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2012年12月

2012年12月30日 (日)

ありえない歳末・米兵事件続発

 那覇市内で、年末の12月28日、29日と米兵による住居侵入や飲酒運転による事故が続発した。米軍による「基地外での飲酒禁止」「深夜外出禁止」などの対策なるものが、なんの効果もないことを裏付けた。あきれて、あいた口がふさがらない状況だ。

 住居侵入は、米軍キャンプハンセン所属の海兵隊伍長だった。那覇市のど真ん中、久茂地で午前4時半ごろ、4階建てビル最上階の女性宅のベランダに無断侵入した。娘に気づかれたため、現場から逃走したが逮捕された。

 当初は、南米コロンビアの自宅と似ていて間違って入ったかのように述べていた。でも、ここはコロンビアではない。沖縄だ。似ているから入るなんてありえない、と思った。やっぱり、その後「他人の部屋だとわかっていて侵入した」と供述しているという。

 女性の恐怖は計り知れない。米兵は酒を飲むとやたら他人の住居に侵入しようとする傾向がある。これは、沖縄県人なんかでは、ほとんどない行動だ。他人の住居への侵入は、強盗や暴力、女性への暴行など重大な犯罪につながりかねない行動である。

 午前4時半といえば、前夜から外出して飲酒をしていただろう。海兵隊伍長という立場にありながら、事件続発を受けて、米軍が打ち出した禁止令など、どこ吹く風である。

 

 もう一人は、海兵隊キャンプ・キンザー所属の上等兵である。29日の午後五時25分ごろ、やはり久茂地の市道を酒気帯び状態のまま車を運転し、こともあろうに一方通行車線を逆走して、バイクと衝突する事故を起こして、相手を負傷させ、現行犯逮捕された。

 

 午後5時過ぎに飲酒運転していたということは、昼間から飲酒をして酔った状態で運転していたことになる。久茂地付近は、久茂地川沿いの道路に一方通行が多い。酒気帯びで逆走するなんて、ありえない光景である。

 いずれにしても、「深夜外出禁止」「基地外飲酒禁止」といっても、米軍はだれもチェックしていない。個人まかせ。それに、基地外の住宅に住む米兵も多い。県民は、こんな「再発防止策」なんか、守られるはずがないとみんな思っている。事件が続発すると、ますます米軍への不信感が強まるばかりだ。

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 2012年も、オスプレイの強行配備、米兵の凶悪な事件続発で、県民は事故、事件への不安を募らせた一年だった。「沖縄の負担軽減」は口先ばかりで、基地強化が進行するのが、この一年の現実である。こんな県民の命と安全をないがしろにする問題が相次ぐなかで、保守層の中でも、諸悪の根源である米軍基地の閉鎖の声があがりはじめている。日米地位協定の改定の要求とともに、日米安保条約とは県民にとってなんなのか、疑問の声も出ている。

 2013年は安部内閣のもとでスタートする。ウルトラタカ派そろいの内閣のもとで、県民がやすやすと暮らす日々は遠い。普天間基地の辺野古移設のごり押しやオスプレイの本格運用による騒音や事故の不安の増幅などによって、県民の日米両政府への不信と憤りはいっそう渦巻く一年になるだろう。

2012年12月26日 (水)

「汀間当」で歌われた請人・神谷の子孫は神谷幸一氏だった

 名護市の東海岸にある汀間を舞台にした民謡「汀間当」(ティーマトウ)は、役人と村娘の恋唄として、よく演奏される。琉球王府の時代、神谷親雲上(ペーチン)厚詮が、王府の御用品を収納する役人・請人(ウキニン)として、久志間切(クシマギリ、いまの町村にあたる)汀間村に派遣された。

 村の美人、丸目加那(マルミカナ)と恋仲になり、夜ごと浜に降りて逢引していた。それを、村の青年たちが見ていて、はやし立てる様子が歌われている民謡である。

 

 ところが、請人・神谷の子孫にあたる人がいた。それも沖縄民謡界の重鎮である神谷幸一氏だという。これは「琉球新報」2012年12月21日付、小浜司氏が書いた「島唄を歩く、花咲く島のダンディー神谷幸一」で、紹介している。小浜氏に、請人・神谷との関わりを聞かれて、神谷氏は次のように答えている。

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   離島フェアーで歌う神谷幸一さん(中央、2010年11月)

 「幼い時、祖父がそんなことをつぶやいていたのを覚えている。先祖御願(ウガン)に首里へ行く時もあったし、系図調べたら7代目にあたるかな。最近の話だけど、汀間(名護市)の神あしゃぎを改築して、落成式に我々メンバーが呼ばれて嘉例(カリー)つけることができた。せっかくだから戦前の部落の井戸跡を拝まねばと、ごちそうも準備した。不思議なことに、土砂に埋まって跡形も無いはずの井戸がすぐに発見できた。それを見たユタ(注・巫女)が驚いて、この人(神谷厚詮)が降りてきて、「ありがとう」と言っている、首里まで来てくれた、丸目加那に向けて「やっとここに来てくれたんだ」と伝えているよ、と言われた」

 

 系図まで調べたというので、神谷幸一氏が「汀間当」の請人・神谷の子孫にあたるのは間違いないようだ。

  「♪汀間当安部境ぬ 河ぬ下ぬ浜下りて 汀間ぬ 丸目加那と請人神谷と
  恋の話 ふんぬかな ひゃ誠かや」
 
 

 (汀間と安部の境、井戸の下、浜に下りて汀間の 丸目加那と請人神谷との
  恋の話 本当かな 真実かな)

