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2012年11月23日 (金)

沖縄の鍛冶屋、その1

沖縄の鍛冶屋         

 沖縄の各地を歩き、史跡や拝所を訪ねていると、鍛冶屋跡や鍛冶屋に由来する御嶽(ウタキ)がよくある。とても興味深い。琉球王府の時代に、鍛冶屋が重要な役割を果たしてきたことや、それゆえ信仰の対象にさえなっていることに驚く。すでにブログでも、国頭村奥間の「東(アガリ)ぬカンジャーヤー」や、那覇市小禄の「カニマン御嶽」のことなどを書いてきた。
 そんなとき、図書館で福地曠昭著『沖縄の鍛冶屋』を目にした。読んでみると、鍛冶屋にまつわる興味深い史実やエピソードあり、学ばされた。それで、いくつか参考になることを紹介してみたい。
 著者の福地さんは、沖縄の米軍統治下で沖縄県教職員会政経部長として、活躍していて、右翼に襲撃された事件で、その名前を初めて知った。一方で、沖縄の歴史や民俗など造詣が深く、戦前に少年が糸満漁師に売られる「糸満売い」や紡績女工の実相を描いた「沖縄女工哀史」、「沖縄の幽霊」ほか多数の著作がある。
 『沖縄の鍛冶屋』も、戦前、戦後と鍛冶屋として働いてきたたくさんの鍛冶屋に直接インタビューしてまとめた労作である。紹介にあたって、文章を少し手直ししたり、説明の(注)を入れ足りている。

 

いつごろ鍛冶屋が生まれたか

12世紀ごろ、本土の貿易船が入って鉄の武器が入ったと考えられており、歌等もあるように鹿児島の坊津から遣唐船が中国と往来し、ここから沖縄に鉄が入ったと考えられる。そのころ京都で鉄器が市場に出ていたといわれる。琉球で城(グシク)をつくるとき競ってその鉄を買ったものだとされる。

察度王(琉球の中山国王)や尚巴志(琉球を統一した)は貿易を盛んにし、鉄をとり入れて天下をとった。鉄を握るのが天下を支配するということはどこでも同じである。056

             昔の鍛冶屋の風景(奥間カンジャー)

鍛冶屋の起こり

 考古学に頼る以外ないが、12、3世紀ごろの遺跡から鍛冶屋の技術を示すのが出されている。

 鍛冶屋で製鉄のときできる鉄滓やフイゴの羽口がその存在を示す資料となっている。14、5世紀になると、そのころ形成されたと思われる遺跡から鉄製の武器が出土している。ほかに農具も出ており、鉄器の製作が普及していたと指摘されている。

 海外との交易が広まり、製鉄技術がすすみ精錬から鉄器の仕上げまででき上がったものとされている。それにともなって鍛冶職が専門化し増加していったであろう。

 尚思紹、尚巴志父子によって14世紀に築かれたウエグスク(上城)からも多くの鉄製の武器、武具が出土している。このことから農業の発達を即す農具や武器をつくる鍛冶技術があったと推察される。 
 14世紀の初め尚思紹一統の人々が伊是名島(伊平屋島と伝えられる)から移って豊穣な佐敷平地(南城市)に住んだ。すでに各地に製鉄器具が伝わり、鍛冶屋が農具をつくり、広い平地を開拓し、武器も輸入して、尚巴志の三山統一が達成された。(「沖縄県史・沖縄民俗」)、近辺には百姓に農具を作らせそれを与えたという尚巴志伝説がある。

 上津波古原には昔から鍛冶屋山と呼ばれている丘がある。
 王府には行政機関として鍛冶奉行がおかれ、そのもとに鍛冶勢頭がいて各間切(今の町村)には鍛冶屋がおかれた。
 鉄資源のない沖縄ではこの奉行を通して統制管理された。鍛冶屋は村から村へ移動して歩くものと、一定の村に安住する者とがあった。
 移動性の鍛冶屋は、村から村へ炉道具、材料などをもって移動し、一定の村に宿をとって注文をうけた。修理はじめ農具、生活用具を製作した。鍛冶屋のない部落に一定期間、出張所を設けるとか逆に、定着の鍛冶屋に寝泊まりで道具の修理にやってきたものである。

