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2012年10月

2012年10月30日 (火)

映画「スケッチ・オブ・ミャーク」を観る

 宮古島の神歌と古謡を追ったドキュメンタリ-映画「スケッチ。オブ・ミャーク」を桜坂劇場で観た。宮古島諸島は、古くから御嶽(ウタキ)での神事で歌われる神歌や古謡がたくさん残っている。

121030_213201  90歳前後のおばあさんたちが、三線など伴奏はなしで、数々の歌を歌う。宮古民謡とて、知られた曲もあるが大半は、もっと古くから口承で歌い継がれた神歌、古謡である。宮古島に11月に旅する予定だが、これらの神歌などは、行っても見ることはできない。

 厳しい離島の自然と人頭税という悪税に圧迫される暮らしのなかで、五穀豊穣や豊年、船の航行の安全など、神への祈りをささげる歌が多い。

 「歌うことは、神とひとつになること。生きる願いは声となり、神へ届く」というチラシの言葉がピッタリとくる。そこには、原初的な人間の姿を思い起こさせてくれる。

 幾世紀も伝えられてきた神歌と古謡は、継承する人がだんだんいなくなり、継承する場もなくなってきて、絶滅の危機にあるという。だからこそ、この映画も製作された。貴重な映像である。

 おばあ、おじいに交じって、小学生の男の子が見事な歌三線を披露したのには驚いた。東京で「宮古島の神歌と古謡」を披露する舞台で、宮古島の名曲「なりやまあやぐ」を歌っている最中に、歌詞が出てこなくなり、悔し涙を流す。「休みを取ろうか」と声をかけられても、「イヤ、歌う」と言って、次に早弾きの「鳩間節」を歌い切ったのには、二度ビックリである。たくましい。未来の宮古民謡の唄者がここにいる。

 久保田麻琴さんが原案・監修して、大西功一さんが監督・撮影などして製作された。その努力に感謝したい気持である。 

2012年10月29日 (月)

旧暦9月15日夜の満月

 10月29日は、旧暦9月15日。満月の夜だ。月の美しい中秋の名月は旧8月15日といわれるが、沖縄はいまごろやっと秋めいてきて、空模様も秋雲が見られる。だから、旧9月15日の満月も美しい。

001  バナナの葉影に満月が見えるのが、南の島らしい。

007  名月は、2度楽しめる。

010

2012年10月28日 (日)

盛り上がるウチナー運動会

 沖縄の運動会は、家族総出で盛り上がり、早くから場所取りが大変らしい。話を聞くだけでまだ見たことがなかったので、学校に出かけた。近くの古蔵小学校である。

001  朝から、小学校にゾロゾロと地域の人々は向かう。なにしろ、出生率が断然、1位で子沢山の沖縄だ。運動会は、一大イベントである。それにいまも、なにかと学校に集まる。地域によっては、地元の伝統芸能、文化を引き継ぐ役割も担っている。

 025_2   校門には出店がつきもの。暑いからかき氷を売ってるようだ。東京なんかでは見られない風景。ここはまだ少ない方だ。別の小学校なんか3、4店舗出ている。

010  競技は始まっていた。グラウンドの周囲にはグルリと人垣が2,3重に出来て、みんな立見をしている。子どもを抱きかかえて見せている人も目立つ。競技するグラウンドの周囲には、敷物をしてはいけないから立っている。023  運動会には、ビデオ撮影は欠かせない。

012  競技や演舞が始まると、放送でも「これから幼稚園児の遊戯が始まります。シャッターチャンスを逃さないでください」といって、わざわざ呼びかけてくれる、

016  沖縄は、戦後の米軍統治のもとで、アメリカ式に幼稚園が小学校と併設された。だから、隣は必ず幼稚園がある。ここでは運動会も一緒にやっていた。

002 運動場の周辺の空き地には、いたるところにテントが張られている。003  もはやキャンプ場の様相だ。これは、ちょっと考えられない光景だった。

 みんなが競い合う場所取りとは、このテント張りの場所だ。テントを拠点として、競技を見たり、休んだり、お昼には家族でお弁当を食べるのだろう。なにしろこの日も、夏模様の天気だから、影がないと暑い、暑い。

006  子どもたちの姿は、昔も今も変わらない。

007_2 お年寄りのためには、シルバー席がちゃんと設けられていた。015  この時期、青ぎりミカンが出回る。少し色づいてくるころ運動会シーズン。だから、ミカンのことを「運動会ミカン」と呼ぶ。これも沖縄ならではだろう。011  青い空に、スローガンが鮮やかに映えていた。「心一つに団結だ! 笑顔のゴールを走り抜け」

2012年10月27日 (土)

古里でつながる郷友会

 沖縄に移住して初めて知った組織に、郷友会(キョウユウカイ)がある。初めて聞いた時には、よくわからなかった。これは、沖縄の各地方、離島の出身者が、古里を離れてもそのつながりを大切にして、結束した組織である。

 私が長く住んでいた東京では、東北や新潟、長野などの出身者が多くて、同郷の人がつながりを大切にすることはよくあった。出身県で県人会をつくっていることもよくあった。でもそれは、通常は県単位である。私の出身の高知県では、高知市に県内各地から出てきている人が多いが、町村単位で同郷会をつくっているような話は聞いたことがなかった。 

 その点、沖縄はまったく様相が違う。古里を長く離れていても、郷土のつながりを大切にする。沖縄では、本島の北部や離島から、那覇市をはじめ中南部に出てきた人たちで、出身の町村や集落、離島を単位につくっていることが多い。県外でも、それぞれの出身地ごとに、会がつくられている。その点では、沖縄はなにか独立国のような様相がある。

