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2012年11月17日 (土)

南洋群島のストライキ、その4。立ち上がる農民

第二次ストライキ始まる

しかしながら、これで農民たちの運動を完全に抑え込むことはできない。ストライキの2年後の1929年(昭和4)5月に、小作人などが結束して「小作料全廃運動」を起こし、南洋庁に嘆願書を提出するという事件がおきている。南洋庁は調査をした結果、興発に論達し、小作料を収穫量の2割5分から2割平均に減額させたという。

この事件について、サイパン沖縄県人会は、興発下のウチナーンチュの実態を調査させ、島内外の世論に訴えるため、『琉球新報』の長嶺将快記者と漢那憲和代議士を沖縄から招いた。

1932年~33年(昭和7~8)ごろ、沖縄出身の運動家や政治家が相次いで南洋群島を視察し、興発のウチナーンチュ移住の実態調査や南洋庁、興発への働きかけを行なっている。

当時、興発の不当なやり方に立ち向かった沖縄移民の一人に、松田豊太郎(仲泊出身)がいる。松田さんは、甘蔗の計量場(看貫場)で、重量が実際より少なく記録されていることを明らかにした。このため、興発とは全面対決することになった。松田さんは甘蔗共栄会の代表委員にも選ばれ、小作料が高すぎると主張しつづけた。

計量の不正と差別について、松田さんは次のように解説している。

「それまでの平均の秤量より1台につき802斤多かった。これを秤量係はごまかしていた。100台で8万200斤ですよ。巡査と県人会長立ち会いでやったものだからハッキリ出てきちゃったんですよ」。計量の記録より、実際の重量は1台につき802斤多かったのだから、相当なごまかしである。

 それから松田さんは毎年一回行なわれるキビ代や小作料の決定会議に出た。興発は、小作料を3割とる一方で、日本政府から1町歩につき7円の補助ももらっていた(南洋の土地は南洋庁からの借地だった)。こういう不当な小作料や「搾取」に抗議し、賃金値上げを要求しようとした。しかし、いつも42人の委員のうち、公然と異議を唱えた人たちは少数派だった。松田、伊波英喜、伊波秀善の3人だけが興発案に反対したが、3人の要求は無視されつづけた。多くの人が不満を心に抱いていても、会社を怖がっていたのだろう。

「キビ代は、一等から五等までありましたがね。キビ代を質で評価しないで人間を見て決めてくるんですよ。一等2円50銭、二等2円20銭、三等1円90銭、四等1円60銭、五等1円30銭と30銭ずつの差があるんです。この値段は毎年決めるんだが、最後までほとんど変わらなかったですね。」

 ここで業を煮やした松田さんは沖縄に帰って、蔗作人の味方になってくれそうな県会議員でもあり、『沖縄救済論集』の編者で有名な湧上聾人と、衆議院議員の伊礼肇にサイパン渡島を依頼する。1932年(昭和7)4月1日のことである。

湧上がサイパンに来たのは翌1933年3月、伊礼はおくれて同年8月になった。沖縄県議会議員の湧上聾人(玉城間切出身)は、大正、昭和の沖縄で社会運動家、政治家として「貧民救済」のために活動した人物、として知られる。製糖労働者社宅の改善、甘蔗梢頭部の廃棄中止などについて興発に要求をだし、一定程度の「改善」がみられたとされる。ただ、松田さんは湧上に失望した。彼にはすでに興発から6000円の金が渡っていたという。

 6000人が参加した

 1932年(昭和7)には第二次ストライキが始まった。小作農などを含め約6000人の参加人員にふくれ上がった。1927年(昭和2)の第一次のストライキは、沖縄出身の農園労働者だけのストライキで、参加人員も約2000人規模(「4000人とする新聞報道もある」)のものだったが、参加者の規模は大きく増えていた。

その理由は、農場労働者の賃金の内、半額を直営農場の準小作人(1町歩小作)に負担させようとしたことにあった。農園労働者と小作農の大半が県出身のため、県人同志を対立させる「興発の悪どい策動だ」と、県人会対南洋興発の対立となり、第一次ストライキの約3倍のストライキ参加者となった。出身地での沖縄青年同盟のストライキ資金のカンパ活動、米などの物資援助の広がり、県選出代議士(湧上、漢那など)と拓務参与官の伊礼肇の調査は、南洋興発に心理的な圧力となった。

