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2012年9月29日 (土)

赤犬子が吟遊詩人とは

 歌三線の始祖・赤犬子は、吟遊詩人だったと伝えられる。ただ、琉球王国の時代に吟遊詩人とは、どういうものだったのか、いまいちイメージがわかない。それを分かりやすく解説してくれているのが、与並岳生著『アカインコが行く(琉球吟遊詩人)』である。この本から、さわりを紹介しておきたい。

 赤犬子は、「阿嘉の犬子(イングヮー)」という意味で、自分を卑下して「犬子」と名乗った。読谷村の楚辺(ソベ)は、昔は阿嘉(アカ)、饒波(ノハ)の2つの村だった。「阿嘉」の名は童名(ワラビナー)の定まりの名の一つでどの村にも1人、2人いたという。
 阿嘉(赤犬子)は、御嶽(ウタキ、拝所)の祭祀に神司(神女)たちが、神歌ウムイ(おもろ)を歌いながら打つ臼太鼓を持つことを許されていた。その歌と太鼓は<セヂ>(精気、霊気)がこもるとさえ言われた。祝事(スージ)二呼ばれて歌うようになり、「阿嘉のお祝付(エツ)き」と呼ばれた。

 当時は、住民が住んでいる村・シマを出て他村へ転居することは禁じられていた。年貢を放棄することになるからである。「シマ抜け」は重い罪に問われることがあった。シマ抜けをした者は、フェーレ(追いはぎ)、盗人、グループを組んで山賊になる者もいた。

 大和では、「門付け」といって、家々の門口に立ち、あるいは祝祭、法事の家で音曲、芸能を演じて、金品をもらいながら放浪する芸人がいた。他領への移住は法度だが、門付け芸人は“非人”扱いで渡り歩いていたという。

Photo

 赤犬子も、「阿嘉のお祝付き」と呼ばれたのなら、吟遊詩人とは、門付け芸人のような存在だったのだろうか。そんなイメージが浮かぶ。

 与並さんの著書は、小説仕立てだから、赤犬子の動向については、多分こんなことがあったのではないだろか、というフィクションだろう。でも、面白いのでもう少し紹介しておきたい。

 「阿嘉の犬子」を名乗って、お祝付き業を始めた彼のもとに、首里の役所から出頭命令がきた。密命が下された。隠密としての役目である。

 尚真王に招かれて御前で、王を讃えるおもろを歌った。明から伝わった三弦、二弦が取り出された。二弦は二胡のことである。犬子はその場で、三弦を弾いてみた。さっそく王から三弦が贈られた。

 三弦は、琉歌が作られるようになると、琉歌を三弦にのせて歌うようになった。
「歌と三線の むかし始(ハジマリ)や 犬子音東(ネアガリ)の 神の御作(ミサク)」とおもろに歌われた。
 音揚がり(音東)とは、「おもろ歌を声高く歌います」の意味。やがて、歌達者の意味になり、おもろを歌った「阿嘉」の別称ともなった。だから、「犬子音東」とはアカインコのことである。

 三弦が一般人民の前に披露されるのは、アカインコがもらった中国三弦でお祝付きをやったのがその始まりだと、与並さんは記している。

 

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