 なぜいまこんなことを書いているかといえば、「琉球新報」で9月24日から週1回、「つながる郷友会」という連載が始まったからだ。

 第1回は「大宜味一心会」。大宜味村内の16字の郷友会をまとめる組織だという。ということは、各字ごとにも会があり、それをまとめるのがこの「一心会」ということらしい。会員は2000世帯というから大きい。かつては、那覇に出てきた大宜味村出身者の生活支援という意味合いが強かった。現在は、親睦を深め、村の行事を支えるのが大きな役割だという。

 一番の大きな催しは、親睦大運動会。昨年まで45回開いたという。運動会は、どこの郷友会でも大きな催しになっている。

 伊江島出身者でつくる「伊江村郷友会」は、約1200世帯が会員になっている。村内8字の出身者による支部があり、やはり親睦大運動会は、字対抗で盛り上がるそうだ。
 伊江島は、各字ごとに村踊りがある。伊江島の村踊りは、伝統芸能の組踊(クミオドリ)をはじめ素晴らしい芸能が継承されている。この字ごとの伝統の継承にも郷友会の結束が欠かせないというから、村踊りのときには、島に帰って参加するのだろう。

 伊是名島(イゼナジマ)出身者でつくる「伊是名村郷友会」は、やはり約1200世帯の会員がいる。親睦行事だけでなく、伊是名出身で琉球の第二王統を開いたことで名高い「尚円王まつり」やトライアスロンといった島の大きな行事に協力するのが大きな役割だという。

 新聞連載は始まったばかりだ。これから各地の郷友会が紹介されるので、興味深い。

2012年10月23日 (火)

真玉橋の人柱伝説

 国場川に架かる真玉橋には、人柱伝説がある。

 1707年尚貞王の時代、木でつくった橋は大雨のたびに流されるので、丈夫な石に造り替えることになった。ところが、工事のために大勢の人を駆り出したにもかかわらず、大雨になると橋脚が流され、工事ははかどらない。

034         写真はいまの真玉橋

 そんなとき、一人の神女が現れて「子年生まれで七色の元結(髪を束ねた紐)を身につけた女を人柱に立てよ」との神託を告げた。

038           真玉橋の遺構

 あらゆる手段を使って、お告げにあった女を探したが見つからない。そんな時、神女も子年生れであることが役人の耳に入った。家を訪ねると、元結が七色に輝いていた。とうとうお告げをした神女が人柱に立てられることになった。

 神女は、最後の時、自分の娘に「人より先に口をきいてはいけない」という言葉を残していった。 こんな人柱伝説は、他にもあるらしい。

050_2  おまけ。真玉橋には、村を守る石獅子が建っている。上は、集落の西にあるイリヌ・シーサー。下は、集落の東にあるアガリヌ・シーサー。

 イリヌ・シーサーは、なんかゴジラのような怖い形相である。アガリヌ・シーサーは逆にとても優しい表情。好対照の石獅子である。

051 

2012年10月22日 (月)

洪水の様相伝える真玉橋碑文

 国場川にかかる真玉橋の由来を伝える碑文が、橋のそばの真玉橋公民館前に建立されている。

041  「重修真玉橋碑文」という石碑である。碑文は、2度にわたる橋の改修工事を記念して1837年に建てられた。戦前までは、もっと橋の近くにあったけれど、沖縄戦で破壊された。祖先の残した文化的偉業を偲び後世に伝えるため、1978年に地元の真玉橋自治会を中心に碑文復元期成会が設置され、資料の収集も行い、1980年に碑文が復元されたという。

 044  碑文の表面には、2度にわたる改修工事の経過が記され、裏面には、工事に費やした人夫、工銭(費用)などが記されている。
 最初の工事には、石細工8918人、人夫は35間切(今の町村にあたる)から8万3676人。2度目の工事には、石細工1万258人、人夫7万8226人がかかわったという。大量の石細工、人夫が動員された大規模な工事だったことがわかる。

047
  写真の碑文は表面である。原文はなかなか読めない。そばに説明文がある。
 興味を引くのは、なぜ改修工事が必要だったのかを記していることだ。

 川の一端に真玉村があった。5つの橋からなり、真玉橋の古橋、南の世持橋、北に世寄橋、その両方に、名前のない二つの橋があった。この川の両岸に、石を積んで堤とし、その上に木を架けて橋として往来する人々の通路になった。

 「近年川の両岸の土地を田畑に利用する人があった為め、両方の橋がふさがり、その川が浅く偶(タマ)に洪水が氾濫すると土砂がことごとく那覇港に流れ込み、港も狭く浅くなることは必然であり」という。
 那覇港は、中国から琉球国王の認証のため派遣される冊封使(サッポウシ)が来琉したり、薩摩との往来の玄関口でもあった。

 那覇港は中山(琉球)のカギ(要所)、両岸の田畑を取り除き、木の橋を石の橋に改修するよう言い渡され、1708年工事が完成した。碑文の石碑を建てた。

043 1809年、世寄橋が大雨の為、破損し木の橋を修復したが、洪水に流され、1836年石をもって改築し、北の方に世済橋を新築し、これより流れがよく、水害による流失もなくなったという。046  川の流域に田畑がつくられ、橋がふさがり、川が浅くなり、洪水が起こったという。これは、いまも、川の流域で宅地開発が進み、遊水地がなくなると、大雨が降れば一挙に雨水が川に流れ込み、洪水をおこすことを思わせる。