 歌は4番まで続く。二人の逢引は村の青年に暴露される。はやし立てられていたたまれなくなった神谷は、首里に帰っていく。年が明け4,5,6月頃になれば呼びに来るから待っていてくれ、と言うが、迎えはない。

 「残された丸目加那は涙にくれて、ついに首里まで上ったが、神谷が家族と暮らす現実に落胆し帰郷。そんな彼女を村はく迎えた」と小浜氏は書いている。

 

 神谷幸一といえば、小浜氏が「花咲く島のダンディー」と評しているように、民謡界でもイケメンであり、歌の上手さも抜群である。請人・神谷も、女性にもてるタイプのダンディーだったのだろうか。

 それはともかく、古い民謡で歌われている人物と出来事は、ほとんど絵空事ことではない。みんな、実在の人たちであり、現実の出来事が歌となって残されている。そのことを改めて痛感する。しかも、その人たちの血を受け継いだ子孫が、いまも現存している。それも神谷幸一氏のように、民謡界の名高い唄者であることに、驚いた。歴史は生きているのである。

 

2012年12月24日 (月)

宮古島探訪、来間島には憲法がある

                       

 

来間島には憲法がある

 宮古島の南西端に、来間島(クリマジマ)が浮かんでいる。やはり来間大橋でつながっている。全長1690㍍あり、1995年農道橋として開通した。池間大橋よりは265㍍長いので、宮古諸島では一番長い橋だ。島は周囲9㌔㍍で、人口200人弱。集落が一つあるほかは、サトウキビ畑が広がている。

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  一番の観光ポイントは、島の高台にある、龍宮城展望台である。宮古島本島の与那覇前浜の白砂ビーチが一望にできる。145
 宮古島では、全日本トライアスロン宮古島大会が毎年、開催される。2013年は、4月21日に予定されている。前浜ビーチは、スイム(水泳)のスタート地点になる。バイク(自転車)も前浜からスタートして、来間大橋もコースの一部となっている。

宮古島はとっても平坦な島なので、トライアスロンをするのには、最適な場所なのかもしれない。いまや、宮古島の一大イベントとなっている。

来間島の展望台に、面白い看板があった。なんと「来間島憲法」である。来間島を美しく保つため、また誰もが住みたくなるむらにすることを目的としている。

 

 

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 第3条では、島の集落の景観を美しく保つために、住民は庭にブーゲンビリアの花を一本以上植えなければならない。ハイビスカスも同様に定められている。

 第5条では、島を美しく保つために、住民はゴミを島の如何なる場所に於いても投棄してはならない、放置してはならないと定める。しかも、住民、来島者に関わらず、ゴミを投棄、放置する者に対しては、注意、指導を怠ってはならないと定める。

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           展望台からの眺めは素晴らしい

 第6条で、来島者はもちろん、ゴミの投棄、放置をしてはならないと義務づけられている。

 第8条では、この憲法は強要ではなく各個人の任意の協力を要とするとうたっている。

まあ、看板を眺めていると、それだけ島の住民が来間島に誇りをもち、島の景観、環境を守ることを大切にしようとしていることを痛感する。

 「宮古島探訪」はひとまずこれで終わりとしたい。

 

 

2012年12月23日 (日)

パソコンのフリーズトラブルが解決した

 パソコンが20分ごとにフリーズして、電源を落とさないと動かないトラブルに悩まされていた。きっかけは、ブログに写真をアップしようとした途端、フリーズして動かなくなることだった。フリーズ解除をしようとしても、動かない。そんなとき、必ずフリーズと同時にハードディスクのランプが消えている。

 そのうち、ブログへの写真アップだけでなく、メールを書いていても、ネットを見ていても、20分くらいですぐ、フリーズしてしまうようになった。ネット上での質問と回答など読むと、「ハードディスクが壊れている場合がある」「パソコンショップで診断してもらったほうがいいかも」との回答が出ている。パソコンショップに持ち込もうかと思ったけれど、念のため東芝のダイナブックを使っているので、東芝のサポートセンターに電話した。

 センターでは、「三段階の復元の試みをしてみましょう」とのこと。電話するたびに、応対者は代わるが、みんな一応、親切にアドバイスしてくれた。遠隔支援もやってくれる。
 最初のアドバイスは、パソコンの裏側で動かしているプログラムの一部を外すこと。やってみると、「改善された!」と喜んだのもつかの間。わずか一日でまたフリーズ頻発に戻った。

 第2段階で、システム復元を試みたが、やはりそれも効果なしだった。
 第3段階では、パソコンを購入時の初期状態に戻すリカバリーである。この間、作成し保存していた文書、写真、アドレス帳その他の必要なデータは、USBメモリーに保存した。

 その上で、マニュアル本に掲載されている要領で、リカバリーを実行した。購入時に戻すと、インターネットエクスプローラはIE7に戻り、動画も見られなくなった。なにしろ、パソコンは初心者レベルである。いちいち相談しないとできない。また、サポートセンターに相談して、プログラム更新を繰り返した。その結果、IE9が入り、動画も見られるようになった。

 まだ、セキュリティーが外されたままだ。NTT西日本に連絡して、これも四苦八苦しながらやっと、セキュリティーを入れてもらった。

 なれない作業で、悪戦苦闘した結果、なんと、フリーズトラブルは見事に解消された。まだハードディスクは壊れていなかったようだ。サポートセンターの支援のお陰である。
 ただし、USBメモリーに全部移したはずのデータのうち、写真の保存されていないファイルがいくつもある。どこへ消えたのか。メモリーに保存するときに、ファイルはすべて保存されたのか、チェックが甘かったのだろう。よくみてひとつひとつ確認すべきだった。それが最大の反省点である。

