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2012年11月14日 (水)

南洋群島のストライキ、その1。スペイン支配

南洋群島のストライキ

はじめに

沖縄民謡を歌っていると、南洋をテーマとした歌に何曲も出会う。「南洋小唄」や「南洋浜千鳥」はその代表格だ。当時のウチナーンチュの南洋への思いが詰まっている。

戦前、貧しい沖縄からは、ハワイや北米、南米、南洋群島など世界の各地へ移民としてたくさんの県民が渡って行った。その一端は拙文の「戦世と平和の沖縄島唄」でも紹介した。

といっても、南洋群島がどのようなところで、ウチナーンチュがなぜそんなにたくさん出かけたのか。そこでの仕事と生活はどうだったのか。現地住民との関係はどうだったのか。その実相は詳しく知らないままだった。南洋群島への移民について書いた本を読んでいると、思わぬ記述に出会った。「南洋群島でストライキがあった」という。南洋群島といえば「楽園」のようなイメージをもつ人もいる。実際に「南洋は暮らしやすかったよ」という声も聞く。

だが移民として、知らない土地での開拓をはじめ、さまざまな労苦があっただろう。なにより、太平洋戦争では米軍の反攻で南洋群島の島々が次々に戦場となり、日本からの移民、とくに多かったウチナーンチュが悲惨な結末を迎えたことは知っていた。ただストライキというのは、ちょっと意外な感じがした。このさい、南洋群島の移民の実態とストライキについて、まとめてみたい。

 南洋群島と他の移民先との違い

南洋群島とは、ヨーロッパ人がミクロネシアと命名した赤道の南北に散在する太平洋の島々で、マリアナ諸島、カロリン諸島、マーシャル諸島からなる。なかでも、小笠原諸島に近いマリアナ諸島はグアム、テニアン、サイパン、パガン島などからなっているが、グアム島は、アメリカの統治下にあり、移民先からは除かれていた。

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沖縄からの南洋移民は、大正3年(1914)ごろ、糸満の漁師が先駆けといわれる。農業移民として最初渡航したのは大正7年(1918)、石川市(現うるま市)出身の10人だという(『金武町史第一巻移民・証言編』)。

なぜ、沖縄から南洋群島に移民として渡って行ったのか。当時、沖縄は世界恐慌の波及で、黒糖の値段が暴落し、「ソテツ地獄」といわれる貧窮にあえいでいたことがある。そんなとき、南洋では日当一円二〇銭稼げるといわれた。これは沖縄県内の日当の二倍以上であった。しかも、南洋群島が日本の委任統治領となったことで、海外渡航に必要な旅券は所持しなくても移住できた。
 それに沖縄からは比較的近い。太平洋に浮かぶ島々として、気候や自然、生活の環境面では、少し共通する点もある。移民の仕事のうえでも、サトウキビの栽培から収穫は、沖縄での経験を役立てることができた。
 「サイパンに行ったら、毎日三食のご飯にソーメンのおつゆが食べられ、果物も豊富で、気候も暖かく年中半袖で暮らせる」と誘われて渡航した人もいる(同書)。当時の沖縄はサツマイモが主食だから、「三食米飯」はとても食べられなかった。

沖縄からの海外移民は、ハワイや南北アメリカ大陸などにたくさん出て行ったが、南洋群島の場合、少し事情が異なる点がいくつかある。

戦前、日本が支配した海外の地域でも、南洋群島はいくつかの特徴があった。
「それは、日本の領土ではなく委任統治という特殊な制度下にあったことである。また、移住した日本人が現地住民人口を凌駕する点で、樺太と並ぶ例外的な地域で、日本人の約6割、島によっては8割が本籍を沖縄県にもつ人たちであったことは南洋群島だけの特徴であった」(『沖縄県史各論編5 近代』)。

植民地とされた南洋群島哀史

前置きが長くなった。本題に入る。南洋群島には、日本と沖縄から多数の移民が渡り、現地住民をしのぐほどだった。ということは、南洋の島々は、日本が進出していく前は、どういう状態にあったのか。なぜ現地の住民は多くなかったのか。開拓する土地が残っていたのはなぜだろうか。そんな疑問に応えるためには、南洋群島の歴史を振り返る必要がある。