 また、川の氾濫で土砂が那覇港に流れ込み、港を狭く浅くすることが、港の機能のうえで障害となることを王府が恐れて、田畑を取り除き、橋も改築したと様子がうかがわれる。

 住民の運動で、真玉橋の遺構も残され、碑文も復元し保存されたことは、後世に伝えていくために、とっても大事なことだと思う。

2012年10月21日 (日)

見事なアーチ橋だった真玉橋

 那覇市と豊見城市の間を流れる国場川にかかる真玉橋(マダンバシ)は、由緒ある橋である。037  これは、2002年に架橋された現在のアーチ橋である。昔の橋は、1522年というから、第二尚氏の王統の尚真王の時代に、王都であった首里と南部の島尻地方を結ぶ主要道路に初めて木造の橋として築かれた。

 当初は、真玉橋といっても、五連橋で、中央が真玉橋、南側に世持橋、北側に世寄橋、さらにその両側に名前のない橋があった。

031  1707年から石橋への架け替え工事が行われ、翌年に完成した。1809年に、一部が大雨で壊れてしまい、1836年に大規模な工事を行った。

 当時の真玉橋は、大きく美しい曲線の5つのアーチが連なり、脚部には川の流れによる水圧を弱めるためにスーチリ(潮切り)とよばれるものが設けられていた。

036  構造的にも、景観的にも沖縄独特の石造文化を誇る橋だったが、残念ながら沖縄戦で破壊されてしまった。

032  1963年、コンクリート橋が架けられたが、1996年、橋の改修工事にともなう発掘調査をしていたところ、戦前の真玉橋が現れたという。

035  由緒あるこの橋の遺構を、那覇市側(一つ上の写真)と豊見城市側(上の写真)の双方に移築し保存した。それでいま、当時のアーチ橋を偲ぶことができる。遺構の前に説明板がそれぞれあるが、那覇市は簡略で、豊見城市の方が説明が詳しい。

 保存にあたって、真玉橋を後世のために保存し、活用を図れるように求める住民運動が展開された。その結果、豊見城市側では、道路下に一部埋め足し、保存を行い、比較的保存状態のよいアーチ部分を移築保存しているという。039  真玉橋の2度にわたる改修工事を伝える碑文があるが、それは次にしましょうね。

2012年10月19日 (金)

非道な女性暴行事件、なぜ繰り返されるのか

 米兵のよる女性への集団暴行事件にたいし、県民の怒りが沸騰している。今回は、テキサス州海軍航空基地所属で、嘉手納基地に来ていた2人の兵士による蛮行だった。とくに今回、2人で犯行に及んだことは、たまたま凶悪な兵士が1人いたというのではなく、狂気の沙汰に及ぶ精神状態に集団として置かれていることを意味する。

 戦後、どれほどの少女をはじめ女性が、人権じゅうりの被害を受けたことか。復帰後から2011年までだけで、米軍関係者による女性暴行事件は127件も発生し、144人が逮捕されている。勇気をもって被害を訴えたのは氷山の一角で、実際にはその数倍、数十倍の被害者がいるはずである。
 事件が起きるたびに、米軍も日本政府も「再発防止」「綱紀粛正」を口にするが、なんの歯止めにもならない。

 なぜ沖縄で事件が繰り返されるのか。沖縄の米軍基地は、アジアの戦場と直結している。米兵は、殺人訓練を日常的に繰り返している。訓練によって兵士は「歩く凶器」と化す。人権など眼中にない。しかも、大義のない戦争に駆り出される兵士の、道徳的な退廃は著しい。

 米軍と兵士にとって、沖縄はいまだに血を流して勝ち取った「戦利品」の意識がある。米軍の都合で何をやっても許されると思っている。県民みんなが反対しているオスプレイの配備を強行して、飛び回っていることもその現れだ。兵士も当然、その延長線上にいる。

032              オスプレイ配備に反対する沖縄県民大会

 米兵が犯罪を犯しても、特権的に保護される仕組みがある。日米地位協定で、米兵は犯罪を行っても「公務中」なら日本は裁けない。「公務外」であっても、第一次裁判権を日本が放棄するという日米密約があるそうだ。実際に2001~2008年に、米兵の強制わいせつでの起訴率は11%、強姦でも、わずか26%に過ぎない(『世界』2009年12月号)。人権蹂躙の性犯罪でも起訴されるのはわずか。なんと、7-9割は起訴されず放免されていることになる

 今回も、犯行の日に、兵士はグアム島に飛び立つ予定だった。もし、米兵が犯行後、基地内に逃げ込み、即刻逮捕できなければ、グアムに逃げ出すところだった。

 重大なのは、日本政府がまったくアメリカの属国のようになっていることだ。県民は、せめて米兵を特権扱いする日米地位協定の改定を、と再三求めているが、まったく耳を傾けようとしない。県民、国民の人権、安全も守ろうとしないことだ。だから米軍はつけあがる。ここに、最大の問題があるだろう。

 米軍の性犯罪は、軍内部でも深刻な実態にある。「同時多発テロ以降、米国は終わりのない戦争を続けている。兵士の心理的ストレスが犯罪を誘発している可能性がある」(「琉球新報」10月19日付)。米軍内でも、2011年度内に性犯罪の被害を届け出た兵士らは計3192人にのぼる。性犯罪の背景に、こういう構造的な問題もあるという。

