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2012年11月18日 (日)

南洋群島のストライキ、その5。盛んな芸能

南洋でも盛んだった沖縄芸能

このようにして南洋群島へ渡った沖縄県人は、その後は全般に生活は安定し、各地に沖縄県人会を組織するまでになった。「農場も漁場も商店街も、ほとんど沖縄県人でしめられ、南洋群島はあたかも沖縄県の延長といった感じがするまでになった」という(『沖縄県史(7)移民』(沖縄県教育委員会)。

ウチナーンチュにとって、移民としての苦労があれば、その疲れを癒し、暮らしを楽しむためには、芸能が欠かせない。話は少し本題から外れるが、南洋群島での芸能事情にふれておきたい。

当時、日本人の多い島のおもだった町には、芝居小屋や映画館があった。移民たちにはかけがえのない娯楽のひとつとして人気があった。

とくに、演劇のなかでは沖縄芝居がもっともさかんだった。沖縄の著名な役者たちが南洋群島に拠点を移し、互いに競いあって新しい舞踊や演劇を生み出したため、人気はますます高まった。なかでもウチナーンチュが最も多かったサイパン島の南座と、テニアン島の朝日劇場(のちの球陽座)には、沖縄芝居の常設館があった。

沖縄の著名な俳優たちが、南洋に本格的に進出しはじめたのも、これら劇場の建設がきっかけのひとつとなったそうである。

芝居の人気高まる

著名な役者の島袋光裕やさらには伊良波尹吉(イラハインキチ)、渡嘉敷守良らが南洋に出かけ、この地を拠点に長期的な活動を行なった。南洋では、ふたりの一座が中心となり、競いあいながら沖縄芝居の人気を高めた。

サイパン島やテニアン島の劇場は、専属の一座を抱えていた。専属の劇団は、他の島や海外に巡業することがあった。とくに役者がいない島に巡業すると、連日大入り満員となったという。

伊良波尹吉は1933年に南洋に渡り、1940年に沖縄へ引き揚げたとされている(『奥山の牡丹―沖縄歌劇の巨星・伊良波尹吉物語』)。彼はサイパン島南ガラバン町の南座を拠点としながら、南洋群島のほかの島やフィリピンなど外国へも巡業を行なった。料亭の踊り子などに舞踊を教えるかたわら創作活動も行ない、なかでも「南洋浜千鳥」は有名である(以下、伊波妙子「南洋千鳥」『具志川市史だより』)

サイパン島では「南洋浜千鳥」を「千鳥ダンス」と呼んでいた。南洋浜千鳥はダンスの別名をもつに相応しく、衣装、メロディーは「異国風」であり、振付も波のリズムを女性のしなやかな動きや体の線で表現するなどの工夫が凝らされていたが、三線の調べにのせた琉球舞踊であった。

浜本芳子(喜劇俳優浜本朝保の子供)は、伊良波が字も書けず三線もひけないのに、これほど見事な踊りを作ったこと、唄も踊りも上手であったことに深い尊敬の念をもつと話す。

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南洋に出かけた民謡歌手

民謡歌手のなかでも、南洋に出かけていた人は少なくない。たとえば嘉手苅林昌や金城実らがいる。私の通っている民謡三線サークルでも、Hさんは、小学校4年くらいまでテニアン島で育った。女性のKさんも南洋育ちである。

金城実(写真)は、「南洋をうたう」をいうアルバムがある。「アンガゥル島巡り」「懐かしきサイパン」「パラオ小唄「ペリリュー島哀歌」「南洋帰り」「南洋小唄」「南洋浜千鳥」が収録されている。

嘉手苅林昌は、南洋群島に渡り、軍の雇員として、三線を片手に島々を転々としたという。召集後まもなくクサイ島のジャングルで負傷し、捕虜となって帰還した(ネット「ウィキペディア」)。

「南洋小唄」は、「恋しい故郷の親兄弟と別れよ 憧れの南洋に渡らちゃーしがよ」と歌い出す。恋しい故郷の親兄弟と別れて、憧れの南洋に渡ってきた。朝夕思う事は、男としてひと旗あげて、故郷に錦を飾ること。愛しい彼女とも遠く海を隔てているが、お互いに変わるなよ、手紙を交わし合おう。年が明けて花咲く季節には、豊かになって帰ってくるよ、と歌う。

「南洋浜千鳥」は、やはり旅先で故郷をしのぶ唄だ。これは、歌詞は「浜千鳥節」と同じであり、南洋的な歌詞はない。

「移民小唄」は、「♪無理なお金も使わずに 貯めたお金は国元の 故郷で祈る両親に 便り送金も忘れるな」とやはり、移民先で親を思う気持ちや頑張って錦を重ねて帰りたいという夢を歌っている。「サイパン数え唄」「シンガポール小唄」などもある。

戦場となった悲劇歌う

南洋群島が戦場となった悲劇も歌われている。

「南洋数え唄」からいくつか紹介したい。数え唄だから、時間を追った歌詞ではない。

「♪一つとサーノエー 広く知られた サイパンは 
今はメリケン(米国)の旗が立つ 情けないのよ あの旗よ」
「♪三つとサーノエー 見れば見るほど涙散る 山の草木も 

 弾の跡 罪なき草木に疵(キズ)つけて」
「♪四つとサーノエー 四方(ヨモ)山見れば 敵の陣 

 一日陣地を築(キズ)き固め 明日来る来る日本軍」
「♪五つとサーノエー 何時迄も 捕虜と思ったよ 

 やがて助ける 船が来る御待(オマ)ちしましょう 皆様よ」
「♪九つとサーノエー これから先の 我々は 助けられたり

 助けたり 同じ日本の人だもの」 

戦争による犠牲を免れて、沖縄に帰ることができた人たちの気持ちを歌ったのが「南洋帰り」という唄だ。

「♪汝(イャー)とぅ我(ワ)んとぅや よう三郎(サンダー)