2012年12月22日 (土)

宮古島探訪、宮古島まもる君

宮古島といえば、交通安全のシンボル的な存在になっている「宮古島まもる君」がなんといっても、有名人?である。警察官型のロボットというか、人形である。探訪しなくても、いたるところでお目にかかる。それで、ついでに、紹介をしておきたい。001 宮古空港に到着すると、もうすぐお出迎えしてくれる。なんか、スゴイ、イケメンである。宮古島と伊良部島、多良間島を含めて、いま合計で19基あるそうだ。いつから設置されたのか、資料によって食い違う。1996年に5基設置されたのが最初と書いている人もいる。「宮古毎日新聞」(2011年1月1日付け)によれば、1991年、宮古交通安全協会が設置したのが始まりだとのこと。だとすれば、もう20年を超えた。当初は、交通安全を訴える立て看板を設置する計画だったけれど、立体型ロボットの方が、ドライバーの注意を引き付けることから、決まったそうだ。

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 島内の交通の要衝に立っているので、車で回っていると、あちこちでお目にかかる。上の写真は、来間島近くのサトウキビ畑の前に立っているものだ。あまり交通は多くないみたいだけどね。

 19基の「宮古島まもる君」は、一応兄弟という設定で、一つ一つ「すすむ君」「いさお君」「こうじ君」とか、名前があるらしい。妹のまるこちゃんもいる。身長180cmというから、背が高い。しかも台の上に乗っているから、よく目立つ。

 塗装は手作業で行っているので、顔立ちはみんな違うという。でも見た限りは、なかなかイケメン揃いだ。宮古島市から特別住民票を交付されたので、いまや一市民でもある。

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 実は、「まもる君」は正規の19基だけではない。上の写真は、砂山ビーチで見かけたものだ。ビーチの出入り口に、移動式パーラーが止まっていた。その運転席に座っている。「これはどなたが作ったものですか?」と店主に尋ねると「はい、私が作った手製のまもる君です」との答えが返ってきた。

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 なんか、制服も警察官と少し違う。表情が憂いを帯びた感じだ。
 「宮古島まもる君」は、いまや宮古島のスーパースター。文房具から携帯ストラップ、泡盛その他、キャラクター商品がたくさん出回っている。土産物店を回ると、関連商品であふれている。「宮古島まもる君のうた」までできている。

 「まもる君」は交通安全でもとくに「飲酒運転根絶」をアピールしている。本島以上に離島は飲酒運転が多いのかもしれない。

 ただ、島内をドライブした印象では、宮古島はとてもゆっくり走っている車が多い。ついつい、「もう少し早く走ってよ」と言いたくなるほど。飛び出しとかあるので用心してゆっくり走るとも聞く。もしかして、安全運転は「宮古島まもる君効果」なのかもしれない。

2012年12月21日 (金)

宮古島探訪、平和の犬川

平和の犬川

平良港のすぐそばにある漲水御獄(ピャルミズウタキ)の近くに「ニブス川 平和の犬川」という碑があった。「平和の犬川」とはなんだろうか。何かいわれがありそうだ。しかし、説明を書いた案内板などなにもない。「平和」という言葉は、あまり古いものではない感じがある。

114     「ニブス川 平和の犬川」の碑の前にコンクリート製の井戸らしきものが見える

 よくわからないまま、写真だけ撮って、旅行から帰ってきた。宮古に行く前に図書館で予約していた『みやこの歴史―宮古島市史第一巻通史編』がようやく借りられた。読んでいると、思いがけなく「犬川」の記述に出会った。もしかしたら、これが由来かもしれない。市史を発行している宮古島教育委員会に問い合わせをした。教育委員会の職員が、突然の問い合わせにかかわらず、「犬川」の由来を書いた資料をファックスで送ってくれた。忙しい中で、問い合わせに親切にこたえていただいたことに、感謝したい。

資料を読むと、やはり、『みやこの歴史』の記述にある物語が、「犬川」の由来であった。その部分をかいつまんで紹介する。

宮古島が争乱の時代、いまから600年以上前、14世紀のことである。

目黒盛豊見親(メグロモリトゥユミャ)は、智・仁・勇をそなえ持つ人だった。当時、与那覇原(ヨナハバラ)の作多大人(サータオフヒト)は、至極無道で諸村を攻略することをなりわいとしていた。
 
 作多大人が豊見親のところへ来て、これから先、非を改め「和睦し、共に太平を楽しもうぞ」と言った。その意を歓迎したが、帰路の様子をうかがわせると、目黒盛を打ち滅ぼすと話していたので、城郭を堅固にし用心していた。ある時、作付の時期に城内に人が少ないのをみはかり、作多大人が攻めてきた。城中が危うく見えたので、豊見親は城門を開き打って出て戦ったが、ついに漲水の磯辺まで追い詰められた。

100            漲水御獄の説明板。犬川のことは書かれていない 

 豊見親が自害しようとしたとき、敵陣がざわめきだし蜘蛛の子を散らすように乱れだした。不思議にもこれは7年前に行方知らずとなった豊見親の飼い犬が、洞の中から躍り出て敵兵の中を縦横無尽に駆けて、吠え、噛み廻っていて、その猛けきことは虎のようであった(犬の出た洞を今も犬川=インガー=といっている)。
 