 加えて、米軍は沖縄をいまだに植民地のように見なしており、県民に対する差別的な人権感覚があるのではないか。同じ人間として、人格を尊重する姿勢があれば起こり得ない。

 「危険なオスプレイが縦横無尽に飛んで、危険な米兵が地上をうようよしているのが今の沖縄か。人権蹂躙もはなはだしい」と県婦人連合会の平良菊会長はのべている(「琉球新報」10月18日付)。県民の憤りを代表する声である。

 狭い沖縄に広大な米軍基地と海兵隊をはじめ大量の米兵が駐留して、日常的に県内をウロウロしている限り、凶悪な性犯罪をはじめ事件、事故はなくならない。もう県民の命と安全を脅かす根源となっている基地は、沖縄からなくしてほしい。安心して暮らせる沖縄を取り戻した。

 

2012年10月17日 (水)

「ひめゆり学徒隊」の歌はいくつあるのか、その4

 ブログを見た方が、歌詞がまだ分からないと書いておいた「太平洋戦争と姫ゆり部隊」の主題歌の歌詞をコメントで教えてくれた。ブログ本文でも紹介しておきたい。

大蔵貢作詩 古関裕而作曲
大蔵プロ映画「太平洋戦争と姫ゆり部隊」主題歌

姫ゆり部隊の歌

伊藤久男 (1番、3番)
能沢佳子 (2番、3番)
コロムビア女声合唱団 (3番)
コロムビア・オーケストラ

落ちゆく夕日 うるわしく
そよ風さそう 黒髪の
つぼみはきよく 身を守る
平和の島に 押しよせる
嵐をいかに 防がんか
雄々しき姿 沖繩に
アヽ散るは 花の姫ゆり部隊

東も西も 敵のこえ
南も北も 敵ばかり
学の友よ 父母よ
行方も知れぬ 戦場に
誓って立った 乙女ごが
さゝげしいのち 沖繩に
アヽ散るは 花の姫ゆり部隊

誇りは高き 姫ゆりの
み国につくす いさをしは
血汐に染て 声かなし
硝煙こめて 天日くらく
うらみはとわに 残るとも
後の世までの かたりぐさ
アヽ散るは 花の姫ゆり部隊

 

野村俊夫作詩 古関裕而作曲
大蔵プロ映画「太平洋戦争と姫ゆり部隊」主題歌

あゝ姫ゆりの花

織井茂子
コロムビア・オーケストラ

一、 雲流れゆく 丘のはて
   瞳にしみる 青い海
   南の島の 岩かげに
   やさしく今日も 咲き匂う
   あゝ姫ゆり 姫ゆりの花

二、 乙女のこゝろ その儘に
   塵にも染ぬ 花のいろ
   みどりの風に ほゝえみて
   憧れ遠く 夢をみる
   あゝ姫ゆり 姫ゆりの花

三、 蘇鉄の茂み たそがれて
   渚によせる 波の歌
   またゝく星を 仰ぎつゝ
   愁いにぬれて なに思う
   あゝ姫ゆり 姫ゆりの花

(三番は歌われていません)

 匿名さんからの投稿で、私にはわからなかった大蔵プロ映画「太平洋戦争と姫ゆり部隊」主題歌の2曲の歌詞を知ることができました。ありがとうございました。

2012年10月15日 (月)

健康まつりはライブ三昧

 沖縄医療生協創立40周年第7回健康まつりが奥武山公園で開かれたので、出かけた。沖縄協同病院がすぐ近くにあり、よくお世話になっている。サークルのおじい、おばあもよく利用している。

001  まつりは、健康コーナーが充実しているが、目当ては盛りだくさんのライブ。着くともう、女性民謡トリオのサンサナーが演奏中だった。

003  司会は、お笑い芸人の「よっちゃん」と多分、儀間えりさん。

013  よっちゃんは、国頭村の出身。同郷の沖縄ラテン歌手、平良ゆきさんがラテン曲を歌った。006  もうかなれお年なのに、舞台を踊るように歩き回り、歌う。エネルギーあふれた舞台だった。jimamaは心に染みいるような歌を披露した。

008  西表島舟浮の故郷に帰って活動する池田卓さんは、台風が来るので水曜日から那覇市入りしていたという。健康まつりは、前々回、前回も出演したとか。やさしい人柄が出た唄声だ。012_2  次は金武町を拠点にするzukan。たしか保育士とか金武で働く人でつくるバンドだ。017  アップテンポの曲を続けて演奏し、盛り上げる。

019  周りで踊っていた人たちを、もう舞台前に集まり、踊りまくっていた。

024  トリはパーシャクラブの島唄ポップス。ヒットナンバーを続けて演奏した。「五穀豊穣」では、エイサー隊が踊る。

026  ボーカルの新良幸人(左)はソロで歌うことが多く、パーシャクラブのライブは最近少ない。でももっともっと聴きたい。

030  豪華アーティストが並ぶ楽しいライブだった。節目の年だけ開催されるので、次は5年後だろうか。

2012年10月14日 (日)

アルテで「石くびり」を歌う

 毎月恒例のアルテ・ミュージック・ファクトリーの10月のテーマは「心」。心はウチナーグチ(沖縄語)では,「肝(チム)」ということが多い。「肝心」と重ねていう場合もある。選んだ曲は「石くびり」。これは「石ころ道」という意味である。この曲は、「肝」が4回も出てくるので、選曲した。

 「♪恋路ちりなさや ままならん世界(シケ)に 無蔵(ンゾ)が云言葉(イクトゥバ)ぬ 肝にかかて」
 (恋の道は情けない 思うようにならないこの世だ 彼女の言った言葉が 心にひっかかって)