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コメント

八重山のナリヤ鍛冶の子孫です。屋号は「宗友盛屋(すどぅむりや)」で、戦前まで崎原御獄の地(大浜)で鍛冶屋を営んでいました。オヤケアカハチや長田大主の刀を造ったとされ、八重山の刀鍛冶の始まりだとの伝承が残されています。奥間カンジャーの絵に「家紋」が描かれ、祖父の紋付に描かれた「丸に隅立四つ目」の家紋との共通があります。大変興味のある文様ですが、もしご存知であれば奥間家の家紋を教えてください。

「鍛冶屋は村から村へ移動して歩く」の記述から、アジア各地で見かけた鍛冶屋を思い出します。しかし、沖縄の鍛冶屋は組織による管理が確認でき、個人が行商をする環境にはなかったと考える。大陸だと個人で鞴を携え、村から村へ移動することが可能だが、小さな島社会だと生活が成り立たず、特に宮古島や八重山まで移動することは、個人では不可能であったと想像がつく。八重山のナリヤ鍛冶工の場合も、波照間島での伝承や竹富島での生盛誕生の伝承があり、「成屋(ナリヤ)」鍛冶遺跡は西表島にある。稲村賢敷の「東(あがり)なりかね」の話では、大和から沖縄に渡って来た鍛冶屋が、宮古島や多良間島で鍛冶技術を教え、八重山に渡ったと書き記している。今回、ナリヤ鍛冶工の家紋と奥間カンジャーの印(家紋)に共通が確認できたことは、同一組織による鉄材供給と、組織が関与した移動を裏付けるものだと推察する。

生盛功様。コメントありがとうございました。
 オヤケアカハチや長田大主の刀を造った鍛冶屋の子孫のかたがいらっしゃるとは、驚きました。
 奥間家の家紋はよくわかりませんが、「丸に隅立四つ目」が鍛冶屋としての共通のつながりがあるとすれば興味深いですね。
 鍛冶屋は刀や農具製造など時の支配者とも強い結びつきがあり、各地への技術の伝達と鉄材の供給も同一組織による移動ということは十分考えられるでしょうね。
 これからもいろいろ教えていただければありがたいです。

昔の鍛冶屋風景(奥間(カンジャー)の絵は、近年に描かれたような気がします。もしも、想像をして描かれたものであれば、家紋を参考にしてはいけないようですね。古い文献から忠実に書き写したものであれば、歴史的な価値がある上に、我が家の家紋との関係も一応は考えてみることもできますが、絵についての詳細な情報は把握できますか。

生盛様、コメントありがとうございます。
 奥間カンジャヤーの絵は確かに古いものではないと思います。ただ、家紋を勝手に想像して描くことは考えにくいでしょう。なにか参考にした資料があるのではないかと思います。あいにく私は写真を撮っただけで、その絵についての情報は持ち合わせていません。
 奥間鍛冶屋の子孫の方もいます。「かぎやで風節」の歌碑建立がされた2011年の新聞記事では、東嵩純さん(86歳)という方が子孫だとのことです。国頭村役場で聞けばなにか手がかりがあるかもしれません。役場の電話番号は0980-41-2101です。

2011年の新聞記事「奥間鍛冶屋の子孫(東嵩純)」の名前は、宮古島の上比屋山遺跡に関係のある、前の屋御嶽系統の双紙では、東り那利金百帳主の「東(あがり)」や、竹富島の仲筋御獄には「なるかね」、鳩間島の友利御獄では大座那呂金の名前で登場する。生盛の屋号「宗友盛屋(友利)」とナリヤ鍛冶工は、漢字表記に「成屋・那里屋・奈例屋」の文字があり、奥間鍛冶屋が友盛獄との結びつきがあれば、家紋の一致に加え「東嵩純・宮古島の東り那利金百帳主・竹富島の(なるかね)・鳩間島の大座那呂金・生盛ナリヤ」の名前からも繋がりが確認できるのではないか。その意味からも昔の鍛冶屋風景(奥間(カンジャー)の絵に描かれている「丸に隅立四つ目」の文様は重要な証拠となる代物だと言える。

生盛様
 コメントありがとうございます。
東嵩純さんの名前が、宮古、八重山ともかかわりがあるとは思いもしませんでした。
ナリヤ鍛治ともつながりがあるとすれば、奥間鍛冶屋と八重山の鍛冶屋の関連を裏づける材料となるかもしれませんね。

  東嵩純さんは東京在住で、鍛冶屋の様子が描かれた絵は、嵩純さんが平成16年に描かせたそうです。詳細について未だ分かりませんが、調べた上で追って連絡が戴けるとのことです。何か特別なことが分かれば、再度、コメントさせていただきます。私のブログ「武那里の刀」も検索してみてください。

