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2012年9月17日 (月)

歌碑のある風景、「艦砲ぬ喰ぇーぬくさー」の歌碑建立へ

番外編「艦砲ぬ喰ぇーぬくさー」の歌碑建立へ

 反戦島唄の傑作「艦砲ぬ喰ぇーぬくさー」の歌碑建設事業が進められている。この曲は、読谷村楚辺(ソベ)出身の比嘉恒敏さんが1971年ごろに作詞作曲した。「艦砲ぬ喰ぇーぬくさー」とは、米軍の艦砲射撃、空爆など「鉄の暴風」の中をなんとか生き残った人々を指す言葉だ。歌の歌詞は5番まである。強烈な平和のメッセージが込められている。訳文で紹介したい。

003          NHK沖縄のテレビ画面から
「♪若い時は戦争の世 若い花は咲くことができなかった 家の先祖、親兄弟も艦砲の的になり 着る物食べ物なにもない ソテツ食べて暮らした ※あんたも私も艦砲の喰い残しだ」
「♪神も仏も頼りにならない 畑は基地に囲われ 金にはならない 家は風で吹き飛ばされ 戦果(米軍物資を持ちだす)担いでしょっ引かれ ひっくり返されもてあそばれて 心は誠実だったのに ※繰り返し」(3,4番は略)
 「♪親や島を喰った戦争、艦砲を恨んで悔やんでも飽き足りない、子孫末代まで遺言して語り継がなければ」
 歌碑建立は、楚辺の住民が中心になり、実行委員会を立ち上げ、スタートした。2013年6月23日、慰霊の日に建立式をする計画だという。
 歌碑建立の趣意では、この歌の歌詞が「艦砲射撃によって犠牲になった人々の哀悼とともに、悲惨な沖縄戦を生き残った“うちなーんちゅ”の強さと戦争を恨み平和を願う心情がつづられ」ている、とのべている。

 005     比嘉恒敏さん(右端)と家族。NHK沖縄のテレビ画面から。
 戦後67年が経過し、歴史の過ちを繰り返さないため、沖縄戦の体験の継承が課題となっているとして、「沖縄戦の実相を伝える象徴として、楚辺から世界へ戦争の悲惨さと平和の尊さを発信するため『艦砲ぬ喰ぇーぬくさー』歌碑建立事業を実施する」とその趣意をのべている(「艦砲ぬ喰ぇーぬくさー歌碑建設活動のブログ」から)。
 それにしても、作者の比嘉恒敏さんは、沖縄戦とその後の米軍支配によって、県民に降りかかってきた悲劇と苦難を丸ごと体現した人ではないだろうか。
 父と長男は、学童疎開船「対馬丸」で失い、妻と次男は仕事で出ていた大阪で大空襲によって亡くした。恒敏さん自身は、戦災に会わず、生き残った。再婚して子どもを育て、娘さん4人で「でいご娘」を結成して、活躍していた。それが沖縄の日本復帰の翌年、1973年10月10日夜10時頃、結婚式の余興に出演した後、車2台に乗って帰る途中、宜野湾市大山の国道58号線路上で二重衝突事故があり、比嘉さんの車1台が巻き込まれた。原因は米兵の飲酒運転だった。この事故で、比嘉家は母・シゲさん(49)が即死、父・恒敏さん(56)は4日後に亡くなった。
 なんという残酷な運命だろうか。娘さんたちは、お父さんが残した1曲だけでもレコードにしたいと1975年にプレスして発売した。当時は、大ヒットしたそうだ。
 戦争を絶対に繰り返さないため、この曲は、長く歌い継がれていかなければならない。

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