 「♪忘らていやしが 肝に思染(ウミス)みて 思切りんならん 我肝(ワチム)やむさ」
 (忘れようとするが 心の思いを染めて 諦めることができない わが心が痛むだけだ)

 「♪無蔵が顔見りば 恋(クイ)しさやまさて 焦(クガ)りゆる肝や 誰(タル)に呉(クィ)ゆが」
 (彼女の歌をも見れば 恋しさが増して 思い焦がれる心を 誰にぶつけようか)

 「♪村ぬ石くびり 我ん一人(チュイ)ど行ぢゃる 互(タゲ)にかながなと 上(ヌブ)て見ぶしゃ」
 (村の石ころ道は 私一人だけで行った 2人で仲睦まじく 上ってみたいものだ)

 003

 別れた彼女への立ち難い思いを石くびり道に重ねて歌った民謡である。

 なせ「石ころ道」なのか。そこには、古くからの名高い琉歌と古典音楽がある。「伊野波節」(ヌファブシ)という名曲である。歌碑がある。
 本部町の伊野波(イノハ)にある石くびりが歌われている。伊野波の集落の小高い茂みに小さな坂道が続く。そこが歌われた「伊野波の石くびり」だという。

 「♪伊野波の石こびれ 無蔵つれて登る にへやも石こびれ 遠さあらな」
 (伊野波の石ころ道の坂は 大変難儀な坂道だけれど 愛する彼女と連れだって 語り合いながら行く時は もっと遠くあってほしいと思う)

 愛し合う伊野波の男性と伊豆味の女性が、伊野波で一夜を過ごし、翌朝、石くびりを語り合いながら登る。峠で別れなければいけない。仲睦まじく歩く石くびりがもっと遠ければ、もっと長く語り合えるのに。こんな思いが込められている恋歌である。

 私が歌った民謡の「石くびり」は、この「伊野波節」を念頭に置きながつくられた曲ではないだろうか。というか、「伊野波節」を知らなければ、「石くびり」の歌意はわからない。

023_2  「石くびり」を歌ったのはいいけれど、歌詞が途中から乱れてしまった。後から「歌詞は間違っても分からないよ」「石くびりの歌の意味がはじめて分かりました」との声が寄せられた。

 もう一度「伊野波節」に戻る。この歌の意味をめぐっては諸説あるそうだ。次のような解釈がある。

伊野波村の坂道を登った所には、かつてハンセン病の隔離場所があり、移住を命じられた夫を見送る妻のひたむきな思いを詠んだ歌だという。この琉歌の背景にそういう事情があるとすれば、琉歌に込めた思いは、より深く重いものがある。

今回のファクトリーで、ツレは「やさしいキスをして」を芸大生の栗田まゆさんのピアノ伴奏とハモリで歌った。

040 家ではほとんど練習してないのに、よく表現された歌だった。「最後のトリにふさわしい歌と演奏でしたね」と主宰者の越智さんが評してくれた。

 

 

2012年10月12日 (金)

首里城の名泉、寒水川樋川

 瑞泉門の前の龍樋と並んで、首里城内の重要な水源が寒水川樋川(スンガーヒージャー)である。

030  この湧水は、首里城内の生活用水のほかに、防火用水としても利用されたといわれる。

031  地形の関係でこの周辺は、首里城内に降った雨が地下水として湧き出でくる場所である。龍樋も寒水川樋川も、小高い山の頂上部にある正殿、御庭はじめ城の中心部からは、かなれ下がった場所になる。といっても城全体が山の上に築かれているので、こんな高い場所でよく、これだけ湧水があるものだと思う。044

 樋川で溢れ出た水は、地下の溝を通り、久慶門(キュウケイモン)の外側の左右から再び地中に入り、門のすぐ向かいにある円鑑池(エンカンチ)に抜けた。門の外側の左右に、上写真のような石積みの施設がある。溢れた水は、ここを通り、さらに下方に流れ、地中を通り池に注いだのだろうか。

008  円鑑池が満水になると、龍潭(リュウタン)に注いでいった。上写真のように、円鑑池から龍潭につながっている。うまく排水を処理するようなシステムになっている。

 これが庶民の使う井泉だと、飲み水として汲み、野菜など洗い、洗濯や水浴びして、牛馬を洗い、最後に農業用水として使うという流れになっている。また、庶民の使う井泉は、かならず御願(ウガン、祈り)の対象となっているが、首里城の井泉は拝所は見当たらない。やはり、庶民の使う井泉とは少し違いがある。

033  寒水川樋川は、写真の久慶門を入ったすぐ左にある。龍樋は、右に坂を上がった場所になる。この門は、通用門だった。主に女性が利用した。国王が、寺院に参拝するときや、北の地方に出かけるときは、この門が使われた。
 029 沖縄戦で焼失し、1983年に復元された。

2012年10月11日 (木)

首里城の名泉、龍樋

 沖縄の湧水を紹介していたが、大事な首里城の名泉を紹介していなかった。首里城の歓会門(カンカイモン)を入り、すぐ登る坂の横にあるのが有名な瑞泉。龍の口から水が湧き出ているから龍樋(リュウヒ)という。

037  龍の見事な石彫刻は、1523年というから、いまから500年近くも前に中国からもたらされてもの。当時のままだという。

040  龍樋の水は、王宮の飲み水として使われた。中国から琉球国王任命のための使者、冊封使(サッポウシ)が訪れたとき、那覇港近くにあった宿舎「天使館」まで、毎日この水が運ばれた。庶民はまったく使えない。なにしろ城内にも入れないから当然だが。

