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2012年11月

2012年11月27日 (火)

沖縄の鍛冶屋、その5

沖縄戦と鍛冶屋

カンジャーは村々に金細工屋(カンゼークヤ)の屋号がある数だけ営業している。明治時代の末ごろ、県内に約250軒のカンジャーがあった。船大工も約400人いたという。

沖縄は鉄資源がないので鉄製品をつくるとなると県外から移入する以外ない。

鍛冶屋の使う鉄鋼材は昔から不足していた。そこに昭和16年、第二次世界大戦がぼっ発して戦時体制下に入ると鉄類は供出された。学童の洋服のボタンも木に変えられ、蚊帳の耳も学校を通して集められた。

 鍛冶屋は古金集めの業者から買った。戦前、アメと古金と交換する古物商が田舎の家庭をまわっていた。

 鍛冶屋は職人をつかい荷馬車をもって他村にまで出かけ、材料探しをしたものである。原材料となる鋼鉄や鉄くずはすべて規制され、組合を通じて配給された。そのために鎌や鍬の長さまで組合を通して役人が点検し、一糎(センチ)でも長いと注意をうけた。仕方がないので修理にもってきた古い鍬、鎌は先にハガネを少しつけるだけで済ました。

 鉄材の割当てがないので新調することもなかった。そのころ、鍛冶屋はお手上げで廃業に追いこまれるものが現れた。

 沖縄戦が終わると、息を吹きかえし、戦後は竹ノコの如くカンジャーが増えた。

 戦争で残された艦船、戦車、トラック、砲弾などが野ざらしされ、座礁していた。

 日米両軍の使った兵器類、酸素ビンから金網の棒や上陸につかった六角型の穴のあいたレール等ことごとく材料につかわれた。米軍駐屯地にも残がいがあってそれにも目をつけた。戦利品利用のようにそれを利用して生産用具のナベ、カマ、クワをつくり、農具、漁具を製作し、部品を組み立て新しい機械をつくった。一部には早くも、スクラップブームの中で豊富な鉄クズを集めて器具や機械をつくる鉄工所が現れた。

 

日米軍への協力

 戦時下及び戦後、鍛冶屋の技術を日米両軍とも競って利用した。

 沖縄戦の準備のころ、飛行場や陣地づくりに全業者、組合員が徴用され、軍への協力を命じられた。10月10日の空襲のころ、伊江島飛行場に幾度も徴用されていた。とび口とかクギ、つるはし等飛行場設営につかわれる道具をつくる任務を命じられたのである。

 竹槍の先つくりには鍛冶屋が型取りをした。飛行場の滑走路側に作られた鍛冶屋で防衛隊員自らそれをつくっていた。兵隊の帯刀もつくったり、それを研いだりする場合は、軍の鍛冶屋経験をもつ下士官が指揮した。十・十空襲のとき、伊江島飛行場に設けられた鍛冶屋に爆弾が投下され、こっぱみじんに吹き飛ばされた。怪我人が出たが、多くが9月に任期を終えてそれぞれ帰郷したので生命びろいしたようなものであった。⋯⋯

(塹壕堀りに使う石斧を製作、荷馬車の車輪つくり、馬蹄をつくらされた。爆弾や手榴弾もつくらされた。戦場で犠牲になった鍛冶工も多い)

米軍が上陸すると今度は逆に米軍がいち早く鍛冶屋経験者に目をつけ、集めた。田井等のカンパンでは5月ころから米軍命で、農機具を作らされている。

 食糧確保作業のために一般の収容者がかり出されたが、それに使う鍬や鎌などが戦争のため消失していたからである。米軍は鍛冶屋経験者を登録し、米兵の直接指揮下で農機具の製作を命じ、そのためにタバコや缶詰等特別の増配が行われ、軍の車で送り迎えされた。他の人たちは日中作業に追われるのに鍛冶工は1日に6時間働くと、後は休んでいいようになって優遇された。

 他部落には米軍の許可がないと出入りできないころ、鍛冶屋だけは自由に巡回でき、他部落に一定期間配置された。戦後、2~3年経ってからも米軍は軍事施設の建設のために鍛冶屋をその地域で募集した。金具や建築用材料が米軍から支給され、仕事に事欠かなかった。戦後、仕事がないころなので、技術があることで生活は楽であった。

 

鍛冶屋は激減した

 カンジャーは村々に金細工屋(カンゼークヤ)の屋号がある数だけ営業している。明治時代の末ごろ、県内に約250軒のカンジャーがあった。船大工も約400人いたという。

 大戦中に減ったのは事実だが、戦後再び竹の子のごとく各地にスクラップを利用した鍛冶屋が生まれた。 

 海外で鍛冶屋をしていた人や、軍隊にとられていた経験者が引き上げてきて鍛冶屋を再興した。その数はつかめないが、業者組合を市郡単位に組織し、活動が活発となった。それが復帰を境に激減している。

 機械化と本土製品に押されたばかりでなく人件費が増大すると零細企業の鍛冶屋では職人を雇えなかった。

家族単位で細々と続けてきたというのが実状である。

 福地さんが、本書を刊行した1989年時点で、沖縄の本島と久米島、宮古島、八重山を含めて19軒しか残っていない。再建しつつあるのを入れても20軒しか現存していないと記している。

以上、福地氏の著作『沖縄の鍛冶屋』から、きわめて個人的な興味のある部分だけを紹介した。

 (終わり。2012年11月25日          文責・沢村昭洋)

2012年11月26日 (月)

沖縄の鍛冶屋、その4

舞踊曲の金細工節

沖縄の舞踊の一つで、男がふいごを担いで遊女を連れて踊る金細工節は単にカンゼークーともいう。主人公は歌の初めにあるように、伊波の屋号金細工のクワティ加那兄で実在の人物でその遺品の金床その他が2、3残っている。(略)

 加那は歌に「クワティ加那兄」と歌われているが、果たしてどの程度のクワティであったのか。伝えるところでは首里奉公中に主人の娘と婚約のあった男が、加那に娘を横取られはしまいかと嫉妬して、クワティと中傷したのでとうとう皆がクワティと呼ぶようになったとも言われている。しかしそれはそれとして、加那も相当のジュリユバー(遊郭通い)にはなっていたであろう。モーサーなるジュリ(遊女)を伊波まで連れてきた程だから。

 昔は田舎では田植がすむと腰休め(コシユックイ)という農家の慰安的行事があった。その時金のある実力者は、ジュリを田舎に連れて来て、村の青年達と共に遊んだと言われているが、加那もその一人であったのである。その時加那は他のジュリ小達も大勢つれて来たが、彼女達は先に帰して二人は恋の逃避行よろしく一月程も伊波に逗留していたのである。ところがやがて歓尽きて二人はまた手をとって辻に帰ったのである。

 この「金細工節」はこの時のことを歌ったもので、沖縄タイムスの芸術総覧によると、中毛芝居時代、瓦屋玉城という役者の作詞で、踊りは玉城盛重氏の代表作の一つに数えられているという。

「金細工節」の歌詞

♪美里間切の 伊波の金細工の 喰丁加那阿兄(クワテイカナフイ) 

大平加那阿兄(テエフアカナフィガ) しやいる事や

※ハヤシ へいよへいよ 胴兼合(ドガネエ) よやさ・さ・さ・ひや・さのさ

♪辻の時の真牛(モウサ) 島の新背達も(ニセタン) 案内無しくに 引きくさい

♪「あい、加那阿兄 一月三十日なる迄 我が兼合や(カネエヤ) 

如何す呉ゆが(イチャスクイユガ)」

♪「世話しゆな、真牛 親の譲りの 鞴(フウチン)も有りよ、金具も有りよ

  おれ売て、阿母(アンマア) 返済(フインセ)しゅんどう」

♪云居る内(イユルウチ) 為居る内(シユルウチ) 上泊鍛冶屋も 走り来やれば

♪「鞴買ひんしやうれ 金具買ひしやうれ 為有んたいまも 買ふゆる人や、
一人も居らん」

♪云居る内 為居る内 泊高橋にや寄せかけて

♪「おい、真牛 汝やおま居て、煙草吹きわいれ 我やあま行ぢ俵銭借て来う

♪「あまや行ぢやくと 喰丁加那阿兄 太平加那阿兄 んで言居ち(ンデンチ)
 惜らしゅる人や 一人も居らん」

♪「あい、真牛 我達男の(ワシタウヰキガヌ) 泊高橋、返り落てら」

♪先づ待て、加那阿兄 去ぢやる三月三日 三貫模合(モアイ)も掛けて
置きやりこと おれ取て、阿母(アンマア)、返済しゅんどう」

♪云居る内 為居る内 西武門(ニシンジョウ)も走ら来やりば

♪「あい、真牛 おまの町屋に置き有る 印(クゥガ)手引も、衣も持ちやり
 汝も先きなれよ

♪云居る内 為居る内 時の門も、走り来やれば

♪「おしたりべら」「誰がや」「此所の真牛ど、添うて来やりんどう」

♪扨(サ)っても、加那阿兄 一月三十日なる迄 我達真牛 
あんす痩(ヨ)う枯らち 

♪「あい、阿母、汝達真牛や 去ぎやる月から 彼にど有たる」

♪「あい、加那阿兄 おれは済むすが 島の苞も(シマヌツィトン)、
兼合も(カネエン) 持つち来やりみ」

♪「あい、阿母、我達男の おれも忘れゆみ」

♪「果報す、加那阿兄 裏座も暇やり 入つち遊べし」 

和訳

♪美里村の伊波の金細工の いい加減な加那兄 したことは ※ハヤシ

♪辻(遊郭)の時の真牛(遊女の名)は 島の青年達に 宣伝もしないのに
引っ張りだこだった

♪あの加那兄 一月三十日になるまでの 私の身受金は どうしてくれますか

♪心配するな真牛 親に譲ってもらった 鞴(フイゴ)もある 金床もある

 これを売って アンマーに金を返す

♪それからようようと 上泊に鍛冶屋(加那兄)は着いた

♪鞴を買って下さい 金床を買って下さい そんなことをしたって
買ってくれる人は一人もいない

♪そうこう言っているうちに 泊高橋に着いた 

♪さう真牛 君やここで煙草でもやってなさい 私はあそこへ行って
俵一杯の金を借りてこよう

♪そこに行っても いい加減な加那兄は 嘘つきだからと言って金を
貸す人はいない

♪さあ真牛 私は男だ 泊高橋から飛び降りよう

♪ちょっと待って加那兄 さる3月3日 3貫模合をとってあるから
 その金でアンマーに返せばいいよ

♪さすが真牛 なかなか手回しがよいぞ

♪そうこうしているうちに 西武門(ニシンジョウ)に着いた

♪さあ加那兄 この町屋(店)にあるタマゴ包とお金もって
先に行ってなさい

♪そうこう言っているうちに 時の門に着いてしまった

♪ごめんください 誰ですか ここの真牛を連れてきたよ

♪よくも加那兄 ひと月30日で私の真牛をこんなに瘠せさせて

♪なにを言うアンマー あなたの真牛は さる3月からこんなんだった
じゃないか

♪加那兄 それはよいけれど 島の土産と真牛に見受金は 持ってきたのか

♪さすがアンマー 私は男だ そういうことを遅れるはずがない

♪ありがたい加那兄 裏座(遊郭部屋)も暇だから 入って遊びなさい

 (和訳はネット「ちむぐくる」から紹介させてもらった)

