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2012年11月27日 (火)

沖縄の鍛冶屋、その5

沖縄戦と鍛冶屋

カンジャーは村々に金細工屋(カンゼークヤ)の屋号がある数だけ営業している。明治時代の末ごろ、県内に約250軒のカンジャーがあった。船大工も約400人いたという。

沖縄は鉄資源がないので鉄製品をつくるとなると県外から移入する以外ない。

鍛冶屋の使う鉄鋼材は昔から不足していた。そこに昭和16年、第二次世界大戦がぼっ発して戦時体制下に入ると鉄類は供出された。学童の洋服のボタンも木に変えられ、蚊帳の耳も学校を通して集められた。

 鍛冶屋は古金集めの業者から買った。戦前、アメと古金と交換する古物商が田舎の家庭をまわっていた。

 鍛冶屋は職人をつかい荷馬車をもって他村にまで出かけ、材料探しをしたものである。原材料となる鋼鉄や鉄くずはすべて規制され、組合を通じて配給された。そのために鎌や鍬の長さまで組合を通して役人が点検し、一糎(センチ)でも長いと注意をうけた。仕方がないので修理にもってきた古い鍬、鎌は先にハガネを少しつけるだけで済ました。

 鉄材の割当てがないので新調することもなかった。そのころ、鍛冶屋はお手上げで廃業に追いこまれるものが現れた。

 沖縄戦が終わると、息を吹きかえし、戦後は竹ノコの如くカンジャーが増えた。

 戦争で残された艦船、戦車、トラック、砲弾などが野ざらしされ、座礁していた。

 日米両軍の使った兵器類、酸素ビンから金網の棒や上陸につかった六角型の穴のあいたレール等ことごとく材料につかわれた。米軍駐屯地にも残がいがあってそれにも目をつけた。戦利品利用のようにそれを利用して生産用具のナベ、カマ、クワをつくり、農具、漁具を製作し、部品を組み立て新しい機械をつくった。一部には早くも、スクラップブームの中で豊富な鉄クズを集めて器具や機械をつくる鉄工所が現れた。

 

日米軍への協力

 戦時下及び戦後、鍛冶屋の技術を日米両軍とも競って利用した。

 沖縄戦の準備のころ、飛行場や陣地づくりに全業者、組合員が徴用され、軍への協力を命じられた。10月10日の空襲のころ、伊江島飛行場に幾度も徴用されていた。とび口とかクギ、つるはし等飛行場設営につかわれる道具をつくる任務を命じられたのである。

 竹槍の先つくりには鍛冶屋が型取りをした。飛行場の滑走路側に作られた鍛冶屋で防衛隊員自らそれをつくっていた。兵隊の帯刀もつくったり、それを研いだりする場合は、軍の鍛冶屋経験をもつ下士官が指揮した。十・十空襲のとき、伊江島飛行場に設けられた鍛冶屋に爆弾が投下され、こっぱみじんに吹き飛ばされた。怪我人が出たが、多くが9月に任期を終えてそれぞれ帰郷したので生命びろいしたようなものであった。⋯⋯

(塹壕堀りに使う石斧を製作、荷馬車の車輪つくり、馬蹄をつくらされた。爆弾や手榴弾もつくらされた。戦場で犠牲になった鍛冶工も多い)

米軍が上陸すると今度は逆に米軍がいち早く鍛冶屋経験者に目をつけ、集めた。田井等のカンパンでは5月ころから米軍命で、農機具を作らされている。

 食糧確保作業のために一般の収容者がかり出されたが、それに使う鍬や鎌などが戦争のため消失していたからである。米軍は鍛冶屋経験者を登録し、米兵の直接指揮下で農機具の製作を命じ、そのためにタバコや缶詰等特別の増配が行われ、軍の車で送り迎えされた。他の人たちは日中作業に追われるのに鍛冶工は1日に6時間働くと、後は休んでいいようになって優遇された。

 他部落には米軍の許可がないと出入りできないころ、鍛冶屋だけは自由に巡回でき、他部落に一定期間配置された。戦後、2~3年経ってからも米軍は軍事施設の建設のために鍛冶屋をその地域で募集した。金具や建築用材料が米軍から支給され、仕事に事欠かなかった。戦後、仕事がないころなので、技術があることで生活は楽であった。

 

鍛冶屋は激減した

 カンジャーは村々に金細工屋(カンゼークヤ)の屋号がある数だけ営業している。明治時代の末ごろ、県内に約250軒のカンジャーがあった。船大工も約400人いたという。

 大戦中に減ったのは事実だが、戦後再び竹の子のごとく各地にスクラップを利用した鍛冶屋が生まれた。 

 海外で鍛冶屋をしていた人や、軍隊にとられていた経験者が引き上げてきて鍛冶屋を再興した。その数はつかめないが、業者組合を市郡単位に組織し、活動が活発となった。それが復帰を境に激減している。

 機械化と本土製品に押されたばかりでなく人件費が増大すると零細企業の鍛冶屋では職人を雇えなかった。

家族単位で細々と続けてきたというのが実状である。

 福地さんが、本書を刊行した1989年時点で、沖縄の本島と久米島、宮古島、八重山を含めて19軒しか残っていない。再建しつつあるのを入れても20軒しか現存していないと記している。

以上、福地氏の著作『沖縄の鍛冶屋』から、きわめて個人的な興味のある部分だけを紹介した。

 (終わり。2012年11月25日          文責・沢村昭洋)

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