039 さすがに水は清らかに澄んでいる。周辺にいくつもの石碑が建ち並んでいる。いずれもこの湧水の清らかさを称賛した冊封使たちの書を刻んだもので「冊封七碑」とよばれている。

038  しかし、沖縄戦でほとんど破壊された。拓本をもとに1996年に復元された。

043

 この坂道をのぼると瑞泉門がある。

041  瑞泉門は、龍樋の水が瑞泉(りっぱな、めでたい泉の意味)とたたえられたことに由来する。別名「ひかわ御門」(ウジョウ)ともいう。「ひ」は樋のこと、「かわ」は、沖縄では井戸、泉のことである。

2012年10月10日 (水)

弁財天堂と天女橋を見る

 円覚寺跡の西側は、円鑑池(エンカンチ)である。池には、弁財天堂があり、天女橋がかかっている。

004  説明文によると、15世紀末に朝鮮王から贈られたお経「方冊蔵経(ホウサツゾウキョウ)」(高麗版大蔵経)を納めるため1502年、池の中にお堂が設けられた。そこへ至る橋が天女橋で当初は観蓮橋(カンレンバシ)と呼ばれたとのこと。尚真王の時である。

012  1609年、薩摩の琉球侵攻でお堂は破壊され、お経も失われた。1621年に至って新たにお堂を建て、弁財天像をまつり、それ以後は弁財天堂、橋は天女橋と呼ばれるようになった。

045  橋は琉球石灰岩を用いたアーチ橋で、全長9.75メートル、幅2.42メートル、欄干は細粒砂岩でつくられている。沖縄戦でお堂は破壊され、天女橋も大破した。この由緒あるお堂は、薩摩の侵攻と沖縄戦によって、2度も災難にあったことになる。

 1968年、弁財天堂は復元され、天女橋も翌年、修復された。010  天女橋を1744年改修した記念に建立された石碑が倒壊したため、1798年新たに「重修天女橋碑記」が建立されたという。表文は、弁財天堂、天女橋の来歴、裏文は天女橋の改修、石碑建立の経費など書かれているそうだ。石碑も沖縄戦で破壊され、いまあるのは復元された碑である。011  この付近は、なぜかアヒルがたくさんいた。007  

009  このおじさん。アヒルにエサをあげているのかな、と思ってのぞくと、アヒルではなく、猫にエサをあげていた。でも猫のエサが欲しいのか、なぜかアヒルが集まっていた。

2012年10月 9日 (火)

円覚寺跡を見る

 久しぶりに首里城の近辺を歩いた。円覚寺跡を見るのは、6,7年ぶりだろうか。

001_2  琉球における臨済宗の総本山で、山号を天徳寺と称した。琉球を統一した第一尚氏に代わる第二尚氏の王統の菩提寺だった。「琉球随一の寺院であった」と説明書は記す。

002  クーデターで王位に就いた金丸=尚円王を祀るために、第3代の尚真王が1492年から3年がかりで建立したと伝えられる。建築の手法は、鎌倉の円覚寺にならった禅宗七堂伽藍の形式を備えている。

003  ちなみに鎌倉の円覚寺は、蒙古が来襲した元寇の戦没者を敵味方の区別なく弔うために創建されたそうだ。これは余談である。

 伽藍は西面し、前面中央に総門(上写真)を開き、放生橋、山門、仏殿、龍淵殿が一線上に配置されていた。西向きと言うのは、首里城と同じ方角になる。なにか関係があるだろうか。

 049  開山住持は、京都南禅寺の芥隠(カイイン)禅師である。芥隠禅師は、第一尚氏の尚泰久の治世下に琉球に来て、王の信認をえて、広厳寺など三つの寺を開いたとか。尚泰久のもとで、金丸と知り合ったのだろうか。「金丸がクーデターで王位につく『政界のフィクサー』的存在となって裏で暗躍したと考えられている」とのこと。これは、ネットの「かげまるくん行状集記・琉球の官寺」で紹介されている話しである。

048  円覚寺は、昭和8年(1933)に国宝に指定された。昔の姿を古い写真で見ると、実に荘厳な寺院である。沖縄戦でほとんど破壊された。残念なことだ。

 現在の総門と左右の掖門(サイドの門)は1968年に復元された。放生池にかかる放生橋(上写真)は1967年に修復された。

 今回、円覚寺跡を見て、もっとも興味を引かれたのはこの池の配置である。大和のお寺も池のある寺は多いだろう。でもこの造りのように、総門を入ると大きな池があり、その真ん中に橋がかかっていて、橋を通って仏殿に進むというのは、他で見たことがなかった。珍しいのではないだろうか。048_2  橋の欄干には精緻な彫刻が施されて「沖縄の石彫美術の最高傑作」と説明書きにはある。総門が閉まっているので見れなかった。

2012年10月 8日 (月)

ディアマンテスに「チムドンドン」

 那覇大綱挽まつりに合わせて、ことしも10月6,7,8日と「オリオンビアパラダイス」が奥武山公園で開かれた。お目当ては、ディアマンテスのライブだ。

 その前に、tokky&kumojiband、しゃかり、イクマあきらの演奏を楽しんだ。もちろん、生ビールは、名護の工場直送だから美味い。

020  ディアマンテスは、沖縄からのペルー移民の三世、アルベルト城間を中心にしたラテンバンド。オリオンビールのCМも歌い、ビアパラダイスには絶対欠かせない。

 037  「花祭り」「三線片手に」「琉神マブヤー」はじめ、ラテン曲とオリジナルのウチナーポップス曲を歌う。たちまち踊り出す。警備の係がすぐ飛んできて「立たないでください」と制止する。でもすぐ立ち上がる。ラテン音楽は、ウチナーンチュを「チムドンドン」させる。心を浮き立たせる。「立つな」というのは野暮なこと。

045  最後はもう熱狂状態。誰も止められない。アンコールの「勝利の歌」が夜空に響き渡る。

046  ウチナーンチュもラテン系の人たちと同じ血が流れているのかもしれない。興奮のうちに最後は花火。064  ビアパラダイスには、最終日の8日も出かけるぞ!