2012年11月24日 (土)

沖縄の鍛冶屋、その3

伊波の金細工(カンゼ-クー)

 伊波の屋号金細工には祖先伝来の鍛冶道具が残っているが、その一部が昭和56年石川市(現うるま市)の文化財として指定された。指定に理由は諸道具が使用された時代の、習俗を知る上で重要な資料となると思慮されたからである。

ならばなぜ、金細工に鍛冶道具があるかといえば、金細工という屋号が示すように、金細工は代々鍛冶屋であったからである。沖縄のあちこちに金細工という屋号があるが、昔は金細工はどの地方でもみな金持ちであった。金持ちであるということは、鍛冶屋は大切な農具を作るということで免税されていたからである。当時、一般庶民が納税のために、苦しんでいる時に、免税の恩典にあずかることは理の当然である。

 伊波の金細工もその例にもれず、金持ちであったが、金持ちであるということは、その子弟をして、首里の御殿(ウドゥン)、殿内(ドゥンチ)の奉公人になる道につながっていたからである。御殿、殿内の奉公人はただ働きをさせられたが、しかしそれを終えていつか郷里に帰ると番所勤めの役職につけたからである。

当時、公租と夫役にしばられ過酷に搾取され、虐げられた百姓にとって役人の地位は、そのきびしい生活から逃れるための唯一の道であったからである。奉公人といても衣食住すべて自分持ちで一銭の給料もなく、しかもそれが十年、二十年も、先に言ったようにただ働きをしたのである。したがって田舎の金持ちの子弟でなければ出来ない業であった。それも役人への道を夢見たから出来たのである。

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         奥間カンジャーに掲げられていた絵

「金細工節」の主人公

 (ここからは、舞踊曲で名高い「金細工節」の主人公についての話である)さてこうした理由で、金細工の加那(カナ)も、殿内奉公に出たのである。加那が行った殿内は知念殿内というところで、多分加那は17、8歳の青年であったであろう。ところで加那はなかなか今で言うハンサムな青年の上に、性格が明るく、ひょうきん者であったから、「テーフワ加那ヒー」と言われて、主人のお気に入りでもあり、よく主人のお供で辻(昔のズリ=遊女=の屋)にも行った。辻に行くとズリ小(グヮ)達にもよく持てて、みな加那の所に寄って行くので、他のお供の者からは嫉妬されたという。

 時に知念殿内に年頃の娘がいて、この娘が加那に思いを寄せていた。しかしこの娘には許嫁がいたので、それを知った主人はびっくりして、ちょうど折りよく知念間切のシチヤカンチヤから来た奉公女のいたのを幸いに、二人を無理矢理に夫婦にしてしまった。そしてシチヤカンチヤに家も屋敷も与えられて、田舎下りをさせられてしまったのである。こうして加那は目的を果たせぬままに、此処で世を終えたが、例の鍛冶道具は加那が奉公に出る前に親子で使ったものである。なお加那の遺体は大正年代になってから伊波に移葬された。

 今舞踊化された金細工節は明治2、30年頃、辻で語られていたのを、瓦玉城という役人が作ったもので、振付けは玉城盛重翁であると言われている。
 (『伊波区児童体育館兼公民館建設記念誌』より)

沖縄の鍛冶屋、その2

鍛冶神を祀る御嶽と鍛治跡

 鍛冶屋の神を祀っている拝所が各地にあって、信仰の対象となっている。

 いずれも神名を金殿とか守護神となっており、鍛冶神である。農具を作って農民に与え、農業を普及したのでその徳をたたえ農業神となし、御嶽をたててこれを祀った。

 鉄製農具が大和から渡来し、鍬、ヒラ、鎌を作り、五穀が実り、豊年を祝福したという神徳がうたわれている。村や島々の信仰をあつめ、鍛冶の神を祀る。主な御嶽や鍛冶屋は次の場所である。

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 (沖縄本島)

1、奥間カンジャー    国頭村奥間、お宮カニマン(写真)

2、謝名城、城内鍛冶屋跡 大宜味村謝名城

3、百按司墓       今帰仁村運天港、墓の入口、
          鍛冶を祀った祠

4、稲荷神社       那覇市壷川、拓南製鉄内、鉄の守護神

5、免の大親      知念村字志喜屋、鉄の始祖

6、タダナ城      具志頭村、波(玻)名城、
          
別名フイゴ鍛冶伝わる

7、森山の嶽      佐敷村、鍛冶がはじまる

8、南山城       下の和解名、南山城の武器農具製作

9、浦添内間の鍛治跡(農具製作)

10、中城城下の鍛治跡(武器と農具製作)

11、勝連城下の鍛治跡(武器、農具、漁具政策)

12、カンジャーガマ  読谷村長浜、鍛冶屋跡(津波家)

13、カニマン御嶽   読谷村座喜味、洞穴が拝所
           (屋号カンゼーク)

14、鍛冶屋山     佐敷村上津波原の丘

15、佐敷城(上城)  佐敷村、鉄製武器、武具出土

(宮古) 16、嶺間御嶽ほか22まである

(八重山)21、崎原御嶽 

 

 

2012年11月23日 (金)

沖縄の鍛冶屋、その1

沖縄の鍛冶屋         

 沖縄の各地を歩き、史跡や拝所を訪ねていると、鍛冶屋跡や鍛冶屋に由来する御嶽(ウタキ)がよくある。とても興味深い。琉球王府の時代に、鍛冶屋が重要な役割を果たしてきたことや、それゆえ信仰の対象にさえなっていることに驚く。すでにブログでも、国頭村奥間の「東(アガリ)ぬカンジャーヤー」や、那覇市小禄の「カニマン御嶽」のことなどを書いてきた。
 そんなとき、図書館で福地曠昭著『沖縄の鍛冶屋』を目にした。読んでみると、鍛冶屋にまつわる興味深い史実やエピソードあり、学ばされた。それで、いくつか参考になることを紹介してみたい。
 著者の福地さんは、沖縄の米軍統治下で沖縄県教職員会政経部長として、活躍していて、右翼に襲撃された事件で、その名前を初めて知った。一方で、沖縄の歴史や民俗など造詣が深く、戦前に少年が糸満漁師に売られる「糸満売い」や紡績女工の実相を描いた「沖縄女工哀史」、「沖縄の幽霊」ほか多数の著作がある。
 『沖縄の鍛冶屋』も、戦前、戦後と鍛冶屋として働いてきたたくさんの鍛冶屋に直接インタビューしてまとめた労作である。紹介にあたって、文章を少し手直ししたり、説明の(注)を入れ足りている。

 

いつごろ鍛冶屋が生まれたか

12世紀ごろ、本土の貿易船が入って鉄の武器が入ったと考えられており、歌等もあるように鹿児島の坊津から遣唐船が中国と往来し、ここから沖縄に鉄が入ったと考えられる。そのころ京都で鉄器が市場に出ていたといわれる。琉球で城(グシク)をつくるとき競ってその鉄を買ったものだとされる。

察度王(琉球の中山国王)や尚巴志(琉球を統一した)は貿易を盛んにし、鉄をとり入れて天下をとった。鉄を握るのが天下を支配するということはどこでも同じである。056

             昔の鍛冶屋の風景(奥間カンジャー)

鍛冶屋の起こり

 考古学に頼る以外ないが、12、3世紀ごろの遺跡から鍛冶屋の技術を示すのが出されている。

 鍛冶屋で製鉄のときできる鉄滓やフイゴの羽口がその存在を示す資料となっている。14、5世紀になると、そのころ形成されたと思われる遺跡から鉄製の武器が出土している。ほかに農具も出ており、鉄器の製作が普及していたと指摘されている。

 海外との交易が広まり、製鉄技術がすすみ精錬から鉄器の仕上げまででき上がったものとされている。それにともなって鍛冶職が専門化し増加していったであろう。

 尚思紹、尚巴志父子によって14世紀に築かれたウエグスク(上城)からも多くの鉄製の武器、武具が出土している。このことから農業の発達を即す農具や武器をつくる鍛冶技術があったと推察される。 
 14世紀の初め尚思紹一統の人々が伊是名島(伊平屋島と伝えられる)から移って豊穣な佐敷平地(南城市)に住んだ。すでに各地に製鉄器具が伝わり、鍛冶屋が農具をつくり、広い平地を開拓し、武器も輸入して、尚巴志の三山統一が達成された。(「沖縄県史・沖縄民俗」)、近辺には百姓に農具を作らせそれを与えたという尚巴志伝説がある。

 上津波古原には昔から鍛冶屋山と呼ばれている丘がある。
 王府には行政機関として鍛冶奉行がおかれ、そのもとに鍛冶勢頭がいて各間切(今の町村)には鍛冶屋がおかれた。
 鉄資源のない沖縄ではこの奉行を通して統制管理された。鍛冶屋は村から村へ移動して歩くものと、一定の村に安住する者とがあった。
 移動性の鍛冶屋は、村から村へ炉道具、材料などをもって移動し、一定の村に宿をとって注文をうけた。修理はじめ農具、生活用具を製作した。鍛冶屋のない部落に一定期間、出張所を設けるとか逆に、定着の鍛冶屋に寝泊まりで道具の修理にやってきたものである。

2012年11月18日 (日)

南洋群島のストライキ、その5。盛んな芸能

南洋でも盛んだった沖縄芸能

このようにして南洋群島へ渡った沖縄県人は、その後は全般に生活は安定し、各地に沖縄県人会を組織するまでになった。「農場も漁場も商店街も、ほとんど沖縄県人でしめられ、南洋群島はあたかも沖縄県の延長といった感じがするまでになった」という(『沖縄県史(7)移民』(沖縄県教育委員会)。

ウチナーンチュにとって、移民としての苦労があれば、その疲れを癒し、暮らしを楽しむためには、芸能が欠かせない。話は少し本題から外れるが、南洋群島での芸能事情にふれておきたい。