 豊見親がこれに力を得て残りの兵たちを率いて切りかかるときに、異変を知った豊見親の救援兵たちが諸方から駆けつけて打ち重なって攻めてきたので、作多大人はその勢いにおそれて囲いを解いて逃げ帰るところを、豊見親の遅参の兵たちが先を遮って、三方から囲み散々に攻め立てた。これで十行(一行とは百人の単位)の兵の7,8割は滅びてしまった。作多大人は残兵とともに逃げのびたが、ある夜、おびただしい物音がして、与那覇原の兵どもは暴死した。これによって諸方の兵乱はおさまりようやく島内が鎮まった。

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 この記述は、宮古島の歴史書である『宮古島記事仕次』(『平良市史』第3巻)の内容に概ね、そっている。『宮古島記事仕次』では、犬の飛び出したところは、次のように表現している。

「七年の以前豊見親の飼犬行衛なく失けるか只今洞の中より吠いてゝ大勢の中を縦横無碍に噛ミ満ハる其猛き事虎のことく是に當るもの脛をかみ砕かれ足を喰切られ馳めくる事飛ぶがごとし犬の出し洞を今に犬川と名つく大勢犬のふるまひ尋常ならず神の助なるへしと少しいろめく(略)」

つまり、洞から飛び出した豊見親の飼い犬の大活躍で、窮地にあった豊見親は救われ、作多大人・与那覇原との決戦に勝利して、争乱の宮古島を平定したのである。

宮国定徳著『宮古の史跡文化財』でも、「犬川」を史跡として紹介している。この著書は、豊見親が追い詰められた時の様子を次のように記述している。

「漲水の浜辺まで追いつめられた。ときに目黒盛は『吾は争乱の宮古を統一して平和な島づくりをと思いしに武運拙なく…』慨嘆して岩陰で自刃しようとしたときに洞穴から二頭の猛犬が飛び出して…」

この著書によれば、目黒盛は「争乱の宮古を統一して平和な島づくり」を願っていたと解釈している。窮地にあったとき、飛び出した犬の大活躍で勝利できたので、その結果、宮古島は平定され、争乱は鎮まり、島は平和になったということになる。この両雄の決戦は、宮古の歴史にとってはとっても重要な意味を持っている。

こうした経過から「犬川」が、とくに「平和の犬川」と命名されたのだろう。資料を読むと、その由来がなんとなく納得できた次第である。

2012年12月20日 (木)

宮古島探訪、大神島

大神島

池間島からグラスボートに乗った。海中のサンゴを見るためだ。サンゴの美しいポイント、ポイントで船を止めて海中を見せてくれる。広大なサンゴのお花畑もあった。200種類ともいう、多様なサンゴに目を見張った。

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池間大橋の下をくぐり、大神島の近くまで行った。大神島は、狩俣の北東4キロに浮かぶ小さな島だ。大神島の名前はよく聞く。民謡にも歌われている。島にはいま、どれくらい住民がいるだろうか。船長さんに伺った。「島にはいま、18人住んでいるよ。おじい、おばあばっかりだけど。学校もないし。生活物資は、定期船で運んでいるよ」

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 島の周囲は4キロほど。人頭税の取り立ての厳しかった時代には、免税を許されたが、島の名産となる干鮹(ヒダコ)だけは供出を命じられたそうだ。

『沖縄県の歴史散歩』が記すところである。

大神島に入るには、公務の用事がある人以外は、島の中に知人をもつことが必要条件だとのこと。それは、かつて海賊キットの埋めた宝がこの島にあると島中を掘り返したり、古代信仰の様式を今に伝えている「祖神祭(ウヤガン)」のとき、強引な訪問者がいたことから、立ち入りを制限しているそうだ(同書)。

「漲水(パルミズ)のクイチャー」という人頭税廃止をテーマとして民謡にも、大神島が登場する。人頭税廃止の国会請願のため上京した農民代表が東京から帰り、人頭税廃止が実現すれば、どんなにうれしいことだろうか、という庶民の気持ちを歌っている。

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          大神島

 訳文でさわりを紹介する。

「♪漲水の港の底にある白い砂が、粟になり、米になって上ってくるように、島は豊かになるだろう、島全体の男たちは、今からはピラ(農具、ヘラ)やクワをとる仕事もあまりしないで、楽をするだろう」

「♪大神島近くあるフデ岩に打つ寄せる波が、糸になり、反物になって上ってくるように、島に住む女たちは、糸紡ぎをしないで、丈布織りもしないで楽をするだろう」

「宮古島探訪、人頭税」のところでも書いたように、琉球王朝の時代、宮古島は15歳から50歳までの、男女は所得に関係なく、人間の頭割で税金を課す人頭税のもとで、苦しめられた。男は、粟の上納が基本で、女性は反布を上納しなければいけなかった。

琉球王府が廃止された後も、この古い人頭税制は残された。

この民謡は、人頭税がなくなれば、漲水の港の白い砂が、粟になり米になって上ってくるように、豊かになり、男達は暮らしが楽になると歌う。

大神島近くの岩に打ち寄せる波が、糸になり、反物になって上がってくるように、島の女性たちは、糸紡ぎ、機織りからも逃れて楽になるだろうと歌っている。

「漲水のクイチャー」には、明治維新で世の中は変わったはずなのに、人頭税による重税はまったく変わらず、時代錯誤の旧慣温存政策によって苦しめられていた宮古島の庶民、農民たちのほとばしるような解放への願いが込められている。

2012年12月19日 (水)