2012年10月 7日 (日)

第32軍司令部壕跡を見る

 沖縄戦の第32軍司令部壕跡を見た。首里城に何回も行っていながら、まだ見ていなかった。013  説明板が設置されているのは第一坑道入り口のある場所。世界遺産の園比屋武御嶽(ソノヒャンウタキ)石門の裏手になる。
 第32軍は、1944年3月に創設され、同年12月から、多くの学徒や住民を動員して司令部壕の構築が進められた。

020  司令部壕は、首里城の地下に張り巡らされている。南北400㍍、総延長1キロメートルに及ぶ。壕内は5つの坑道で結ばれていた。

019    坑道入り口は鉄柵で封鎖されている。中をのぞくと通路の壁しか見えなかった。

           
 1945年3月、空爆が激しくなると、第32軍司令部は地下壕へ移動した。「司令部壕内には、牛島満司令官、長勇参謀長をはじめ総勢1000人余の将兵や県出身の軍属、学徒、女性軍属などが雑居していました」と説明板に書かれている。

014  しかし、県が設置した検討委員会の答申では、女性軍属の後に「慰安婦」の記述があった。また「司令部壕周辺では、日本軍に『スパイ視』された沖縄住民の虐殺なども起こりました」との説明もあった。いずれもバッサリと削除されてしまった。
 検討委員会の委員への相談もなく、一方的に削除し、委員が抗議して話し合うことになっていたのに、面談予定の前日に削除した説明板を、また一方的に設置した。

016

 説明板は、第32軍の創設、司令部壕内の様子、司令部の南部撤退を説明している。日本軍司令部は、1945年5月22日、南部摩文仁への撤退を決定した。「本土決戦を遅らせるための沖縄を『捨て石』にした持久作戦をとるためでした」。

017                     壕内の様子

 5月27日夜、本格的な撤退が始まった。「司令部撤退にともなう軍民混在の逃避行のなかで、多くの将兵の住民が命を落とすことになってしまいました」と説明している。

 これも翻訳文では「捨て石」と南部撤退で犠牲者が増えたことの説明が削除されているという。

021       近くにもう一つ、坑道入り口らしきものがあった。

 「慰安婦」や「住民虐殺」は、日本軍の本質、沖縄戦の特質を語るのに欠かせない。いずれも壕内にいた多くの将兵や学徒などの証言で確認されている事実である。説明板は、2012年春に設置されたばかりだが、説明板の記述を答申通りに戻すことはすぐにでもできること。ぜひ改正してほしい。

2012年10月 6日 (土)

勝手気ままに飛びまわるオスプレイ

 米海兵隊普天間基地にオスプレイの配備が強行されたと思ったら、すぐに10月4,5日と連続で飛行訓練を行っている。

006  市街地上空はできるだけ避けるとか、固定翼とヘリモードとの転換は、基地区域内で行うとか政府の「安全宣言」で約束した。だれもそんな「紙切れ」は信用しない。

 飛行訓練が始まると、普天間飛行場への離発着のさいは、そんな「安全宣言」などお構いなし。普天間飛行場の周辺には、学校、保育園、病院などたくさんある。公共施設への配慮などまるでない。もともと、宜野湾市のど真ん中にある「世界一危険な基地」だから、配備すること自体、「安全宣言」を守れるはずもない。無理がある。

 保育園や小学校の子どもたちが、オスプレイの轟音とこれまでの軍用機とは違う異様な姿を見て、「あっ、オスプレイだ。落ちるんじゃないか」と不安にさらされている。市民・県民のだれもが、「いつかかならず落ちるよ」「落ちたらどうすればいいか」と心配している。そんな県民の気持ちを野田首相も森本防衛相もまるでわかっていない。わかろうともしない。

019 飛行訓練は、本島の金武町、宜野座村、名護市、東村、国頭村や伊江島など広い範囲で飛び回り、伊江島では離発着を繰り返している。ヘリパット建設が計画されている東村高江でも降下訓練を行った。

 名護市の辺野古には、沖縄高専がある。5日には、高専の上空をヘリモードで飛び、騒音で一時、授業が中断されたという。
 同日、普天間飛行場に着陸するさい、嘉数中学校や沖縄国際大学周辺の上空でもヘリモードで飛行したという。「安全宣言を守れ」といっても、配備されればこうなることはわかっていた。配備を撤回するしかない。

 岩国基地に残っていた3機も、6日に普天間に飛来して、12機がそろうことになった。いよいよ本格的な訓練と運用が始まる。

 政府は、配備に反対していても、そのうち慣れるだろうと甘く見ているかもしれない。そんなことはない。伊江島や金武町など各地でこれまでのヘリ訓練とはケタ違いの頻繁な訓練が見込まれている。県民はオスプレイの危険性と騒音を日々、実感することになる。