当時、日本人の多い島のおもだった町には、芝居小屋や映画館があった。移民たちにはかけがえのない娯楽のひとつとして人気があった。

とくに、演劇のなかでは沖縄芝居がもっともさかんだった。沖縄の著名な役者たちが南洋群島に拠点を移し、互いに競いあって新しい舞踊や演劇を生み出したため、人気はますます高まった。なかでもウチナーンチュが最も多かったサイパン島の南座と、テニアン島の朝日劇場(のちの球陽座)には、沖縄芝居の常設館があった。

沖縄の著名な俳優たちが、南洋に本格的に進出しはじめたのも、これら劇場の建設がきっかけのひとつとなったそうである。

芝居の人気高まる

著名な役者の島袋光裕やさらには伊良波尹吉(イラハインキチ)、渡嘉敷守良らが南洋に出かけ、この地を拠点に長期的な活動を行なった。南洋では、ふたりの一座が中心となり、競いあいながら沖縄芝居の人気を高めた。

サイパン島やテニアン島の劇場は、専属の一座を抱えていた。専属の劇団は、他の島や海外に巡業することがあった。とくに役者がいない島に巡業すると、連日大入り満員となったという。

伊良波尹吉は1933年に南洋に渡り、1940年に沖縄へ引き揚げたとされている(『奥山の牡丹―沖縄歌劇の巨星・伊良波尹吉物語』)。彼はサイパン島南ガラバン町の南座を拠点としながら、南洋群島のほかの島やフィリピンなど外国へも巡業を行なった。料亭の踊り子などに舞踊を教えるかたわら創作活動も行ない、なかでも「南洋浜千鳥」は有名である(以下、伊波妙子「南洋千鳥」『具志川市史だより』)

サイパン島では「南洋浜千鳥」を「千鳥ダンス」と呼んでいた。南洋浜千鳥はダンスの別名をもつに相応しく、衣装、メロディーは「異国風」であり、振付も波のリズムを女性のしなやかな動きや体の線で表現するなどの工夫が凝らされていたが、三線の調べにのせた琉球舞踊であった。

浜本芳子(喜劇俳優浜本朝保の子供)は、伊良波が字も書けず三線もひけないのに、これほど見事な踊りを作ったこと、唄も踊りも上手であったことに深い尊敬の念をもつと話す。

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南洋に出かけた民謡歌手

民謡歌手のなかでも、南洋に出かけていた人は少なくない。たとえば嘉手苅林昌や金城実らがいる。私の通っている民謡三線サークルでも、Hさんは、小学校4年くらいまでテニアン島で育った。女性のKさんも南洋育ちである。

金城実(写真)は、「南洋をうたう」をいうアルバムがある。「アンガゥル島巡り」「懐かしきサイパン」「パラオ小唄「ペリリュー島哀歌」「南洋帰り」「南洋小唄」「南洋浜千鳥」が収録されている。

嘉手苅林昌は、南洋群島に渡り、軍の雇員として、三線を片手に島々を転々としたという。召集後まもなくクサイ島のジャングルで負傷し、捕虜となって帰還した(ネット「ウィキペディア」)。

「南洋小唄」は、「恋しい故郷の親兄弟と別れよ 憧れの南洋に渡らちゃーしがよ」と歌い出す。恋しい故郷の親兄弟と別れて、憧れの南洋に渡ってきた。朝夕思う事は、男としてひと旗あげて、故郷に錦を飾ること。愛しい彼女とも遠く海を隔てているが、お互いに変わるなよ、手紙を交わし合おう。年が明けて花咲く季節には、豊かになって帰ってくるよ、と歌う。

「南洋浜千鳥」は、やはり旅先で故郷をしのぶ唄だ。これは、歌詞は「浜千鳥節」と同じであり、南洋的な歌詞はない。

「移民小唄」は、「♪無理なお金も使わずに 貯めたお金は国元の 故郷で祈る両親に 便り送金も忘れるな」とやはり、移民先で親を思う気持ちや頑張って錦を重ねて帰りたいという夢を歌っている。「サイパン数え唄」「シンガポール小唄」などもある。

戦場となった悲劇歌う

南洋群島が戦場となった悲劇も歌われている。

「南洋数え唄」からいくつか紹介したい。数え唄だから、時間を追った歌詞ではない。

「♪一つとサーノエー 広く知られた サイパンは 
今はメリケン(米国)の旗が立つ 情けないのよ あの旗よ」
「♪三つとサーノエー 見れば見るほど涙散る 山の草木も 

 弾の跡 罪なき草木に疵(キズ)つけて」
「♪四つとサーノエー 四方(ヨモ)山見れば 敵の陣 

 一日陣地を築(キズ)き固め 明日来る来る日本軍」
「♪五つとサーノエー 何時迄も 捕虜と思ったよ 

 やがて助ける 船が来る御待(オマ)ちしましょう 皆様よ」
「♪九つとサーノエー これから先の 我々は 助けられたり

 助けたり 同じ日本の人だもの」 

戦争による犠牲を免れて、沖縄に帰ることができた人たちの気持ちを歌ったのが「南洋帰り」という唄だ。

「♪汝(イャー)とぅ我(ワ)んとぅや よう三郎(サンダー)

「お前と俺とは 南洋帰りの同じ仲間だ 戦争に追われてガマに隠れ住んだ
 空襲や艦砲射撃で 雨のように砲弾が降ってきた よくもまあなんとか生きていることか 不思議だよ ああ懐かしい故郷よ」

「♪(南洋帰りのコンパニーまで同じ)杯交(サカジチカワ)ちょてぃ ありくりとぅ 思い出話や 尽(チ)くさらん やっぱり平和や 良いむんや あゝまた行かや」

「お互いにお酒を飲み 杯を交わし合い あれこれと思い出話をすると 尽きることがない。やっぱり平和はいいものだ。平和のもとで また南洋にいってみたいなあ」



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「楽園」から「地獄」へ

 南洋群島は「楽園だった」という人たちがいる。だが、日本による占領と統治は、あくまで現地住民への圧迫や犠牲の上に成り立っていたことを忘れてはいけない。

南洋群島の島々は、太平洋戦争で米軍が反転攻勢に出てくると、平和な暮らしは一転して「地獄」と化した。

サイパン島では、米艦船が島々を包囲し、艦砲射撃からさらに上陸して攻撃してくると、移民たちはいきなり戦場に放り出された。水や食料もほとんど手に入らないまま山中の避難を続けた。米軍の艦砲射撃や砲撃を受け、たくさんの人々が死亡や負傷者、行方不明になる人もいて、家族も離散した。北へ北へ追い詰められ、最北端の「バンザイクリフ」と呼ばれた崖から身を投げたり、手榴弾で命を絶つ人も続出した。

「米軍の火炎放射で焼きつくされた死体は、軍民の区別がつかないほど散乱していた」。

米軍の進攻によって、住民は島の北部へ追いやられ、断崖まで追い詰められた。

「行き場を失い断崖から飛び降りた人びとの重なり合う死体が、薄明かりのなかでぼんやりと見えた。死に至らずに傷ついて人びとのうめき声や、水を求める声も耳に入ってきた。海には無数に浮いて漂っている死体らしきものが見えた。まるで地獄の悪夢を見ているようであった」。

これは『金武町史第一巻移民・証言編』から、住民の証言である。

沖縄県人1万人以上が犠牲に

サイパン島は7月9日、テニアン島は8月3日、グアム島は8月11日に米軍の手に落ちた。サイパン島だけで、日本人2万人のうち、8000~1万人が犠牲になり、沖縄県出身者は、約6000人にのぼるとみられる。南洋群島での沖縄県出身の犠牲者は、一万二八二六人にのぼるそうだ。

南洋群島は、軍国日本が占領し支配した地域だけに、この地への移民は、悲惨な結末を迎えることになった。これらも、無謀な戦争の犠牲だといえるだろう。

 終わりにあたって

これまで書いてきたことは、ほとんど次の資料からの引用や要約、もしくは参考にして少しコメントを付け加えたものである。『沖縄県史各論編5 近代』、『具志川市史第4巻 移民・出稼ぎ論考編』、『移民・出稼ぎ関係新聞記事集成―アジア・太平洋地域』(具志川市教育委員会教育部資料編さん室)、『名護市史本編5 出稼ぎと移民Ⅲ』、『金武町史第一巻移民・本編』、『金武町史第一巻移民・証言編』、鈴木均著『サイパン夢残―「玉砕」に潰えた「海の満鉄」』、浦崎康華著『逆流の中でー近代沖縄社会運動史』。地図は、『金武町史第一巻移民・証言編』から使わせてもらった。

オリジナルの調査や研究はない。筆者によって、ストライキをめぐる年月日、参加人員、会社の対応など、事実関係の差異がある。記憶の混同などがあるのかもしれない。まだ事実を確定する資料が不足しているので、参考文献の記述にそって紹介した。誤りなどあれば、筆者の責任である。

 (終わり 2012年10月31日  文責・沢村昭洋)

 南洋帰りのコンパニー 戦に追ゎーってぃ 洞穴(ガマ)ぐまい
空襲 艦砲 雨降らち あんしん生ちちょる 不思議(ヒルマサ)さよ 
あゝ懐(ナチ)かさよ テニアン サイパン ロタ パラオ」

2012年11月17日 (土)

南洋群島のストライキ、その4。立ち上がる農民

第二次ストライキ始まる

しかしながら、これで農民たちの運動を完全に抑え込むことはできない。ストライキの2年後の1929年(昭和4)5月に、小作人などが結束して「小作料全廃運動」を起こし、南洋庁に嘆願書を提出するという事件がおきている。南洋庁は調査をした結果、興発に論達し、小作料を収穫量の2割5分から2割平均に減額させたという。

この事件について、サイパン沖縄県人会は、興発下のウチナーンチュの実態を調査させ、島内外の世論に訴えるため、『琉球新報』の長嶺将快記者と漢那憲和代議士を沖縄から招いた。

1932年~33年(昭和7~8)ごろ、沖縄出身の運動家や政治家が相次いで南洋群島を視察し、興発のウチナーンチュ移住の実態調査や南洋庁、興発への働きかけを行なっている。

当時、興発の不当なやり方に立ち向かった沖縄移民の一人に、松田豊太郎(仲泊出身)がいる。松田さんは、甘蔗の計量場(看貫場)で、重量が実際より少なく記録されていることを明らかにした。このため、興発とは全面対決することになった。松田さんは甘蔗共栄会の代表委員にも選ばれ、小作料が高すぎると主張しつづけた。