宮古島探訪、池間島

池間島

 宮古島の北端に、池間島がある。池間大橋でつながっている。橋は長さ1773㍍ある。エメラルドグリーンの美(チュ)ら海の上にかかる。「橋はもう成人式を迎えたよ」。グラスボートに乗ると、船長さんが教えてくれた。開通して20年になるのだ。

 島は周囲12キロ㍍ある。宮古諸島の中でも、独特の言語や民俗があり、「池間民族」という言葉さえある。

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先日、宮古島の神歌、古謡を追った映画「スケッチ・オブ・ミャーク」を見た際、池間島の由緒ある大主御獄(ウバルズウタキ)での祈願の様子が描かれていて、興味深かった。訪れてみたいと思った。でも船長さんに聞くと「あの御獄は入れないよ。よその人だけでなく、地元の人間も普段は入れない」という。それだけ、神聖な場所というか、大切な聖域なのだろう。

狭い池間島からは、その昔、伊良部(イラブ)島に移住して開拓した歴史がある。

耕地は限りがあるので、南方の対岸にある伊良部島佐良浜(サラハマ)に、何回か「島分け」(分村)、移住して新しい村をつくった。だから、池間添、前里添など、池間の地名を付けたところがあるという。

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          西平安名崎から池間大橋と池間島を望む

「池間の主」という古くから歌われている民謡がある。歌詞が面白い。和訳で紹介する。

♪大きな太陽と月は上がってくるのは一つのところから、私たちの主と親母(奥さん)との思いは一つ

♪池間の主は、首里大屋子(島の頭職)になり、池間目差(役人)は池間の主になる。やさしい武佐親(ムサオヤ、役人の子の名)は間もなく目差になるだろう

♪池間の主は金持ちで、驚くばかりの富貴だ。母屋も台所も造られ、俵を積み上げている

♪池間の主はたくさんの荷物を積める頑丈な船を持つ。船子を数えてみたら7名もいた

♪私も池間の主だったら、離れ島の領主だったら、池間の主の宿にいる賄い女、ミガガマの料理を食べてみたい

♪実家にいたころのミガガマは、花咲いて美しかったかれど、大親の家に行ったら

灰かぶりの猫みたいだ

♪灰かぶりの猫だろうと、灰かぶりの犬だろうと、大親主の心に従っていればよい

 平良重信著『解説付宮古民謡集』を参考にした。

歌い初めは、池間の主や役人らを褒め称えている。だが、池間の主から可愛がられている賄い女ミガガマを、実家にいたころは花咲いていたのに「灰かぶりの猫」になったとからかっている。

池間の主に寵愛されるミガガマを、周囲の若い娘たちがうらやんでこの歌になっているという見方がある。でも、役人の賄い女は、役人の任期が終わり帰ってしまうと捨てられる宿命にある。

『沖縄県の歴史散歩』では、「役人の妾などにはなるなよ。任期が終わって帰ってしまったら、宿付メガカマは灰まみれのみすぼらしいネコになるぞ」と歌い、「役人への直接の罵倒を避けながら、風刺のきいた反骨のリズムを高らかにぶつけている」歌だと解釈している。私的には、後者の解釈の方に説得力を感じる。

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 宮古島には、「アララガマ精神」がある。つらいことや困難があっても「ナニクソ」と立ち上がる精神である。だから、権力の理不尽な振る舞いに対して、ただ嘆き悲しむのではなく、反骨や風刺、不服従や抵抗でこたえる精神が根付いている。人頭税廃止のたたかいは、その典型である。民謡にもそれを反映する曲がいくつもある。

2012年12月18日 (火)

宮古島探訪、友利のあま井

友利あま井

来間島から東平安名崎に向かい車を走らせていると、なにか史跡の案内板のようなものが見えてきた。よくわからないままに、細い道路を入っていくと、それが「友利あま井(カー)」だった。

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 自然洞窟の湧水である。降り口から湧水の出ているところまで、深さが20㍍ほどもある。洞井としては規模が大きく、水量も豊かだという。『擁正(ヨウセイ)旧記』には、やはり「洞井であるが掘年数不明」と記されている。

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上からのぞいてみると、驚くほど巨大な洞窟が口を開いており、底までは長い階段を降りなければいけない。各地で井泉を見てきたが、これほど大きくて深い洞穴の井泉は初めてである。階段をゆっくりと降りてみる。降りながら、こんな深さでは水を汲んで運ぶのは、大変な重労働だったことだろうと思わせる。

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 井泉から水を汲み運ぶのは、女性の仕事とされていた。あま井に降りる石段の側壁の岩には、手で支えて登ったために、磨滅してしまったところが数カ所あり、当時の苦労がしのばれるそうだ。明和の大津波(1771年)以前は、友利、砂川、新里の各元島(集落)住民が共同で利用していたという。水量も多いからそれだけ、広範囲な住民に利用されたのだろう。

1965年(昭和40)に旧城辺(グスクベ)町の上水道が普及する以前は、この湧水が住民にとって飲料水をはじめ、生活用水として貴重だった。

ただ、宮古島の井泉は、いまでは飲料には適さないという。それは、宮古はサトウキビをたくさん栽培しており、農薬も使うので、地下水が農薬に汚染されているから、飲料には向かないらしい。

2012年12月17日 (月)

アルテで「命口説」を歌う

 今年最後のアルテ・ミュージック・ファクトリーが15日夜あった。今回のテーマは「忘」。忘年会の季節である。いやなことは忘れ、大事なことは忘れないことも意味する。沖縄民謡では、「忘」がつくのは、恋唄で、「愛する人が忘れられない」などと歌った曲が多い。もう一つ、平和の島唄でも、「あの悲惨な戦を絶対に忘れるな」という曲がいくつもある。