 東嵩純さんのことが分かってよかったですね。鍛冶屋の絵を書かせたことがわかれば、絵に描かれた家紋のこともわかるでしょう。
ブログもさっそく拝見しました。よく調べて書かれていますね。多くの人にのぞいてもらえるといいですね。

東屋の家紋を見つめていると、島津の家紋の影響がにじみ出ているように感じられます。だとすると、薩摩の影響下にあった時代に創られたのでは思ってしまうのは、私の思い過ごしだろうか。琉球の鍛冶屋に共通する鞴祭りを考えると、何処かに共通点がありそうな気がして、それが「丸に隅立四つ目」だとすれば、大発見をしたことになります。ここは是非、国頭村教育委員会に頑張っていただき、昔の鍛冶屋風景(奥間(カンジャー)の絵の解明に決着をつけていただきたい。なにか、良い知恵が浮かびましたら、教えて戴ければ国頭村教育委員会にお伝えします。

生盛さん。コメントありがとうごあいました。
 教育委員会が撮影してくれた東家の家紋は、メールで資料を送りましたが、「国頭殿内紋章」とのことです。『沖縄家紋集』に掲載されています。「氏」は「馬」で「元祖 馬思良国頭正胤」と記されています。家紋は同じ紋章はないそうですから、東家は国頭殿内の系譜なんでしょう。
 正胤は、第二尚氏を開いた金丸が、伊是名島を追われた時、奥間の裏山にあるインツキ屋取(ヤドゥイ)にかくまわれたので、国王になったとき、旧恩を忘れず、世話になった奥間鍛冶屋の次男正胤を国頭按司(アジ)に取り立てたとの伝承があります。その時、正胤が喜びのあまりに即興で詠んだと伝えられる琉歌が「かぎやで風」の原歌で、歌碑が建立されています。
 歌意は「大きな果報が得られようとは、夢にも見ないことであった。鍛冶屋でいろいろな物を作ってきたから、そのおかげで果報が身にぴったりとついた」。
 ただ、奥間カンジャヤーの伝承のある「元祖・奥間大親」は、『家紋集』には、家紋の記載がないので、不明のまま。国頭殿内正胤は、奥間大親とはつながりがないのでしょうね。
 


熊本大地震の益城町(マシキマチ)から

天授4年(1378年)9月、熊本東部託麻原一帯(益城町付近)で、南朝方(征西将軍軍営の良成親王)と今川軍が真正面から対峙したとされる。

 羽衣伝説をもつ奥間大親の祖先は、琉球開闢伝説につながっている。「察度の父奥間大親は、その父の在所佐敷間切新里村に到って父兄に対面したと記している。与那原湾に面する馬天の佐銘川大主居住の所であり、尚巴志発祥の地でもある。

谷川健一書「鍛冶屋の母」から

察度王の伝承は炭焼長者の伝承にほかならない。この伝承の一例をあげると、熊本県玉名市に式内社の匹野神社がある。この一帯は砂鉄が豊富で「かなくそ」が今でも出るところからみれば、それが製鉄を背景とした伝説であることが容易に分かる。

熊本出身の谷川健一は琉球誕生に名和水軍が関わったと推測しているが、中世の南北朝史には琉球への鉄器伝来の伝承と年代が重なります。今回の熊本大地震で大きく被災した益城町(マシキ)が、真志喜(マシキ)五郎の所縁の地であると思えてなりません。琉球を統一した尚巴志は佐敷按司(城主)で、母親は美里村の出身となれば熊本の地名の「佐敷、美里、益城(マシキ)、西原」等、琉球王国誕生に所縁のある地名が熊本県に存在する。

参考:尚巴志1372年〔誕生〕(南山地域の小さな城の城主の子として生まれる。)1392年〔21才〕:佐敷按司(城主)となる。

生盛様、コメントありがとうございました。
地震被害の益城町と沖縄の真志喜との関連とは思いもしなかったですね。
 奥間大親の祖先は佐敷のようです。名和水軍が倭寇なら、琉球に来ていたことは確か。名和一族の根拠地の一つが熊本の佐敷だから、沖縄の佐敷との関連もありそうですね。
 真志喜五郎は父親が鎮西八郎為朝とされ、海運業をしていたことから、大和人ではないかといわれているので、九州・熊本あたりとのなんらかのかかわりがあるのかもしれません。
 興味深いご指摘ありがとうございました。

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