 県民の総意を無視する日米政府への怒りは底深く広がっていくだろう。
仲井真知事は9日にも野田首相に会う予定だが、あくまでオスプレイは撤去するように主張すべきである。
 写真は、配備の日のテレビ画面から。

 

2012年10月 4日 (木)

台風17号の爪跡

 夏の間、暑くて控えていたウォーキングを再開した。ウォーキングコースの漫湖公園は、モーレツな台風17号の傷跡がいたるところにある。

006  大きな樹木が、根こそぎ倒れている。公園全体では10本くらいは倒れているだろう。枝がポッキリ折れたり、樹幹が引き裂かれるように折れ曲がったりした木は数えきれない。

008  それに、木々の葉っぱは、暴風が運んできた海水によって、塩枯れしている。そんななかで、常緑樹で、葉が厚い木は塩枯れずに元気だ。

 いたるところに折れた枝葉が山積みされている。公園の整備を行っているシルバー人材センターのおじさんたちが、忙しく働いていた。

005  枝の折れた樹木に、高い梯子をかけて登り、チェンソーで枝を切り落している。危ない作業だが、もう慣れているようだ。ご苦労さま。

 

2012年10月 2日 (火)

暴風に耐えトックリキワタ咲く

 南米原産の花木、トックリキワタが9月末から咲き出した。最大風速61・2㍍を記録した台風17号に直撃されたけれど、それに耐えて咲いている。

003  那覇市の与儀小学校横の通りは、この花木が街路樹として並び、「トックリキワタ通り」と呼ばれている。ただし、咲いている木は、ごくわずか。まだこれから咲くのだろうか。

001  この木は、ずんぐりしているので台風には強いのか、倒れたり折れたりはしていない。005  これまでブログに何回か紹介した。樹形は中央部がふくらみまるで徳利のようだ。花が散った後、春には野球ボールぐらいの大きな実がなり、それがパクリと割れると、中から棉が飛び出す。それでこんな名前がついている。

006  幹には鋭いトゲが無数に出ているので、うっかりさわると危ない。だから、「街路樹には向かない」という人がいる。けれども、「南米桜」の異名があるこの花木は、10月から12月末くらいまで、長く可憐なピンクの花を咲かせるので、花の街路樹として目を楽しませてくれる。

004  ただ、今回の台風が運ぶ海水を浴びて、どの木も葉っぱが塩枯れしてしまった。この先、少し心配である。

008  路上には花びらがたくさん落ちていた。

2012年10月 1日 (月)

台風去って、オスプレイ飛来

 猛烈な台風17号が去って晴れ上がったと思ったら、米軍の垂直離着陸機МV22オスプレイ6機が10月1日午前11時過ぎに、岩国基地から飛来してきた。
 写真は、琉球放送、沖縄テレビのテレビ画面から紹介する。003  世界一危険な普天間基地へのオスプレイ配備に反対し、10万1000人が参加して県民大会が開かれたように、「配備反対、普天間基地は閉鎖を!」は県民の総意だ。連日、基地ゲート前では、市町村長、地方議会議長を先頭に抗議行動が続けらているのに、民意をまるで無視する暴挙である。

018  政府は「安全宣言」で、「人口密集地上空を避ける」とか「垂直離着陸モードでの飛行を米軍の施設・区域内に限り」とか言ってきた。016  でも、宜野湾市のご真ん中にある普天間飛行場は、人口密集地の上空を飛ばないで入れない。しかも、市街地の上空で、固定翼から回転翼への転換をして、飛来してきた。もう「安全宣言」とか「日米合意」などまるで無視するかのようだ。
 まあ、最初から県民はだれもそんな誤魔化しを信用していない。

019  2日以降にあと6機も飛来して12機がそろうことになる。これから日々、県民は墜落の恐怖や騒音にさらされることになる。

 オスプレイの重大な欠陥といわれるエンジンが停止したさい、安全に着陸できるオートローテーション(自動回転)がないことが問題になってきた。それが、なんと日米合同委員会で確認されたのは驚くべきことである。
 009

 日本側は「安全に普天間基地へ帰還する能力を有するかの確認を求めた」。それに対して「米側は両エンジンが故障しオートローテーションが必要となる想定しがたい事態で飛行場内に安全に帰還するため、あらゆる措置をとる」というだけだ(合同委員会議事録)。
 

 つまり「安全に帰還する能力を有する」ことは肯定していない。「あらゆる措置をとる」と言うだけである。「能力」として肯定できないのだ。肯定しなければ、否定したことと同じだ。
 日本側も、オスプレイの降下率が一般のヘリに比べて高く、着陸の際、機体が損傷することを認めている(「安全宣言」)。つまり激突することになる。

 それ以前に、オスプレイは素人目に見ても、危うい。回転翼(ローター)が左右にあるため振動の影響が大きいとか、回転翼が小さいため、回転数が高くなり、少しの風でも推力が低下する、他機の後方乱気流の影響を受けやすく制御不能になる、などなどオスプレイ担当の主任分析官をつとめたアーサー・レックス・リボロ氏も指摘している。追い風を受けて墜落もしている。
 
 風に弱い構造的な欠陥があるというのは、沖縄では致命的ではないだろうか。島だから強い海風がしょっちゅう吹いている。

 県民だれもが、こんな不安をもっている。それだけでなく、いつか必ず墜落など事故が起きるだろうと真剣に心配している。こんな強引な配備は、県民の怒りを増幅させるだけである。

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