 同じ歌三線では、sonoさんが竹富島の「仲筋ぬぬべーま節」を歌った。きれいな高音を響かせ、さすが教師の資格を取った唄者ならではだった。
 この曲は、竹富島の与人(村長格)が水がめと御用布の原料、苧麻を得るため、隣島の新城島の与人、新垣と交渉し、新垣がその代償として、賄女を要求した。これに応じた竹富の与人は、村番所に勤めていた幸本山戸の娘、ヌベマに新城島に行くことを命じ、幸本も仕方なくヌベマを送った。あとから、可愛い娘を送らなければよかったと後悔したという。こんな哀史を歌ったもの。

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 sonoさんは、曲の解説で、竹富島を訪れた際、ヌベマの生まれた幸本家の子孫がいまもいて、水がめもあることを紹介した。やっぱり、民謡に歌われた物語は、架空のものではない。実在のモデルがいる。歴史は生きていることを、またも実感した。

 Tさんは「二見情話」を歌った。この曲も、沖縄戦のあと、名護市二見の収容所にいた照屋朝敏さんが、その思い出を歌った曲。「戦場の哀りはいつか忘れられるだろうが、二見の美しさは忘れられない」と歌う。平和の願いが込められている。

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 味わいのある三線と歌でさすがだと思った。Tさんは、ギターアンサンブルにも出演している。両刀使いである。

941 私は「命口説」(ヌチクドゥチ)を選曲した。沖縄戦をテーマにした平和の島唄としては出色の作品である。RBCラジオで「民謡で今日拝なびら」を50年にわたって放送している上原直彦氏の作詞である。意訳した歌詞を紹介する。

1、過ぐる戦争を思い出すと 身の毛もよだつ恐ろしさだ

  この世の地獄であったのだ

2、日の丸を掲げ、竹槍に命を預けた国の為に

 エイヤエイヤと勤めはげんだ

3、天皇に忠孝尽くし信じていた、島人みんなの命と体をかけて

 守り守ったことだった

4、艦砲射撃が雨あられと降り注ぎ、惜しくもわが生まれ島はさんざんに

 火の海、火の山となってしまった

5、命をただ一つ引っさげて、沖縄の島尻から中頭、国頭と

 逃げて逃げ回ったことは忘られない

6、海山川の形まで、変わり果ててしまったわが沖縄

  どうしてくれたのだろうか、神さま、仏さまは

7、あのガマこのガマと隠れて、命がようやく助かりもうけたことだ

  でも親兄弟、子や孫まで、散りじりになってしまった

8、いかに物を言わない草木だって、命あるため焼かれれば

  ああ、あわれ、あわれと泣かないことがあろうか

9、戦争を起こしたのは何のためなのか、戦争を始めたのは誰だったのか

  神の仕業か人のなせることか
  (注・神には現人神といわれた天皇を含むのかも)

10、戦世をしのぎ、みるく世(平和で豊かな世)を迎えると思えば

  あれこれと国がゆさゆさ揺れる、危ういことが果てしない

11、幾年月日がたとうとも、沖縄の人はこぞって、あの戦争のことを

  子や孫に語りつぎ、いつまでも忘れるなよ 命口説

 ホールが変わってから、前よりは落ち着いて歌えるようになった気がする。三線も簡単な旋律の繰り返しとはいえ、あまり間違わずに弾けた。
 「とてもよい歌詞ですね」「歌っている表情がよかったよ」との感想をいただいた。

 

 ツレは、ギター伴奏で石川さゆりが歌った「朝花」を歌った。シンガーソングライターの樋口了一さんが、奄美大島で聞いた「朝花節」をモチーフにして作詞作曲した。今は亡き夫を偲び、一人で生きていく女性を描いた曲だ。

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 演奏が難しい曲で、ギターの音が小さくしか弾けないので、歌もマイクなしの地声でうたった。情感のこもった歌声に、会場も静かに聞き入っていた。

 

 

2012年12月14日 (金)

宮古島探訪、プトゥラガー、大和井

井泉を訪ねる、その2。プトゥラガーと大和井

 大川のそばに「大和井」の案内板があった。実はこの場所には、二つの井泉がある。その一つが「プトゥラガー」。自然のウリガー(洞井)である。ウリガーは、一般には上り下りの通路に石段を設ける程度で、多くは自然のまま利用しているという。

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 「プトゥラガー」もその一つで、洞穴の階段を下りると水が湧く場所である。ここは、一般の庶民が使用した井泉である。068


 王府時代は、琉球社会は役人・士族と一般平民という階級に分かれていた。この井泉は庶民が使い、大和井は、庶民には使わせなかった井泉である。

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 大和井

 「プトゥラガー」から右方向に行くと、大和井(ヤマトガー)がある。1720年ごろに掘られたと考えられている。井戸の周りには、大小の切り石を円形に積上げてあり、上り下りの通路にも石段が設けられえいる。かなり深い井戸だ。072_2

 伝承によれば、「在番役人や頭などごく一部の上層役人たちだけが占用し、庶民には開放されなかった」という。

 かつては、井泉にいたるまでに2カ所の門があって、水守りがいたという言い伝えがある。それにしても、門番を置いて見張っていたとは、いかにも役人が威張っていた王府時代の権威主義的な対応である。076

 別の言い伝えもある。「伝承によれば、その工事の功労者と目される人物は役人の手で殺されたという。人民の力の結集に対する支配層の恐れがそうさせたのであろうか」。『沖縄県の歴史散歩』は、このように記述している。