「お前と俺とは 南洋帰りの同じ仲間だ 戦争に追われてガマに隠れ住んだ
 空襲や艦砲射撃で 雨のように砲弾が降ってきた よくもまあなんとか生きていることか 不思議だよ ああ懐かしい故郷よ」

「♪(南洋帰りのコンパニーまで同じ)杯交(サカジチカワ)ちょてぃ ありくりとぅ 思い出話や 尽(チ)くさらん やっぱり平和や 良いむんや あゝまた行かや」

「お互いにお酒を飲み 杯を交わし合い あれこれと思い出話をすると 尽きることがない。やっぱり平和はいいものだ。平和のもとで また南洋にいってみたいなあ」



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「楽園」から「地獄」へ

 南洋群島は「楽園だった」という人たちがいる。だが、日本による占領と統治は、あくまで現地住民への圧迫や犠牲の上に成り立っていたことを忘れてはいけない。

南洋群島の島々は、太平洋戦争で米軍が反転攻勢に出てくると、平和な暮らしは一転して「地獄」と化した。

サイパン島では、米艦船が島々を包囲し、艦砲射撃からさらに上陸して攻撃してくると、移民たちはいきなり戦場に放り出された。水や食料もほとんど手に入らないまま山中の避難を続けた。米軍の艦砲射撃や砲撃を受け、たくさんの人々が死亡や負傷者、行方不明になる人もいて、家族も離散した。北へ北へ追い詰められ、最北端の「バンザイクリフ」と呼ばれた崖から身を投げたり、手榴弾で命を絶つ人も続出した。

「米軍の火炎放射で焼きつくされた死体は、軍民の区別がつかないほど散乱していた」。

米軍の進攻によって、住民は島の北部へ追いやられ、断崖まで追い詰められた。

「行き場を失い断崖から飛び降りた人びとの重なり合う死体が、薄明かりのなかでぼんやりと見えた。死に至らずに傷ついて人びとのうめき声や、水を求める声も耳に入ってきた。海には無数に浮いて漂っている死体らしきものが見えた。まるで地獄の悪夢を見ているようであった」。

これは『金武町史第一巻移民・証言編』から、住民の証言である。

沖縄県人1万人以上が犠牲に

サイパン島は7月9日、テニアン島は8月3日、グアム島は8月11日に米軍の手に落ちた。サイパン島だけで、日本人2万人のうち、8000~1万人が犠牲になり、沖縄県出身者は、約6000人にのぼるとみられる。南洋群島での沖縄県出身の犠牲者は、一万二八二六人にのぼるそうだ。

南洋群島は、軍国日本が占領し支配した地域だけに、この地への移民は、悲惨な結末を迎えることになった。これらも、無謀な戦争の犠牲だといえるだろう。

 終わりにあたって

これまで書いてきたことは、ほとんど次の資料からの引用や要約、もしくは参考にして少しコメントを付け加えたものである。『沖縄県史各論編5 近代』、『具志川市史第4巻 移民・出稼ぎ論考編』、『移民・出稼ぎ関係新聞記事集成―アジア・太平洋地域』(具志川市教育委員会教育部資料編さん室)、『名護市史本編5 出稼ぎと移民Ⅲ』、『金武町史第一巻移民・本編』、『金武町史第一巻移民・証言編』、鈴木均著『サイパン夢残―「玉砕」に潰えた「海の満鉄」』、浦崎康華著『逆流の中でー近代沖縄社会運動史』。地図は、『金武町史第一巻移民・証言編』から使わせてもらった。

オリジナルの調査や研究はない。筆者によって、ストライキをめぐる年月日、参加人員、会社の対応など、事実関係の差異がある。記憶の混同などがあるのかもしれない。まだ事実を確定する資料が不足しているので、参考文献の記述にそって紹介した。誤りなどあれば、筆者の責任である。

 (終わり 2012年10月31日  文責・沢村昭洋)

 南洋帰りのコンパニー 戦に追ゎーってぃ 洞穴(ガマ)ぐまい
空襲 艦砲 雨降らち あんしん生ちちょる 不思議(ヒルマサ)さよ 
あゝ懐(ナチ)かさよ テニアン サイパン ロタ パラオ」

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コメント


しかし、毎回々熱心によう書かれとぅですね。感心します。
「 これまで書いてきたことは、ほとんど次の資料からの引用や要約、
もしくは参考にして少しコメントを付け加えたものである。 」 とは言ったものの、
これだけの記事を掲載するということは、自ずから勉強になりますし、
なにより掲載した文を読み返すので、歴史も覚えるでしょう。

沖縄の人でも専門に勉強している人は抜きにして、
これだけのことを知っている地元の人は少ないでしょうね。

ピースオレンジさん。コメントありがとうございます。
私の通う民謡三線サークルは、前や横に座るおじい、おばあも南洋育ち。今日も「南洋小唄」を歌ってきたことろ。そんなんで関心があるままに、まとめてみました。まあ専門家の研究成果は、一般にはあまり読まれていないので、県民でももう知らない人も多いかもしれないと思い、紹介してみました。
 私的には「沖縄の庶民の抵抗の歴史」について、拙文をアップしていますが、その延長線上の問題でもありました。

南洋群島のストライキ、その5。盛んな芸能: レキオ・島唄アッチャー

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