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2012年11月16日 (金)

南洋群島のストライキ、その3。待遇改善求め

待遇改善を求めて立ち上がる人々

小作人といっても実際には、小作権はほとんど認めていなくて、実質は労働者と同然であった。それに、小作料は高いうえに、収穫物の秤量のさいにゴマカシが横行した。人夫たちも賃金はきわめて安い。しかも、沖縄移民と他府県出身者との間に待遇の差別もひどかった。そんな興発のもとで働く人々に不満が渦巻くようになる。

移民たちは、少しでもよりましな生活を求めて、興発への異議申し立て行動に動き出した。

1926年(大正15)には、あまりにも賃金の安い農務人夫が待遇改善の要求を出すようになった。開墾から植え付け、除草、収穫に従事する小作農家の配属人夫たちの前々からの不満は、「興発会社に使用されている甘蔗畑労働の沖縄人夫の賃銀が余りに低廉なること」にあった(大正15年5月3日『沖縄朝日』)。「2割5分増給」の要求が掲げられた(『名護市史本編5 出稼ぎと移民Ⅲ』)。
 海軍統治期から南洋興発の前身にあたる会社で働いていた移民たちの代表が、直訴するという事件が起きた。

「東京日日新聞」(11月23日付朝刊)には「死活問題で陳情に/サイパン島から上京」、「このままでは飢え死にする/今は牛や豚を売って居喰ひする惨状」との見出しで報道された。東京滞在中の南洋庁長官に八丈島出身の移民が直訴したのである。

彼らは、南洋興発に経営が移ってからの処遇に強い不満を抱いた。それは海軍統治期には徴収されなかった小作料が、新たに義務づけられたこと。小作料が3割~3割5分というのは、きわめて高額である。それに加えて、きびの買い上げ価格が下げられたことである。処遇の改善を求めて会社側と交渉したところ、会社を通して買う食料品が、それまで掛け払いだったのを、現金払いにする形で圧力がかけられた。このため生活できないほどの窮状に追い込まれて、直訴に至ったという。

 「死活問題」となっている小作人たちの要求に対して会社側は、移民たちが「真面目に働」けば問題なし、といってより強い態度をもって臨んだ。

主に『具志川市史第4巻 移民・出稼ぎ論考編』から紹介した。

Photo

 テニアン島地図。『金武町史第一巻移民・証言編』から

 第一次ストライキ起きる

1927年(昭和2)1月11日、沖縄出身移民を中心にサイパン島で南洋興発に対するストライキが起こった。明らかにキビ収穫・製糖期にぶつけた行動だった。

 ストライキ決行の理由は、会社(南洋興発とその子会社)の沖縄県移民に対する差別的な待遇と契約違反の賃金にあった。会社の農地を小作して、サトウキビを工場に搬入している県出身移民と他府県出身者との間に歴然とした差別的取り扱いがなされた。沖縄県出身者にはブリックス(糖度)度数を低く、目減りを多く秤量された。他府県出身者のブリックスは高く、目減り量は低く押さえられて。

 一方の農園労働者に対しては、日給1円40銭のはずが、実際の手取り賃金は60銭から70銭と契約賃金の半額しか支払われなかった。灼熱の陽射し太陽を浴び風通しの悪いサトウキビ畑の労働は、サトウキビ作りに慣れ親しんだ沖縄移民にも重労働であることに変わりはなかった。次の新聞報道では「日給1円20銭」とされている。『金武町史第一巻移民・本編』から紹介した。

 『移民・出稼ぎ関係新聞記事集成―アジア・太平洋地域』(具志川市教育委員会教育部資料編さん室)

昭和2年2月9日付「大阪朝日」が、「賃銭の事から沖縄人の罷業・四千名の農民人夫ら南洋興発と争う」という見出してストライキのことを報道している。記事は「那覇発」であり、「当地」とは沖縄県のことを指す。

