たされている。というのは、日米両政府がすぐそばの、辺野古(ヘノコ)の浜辺と海を埋め立てて、V字型の滑走路を持つ巨大な米海兵隊の新基地を建設しようとしているからだ。騒音被害や墜落の危険で住民生活は壊され、ジュゴンのえさ場となっている青く澄んだ海も破壊される。美しい風景は激変する。こんな無謀きわまりない計画は、絶対に許してはいけない。

Photo             名護市安部のビーチ


 同じ名護市の東海岸の大浦湾に面した安部(アブ)にあるカヌチャベイホテル&ヴィラズに泊りに行った。海の眺めがとてもよい絶好の位置にある。80万坪の広大な敷地に、本格ゴルフコースからプール、展望浴場・サウナ、フィットネスなどの施設と多彩なホテル棟が建ち、レストランに行くにもトロリーバスやカートに乗るほどだ。「心の楽園」「ゆとリズム」などが売り。のんびりと過ごせた。
 ここは、名護市の汀間(テイマ)から安部にかけ広がっている。この地名、民謡に詳しい人ならピンとくる。そう。「汀間当」の唄の舞台だ。
「♪汀間と安部境の川の下浜降りて、丸目加那と請人神谷が逢っていた 恋の話、本当か、真実かや」(訳文)と歌い出す。村の美人・加那と王府の役人・神谷の恋を、村の若者たちがはやし立てる内容だ。早弾きでテンポがよく人気がある。その歌碑が、なんとホテルの敷地内にあったのにはビックリした。ただ、歌碑の写真を撮り忘れた。

2012年9月 1日 (土)

歌碑のある風景、捕虜収容所で作られた「屋嘉節」

捕虜収容所で作られた「屋嘉節」

沖縄戦の中や戦後、各地に軍人を対象とする捕虜収容所や民間人の難民収容所がつくられた。なかでも、金武町屋嘉(キンチョウヤカ)にあった捕虜収容所は、民謡の屋嘉節に歌われて有名である。国道329号線を走ると、屋嘉ビーチバス停の横に、収容所跡の碑がある。碑文のあらましを紹介する。

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 第二次世界大戦中、米軍はこの地に捕虜収容所を設け、投降した日本軍将兵約七千人を収容して厳しい監視下におかれた。一時捕虜の数が増え約三千人がハワイに移送された。その時の将兵等はPWと呼ばれ敗戦の悲哀の中から、郷土出身の一兵士により「屋嘉節」が作られた発祥の地でもある。
 この収容所は1946年(昭和21年)2月、閉鎖となり、米軍保養所となって1979年(昭和54年)8月31日、全面返還されるに及んだ。
 捕虜収容所の辛い日々の中で、慰めと楽しみは、民謡や踊りだった。空き缶を使ったカンカラ三線が作られた。「PW無情」「屋嘉節」など作られて歌われた。収容所跡の碑の裏側は、屋嘉節の歌碑になっていた。

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 私が歌っている歌詞と比べると、3番目の歌詞が加わっていることや微妙に表現の違いがあるがほぼ同じである。歌詞のあらすじを紹介する。
 懐かしい沖縄が戦場になった、世の中のみんなが涙を流している。涙にぬれながら恩納岳に登って戦争をしのいだ。戦争が終わり、恩納岳を降りて伊芸村(イゲイムラ)を過ぎて、今や屋嘉村の捕虜収容所に連れて行かれ泣いている。哀れ屋嘉村の闇夜のカラスよ、親のいない私は泣かずにいられない。愛しい彼女は石川村の茅葺の長屋にいる、私は屋嘉村の浜で砂地を枕に寝ている。心に染みいる4本入り煙草、淋しさを月に流している。いまは屋嘉村の枯れ木も、やがて花咲かせる時節も来るだろう。

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 歌碑のすぐ前は屋嘉ビーチである。いまは捕虜収容所のあった面影は、歌碑以外にはみられない。でもビーチは、当時とそんなに変わっていないだろう。この砂地を枕に寝たのだろうか。

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 バス停横には、もう一つ碑がある。久高村住民強制疎開之記念碑である。
 次の琉歌が刻まれている。
「戦世の故に 生まり島はなり 屋嘉村の情き 忘してならん」
 戦争のために生まれ島の久高島を離れさせられた でも屋嘉村で受けた情けは決して忘れてはならない、という意味だろう。「並里仙人詠む」と記されている。
 久高島は、南城市の沖に浮かぶ小さな島だ。琉球開闢の祖といわれるアマミキヨがいた。神の島と呼ばれる。古い拝所や祭礼、民俗が残り、島の土地は個人所有ではなく、住民の共有であることでも知られる。

 いま島に行ってものどかで、とても悲惨は歴史があったと思えない。数年前島に渡ったけれど、強制疎開の話は、知らないままだった。

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碑文を紹介する。
 昭和20年(1945)太平洋戦争により久高島の住民は強制立退き命令によって生まれ島を離れ、疎開先である屋嘉に移り、当地の皆様に大変お世話になった。よって、ここに感謝の意を表し、久高島強制疎開の事実を、戦争というものの実態と共に後世に永く語り継ぎ、平和を守る礎と資する力となることを願って記念の碑を建立した。
 2006年9月20日竣工。まだ5年前に建てられたばかりである。この碑のおかげで、久高島の強制疎開の史実を知ることができた。
 いくら沖縄が戦場になったからといって、久高島のような小さな島の住民を本島に強制疎開させる必要はなかっただろう。日本軍による無謀な命令の犠牲である。やはり、碑文がいうように、こういう事実を永く語り継ぎ、平和を守っていくことが大切だと改めて思った。

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