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2012年10月22日 (月)

洪水の様相伝える真玉橋碑文

 国場川にかかる真玉橋の由来を伝える碑文が、橋のそばの真玉橋公民館前に建立されている。

041  「重修真玉橋碑文」という石碑である。碑文は、2度にわたる橋の改修工事を記念して1837年に建てられた。戦前までは、もっと橋の近くにあったけれど、沖縄戦で破壊された。祖先の残した文化的偉業を偲び後世に伝えるため、1978年に地元の真玉橋自治会を中心に碑文復元期成会が設置され、資料の収集も行い、1980年に碑文が復元されたという。

 044  碑文の表面には、2度にわたる改修工事の経過が記され、裏面には、工事に費やした人夫、工銭(費用)などが記されている。
 最初の工事には、石細工8918人、人夫は35間切(今の町村にあたる)から8万3676人。2度目の工事には、石細工1万258人、人夫7万8226人がかかわったという。大量の石細工、人夫が動員された大規模な工事だったことがわかる。

047
  写真の碑文は表面である。原文はなかなか読めない。そばに説明文がある。
 興味を引くのは、なぜ改修工事が必要だったのかを記していることだ。

 川の一端に真玉村があった。5つの橋からなり、真玉橋の古橋、南の世持橋、北に世寄橋、その両方に、名前のない二つの橋があった。この川の両岸に、石を積んで堤とし、その上に木を架けて橋として往来する人々の通路になった。

 「近年川の両岸の土地を田畑に利用する人があった為め、両方の橋がふさがり、その川が浅く偶(タマ)に洪水が氾濫すると土砂がことごとく那覇港に流れ込み、港も狭く浅くなることは必然であり」という。
 那覇港は、中国から琉球国王の認証のため派遣される冊封使(サッポウシ)が来琉したり、薩摩との往来の玄関口でもあった。

 那覇港は中山(琉球)のカギ(要所)、両岸の田畑を取り除き、木の橋を石の橋に改修するよう言い渡され、1708年工事が完成した。碑文の石碑を建てた。

043 1809年、世寄橋が大雨の為、破損し木の橋を修復したが、洪水に流され、1836年石をもって改築し、北の方に世済橋を新築し、これより流れがよく、水害による流失もなくなったという。046  川の流域に田畑がつくられ、橋がふさがり、川が浅くなり、洪水が起こったという。これは、いまも、川の流域で宅地開発が進み、遊水地がなくなると、大雨が降れば一挙に雨水が川に流れ込み、洪水をおこすことを思わせる。

 また、川の氾濫で土砂が那覇港に流れ込み、港を狭く浅くすることが、港の機能のうえで障害となることを王府が恐れて、田畑を取り除き、橋も改築したと様子がうかがわれる。

 住民の運動で、真玉橋の遺構も残され、碑文も復元し保存されたことは、後世に伝えていくために、とっても大事なことだと思う。

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