「南洋サイパン島の南洋興発会社の農園に働く沖縄県人約四千名は、去る1月11日以来会社の差別待遇に憤慨し、一斉に罷業を敢行し会社側と対抗して紛擾をつづけてゐる旨当地に入電し、県内各関係者は勿論県当局労働団体などは、その対策に腐心している。

 事の起こりは、会社と契約当時日給一円二十銭のものが、実際は甘蔗苅取り一千斤に対し四十四銭を支給し、優秀人夫でさへ日に二千斤しか仕事できず、契約と違ふので、県出身人夫は去る一月十一日、結束して会社に対し一千斤あたり五十六銭に賃金の値上げを要求した。会社側は十八日に至り、最初の契約通り日傭賃一円二十銭を支給するとともに、会社は小作人に対しては苅取り賃一千斤に対し四十四銭を支払ひ、不足額の十六銭は小作人より人夫に支払はせるような狡猾な妥協条件を持ち出した。ところが小作人の県人なので、ここに県人同志相争ふことになり、両者は期せずして一致会社に対し、かくは総罷業をなすに至ったもので、既に同志だけで共栄会なるものを組織し、約千四百円の軍資金を用意して会社側と対峙し、今日に至ったものである」

会社側は、一千斤あたり四十四銭から五十六銭へと、従来の二割五分増しの賃上げを要求したのにたいし、要求を認めるポーズを取りながら、実際は会社は従来の賃金しか支払わず、賃上げの十六銭分は小作人に支払わせるという「狡猾」な回答だった。同じ沖縄県人である小作人にツケを回す悪辣なやり方に、小作人も人夫も一致団結して立ち向かったということである。
 しかも、一致して対峙するために「共栄会」という団結の組織をつくり、約千四百円の軍資金まで準備したというから、用意周到である。

この新聞報道では、ストライキの目的が契約違反の賃金のことに絞られている。実際は、県人に対する差別待遇や搬入原料の計量の不正問題も要求に掲げられていた。浦崎康華著『逆流の中でー近代沖縄社会運動史』(沖縄タイムス社)では、ストライキの要求は次のような内容だったとしている。

(1)会社直営農場の労働賃金を山形、秋田、小笠原出身者と同額にすること。

(2)小作人が搬入する原料のブリック(糖度)と計量は不正であるから蔗作人を立ち合すこと。

ストライキが、賃金引き上げだけでなく、沖縄県人に対する差別待遇の是正も要求に掲げられているだけに、サイパン島でのたたかいに地元の沖縄でも支援が広がった。

「当地では事重大とみてとり、沖縄海外協会に貴衆両院議員、沖縄青年同盟その他の団体いづれも該争議の解決につき協議中だが、青年同盟では演説会を開き、資金を送って争議団のため極力応援することになってゐる=那覇」

 「大阪朝日」同日付は、このように伝えている。

南洋群島でも、サイパン沖縄県人会は、1923年8月に結成され、南洋興発でのストライキをきっかけに、組織化がすすんだといわれている。

このストライキについて南洋庁は、興発のもとでは小作問題、労働問題という二種類の「紛議」が起きていると説明している。この「騒擾」が「労働者の自覚」に由来するものであると見て、職業的、専門的指導者が介在しなかった、としていることは注目される。

このストライキに対して、会社側も南洋庁も対応策をとってきた。

もともとは小作人、労働者側が組織した「共栄会」を、会社の指導で「庶(蔗)作共栄会」に再編した。会社の説明によると、蔗作共栄会は「闘争主義的」な労働組合ではなく、労使の援助協力による「平和主義の方法で目的を達する」ことに特徴があるという。資金は会社が援助するとされた。自主的な組織として結成された「共栄会」を会社側が取り込み、翼賛的な組織に変質させたことを意味する。

1929年には、南洋庁が「治安警察規則」と「新聞紙取締規則」を制定した。これら二規則は、ストライキに南洋庁が介入できること、しかも外国人や現地住民との連帯を阻止し、ストの指導、支援にかかわる内外の情報を規制する意味をもっていた。小作人、労働者のたたかいを抑圧しようとするものである。

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