案内板は「南島の人々と水とのかかわりあい、石工技術の見事さを示す石造遺跡として類例がないものである」とのべている。おそらく、これだけの見事な石積みの井泉は宮古島では他にないのだろう。ただし、沖縄全体を見れば、首里など、同規模の石積みの井泉はいくつかある。071_2

 それにしても、宮古に派遣されていた王府役人は、大和人というわけではない。それなのになぜ「大和井」と呼ばれるのだろうか。「大和の名の由来は、井戸に構築に携わった者が大和人だったのか、薩摩から派遣された役人が使用した井戸という可能性もあり、興味深い」と説明板には記されている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

宮古島探訪、大川(ウプカー)

井泉を見る、その1。大川(ウプカー)

宮古島は、山がなくて平坦な島だから、水が貴重だ。湧水が頼りである。戦後、上水道が普及するまでは、「うりがー(洞井)」を中心に集落をつくり、暮らしをたてていたという。逆にいえば、集落のあるところには井泉がある。短い旅の間に、いくつかの井泉を訪ねた。なんか、宮古島では、お墓と井泉ばかり見て回った感じがある。

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市街地の北に、名高い大和カーがある。その前に「大川(ウプカー)」を見た。橋の上に案内表示があるが、降り方がわからないので、すぐそばの家にいたおばさんに尋ねた。「大川にはどこから降りればいいですか?」「ウプカーね。うーん。どこから行くのかねー。草が生えているよ」となんか要領を得ない。すぐそばなのに、もう住民の暮らしにとって、あまり必要ないようだ。「あの家の後ろに回ればなんか道があるんじゃないかなあ」とか言って、回ってみると、すぐ降りる道がわかった。

丸く円形の石積みがある。草はそうとう高く生えている。

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この井泉は、飲料用ではなく、牛馬専用だという。宮古旧記の一つ『擁正(ヨウセイ)旧記』には、「掘年数不明」「この井は牛馬の用水である」(稲村賢敷氏訳)と記されている。1717年には補修工事がなされているから、その前には存在していたという。牛馬は当時の人々の暮らしにとって、重要な労働力だった。井泉は数多くあるが、牛馬専用を目的とするものは極めて稀だという。

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確かに、沖縄本島で、たくさんの井泉を見たが、たいていの井泉は、飲料からイモや野菜洗い、洗濯と水浴び、さらに牛馬の飲用と洗い、農業用水と多面的に使うようになっていた。この「大川」が牛馬専用となっているのは、私見であるが、すぐそばに二つの井泉があるから、用途を分けたのかもしれない。 

戦後は、水道が普及し、牛馬の飼育も激減して、「大川」を利用することもなくなり、いつしか土砂に埋もれていた。2004年に、文化財総合整備事業の一環として発掘し、約50年ぶりに全体の様相がわかるようになったという。 

2012年12月13日 (木)

宮古島探訪、平安名のマムヤ

マムヤの墓

宮古島の東端に突き出した東平安名崎(ヒガシヘンナザキ)には、灯台の近くに巨石がある。「マムヤの墓」と伝えられる。

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 マムヤはニフニリ(香草の名)の芳しい香りのする絶世の美女として伝えられる。妻子ある野城按司(ヌグスクアジ)は、マムヤを見染めて恋仲になるが、「将来の事を思えばマムヤよりは、糞尿の臭いがしても妻のほうがいい」と諭されてマムヤを見捨てる。按司の心変わりを知ったマムヤは平安名崎(ヘンナザキ)の断崖から身を投じた。悲嘆にくれた母親は、再びこの村に美しい娘が生まれないように神に祈願した。

 以上は、説明板の記述である。民話では、少し違った内容もある。マムヤは、宮古島の生まれではなく、平家の逃げ延びた一族だという話もある。そういえば、描かれた肖像画は、ウチナー美女ではなく、大和的なうりざね顔の美女である。

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巨石は、いつのころからか、マムヤの霊を弔う「マムヤの墓」といわれるようになった。巨石の東側が、ポッカリとガマのようになっていて、マムヤの碑や絵が置かれている。ここから400㍍ほど西側には、マムヤが機織りをしたという岩穴がある。「マムヤの機織り場」は残念ながら見られなかった。

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「平安名のまむや」

マムヤを歌った宮古民謡がある。「平安名のまむや」である。「平安名ぬまむやあやぐ」という人もいる。

次のような歌詞である。

♪平安名ぬマムヤ 新生(アランマ)り女童(ミヤラビ) 

 野城按司や崎山の坊や

♪遊(アス)び好どやりば 踊(ブド)ず(すの上に。がつく)

 殿(トヌ)やりば 遊びんななつき 踊ず(同)んななづき

♪平安名と通い荒場ど通い 通たず(同)がよてんど 

 行きたすがよてんど

♪マムヤやにすみやい あぱらがかとりやい にすみやいきからや 

かどりやいきからや

♪平良道(ピスサランムツ)さあり上り 親んう宗根(ゾネ)

 さあり上り 道出(ンムツイデ)るらマムヤ 座ば出でるらマムヤ

♪道出ばのすうで 座ば出では如何(イキア)さまでが 

 子(フファ)ぬ 母(ンマ)と見本(ミムト)ぬ主と見やさて

 ♪子ぬ母と見やしばど 本ぬ主と見やしばど 

  子ぬ母の香(カザ)や 大小便(フスゥユツパス)ぬ香どす

♪美女が香やにニフニズ(同)ぬ香どす 今(ンナマ)ぬ事を

 思うちか マムヤとますよ

♪後ぬ事思いば 子ぬ母どますよ

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 和訳すると次の意味である。

♪平安名村のマムヤ(美女)素晴らしい生まれの美童 

 野城の按司は 崎山の坊(童名)

