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2012年11月24日 (土)

沖縄の鍛冶屋、その3

伊波の金細工(カンゼ-クー)

 伊波の屋号金細工には祖先伝来の鍛冶道具が残っているが、その一部が昭和56年石川市(現うるま市)の文化財として指定された。指定に理由は諸道具が使用された時代の、習俗を知る上で重要な資料となると思慮されたからである。

ならばなぜ、金細工に鍛冶道具があるかといえば、金細工という屋号が示すように、金細工は代々鍛冶屋であったからである。沖縄のあちこちに金細工という屋号があるが、昔は金細工はどの地方でもみな金持ちであった。金持ちであるということは、鍛冶屋は大切な農具を作るということで免税されていたからである。当時、一般庶民が納税のために、苦しんでいる時に、免税の恩典にあずかることは理の当然である。

 伊波の金細工もその例にもれず、金持ちであったが、金持ちであるということは、その子弟をして、首里の御殿(ウドゥン)、殿内(ドゥンチ)の奉公人になる道につながっていたからである。御殿、殿内の奉公人はただ働きをさせられたが、しかしそれを終えていつか郷里に帰ると番所勤めの役職につけたからである。

当時、公租と夫役にしばられ過酷に搾取され、虐げられた百姓にとって役人の地位は、そのきびしい生活から逃れるための唯一の道であったからである。奉公人といても衣食住すべて自分持ちで一銭の給料もなく、しかもそれが十年、二十年も、先に言ったようにただ働きをしたのである。したがって田舎の金持ちの子弟でなければ出来ない業であった。それも役人への道を夢見たから出来たのである。

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         奥間カンジャーに掲げられていた絵

「金細工節」の主人公

 (ここからは、舞踊曲で名高い「金細工節」の主人公についての話である)さてこうした理由で、金細工の加那(カナ)も、殿内奉公に出たのである。加那が行った殿内は知念殿内というところで、多分加那は17、8歳の青年であったであろう。ところで加那はなかなか今で言うハンサムな青年の上に、性格が明るく、ひょうきん者であったから、「テーフワ加那ヒー」と言われて、主人のお気に入りでもあり、よく主人のお供で辻(昔のズリ=遊女=の屋)にも行った。辻に行くとズリ小(グヮ)達にもよく持てて、みな加那の所に寄って行くので、他のお供の者からは嫉妬されたという。

 時に知念殿内に年頃の娘がいて、この娘が加那に思いを寄せていた。しかしこの娘には許嫁がいたので、それを知った主人はびっくりして、ちょうど折りよく知念間切のシチヤカンチヤから来た奉公女のいたのを幸いに、二人を無理矢理に夫婦にしてしまった。そしてシチヤカンチヤに家も屋敷も与えられて、田舎下りをさせられてしまったのである。こうして加那は目的を果たせぬままに、此処で世を終えたが、例の鍛冶道具は加那が奉公に出る前に親子で使ったものである。なお加那の遺体は大正年代になってから伊波に移葬された。

 今舞踊化された金細工節は明治2、30年頃、辻で語られていたのを、瓦玉城という役人が作ったもので、振付けは玉城盛重翁であると言われている。
 (『伊波区児童体育館兼公民館建設記念誌』より)

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