計量の不正と差別について、松田さんは次のように解説している。

「それまでの平均の秤量より1台につき802斤多かった。これを秤量係はごまかしていた。100台で8万200斤ですよ。巡査と県人会長立ち会いでやったものだからハッキリ出てきちゃったんですよ」。計量の記録より、実際の重量は1台につき802斤多かったのだから、相当なごまかしである。

 それから松田さんは毎年一回行なわれるキビ代や小作料の決定会議に出た。興発は、小作料を3割とる一方で、日本政府から1町歩につき7円の補助ももらっていた(南洋の土地は南洋庁からの借地だった)。こういう不当な小作料や「搾取」に抗議し、賃金値上げを要求しようとした。しかし、いつも42人の委員のうち、公然と異議を唱えた人たちは少数派だった。松田、伊波英喜、伊波秀善の3人だけが興発案に反対したが、3人の要求は無視されつづけた。多くの人が不満を心に抱いていても、会社を怖がっていたのだろう。

「キビ代は、一等から五等までありましたがね。キビ代を質で評価しないで人間を見て決めてくるんですよ。一等2円50銭、二等2円20銭、三等1円90銭、四等1円60銭、五等1円30銭と30銭ずつの差があるんです。この値段は毎年決めるんだが、最後までほとんど変わらなかったですね。」

 ここで業を煮やした松田さんは沖縄に帰って、蔗作人の味方になってくれそうな県会議員でもあり、『沖縄救済論集』の編者で有名な湧上聾人と、衆議院議員の伊礼肇にサイパン渡島を依頼する。1932年(昭和7)4月1日のことである。

湧上がサイパンに来たのは翌1933年3月、伊礼はおくれて同年8月になった。沖縄県議会議員の湧上聾人(玉城間切出身)は、大正、昭和の沖縄で社会運動家、政治家として「貧民救済」のために活動した人物、として知られる。製糖労働者社宅の改善、甘蔗梢頭部の廃棄中止などについて興発に要求をだし、一定程度の「改善」がみられたとされる。ただ、松田さんは湧上に失望した。彼にはすでに興発から6000円の金が渡っていたという。

 6000人が参加した

 1932年(昭和7)には第二次ストライキが始まった。小作農などを含め約6000人の参加人員にふくれ上がった。1927年(昭和2)の第一次のストライキは、沖縄出身の農園労働者だけのストライキで、参加人員も約2000人規模(「4000人とする新聞報道もある」)のものだったが、参加者の規模は大きく増えていた。

その理由は、農場労働者の賃金の内、半額を直営農場の準小作人(1町歩小作)に負担させようとしたことにあった。農園労働者と小作農の大半が県出身のため、県人同志を対立させる「興発の悪どい策動だ」と、県人会対南洋興発の対立となり、第一次ストライキの約3倍のストライキ参加者となった。出身地での沖縄青年同盟のストライキ資金のカンパ活動、米などの物資援助の広がり、県選出代議士(湧上、漢那など)と拓務参与官の伊礼肇の調査は、南洋興発に心理的な圧力となった。

首謀者といわれた松田豊太郎さんは、次のように証言している。

争議は、石川市出身の比嘉鉄永の指導ではじまった。「彼が要求書をつくったんです。こいつは、労働者は黙っていてはだめだ。なにかやらんといかんといつも言ってました。私より4つ5つ下の者ですがね。意気ごみがあった。だれとでも平気でけんかするようなやつで、腕も力もあるし、給料もわしよりもうんと多かった。」

たいした人物がいたのである。比嘉鉄永の隣の畑にいて争議に加わった内間安一氏の話によれば、第一農場から第四農場まであって、ストライキ参加者は最初、香取神社に集まり、農場で働く農民は班ごとにまとまった。小作人は20日間、労働者は2カ月間のストを打ち、世界各国から支援者が来て、激励の電報もはいったという。

興発は、二次にわたるストライキに直面して、当時の微弱な警察力では。ストライキを鎮圧できず、ストライキが長期化すると、労働力を確保することは至難なことだと思い知った。

 また、移民の出身県の沖縄でのストライキ支援態勢の急速な広がりなどから、興発は、ストライキの収拾をはかった。会社側の差別待遇は、だんだん是正されるようになった。

「松田、大城その他の同志のように、数は少なくとも、終始、興発に抵抗していた一群の人たちがいたのである。イデオロギーというよりも、それは強い権利意識とでもいうべきものかもしれない。そしてこういうところに、挫折した自由民権運動の遺産や、沖縄社会主義の伝統が脈々とうけつがれていたと私には思える」。鈴木均氏は『サイパン夢残―「玉砕」に潰えた「海の満鉄」』でこう指摘している。

ストライキについては、主に『具志川市史第4巻 移民・出稼ぎ論考編』、『金武町史第一巻移民・本編』、鈴木均著『サイパン夢残―「玉砕」に潰えた「海の満鉄」』から紹介した。

 警部補からストライキ指導者に転身

このストライキにかかわって、とても興味深いエピソードがある。

当時の初代南洋庁長官だった堀口満貞は、沖縄県警察部長から転任したので、もと部下だった仲本興正警部補を南洋に招いた。1927年(昭和2年)4月、仲本警部補はサイパン勤務を命ぜられた。同島には約4万人の在留邦人のうち3万2000人は沖縄県人で、その多くは分蜜糖原料の蔗作農民であったが、南洋興発会社の沖縄県人に対する差別処遇が問題になり、いざこざが絶えなかった。そこで、上司は仲本警部補が行けばまるく治まると見込んで転勤させたようである。

仲本警部補はサイパンに着くと、ガラパンの町に腰を据えて会社と蔗作農民の関係などを調査した。農民の不満と要求をつかみ、その事情と改善すべき点を文書にしたためて上司に提出した。しかし、それに対する反応は上司からも南洋興発会社からもなく、全然無視された格好に終わった。

 そうした中で、行なわれたのが、県出身蔗作農民たちのストライキだった。第二次世界大戦前に行なわれた沖縄県人のストライキとして、これほど大規模なものは県の内外で他には例がなかったのである。

 ストライキは、仲本興正さんにとって、人生の重大な転機となった。仲本さんはかつて東京の第2回メーデーの取り締まりに出動したほか、幾つかの社会運動を見聞して時代の流れを感じとっていた。その上、人道主義と民主主義を身につけていたので結局、官職を辞して労働者の味方になった。自分の良心にしたがった勇気ある選択をしたといえるだろう。
 それからは、深夜を利用してキビ畑の中で作戦会議を開いて指導した。ストライキの指導者の一人になったのだ。差別待遇の撤廃のほかに植民地資本の飽くなき搾取に対する待遇改善を前面に打ち出した。農民にとっては、心強い味方だっただろう。

 これまで南洋興発会社は、県出身蔗作農民で不平をいう者からは耕地を取り上げたり、原料を買わなかったりして圧迫を加えた。しかも、興発は那覇を往復する直航船を運航していたが、不平農民は直営航路にも便乗させない。このため島外に出ることもできず、軟禁状態に置かれた。自生のパンの木の実、タロ芋、パパイア、バナナ、魚介類を取って露命をつないでいた。仲本はこの状態を「人間牧場」に見たてて義憤を感じていた。

ただし、仲本さんが、南洋群島に赴任したのは、第一次ストライキの直後のようだから、ストライキの指導にかかわったのは、第二次ストライキではないだろうか。ストライキを通して、「人間牧場」といわれた状態も解消されていったという。

仲本さんはその後、サイパンの県人会長に選ばれている。以上は、浦崎康華著『逆流の中で』からを中心にまとめた。

2012年11月16日 (金)

南洋群島のストライキ、その3。待遇改善求め

待遇改善を求めて立ち上がる人々

小作人といっても実際には、小作権はほとんど認めていなくて、実質は労働者と同然であった。それに、小作料は高いうえに、収穫物の秤量のさいにゴマカシが横行した。人夫たちも賃金はきわめて安い。しかも、沖縄移民と他府県出身者との間に待遇の差別もひどかった。そんな興発のもとで働く人々に不満が渦巻くようになる。

移民たちは、少しでもよりましな生活を求めて、興発への異議申し立て行動に動き出した。

1926年(大正15)には、あまりにも賃金の安い農務人夫が待遇改善の要求を出すようになった。開墾から植え付け、除草、収穫に従事する小作農家の配属人夫たちの前々からの不満は、「興発会社に使用されている甘蔗畑労働の沖縄人夫の賃銀が余りに低廉なること」にあった(大正15年5月3日『沖縄朝日』)。「2割5分増給」の要求が掲げられた(『名護市史本編5 出稼ぎと移民Ⅲ』)。
 海軍統治期から南洋興発の前身にあたる会社で働いていた移民たちの代表が、直訴するという事件が起きた。

「東京日日新聞」(11月23日付朝刊)には「死活問題で陳情に/サイパン島から上京」、「このままでは飢え死にする/今は牛や豚を売って居喰ひする惨状」との見出しで報道された。東京滞在中の南洋庁長官に八丈島出身の移民が直訴したのである。

彼らは、南洋興発に経営が移ってからの処遇に強い不満を抱いた。それは海軍統治期には徴収されなかった小作料が、新たに義務づけられたこと。小作料が3割~3割5分というのは、きわめて高額である。それに加えて、きびの買い上げ価格が下げられたことである。処遇の改善を求めて会社側と交渉したところ、会社を通して買う食料品が、それまで掛け払いだったのを、現金払いにする形で圧力がかけられた。このため生活できないほどの窮状に追い込まれて、直訴に至ったという。

 「死活問題」となっている小作人たちの要求に対して会社側は、移民たちが「真面目に働」けば問題なし、といってより強い態度をもって臨んだ。

主に『具志川市史第4巻 移民・出稼ぎ論考編』から紹介した。

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 テニアン島地図。『金武町史第一巻移民・証言編』から

 第一次ストライキ起きる

1927年(昭和2)1月11日、沖縄出身移民を中心にサイパン島で南洋興発に対するストライキが起こった。明らかにキビ収穫・製糖期にぶつけた行動だった。

 ストライキ決行の理由は、会社(南洋興発とその子会社)の沖縄県移民に対する差別的な待遇と契約違反の賃金にあった。会社の農地を小作して、サトウキビを工場に搬入している県出身移民と他府県出身者との間に歴然とした差別的取り扱いがなされた。沖縄県出身者にはブリックス(糖度)度数を低く、目減りを多く秤量された。他府県出身者のブリックスは高く、目減り量は低く押さえられて。

 一方の農園労働者に対しては、日給1円40銭のはずが、実際の手取り賃金は60銭から70銭と契約賃金の半額しか支払われなかった。灼熱の陽射し太陽を浴び風通しの悪いサトウキビ畑の労働は、サトウキビ作りに慣れ親しんだ沖縄移民にも重労働であることに変わりはなかった。次の新聞報道では「日給1円20銭」とされている。『金武町史第一巻移民・本編』から紹介した。

