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2012年9月 5日 (水)

歌碑のある風景、平敷屋朝敏の歌碑

悲劇の文学者・平敷屋朝敏の歌碑

 

「琉球悲劇の文学者・平敷屋朝敏(ヘシキヤチョウビン)覚書」を書いた。琉球の歌舞劇である「組踊」の「手水の縁」の作者として名高い。結婚は親が決めるという封建道徳のしがらみを乗り越えて男女の恋愛を結実させる異色の作品である。 その朝敏は、当時王府でらつ腕をふるった政治家。蔡温(サイオン)の政治を批判する文書を薩摩藩吏の館に投げ込み、国家反逆者として一七三四年に磔で処刑された。

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朝敏ゆかりと地と云えば、うるま市の平敷屋だ。朝敏は、脇地頭(村を領有する)として在任中、平敷屋の農民の水不足を解消するために、用水池を掘り、その土を盛りつけてタキノー(小高い丘)を造った。この地には、朝敏を偲んで一九八六年、歌碑と碑が建てられた。

「あはれその畑打ち返す せなかより 流るる汗や 瀧つ白波」。働く農民を見て詠んだ和歌である。自分は貧しいがまだ安楽に暮らせるだけ農民より恵まれていると感じる。首里を追われてこの地にいた。そんな士族の貧しさと民・百姓の悲哀が映し出されている。そこには、この境遇を強いられているものとして、現実社会への厳しい目と弱者に対して注がれる愛情が感じ取られる。こうした体験を通して、政治に対する鋭い現実感覚が養われたのだろう。

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 碑文には、次のように記されている。「朝敏は、薩摩支配下における苦難の時代に、士族という自らの自分におごることなく、農民を始めとした弱い立場の人たちに暖かい眼差を向けることの出来た、沖縄近世随一の文学者でありました。思えば、朝敏の憂き目は、当時の封建支配の原理道徳に背を向けようとする、人間としての優しさゆえの到達点であった、と言い得ることである」。
 朝敏とその一門のお墓は、八重山と宮古諸島の中間に位置する多良間島(タラマジマ)にある。磔の刑にされた。長男の朝良は多良間島、次男は与那国島、三男は水納島に流刑にされた。墓には、1935年に朝敏夫妻ほか5人の遺骨が納められた。遺骨の護送は、沖縄本島の門中(ムンチュウ、父系の血縁組織)の一人、大宜味氏とマクルヤーの饒平名(ヨヘナ)長健氏によってなされたという。

 朝敏作の組踊「手水の縁」は、豊見城市の瀬長島が、主人公山戸(ヤマト)と美しい玉津(タマシン)の出会いの舞台になっている。手水を汲んでもらった縁で恋仲になる。親の決めた結婚しか認められなかった王府時代に、命がけで愛をつらぬく恋物語である。

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ゆかりの瀬長島に立派な碑が三つも建立されている。
 真ん中は、朝敏生誕300年記念顕彰碑である。両脇に「手水の縁」で歌われる琉歌の歌碑がある。                     

左側「世間とよまれる 瀬長山見れば 花や咲き美しさ 匂しほらしゃ」(世に名高い瀬長山を見れば、花は美しく咲き匂いも香しい)。山戸が瀬長島の情景をのべた歌。

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 右側「語て呉れ 恋ひ渡ら 浮世鳥鳴かぬ 島のあらは」(「語ってくれ、恋をしに島に渡ろう この世で夜明けを告げる鳥が鳴かない島があるならば」。瀬長島を恋を語る理想の島と見たてて詠んだ歌だとのこと。
 こんな立派な碑が三つもあるのは、朝敏と「手水の縁」がみんなに愛され、慕われているということだろう。

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