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2012年11月15日 (木)

南洋群島のストライキ、その2。沖縄から移民

ドイツに代わり日本が占領統治

ここからは『沖縄県史各論編5 近代』から要約して紹介する。

スペインに変わり統治者となった、ドイツの北マリアナ諸島統治の形態はスペインとはかなり違っていた。派遣され駐在する役人数がきわめて少なかった。守備隊を置かなかったし、ドイツ国民を労働力として導入することもしなかった。

1914年、第一次世界大戦でイギリスがドイツに宣戦布告したとき、日英同盟を結んでいた日本は、領土への野心がないことを条件に、太平洋のドイツ艦隊への攻撃を開始した。次々とドイツ領の島々を無血占領していった。

日本は占領したこの島々を「未開の地」と考えたが、実際には独自の文化や社会を育みながら、スペイン統治以来およそ200年にわたる植民地支配を経験した約5万人のカロニリアンとチャモロが生活していたのである。
 日本はドイツから、これらの人々と島への支配権を引き継いだ。

南洋群島にウチナーンチュ(沖縄人)が働く場を求めたのは、日本海軍が南洋群島を占領して間もなくからである。海軍は、南洋群島をアメリカに対する軍事戦略上の要地として、また資源が豊かで、さらに南の外南洋への経済的な南方進出の拠点として活用することを狙っていた。

海軍による統治(1914-1922年)に続いて、C式委任統治機関として南洋庁を設置し、第二次世界大戦における日本の敗戦まで30年間統治した。委任統治とは第一次世界大戦後、戦勝国が敗戦国の植民地を再分割するために作った制度で、A、B、Cの三方式があった。

日本の拓殖会社やそこで働く移民の送りこみに優先的に取り組んだ。大量の日本人を渡航させて定住化させ、日本が主権を及ぼす植民地のような支配を進めることによって、実質的な領土化を進めようとした。

南洋興発のもとで製糖業を展開

日本政府は、南洋庁施政の開始の前に、1921年11月、南洋興発(株)を設立した。南洋興発は「半官半民」とも形容された。

設立早々の1922年(大正11)、早速沖縄県庁から移民募集の許可を得て、約2000名の移民を送り込んだ。すでにその前から出かけて、残留していた約1000名とあわせて、サイパン島で開墾、工場、鉄道、道路などの建設に働かせた。

Photo               サイパン島農場分布図 

サイパン島とテニアン島では、製糖業が展開された。製糖業の発展に伴いサイパン島、テニアン島には日本人、なかでも沖縄からのウチナーンチュが集中した。

両島を管轄するサイパン支庁の日本人人口を見ると、南洋庁が施政を開始した翌年の1923年には、現地住民人口を超える3764人がいた。そのうち本籍が沖縄県の人は2335人を数え、6割を占めた。さらに、1930年には4倍の1万5656人に増加した。うち本籍が沖縄県は9337人で、やはり6割を占めていた。

とくにテニアン島は、スペイン統治以来、現地住民が激減させられていたので、日本の施政後は、日本人人口が在住者の9割以上を占めた。                   

南洋興発は、どのような経営の形態をとっていたのか。そこでは、直営農場と小作農場を経営した。小作農は一家族に5~6町歩の土地を貸与し、甘蔗の一定量を小作料として納めなければならなかった。小作契約書をみると土地の管理、植え付けから出荷に至るまでの一連の作業から、生活態度に至るまで会社の指示に従い、争議など会社と雇用者の協調を乱す言説行為を禁止している。

 移民の実相をリアルにみるために、その実例をみてみたい。

金武町屋嘉出身の仲間亀松さんの例をあげる。亀松さんは、18歳の時、1919年(大正8)、西村拓殖(株)から直営のサトウキビ栽培労働者の募集に応募した。渡航して2年間は開墾労働者として働いた。1921年、南洋興発が設立され、西村拓殖も合併吸収された。経営形態も会社直営から小作制度に変わり、一世帯を小作者とみなし、既耕地や開拓可能な原野が割り当てられるようになった。

亀松さんも、小作人として農耕地4町歩の割り当てを受けた。会社から資金を借り入れ、木造トタンぶきの住居を建て、人夫小屋、家畜小屋などつくった。牛一頭と牛車を購入し、常傭の人夫2人を雇い住み込ませ、サトウキビ栽培にはいった。

 亀松さんは、1936,37年ごろ、すでに第二農場八組の組長をしていた。組の小作人を代表して会社と交渉したり、小作人と会社の仲立ち(仲介人)の役割を担っていた。サトウキビ収穫期になると組長、副組長は作業現場責任者となった。

刈り取り作業は組員総出であるため、束数の確認、集積所までの牛車の運搬回数をチェックしたりした。製糖工場に運搬された小作農家のサトウキビ運搬入量を計量場で立会確認するため、組長は約一カ月間、工場のある地に長期滞在することもあった。『金武町史第一巻 移民・証言編』のなかから抜粋し紹介した。

小作料は高額だった

 南洋興発で働いた移民の仕事と身分はどうなっていたのか。移民たちは、「小作人(蔗作人、耕作人)」、「準小作人(一町農、一町小作)」、「人夫(作業夫)」の三種があった。 

 興発から土地を借りて甘蔗栽培を行なうのが「小作人」、「準小作人」であり、小作人に雇われるか、あるいは会社の直営農場で働くのが「人夫」である。

 「小作人」は、一戸あたり5~6町歩が普通だった。夫婦のほかに働き手が一人、つまり一戸について通常3人の労働力だった。

「準小作人」は、小作人の労働力を補充し、忙しい製糖期の労働力不足やオフシーズン(非製糖期)の労働力の過剰に対応するため、興発が1931年に設けたものである。一町半の土地が与えられ、甘蔗の3年2期作に従えば、一年あたり一町歩の作付けとなることから「一町農」とも呼ばれた。

 甘蔗栽培については、興発の指示に従って、植え付け、中耕、施肥、除草、手入れ、休閑などを行なうものとされていた。収穫についても、興発が指示した期間、方法によって「共同作業」で刈り取り、結束し、集積場に運搬して貨車に積み込むこととされた。これらの作業に必要な賃金は、興発と協議して支払われる。収穫物は、すべて興発の工場で秤量(ヒョウリョウ)しなければならない。そして、小作人は、決められた割合に応じて小作料を支払わねばならなかった。

小作契約について、会社側が一方的に取り決めたもので、小作人にとっては「極めて屈辱的のもの」であったという。小作料が高額だったからである。

興発の資料によれば、1923年当時は3割にのぼった。あとでのべるように、小作人、人夫の要求のたたかいのもとで、1929年ごろは平均1割7分、1936年ごろは平均1割5分、1937年ごろは平均1割2分と、年を経るにしたがって小作料は下がっている。しかし、全体の収穫量は増加しているので、会社側の損失にはなっていないはずだという。

小作人の家に住み込んだ配属人夫たちは、劣悪な環境のもとで働いた。

「天井がなく、トタン屋根、床にムシロを敷き、雑魚寝」の小屋に住むという状態だった。以上は、主に『具志川市史第4巻 移民・出稼ぎ論考編』から紹介した。

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