 『移民・出稼ぎ関係新聞記事集成―アジア・太平洋地域』(具志川市教育委員会教育部資料編さん室)

昭和2年2月9日付「大阪朝日」が、「賃銭の事から沖縄人の罷業・四千名の農民人夫ら南洋興発と争う」という見出してストライキのことを報道している。記事は「那覇発」であり、「当地」とは沖縄県のことを指す。

「南洋サイパン島の南洋興発会社の農園に働く沖縄県人約四千名は、去る1月11日以来会社の差別待遇に憤慨し、一斉に罷業を敢行し会社側と対抗して紛擾をつづけてゐる旨当地に入電し、県内各関係者は勿論県当局労働団体などは、その対策に腐心している。

 事の起こりは、会社と契約当時日給一円二十銭のものが、実際は甘蔗苅取り一千斤に対し四十四銭を支給し、優秀人夫でさへ日に二千斤しか仕事できず、契約と違ふので、県出身人夫は去る一月十一日、結束して会社に対し一千斤あたり五十六銭に賃金の値上げを要求した。会社側は十八日に至り、最初の契約通り日傭賃一円二十銭を支給するとともに、会社は小作人に対しては苅取り賃一千斤に対し四十四銭を支払ひ、不足額の十六銭は小作人より人夫に支払はせるような狡猾な妥協条件を持ち出した。ところが小作人の県人なので、ここに県人同志相争ふことになり、両者は期せずして一致会社に対し、かくは総罷業をなすに至ったもので、既に同志だけで共栄会なるものを組織し、約千四百円の軍資金を用意して会社側と対峙し、今日に至ったものである」

会社側は、一千斤あたり四十四銭から五十六銭へと、従来の二割五分増しの賃上げを要求したのにたいし、要求を認めるポーズを取りながら、実際は会社は従来の賃金しか支払わず、賃上げの十六銭分は小作人に支払わせるという「狡猾」な回答だった。同じ沖縄県人である小作人にツケを回す悪辣なやり方に、小作人も人夫も一致団結して立ち向かったということである。
 しかも、一致して対峙するために「共栄会」という団結の組織をつくり、約千四百円の軍資金まで準備したというから、用意周到である。

この新聞報道では、ストライキの目的が契約違反の賃金のことに絞られている。実際は、県人に対する差別待遇や搬入原料の計量の不正問題も要求に掲げられていた。浦崎康華著『逆流の中でー近代沖縄社会運動史』(沖縄タイムス社)では、ストライキの要求は次のような内容だったとしている。

(1)会社直営農場の労働賃金を山形、秋田、小笠原出身者と同額にすること。

(2)小作人が搬入する原料のブリック(糖度)と計量は不正であるから蔗作人を立ち合すこと。

ストライキが、賃金引き上げだけでなく、沖縄県人に対する差別待遇の是正も要求に掲げられているだけに、サイパン島でのたたかいに地元の沖縄でも支援が広がった。

「当地では事重大とみてとり、沖縄海外協会に貴衆両院議員、沖縄青年同盟その他の団体いづれも該争議の解決につき協議中だが、青年同盟では演説会を開き、資金を送って争議団のため極力応援することになってゐる=那覇」

 「大阪朝日」同日付は、このように伝えている。

南洋群島でも、サイパン沖縄県人会は、1923年8月に結成され、南洋興発でのストライキをきっかけに、組織化がすすんだといわれている。

このストライキについて南洋庁は、興発のもとでは小作問題、労働問題という二種類の「紛議」が起きていると説明している。この「騒擾」が「労働者の自覚」に由来するものであると見て、職業的、専門的指導者が介在しなかった、としていることは注目される。

このストライキに対して、会社側も南洋庁も対応策をとってきた。

もともとは小作人、労働者側が組織した「共栄会」を、会社の指導で「庶(蔗)作共栄会」に再編した。会社の説明によると、蔗作共栄会は「闘争主義的」な労働組合ではなく、労使の援助協力による「平和主義の方法で目的を達する」ことに特徴があるという。資金は会社が援助するとされた。自主的な組織として結成された「共栄会」を会社側が取り込み、翼賛的な組織に変質させたことを意味する。

1929年には、南洋庁が「治安警察規則」と「新聞紙取締規則」を制定した。これら二規則は、ストライキに南洋庁が介入できること、しかも外国人や現地住民との連帯を阻止し、ストの指導、支援にかかわる内外の情報を規制する意味をもっていた。小作人、労働者のたたかいを抑圧しようとするものである。

2012年11月15日 (木)

南洋群島のストライキ、その2。沖縄から移民

ドイツに代わり日本が占領統治

ここからは『沖縄県史各論編5 近代』から要約して紹介する。

スペインに変わり統治者となった、ドイツの北マリアナ諸島統治の形態はスペインとはかなり違っていた。派遣され駐在する役人数がきわめて少なかった。守備隊を置かなかったし、ドイツ国民を労働力として導入することもしなかった。

1914年、第一次世界大戦でイギリスがドイツに宣戦布告したとき、日英同盟を結んでいた日本は、領土への野心がないことを条件に、太平洋のドイツ艦隊への攻撃を開始した。次々とドイツ領の島々を無血占領していった。

日本は占領したこの島々を「未開の地」と考えたが、実際には独自の文化や社会を育みながら、スペイン統治以来およそ200年にわたる植民地支配を経験した約5万人のカロニリアンとチャモロが生活していたのである。
 日本はドイツから、これらの人々と島への支配権を引き継いだ。

南洋群島にウチナーンチュ(沖縄人)が働く場を求めたのは、日本海軍が南洋群島を占領して間もなくからである。海軍は、南洋群島をアメリカに対する軍事戦略上の要地として、また資源が豊かで、さらに南の外南洋への経済的な南方進出の拠点として活用することを狙っていた。

海軍による統治(1914-1922年)に続いて、C式委任統治機関として南洋庁を設置し、第二次世界大戦における日本の敗戦まで30年間統治した。委任統治とは第一次世界大戦後、戦勝国が敗戦国の植民地を再分割するために作った制度で、A、B、Cの三方式があった。

日本の拓殖会社やそこで働く移民の送りこみに優先的に取り組んだ。大量の日本人を渡航させて定住化させ、日本が主権を及ぼす植民地のような支配を進めることによって、実質的な領土化を進めようとした。

南洋興発のもとで製糖業を展開

日本政府は、南洋庁施政の開始の前に、1921年11月、南洋興発(株)を設立した。南洋興発は「半官半民」とも形容された。

設立早々の1922年(大正11)、早速沖縄県庁から移民募集の許可を得て、約2000名の移民を送り込んだ。すでにその前から出かけて、残留していた約1000名とあわせて、サイパン島で開墾、工場、鉄道、道路などの建設に働かせた。

Photo               サイパン島農場分布図 

サイパン島とテニアン島では、製糖業が展開された。製糖業の発展に伴いサイパン島、テニアン島には日本人、なかでも沖縄からのウチナーンチュが集中した。

両島を管轄するサイパン支庁の日本人人口を見ると、南洋庁が施政を開始した翌年の1923年には、現地住民人口を超える3764人がいた。そのうち本籍が沖縄県の人は2335人を数え、6割を占めた。さらに、1930年には4倍の1万5656人に増加した。うち本籍が沖縄県は9337人で、やはり6割を占めていた。

とくにテニアン島は、スペイン統治以来、現地住民が激減させられていたので、日本の施政後は、日本人人口が在住者の9割以上を占めた。                   

南洋興発は、どのような経営の形態をとっていたのか。そこでは、直営農場と小作農場を経営した。小作農は一家族に5~6町歩の土地を貸与し、甘蔗の一定量を小作料として納めなければならなかった。小作契約書をみると土地の管理、植え付けから出荷に至るまでの一連の作業から、生活態度に至るまで会社の指示に従い、争議など会社と雇用者の協調を乱す言説行為を禁止している。

 移民の実相をリアルにみるために、その実例をみてみたい。

金武町屋嘉出身の仲間亀松さんの例をあげる。亀松さんは、18歳の時、1919年(大正8)、西村拓殖(株)から直営のサトウキビ栽培労働者の募集に応募した。渡航して2年間は開墾労働者として働いた。1921年、南洋興発が設立され、西村拓殖も合併吸収された。経営形態も会社直営から小作制度に変わり、一世帯を小作者とみなし、既耕地や開拓可能な原野が割り当てられるようになった。

亀松さんも、小作人として農耕地4町歩の割り当てを受けた。会社から資金を借り入れ、木造トタンぶきの住居を建て、人夫小屋、家畜小屋などつくった。牛一頭と牛車を購入し、常傭の人夫2人を雇い住み込ませ、サトウキビ栽培にはいった。

 亀松さんは、1936,37年ごろ、すでに第二農場八組の組長をしていた。組の小作人を代表して会社と交渉したり、小作人と会社の仲立ち(仲介人)の役割を担っていた。サトウキビ収穫期になると組長、副組長は作業現場責任者となった。

刈り取り作業は組員総出であるため、束数の確認、集積所までの牛車の運搬回数をチェックしたりした。製糖工場に運搬された小作農家のサトウキビ運搬入量を計量場で立会確認するため、組長は約一カ月間、工場のある地に長期滞在することもあった。『金武町史第一巻 移民・証言編』のなかから抜粋し紹介した。

小作料は高額だった

 南洋興発で働いた移民の仕事と身分はどうなっていたのか。移民たちは、「小作人(蔗作人、耕作人)」、「準小作人(一町農、一町小作)」、「人夫(作業夫)」の三種があった。 

 興発から土地を借りて甘蔗栽培を行なうのが「小作人」、「準小作人」であり、小作人に雇われるか、あるいは会社の直営農場で働くのが「人夫」である。

 「小作人」は、一戸あたり5~6町歩が普通だった。夫婦のほかに働き手が一人、つまり一戸について通常3人の労働力だった。

「準小作人」は、小作人の労働力を補充し、忙しい製糖期の労働力不足やオフシーズン(非製糖期)の労働力の過剰に対応するため、興発が1931年に設けたものである。一町半の土地が与えられ、甘蔗の3年2期作に従えば、一年あたり一町歩の作付けとなることから「一町農」とも呼ばれた。

 甘蔗栽培については、興発の指示に従って、植え付け、中耕、施肥、除草、手入れ、休閑などを行なうものとされていた。収穫についても、興発が指示した期間、方法によって「共同作業」で刈り取り、結束し、集積場に運搬して貨車に積み込むこととされた。これらの作業に必要な賃金は、興発と協議して支払われる。収穫物は、すべて興発の工場で秤量(ヒョウリョウ)しなければならない。そして、小作人は、決められた割合に応じて小作料を支払わねばならなかった。