ミクロネシア(旧南洋群島)は、日本が占領支配する前に、スペインの植民地となり、のちにはドイツに統治され、西洋諸国に200年以上にわたり支配された歴史をもつ。

ヨーロッパの大国による最初の一撃は、1521年にスペインのマゼラン艦隊がミクロネシアに到達したことだ。その一隊が武装してグアム島に上陸したことから始まった。その後、スペインはグアム島の領有を宣言した。1668年からは植民が始まった。
 スペイン人による植民化と原住民への改宗の押しつけなどは、早くから原住民の抵抗を招いた。グアム島では、1671年、2000人がスペイン人にむかって蜂起した。スペインは武力で蜂起を鎮圧した。

1684年、サイパン島では集落や畑の作物を焼き払い、改宗に抵抗する現地のチャモロ人を攻撃し、捕虜にして島内を荒らしまわった。

グアム島ではチャモロ人が再び蜂起した。他の島々でも反乱が起き、テニアン島ではスペイン人守備隊が全滅した。テニアン島へ派遣された掃討部隊は、島の集落を焼き払い、生き残った島民の多くはグアムに、残りはサイパンに強制移住させられた。
 サイパンより北の島々には、2000人のチャモロ人がいたが、住民すべてを1699年までにグアムに強制的に集住させた。サイパンは1749年には完全に無人島となった。

スペインによる植民地化が始まって100年ほどの時代は、反乱、鎮圧、強制追放が繰り返され、島々では多くの有能な男たちが殺されたという。グアム島に集住する過密な環境で、病気も蔓延して多くの者が亡くなった。
 スペイン統治体制のもとで、絶望感から子殺しが流行し、自殺も増加した。18世紀半ばには、ロタ島から北の島々(サイパン・テニアンなど)には住むものがいなくなった。集落は無人となり、焼き払われ、やがてジャングルが集落跡や小道や畑をおおい隠した。

マリアナ諸島民のグアム島への強制移住後、人口は減少し続けた。1688年には約4万人がいたと推定されたが、人口統計がとられて1710年、グアム島に3678人、ロタ島に467人が確認されただけ。恐ろしいほどの激減である。1790年にはグアム島とロタ島の総人口が3464人で、そのうち1825人がスペイン人、またはメスティーソ(混血)だった。ということは、現住民はもはや半分以下にすぎない。

マリアナ諸島では労働力が不足し、19世紀前半には、カロリン諸島からの移住者がマリアナにやってきた。

19世紀に入ると、スペイン領だったマリアナ諸島をのぞく太平洋全域の島々は、イギリス艦隊の進出にさらされ、ドイツ艦隊もパラオに出没するようになった。スペインは西カロリン諸島(パラオ・ヤップなど)の領有を主張していた。
 1885年、イギリスはドイツと組んで、スペインのミクロネシア領有に挑戦を決意し、一色即発の危機となった。ローマ法王は、これらの島々に対する領有をスペインに認める代わりに、ドイツとイギリスに地域の商業権を保証する仲裁案を提示、双方が受諾して、戦争は回避された。

1898年には、アメリカ・スペイン戦争が始まり、アメリカの一部艦隊は、グアム島占領にむかった。和平が締結された翌年、アメリカ政府がグアムを領土とした。グアムはアメリカ海軍の根拠地に組み込まれ、一種の軍政のもとにおかれた。今日まで、グアムが米軍基地の島となったはじまりがここにある。

ドイツは、スペインと交渉して西のコスラエ島、ポナペ島、ヤップ島にかけてドイツの主権を認め、パラオ諸島とグアム島を除くマリアナ諸島を金銭(約500万ド)で買収した。そこでは、椰子のプランテーション経営を進めた。

以上は『名護市史本編5 出稼ぎと移民Ⅲ』から要約してまとめた。同書は、なぜか市町村史なのに、この前史にあたる部分がとても詳しい。南洋群島哀史となっている。

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