首謀者といわれた松田豊太郎さんは、次のように証言している。

争議は、石川市出身の比嘉鉄永の指導ではじまった。「彼が要求書をつくったんです。こいつは、労働者は黙っていてはだめだ。なにかやらんといかんといつも言ってました。私より4つ5つ下の者ですがね。意気ごみがあった。だれとでも平気でけんかするようなやつで、腕も力もあるし、給料もわしよりもうんと多かった。」

たいした人物がいたのである。比嘉鉄永の隣の畑にいて争議に加わった内間安一氏の話によれば、第一農場から第四農場まであって、ストライキ参加者は最初、香取神社に集まり、農場で働く農民は班ごとにまとまった。小作人は20日間、労働者は2カ月間のストを打ち、世界各国から支援者が来て、激励の電報もはいったという。

興発は、二次にわたるストライキに直面して、当時の微弱な警察力では。ストライキを鎮圧できず、ストライキが長期化すると、労働力を確保することは至難なことだと思い知った。

 また、移民の出身県の沖縄でのストライキ支援態勢の急速な広がりなどから、興発は、ストライキの収拾をはかった。会社側の差別待遇は、だんだん是正されるようになった。

「松田、大城その他の同志のように、数は少なくとも、終始、興発に抵抗していた一群の人たちがいたのである。イデオロギーというよりも、それは強い権利意識とでもいうべきものかもしれない。そしてこういうところに、挫折した自由民権運動の遺産や、沖縄社会主義の伝統が脈々とうけつがれていたと私には思える」。鈴木均氏は『サイパン夢残―「玉砕」に潰えた「海の満鉄」』でこう指摘している。

ストライキについては、主に『具志川市史第4巻 移民・出稼ぎ論考編』、『金武町史第一巻移民・本編』、鈴木均著『サイパン夢残―「玉砕」に潰えた「海の満鉄」』から紹介した。

 警部補からストライキ指導者に転身

このストライキにかかわって、とても興味深いエピソードがある。

当時の初代南洋庁長官だった堀口満貞は、沖縄県警察部長から転任したので、もと部下だった仲本興正警部補を南洋に招いた。1927年(昭和2年)4月、仲本警部補はサイパン勤務を命ぜられた。同島には約4万人の在留邦人のうち3万2000人は沖縄県人で、その多くは分蜜糖原料の蔗作農民であったが、南洋興発会社の沖縄県人に対する差別処遇が問題になり、いざこざが絶えなかった。そこで、上司は仲本警部補が行けばまるく治まると見込んで転勤させたようである。

仲本警部補はサイパンに着くと、ガラパンの町に腰を据えて会社と蔗作農民の関係などを調査した。農民の不満と要求をつかみ、その事情と改善すべき点を文書にしたためて上司に提出した。しかし、それに対する反応は上司からも南洋興発会社からもなく、全然無視された格好に終わった。

 そうした中で、行なわれたのが、県出身蔗作農民たちのストライキだった。第二次世界大戦前に行なわれた沖縄県人のストライキとして、これほど大規模なものは県の内外で他には例がなかったのである。

 ストライキは、仲本興正さんにとって、人生の重大な転機となった。仲本さんはかつて東京の第2回メーデーの取り締まりに出動したほか、幾つかの社会運動を見聞して時代の流れを感じとっていた。その上、人道主義と民主主義を身につけていたので結局、官職を辞して労働者の味方になった。自分の良心にしたがった勇気ある選択をしたといえるだろう。
 それからは、深夜を利用してキビ畑の中で作戦会議を開いて指導した。ストライキの指導者の一人になったのだ。差別待遇の撤廃のほかに植民地資本の飽くなき搾取に対する待遇改善を前面に打ち出した。農民にとっては、心強い味方だっただろう。

 これまで南洋興発会社は、県出身蔗作農民で不平をいう者からは耕地を取り上げたり、原料を買わなかったりして圧迫を加えた。しかも、興発は那覇を往復する直航船を運航していたが、不平農民は直営航路にも便乗させない。このため島外に出ることもできず、軟禁状態に置かれた。自生のパンの木の実、タロ芋、パパイア、バナナ、魚介類を取って露命をつないでいた。仲本はこの状態を「人間牧場」に見たてて義憤を感じていた。

ただし、仲本さんが、南洋群島に赴任したのは、第一次ストライキの直後のようだから、ストライキの指導にかかわったのは、第二次ストライキではないだろうか。ストライキを通して、「人間牧場」といわれた状態も解消されていったという。

仲本さんはその後、サイパンの県人会長に選ばれている。以上は、浦崎康華著『逆流の中で』からを中心にまとめた。

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