小作契約について、会社側が一方的に取り決めたもので、小作人にとっては「極めて屈辱的のもの」であったという。小作料が高額だったからである。

興発の資料によれば、1923年当時は3割にのぼった。あとでのべるように、小作人、人夫の要求のたたかいのもとで、1929年ごろは平均1割7分、1936年ごろは平均1割5分、1937年ごろは平均1割2分と、年を経るにしたがって小作料は下がっている。しかし、全体の収穫量は増加しているので、会社側の損失にはなっていないはずだという。

小作人の家に住み込んだ配属人夫たちは、劣悪な環境のもとで働いた。

「天井がなく、トタン屋根、床にムシロを敷き、雑魚寝」の小屋に住むという状態だった。以上は、主に『具志川市史第4巻 移民・出稼ぎ論考編』から紹介した。

2012年11月14日 (水)

南洋群島のストライキ、その1。スペイン支配

南洋群島のストライキ

はじめに

沖縄民謡を歌っていると、南洋をテーマとした歌に何曲も出会う。「南洋小唄」や「南洋浜千鳥」はその代表格だ。当時のウチナーンチュの南洋への思いが詰まっている。

戦前、貧しい沖縄からは、ハワイや北米、南米、南洋群島など世界の各地へ移民としてたくさんの県民が渡って行った。その一端は拙文の「戦世と平和の沖縄島唄」でも紹介した。

といっても、南洋群島がどのようなところで、ウチナーンチュがなぜそんなにたくさん出かけたのか。そこでの仕事と生活はどうだったのか。現地住民との関係はどうだったのか。その実相は詳しく知らないままだった。南洋群島への移民について書いた本を読んでいると、思わぬ記述に出会った。「南洋群島でストライキがあった」という。南洋群島といえば「楽園」のようなイメージをもつ人もいる。実際に「南洋は暮らしやすかったよ」という声も聞く。

だが移民として、知らない土地での開拓をはじめ、さまざまな労苦があっただろう。なにより、太平洋戦争では米軍の反攻で南洋群島の島々が次々に戦場となり、日本からの移民、とくに多かったウチナーンチュが悲惨な結末を迎えたことは知っていた。ただストライキというのは、ちょっと意外な感じがした。このさい、南洋群島の移民の実態とストライキについて、まとめてみたい。

 南洋群島と他の移民先との違い

南洋群島とは、ヨーロッパ人がミクロネシアと命名した赤道の南北に散在する太平洋の島々で、マリアナ諸島、カロリン諸島、マーシャル諸島からなる。なかでも、小笠原諸島に近いマリアナ諸島はグアム、テニアン、サイパン、パガン島などからなっているが、グアム島は、アメリカの統治下にあり、移民先からは除かれていた。

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沖縄からの南洋移民は、大正3年(1914)ごろ、糸満の漁師が先駆けといわれる。農業移民として最初渡航したのは大正7年(1918)、石川市(現うるま市)出身の10人だという(『金武町史第一巻移民・証言編』)。

なぜ、沖縄から南洋群島に移民として渡って行ったのか。当時、沖縄は世界恐慌の波及で、黒糖の値段が暴落し、「ソテツ地獄」といわれる貧窮にあえいでいたことがある。そんなとき、南洋では日当一円二〇銭稼げるといわれた。これは沖縄県内の日当の二倍以上であった。しかも、南洋群島が日本の委任統治領となったことで、海外渡航に必要な旅券は所持しなくても移住できた。
 それに沖縄からは比較的近い。太平洋に浮かぶ島々として、気候や自然、生活の環境面では、少し共通する点もある。移民の仕事のうえでも、サトウキビの栽培から収穫は、沖縄での経験を役立てることができた。
 「サイパンに行ったら、毎日三食のご飯にソーメンのおつゆが食べられ、果物も豊富で、気候も暖かく年中半袖で暮らせる」と誘われて渡航した人もいる(同書)。当時の沖縄はサツマイモが主食だから、「三食米飯」はとても食べられなかった。

沖縄からの海外移民は、ハワイや南北アメリカ大陸などにたくさん出て行ったが、南洋群島の場合、少し事情が異なる点がいくつかある。

戦前、日本が支配した海外の地域でも、南洋群島はいくつかの特徴があった。
「それは、日本の領土ではなく委任統治という特殊な制度下にあったことである。また、移住した日本人が現地住民人口を凌駕する点で、樺太と並ぶ例外的な地域で、日本人の約6割、島によっては8割が本籍を沖縄県にもつ人たちであったことは南洋群島だけの特徴であった」(『沖縄県史各論編5 近代』)。

植民地とされた南洋群島哀史

前置きが長くなった。本題に入る。南洋群島には、日本と沖縄から多数の移民が渡り、現地住民をしのぐほどだった。ということは、南洋の島々は、日本が進出していく前は、どういう状態にあったのか。なぜ現地の住民は多くなかったのか。開拓する土地が残っていたのはなぜだろうか。そんな疑問に応えるためには、南洋群島の歴史を振り返る必要がある。

ミクロネシア(旧南洋群島)は、日本が占領支配する前に、スペインの植民地となり、のちにはドイツに統治され、西洋諸国に200年以上にわたり支配された歴史をもつ。

ヨーロッパの大国による最初の一撃は、1521年にスペインのマゼラン艦隊がミクロネシアに到達したことだ。その一隊が武装してグアム島に上陸したことから始まった。その後、スペインはグアム島の領有を宣言した。1668年からは植民が始まった。
 スペイン人による植民化と原住民への改宗の押しつけなどは、早くから原住民の抵抗を招いた。グアム島では、1671年、2000人がスペイン人にむかって蜂起した。スペインは武力で蜂起を鎮圧した。

1684年、サイパン島では集落や畑の作物を焼き払い、改宗に抵抗する現地のチャモロ人を攻撃し、捕虜にして島内を荒らしまわった。

グアム島ではチャモロ人が再び蜂起した。他の島々でも反乱が起き、テニアン島ではスペイン人守備隊が全滅した。テニアン島へ派遣された掃討部隊は、島の集落を焼き払い、生き残った島民の多くはグアムに、残りはサイパンに強制移住させられた。
 サイパンより北の島々には、2000人のチャモロ人がいたが、住民すべてを1699年までにグアムに強制的に集住させた。サイパンは1749年には完全に無人島となった。

スペインによる植民地化が始まって100年ほどの時代は、反乱、鎮圧、強制追放が繰り返され、島々では多くの有能な男たちが殺されたという。グアム島に集住する過密な環境で、病気も蔓延して多くの者が亡くなった。
 スペイン統治体制のもとで、絶望感から子殺しが流行し、自殺も増加した。18世紀半ばには、ロタ島から北の島々(サイパン・テニアンなど)には住むものがいなくなった。集落は無人となり、焼き払われ、やがてジャングルが集落跡や小道や畑をおおい隠した。

マリアナ諸島民のグアム島への強制移住後、人口は減少し続けた。1688年には約4万人がいたと推定されたが、人口統計がとられて1710年、グアム島に3678人、ロタ島に467人が確認されただけ。恐ろしいほどの激減である。1790年にはグアム島とロタ島の総人口が3464人で、そのうち1825人がスペイン人、またはメスティーソ(混血)だった。ということは、現住民はもはや半分以下にすぎない。

マリアナ諸島では労働力が不足し、19世紀前半には、カロリン諸島からの移住者がマリアナにやってきた。

19世紀に入ると、スペイン領だったマリアナ諸島をのぞく太平洋全域の島々は、イギリス艦隊の進出にさらされ、ドイツ艦隊もパラオに出没するようになった。スペインは西カロリン諸島(パラオ・ヤップなど)の領有を主張していた。
 1885年、イギリスはドイツと組んで、スペインのミクロネシア領有に挑戦を決意し、一色即発の危機となった。ローマ法王は、これらの島々に対する領有をスペインに認める代わりに、ドイツとイギリスに地域の商業権を保証する仲裁案を提示、双方が受諾して、戦争は回避された。

1898年には、アメリカ・スペイン戦争が始まり、アメリカの一部艦隊は、グアム島占領にむかった。和平が締結された翌年、アメリカ政府がグアムを領土とした。グアムはアメリカ海軍の根拠地に組み込まれ、一種の軍政のもとにおかれた。今日まで、グアムが米軍基地の島となったはじまりがここにある。

ドイツは、スペインと交渉して西のコスラエ島、ポナペ島、ヤップ島にかけてドイツの主権を認め、パラオ諸島とグアム島を除くマリアナ諸島を金銭(約500万ド)で買収した。そこでは、椰子のプランテーション経営を進めた。

以上は『名護市史本編5 出稼ぎと移民Ⅲ』から要約してまとめた。同書は、なぜか市町村史なのに、この前史にあたる部分がとても詳しい。南洋群島哀史となっている。

2012年11月12日 (月)

アルテで「別れの煙」を歌う

 11月のアルテ・ミュージック・ファクトリーのテーマは「喜」。さて、どの曲にしようかと迷ったが、知名定繁さんの名曲「別れの煙」とした。定繁さんは、唄者の知名定男さんのお父さんである。

 かつて、子どもが就職や進学で本土に旅船で立っていく時、北部の親たちは、名護市の名護城に登って、木の枝葉を燃やして白い煙を上げて見送った。船で名護の沖を通る船からは黒い煙を上げて、子どもたちは、山に向かって親に別れを告げたという。そんな情景を歌った曲だ。003           本土に行く船は、伊江島付近を通って行った

 別れの曲であるが、親にとって子どもの旅立ち、めでたい嬉しいこと、喜びである。同時に親元を離れる別れの寂しさがある。「喜」のテーマになんとか半分は合っていると思って選曲した。
今回から、会場がアルテ崎山ウォーバーAホールとなった。舞台と客席が近く、一体感がある。なんか、緊張感がこれまでより少なく、三線のミスも少なかったのはラッキーだ。

 歌い終わると「これはいい曲だね」「よかったですよ」「曲の説明の時から、もうなんかウルウルしてましたよ」など感想が寄せられた。歌の心が少しは伝わったみたいだ。

Img_0756_2

歌詞を紹介する。和訳は自己流である。

 ♪別てぃ旅行かば 嬉さ淋しさん 思出(うびぢゃ)しよ産子(ナシグヮー) 島の事ん 
  ちゃー忘しんなよ
 (別れて旅に行けば 嬉しいけれど淋しい 思い出せよわが子よ 島のことを
  絶対に忘れるなよ)

 ♪山の端(ファ)に立ちゅる 照らし火ぬ煙(チムリ) かりゆしの船に 産子目当てぃ
  ちゃー かりゆしどぅ
 (山の端に立つ 照らし火の煙 旅立つめでたい船に わが子見つめる 
  めでたいことだよ)

 ♪糸ぬ上ゆ走(ハ)ゆる 船に立つ煙 山ぬ端に向かてぃ 我親目当てぃ
  ちゃーかりゆしど
 (水平線の上を走る 船から上がる黒い煙 子どもは船の上から山の端に向かって
 わが親を見つめる  めでたいことだよ)

 ♪別り路ぬ手巾(ティサージ) 胸内(ンニウチ)に招ち 互に思(ウ)みちらさ
  見ゆる間(イェダ)や ちゃー名残りさよ
 (別れの時に贈られた手拭い 胸の内にしまい お互いに名残りを惜しい思いがつのる
  見える間は 名残り惜しいよ)

 ♪親子振別(イヤクフヤカ)りぬ 照らし火ぬ名残り 面影(ウムカジ)どぅ増しゅる
 名護ぬ城(グシク) ちゃー名残りさよ
 (親子の別れに際して 燃やした照らし火の名残り 子どもの面影が増すことよ
 名護の城跡だ 名残り惜しさよ) 

 名護城跡には、「白い煙黒い煙」という石碑が建っている。写真では見たが、実物はまだ見ていない。戦前、大和に紡績女工としてたくさん出かけた。私の通っている民謡三線サークルのМおばあは、90歳になるが、女工として愛媛県に行っていた。この曲をみんなでサークルで演奏すると「いい曲だねー」と言う。実感がこもっている。

 仲良しのHおじいは、逆に「この曲は苦手だよ」と言う。軽快な曲が好きだからだろうか。

 ファクトリーでは、歌三線では、八重山民謡の唄者sonoさんが「揚古見ぬ浦」(アギクンヌウラ)など2曲を披露した。教師試験を受けるリハーサルを兼ね、舞台に正座して、演奏した。難しい曲だが、美しい歌声だった。

 宮古民謡の名手、Hさんは「とうがにアヤグ」を演奏した。いつ聴いても、味わいのある見事な歌だった。

Img_0777

 ツレは、18日のピアノ発表会で演奏するジブリアニメから「さよならの夏~コクリコ坂から」をアルテでも演奏した。ピアノの鍵盤、ペタルの具合が悪く、苦労しながらも、ピアノを初めて7カ月とは思えない、美しい演奏だった。

 Img_0773

2012年11月 6日 (火)

ナークニー(宮古根)の不思議

 沖縄本島の民謡の名曲に「ナークニー」がある。漢字では「宮古根」と書く。宮古風の歌という意味で、こう呼ぶらしい。

 一口に「ナークニー」といっても、歌詞はたくさんあり、本島のあちこちに「ナークニー」がある。例えば「本部ナークニー」「今帰仁ナークニー」など。「ナークニー」とは呼んでないが、同じ曲調の歌もある。たとえば、「ヤッチャー小(グヮー)」がその一つ.。さらに「ヤッチャー小」をもとにしてアレンジした「門(ジョウ)タンカー」(具志川小唄とも言う)がある。
 これだけ、「ナークニー」が多いのは、この歌の魅力にある。旋律は叙情的で美しく、歌い手の力量によって、歌の魅力が変わる。名手が歌うと魅力はいっそう輝く。そういう点では、八重山の「トゥバラーマ」と歌の魅力が似ている。

032      「本部ナークニー」「カイサレ」の名手、山里ゆきさん(右)と金城実さん

 ただ、本島では歌われるけれど、八重山や宮古島では歌われない。なぜ「宮古根」と呼ばれるのかといえば、この歌をめぐる伝説があるからだ。

 琉球王国の時代に、宮古島から本島に留学に来ていた宮古の青年たちが、毎晩のように民謡を歌って故郷を偲んでいた。それを聴いた本島の人が「いい歌だなあ」と思って、聞き覚えて歌い出してそれが広まったという。

 別に、今帰仁出身の若者が首里に奉公した際に、宮古民謡の「アヤグ」を聞いて感動して今帰仁の情緒を歌ったのが最初という説もある(仲宗根幸市氏)。

 前者の話は、このブログで書いた「与那覇勢頭豊見親逗留旧跡碑」(下写真)の話と少し似ている。これは、与那覇勢頭豊見親が、宮古から本島の中山国に上ってきたが言葉が通じないので、従者が琉球語を学ぶため、足掛け3年、本島に滞在した。その時、毎夜、高台にあるのろし台に登り、故郷の宮古をのぞみ「あやぐ」(宮古の歌謡)を歌ったという。

013  「ナークニー」の由来になっている宮古の青年が故郷を偲んで歌っているのが広まったのは、この与那覇勢頭豊見親の従者のことだという話を聞いた。それなら話がつながることになる。
 この故事では、故郷を偲んで歌ったのは「あやぐ」だという。「あやぐ」は宮古の代表的な古い歌謡だから、納得がいく。でも、「ナークニー」は宮古の「あやぐ」とはかなれ違うと思う。

 宮古の民謡も好きで、いろいろ聴いているし、「なりやまあやぐ」「とうがにあやぐ」「伊良部トーガニ」その他代表的な歌はいくつか歌ってもいる。でも、宮古民謡は、本島の曲調とも八重山の曲調とも、大分異なる。独特の曲調である。私の知る限り、「ナークニー」に似たような宮古民謡は聴いたことがない。
 どちらかと言うと、宮古ではなく、叙情的な曲調は、八重山の「トゥパラーマ」なんかに近い気がする。だから、「ナークニー」が「八重山風」ならわかるが、「宮古風」には聞こえない。
それに、本島の琉球古典や民謡は、八重山の民謡を編曲した曲が多い。小浜光次郎著『八重山の古典民謡集』によると、琉球古典民謡と八重山古典民謡の類似曲は25曲におよぶ。でも宮古民謡と本島の古典、民謡との類似曲は、あまり聞かない。
 そんなこんなで、「ナークニー」が宮古民謡がもとになっているといわれるのが、不思議でならない。

 どうもそのように思っている人は私だけではないようだ。ネットの「ヒコさん心の一曲」でも、「ナークニー」の由来を紹介しながら、次のように述べている。
 「私の知る範囲で『宮古根』の元歌と思われる宮古の民謡を聞いたことはありません。また『元歌は宮古のこの歌だ』と記述した資料も見たことはありません。ですから宮古の民謡に『宮古根』という曲名や似たメロディーの曲は、私の知る範囲ではありません」。かなれ断定的に書いている。

 唄者の知名定男さんが、ナークニーと「伊良部トーガニ」「与那国ションカネー」「とぅばらーま」などを西洋楽譜に直し、棒グラフのようにして比較したところ、みな同じようなカーブを描いていると言っているそうである(ネット「たるーの島唄まじめな研究」)

 歌の中に前半と後半に二つの山があるのはそのとおりだが、少なくても宮古諸島の「伊良部トーガニ」は曲調が少し違うと感じる。でも、八重山の名歌と構成が似ていることは確かだろう。そんな不思議な「ナークニー」である。歌うほどにその難しさがわかる。

   

2012年11月 5日 (月)

与那覇勢頭豊見親逗留旧跡碑を訪ねる

 宮古島から沖縄本島の中山国に、初めて朝貢し、臣下となった史実を伝える史跡が那覇市にあり、訪ねた。与那覇勢頭豊見親(ヨナハセドトゥユミャ)逗留旧跡碑である。

001  新都心の一角、上之屋のタカマサイ公園にある。公園といっても、この碑があるから公園になっているような感じ。014  いま整備をされて立派な建物が建っている。
 この碑は、もと「タカマサイ」と呼ばれた当地に立てられたものである。
 宮古島の豪族、与那覇勢頭豊見親真佐久(マサク)が、1388年に本島の中山国に至ったけれど、言葉が通じない。同じ沖縄でも、宮古の言葉は独特で、いまでも宮古方言で話すとチンプンカンプンだ。
 そのため、従者を本島に留まらせて、足掛け3年、琉球語を学ばせた。1390年に与那覇勢頭豊見親は、中山国の察度(サット)王に朝貢した。宮古の首長に任じられたという。「豊見親」とは、首長、英雄のような意味である。

005  この石碑に、由来が刻んであるが、読めない。入り口に由来を書いた新しい説明碑(下写真)が別にある。それによって紹介する。

 従者の一人に、高真佐利屋と言うものがいた。毎夜、火立屋(のろし台)に登り、はるか故郷をのぞみ「あやぐ」(宮古の歌謡)をとなえていた。これにより付近の村民、その旧宅の地を高真佐利屋原とよんだ。

002     
 1767年、ここに与那覇勢頭豊見親の子孫が長さ一丈二尺、幅六尺の地を請い求め、子孫拝礼の場所として碑を建立した。

 
 この碑のある場所は、泊港を望む高台にある。昔、泊は離島の船着き場だったので、泊に役所を設けて離島を管轄したそうである。
 現在の碑は、沖縄戦で破損していたものを1989年に復元したものである。よく見ると、碑はヒビが見えるので、折れたのをくっつけ、碑の両側に金具をつけて止めてある。

003  石碑だけではく、「白川宮」などの拝所がある。通称は、この場所を「白川神社」とも呼んでいるらしい。碑の解説文に「子孫拝礼の場所」としたというので、宮古島出身の人たちの拝所となっているそうだ。

006  この御嶽(拝所)のあずまや等設備の不備の改善を那覇市に求め、市が協力し、みんなで募金を集めて、立派な施設に整備されたようだ。

007 008 009 010  碑の前には「火神」「龍神水主神」などそれぞれ祀る神がある。このうち龍神について、2012年3月25日にも、与那覇勢頭豊見親の子孫や宮古の郷友らが、龍神祭を行い、海の神様に航海の安全と災害への安全を祈願したという(「宮古新報」から)。

012  一つ疑問は、なぜ「白川宮」と呼ぶのかということ。これは、与那覇勢頭豊見親が、朝貢のため宮古の白川浜を出発したことにちなみ、この一門は後に「白川氏」を名乗るようになった。白川氏は、その功績から、琉球王国の時代に、島の頭職を一門から多く輩出しているという。
 そんな一門の拝所であることから「白川宮」と呼んだのではないだろうか。これは、私の素人的な推測である。

 015         公園から泊港の方面を見た眺め 

 宮古島では、仲宗根豊見親の子孫は「忠導氏」(チュウドウウジ)、知利真良豊見親の子孫は「宮金氏」(ンミャーガーニウジ)という一門があり、3つの氏族が門閥をつくり、宮古島の頭職をはじめ多くの官職をその子孫が占めるようになったという。

2012年11月 4日 (日)

芸大祭でガムランを聴く

 文化の日の3日、沖縄県立芸術大学の芸大祭に出かけた。インドネシアの有名なガムラン音楽を聴くためである。ツレの友人の芸大生Kさんが、出演するからだ。

015  ガムランとは、「たたく」という言葉からきていて、すべて打楽器で演奏する。ガムランは、ジャワとバリ島が有名だが、今夕はバリ島のガムランだった。

045  お鍋のような「レヨン」(上)。鉄琴のような「ガンサ」(下)。これらはハンマーや棒でたたく。でも、それぞれ音色が少しずつ変わり、メロディを奏でる。主に青銅でつくられる。音が美しいから。

044 ドラムのような太鼓は膝の上に置いて手でたたく(一番上の写真にある)。亀(?)の上に載せたものもある。他に大きな銅鑼(ドラ)も大小とある。なにか楽器紹介になってしまった

020_2   演奏が始まると、これまでテレビなどで見聞きしたガムランは、ゆったりした心地よい音楽のイメージがあるが、少し違う。早いテンポでリズミカルに打ち鳴らす。独特のリズムで次第にアップテンポで激しくなる。スゴイ迫力で、自然に拍子をとりたくなる。014_2  音楽だけ奏でているように書いていたが、最初からバリの踊りが登場した。衣装もカラフルでとても美しい。

008  身体をくねらせながらの独特の舞いだが、手指の表現がものすごく繊細で、見事。音楽とピッタリと合っている。

006  写真は、ツレの友人のKさん。なんかクレオパトラを思わせるようなメイク。目は瞬きもしないで、キッと前を見つめている。
 驚くのは、踊り手は次には楽器を演奏する。楽器も交代でこなす。それに、楽譜はない! みんな暗記して演奏するという。でも、どんなに激しいリズムになっても、呼吸はピッタリ合っていて、乱れがない。

024 次はソロで踊る。 踊りも、琉球舞踊のようなゆったりしたものではない。優雅ではあるが、動きは早い。指先をかすかにふるわせたりするのは、ナマで見ないと味わえない。032

 最後は、男女2人が登場して、絡み合う踊りだった。バリの踊りはこれまでも、世界でたくさんの人々が魅了されたのが、よくわかる。

037  ガムランといっても、ジャワとバリでは違うらしい。ジャワはゆったりと流れるような優雅な響きに特色がある。宮廷の音楽として発達したからだという。バリ島は、きらびやかな音とリズムに特徴があり、より庶民的だという。

034  琉球でも王府で発達した古典音楽と踊りは、優雅でゆったりしている。庶民の間で好まれた民謡と踊りは、早いテンポの軽快な曲と踊りが多い。なにか共通するものがある。

 県立芸大のガムランは、ジャワとバリの両方のアンサンブルがあり、精力的な活動を続けて、日本の大学でも有名だという。とくに、バリのアンサンブルは、日本における代表的なガムラン奏者の一人と言われる梅田英春准教授の指導の下で意欲的な活動が行われているとのこと。

 芸大の卒業生も入っているようだが、それにしても素晴らしい演奏と踊りだ。練習は厳しいという話は聞いていたが、だからこそ、その成果が出ている。沖縄にいて、バリ島の雰囲気を味わえた。

 Kさんなんか、1年生なのに、ジャワとバリの両方に出演して、踊りも演奏もこなしていた。短い間によくこれだけのことができるものだと、驚いた。それだけ、練習をしたということだろう。042 芸大祭でも、ガムランは最大の目玉になっているとか。たくさん駆け付けていた。このガムランを見るために県外から来る人もいる。東京出身のKさんのおばあちゃんと友だちも駆け付け、まん前で見ていた。それだけの価値のある音楽と踊りだった。

2012年11月 3日 (土)

外出禁止令破り米兵が中学生に暴力

 米兵が酔って居酒屋で暴れた上、民家に侵入して中学生に暴力をふるい傷害を負わせる事件が2日発生した。

 米軍は、女性暴行事件が起きてから、午後11時から午前5時まで外出禁止としていた。しかし、嘉手納基地所属の米兵は、読谷村古堅の居酒屋で午後11時を過ぎても飲み、店主に「外出禁止が出ているが帰らなくていいのか」と注意されると暴れ出した。さらに3階の住宅に侵入して、部屋で寝ていた中学生を殴り、テレビをひざで蹴り、子ども部屋にも入り本棚を引き倒した。親が不在だったなかでの暴行だ。子どもの恐怖は計り知れない。

 米兵は3階窓から落ちて重傷を負ったことで、米軍の海軍病院に搬送され、警察の手も及んでいない。事情聴取にもまだ応じない態度だ。

 女性暴行事件を受けて米軍が「再発防止」の目玉としたのが「外出禁止」だった。だも県民は、「外出禁止なんか破られるのでは」と誰も信じなかった。やっぱり、小手先の対策では、米兵による事件は防げない。

 それにしても、政府の対応にはあきれる。藤村官房長官は、県警の捜査もまだこれからという時に、「起訴前の身柄引き渡しを要請する必要はない」と公言した。こんな悪質な事件で、身柄引き渡しを求めて、起訴するのは当たり前だ。犯罪を行っても米兵の特権扱いを許す日米地位協定と、政府の卑屈な米軍優遇の対応が、米兵の事件を再発させる。県民の人権を何と思っているのだろう。

 これはオスプレイ配備にも通じる問題である。配備後1カ月が過ぎた。住宅地上空を避けるとか、ヘリモードでの飛行は基地内に限るなどの日米合意さえ無視して飛行を続けている。重いコンクリートブロックを積んで民家上空を飛ぶとか、夜10時以降も騒音規制の協定を無視して飛んでいる。傍若無人の訓練を続けている。

019                 テレビ画面から           

 にもかかわらず、野田首相は「米軍は日米合意を順守」していると、国会で答弁した。「安全宣言」をふりかざして、県民ぐるみの反対の声を聞かずに配備を強行した。その結果がこれである。

 だから凶悪事件の「再発防止」とか、オスプレイの「安全宣言」とかいくら説明しても、県民はまるで信じられない。そんな子どもだましの手法には騙されない。

 いくら「外出禁止」「再発防止」とか並べても、悪質な米兵の事件が多発する以上、米軍基地を撤去するしか、県民の安全は守れない。
 オスプレイも、結局、米軍の都合でいくらでも無視できる日米合意など何の安全対策にもならない。県民を墜落の危険やひどい騒音で苦しめ、不安、恐怖にさらす以上、オスプレイは撤去するしか、県民の命と安全は守れないことが、いよいよはっきりとした。

2012年11月 2日 (金)

ジャズバンド&与世山澄子を聴く

 復帰40周年記念沖縄ジャズコンサートとして、仲本政國ジャズオーケストラと与世山澄子さんのライブが那覇市テンブスホールであった。与世山さんは、一度どうしてもナマで聴きたかったので、出かけた。121102_191101

 仲本さんは29歳の時、このジャズバンドをつくったので、もう33年になるという。サックス5人、トロンボーン4人、トランペット4人、ドラム、ベース、そして仲本さんのピアノという編成オーケストラである。

 ハービーハンコックの「カメレオン」で幕開け。迫力あるサウンドで圧する。フルバンドのジャズは、東京で原信夫とシャープス&フラットを聞いて以来だ。

 いきなり、サックス、トロンボーン、トランペット、フルートと次々にスタンドプレイヤーが舞台前に出てきてソロ演奏をする。みんな即興である。これぞジャズの醍醐味だ。

121102_191301  演奏中は写真がとれないので、開幕前に撮らざるをえない。

 曲目は、アース、ウィンド&ファイアーの「宇宙のファンタジー」と続く。次は、なんと美空ひばりの「りんご追分」。これがジャズになるとは、驚きだ。「枯葉」と続く。

 ここでまたハプニング。「曲目を変更します。いまから楽譜を配布する。それを初見で演奏します。それが出来るのがプロ。演奏の出来によって今日のギャラが決まる」と楽譜を配った。曲目は「よく分からない」と言いながら。やっぱりプロ。見事に演奏した。

 次は、オリジナル曲「トロンボーンサンバ」。といっても、「曲をつくったのは、一昨日。やっとつくって朝起きたら、猫が楽譜を破っていた。2枚食べていた」とどこまでホントとか冗談か、よく分からないが、サブタイトルは「猫に気をつけろ」。

 沖縄は、米軍占領下でジャズがとても盛んだった。それにしても、これだけの演奏ができるバンドがあるのは素晴らしい。ジャズらしい、自由で即興とハプニングにとんだ演奏で楽しめた。

121102_191201_2   第2部は与世山さんが、真っ赤なドレスで登場。16歳でデビューし、1972年の復帰まで米軍基地のクラブでフルオーケストラをバックに歌っていたという。いまは沖縄だけでなく、日本各地でライブもして、ジャズ評論家らから絶賛されている。「日本屈指の実力派ジャズボーカリスト」との呼び声が高い。

 ブレッドの名曲「イフ」をはじめ、4,5曲を披露した。フルバンドで歌った後は、ピアノ、ベース、ドラムだけで歌う。とてもハートフルで、「これぞジャズ」という感じ。70歳を過ぎたというけれど、まったく年を感じさせない。声量もパンチもある。 これだけ歌えるジャズシンガーは、他にいるだろうか。

 アンコールに応えて、ルイ・アームストロングの名曲「ワット・ワンダフル・ワールド」をフルバンドをバックに歌った。魂を揺さぶられるような歌った。

 70年前後ぐらいに、盛り上がった当時のジャズライブも、こんな感じだったのだろう。

 それにしても、会場は200人余が入ったが、なんとおばあちゃん、おじいちゃんが多い。与世山さん世代が詰めかけた。いまだにそれだけ根強い人気があるのだろう。

 「若い時与世山さんよく見たわよね」「仲本さんもハンサムだったよ」との会話が聞こえた。

2012年11月 1日 (木)

秋の落陽

 沖縄も秋らしくなってきた。この時期は夕陽が美しい。

005  11月1日は、最低気温18度、最高22度で、この秋、一番の冷え込みだろう。

002  わが家からみる落陽は、国場川の河口部に広がる漫湖の水面に夕陽が映える。
003  私的には、沖縄は5月から10月までは夏。11月から秋に入ると個人的に思っている。それにしても、今年は、冷えるのが少し早い気がする。といっても、まだ家ではTシャツ、外に出るのも半袖シャツである。

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