♪遊び好きであるから 踊る殿であるから 遊びにかこつけて

 踊りにかこつけて

♪平安名村に通い 平安名の荒場に通い 通ったゆえに 

 行ったがゆえに

♪マムヤに心が染まり 美人と一身になって 

 染まりついてからは 一身になってからは

♪平良の道をともに上り 親宗根(道)をともに上り 

 道をでなさい マムヤ座を出なさいマムヤ

♪道を出たら何する 座を出たら如何されるか 

 子どもの母と 身元の主と見比べする 

 ♪子どもの母と見比べたら 身元の主と見比べれば 

  子どもの母の匂いは 大小便の匂いがする

 ♪美女の匂いは ニフニス(モロコシ草・とっても香ばしい

  匂いのする草)今の事を思ったらマムヤがよい

♪後の事を思ったら 子どもの母がよい

 歌詞と和訳は、平良重信著『解説付宮古民謡集』から紹介した。

 

2012年12月12日 (水)

宮古島探訪、宮古上布

宮古上布

人頭税といえば、宮古島では女性は反布の貢納を強制された。そこには、幾多の哀史が刻まれている。そんな伝統を受け継ぎ、宮古上布を織っている様子を見たいと思って、宮古伝統工芸センターを訪ねた。市役所近くで、市街地のど真ん中なのに、表通りには面していなくて、看板も目に付かず、やっと辿り着いた。この場所は、王府時代の政庁・蔵元のすぐ裏にあたり、かつて貢布座があったところだという。

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 宮古上布を実際に見ると、極細の糸で織られた薄い布地で、予想以上に繊細な織り物である。センターの二階に上がると、機織りの作業も見ることができた。若い女性たちが、何人も作業していた。彼女たちが、宮古上布の伝統を継承している。

製造工程をビデオで見せてくれた。苧麻を刈り取り、茎の皮を剥ぎ、水に浸し、外皮を除いて繊維を集め、細かく裂いて糸を紡ぐ。糸を藍で染め、乾燥させる。縦糸、横糸を使って織り上げていく。大雑把に言えば、こんな工程だが、実際はじつに複雑で気の遠くなるような作業である。労苦のほどがしのばれる。

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 宮古上布を初めて作ったのは、稲石という女性だった。洲鎌(スガマ)という地区の与人(村長格)だった夫・真栄が、王府の進貢船を遭難から救い、「頭(カシラ)」の地位に栄進したことに感激し、恩に報いるため精巧な綾錆布(アヤサビフ)という麻織物を献上した。国王はこれを讃え、真栄を親雲上(ペーチン)という位につけた。稲石はその製法を近隣に伝えたという。16世紀末ころのことらしい。いまでも稲石を讃える「稲石祭」が行われ、宮古上布の継承と発展を誓っている。

その後、藍染の細やかに織られた上布など反布は、首里王府にとって人頭税の重要な財源として、生産から上納まで厳しく管理し、貢納させた。

                             

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人頭税は、15歳から50歳の男女に、粟と反布が割り当てられた。平民女子の3分の1が織り子となり、3分の2は糸紡ぎなどに従事させられた。各村に反布の割り当てが来る毎年7月、8月頃から、女たちは番所内の「苧績屋(ブンミャー)」と呼ばれる織坐にこもり、昼夜の作業が続いた。

とくに20ヨミ、18ヨミという最も細い麻糸で織る上布は、糸を紡ぐのも容易ではなく、織るのもとても困難な作業だった。絵図が複雑なものは、一反を織るのに、2、3カ月かかり、割り当ての3反を織るのに180日もかかったという。

同じ女性でも士族と農民では、大きな違いがあった。「士族の子女は染めの必要のない白布、農民は最も手間のかかる17ヨミ以上の紺細上布が貢納布だった」(「琉球新報」1993年11月21日、「タイムスリップin琉球、宮古上布」)

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1893(明治26)、人頭税下の宮古を訪れた笹森儀助は、村番所内の織坐(苧績屋)を見た。精巧な反布を織っている様子について、小屋は「薄暮の如し」暗さで、「其の苦使せらるる現況は、他府県懲役人にも劣る事、数等なり」。つまり、苦役のような現況は、他府県の監獄の囚人にも数段劣る、と表現している。

織り上げても、役人の厳しい検査に合格するまで安心できない。しかも、権威を背景にした役人が、目を付けた女性をわがものにしようとする振る舞いも横行した。

宮古民謡「豆が花」には、そんな情景が歌われている。

目差主(メザスシュ)という役人が、17歳の娘に目を付け、前里の親父に「俺にくれ」と求める。「娘は身分が違います」「まだ子どもです」と断るが、「俺の言うことを聞かなければ、20ヨミの細物を織らすぞ」と脅すが、「細物を織らされても娘はやらない」と拒否する。役人の横暴ぶりとそれに抵抗する気高い父親、娘の姿が歌われている。

1903年、人頭税が廃止されてようやく、女性たちは苦役から解放されて、宮古上布も自由生産、自由販売となった。

 

人頭税関係の挿絵は「人頭税廃止100周年人頭税資料展」冊子から借用した。

 

2012年12月11日 (火)

宮古島探訪、保良の偉人・平良真牛

保良の偉人、平良真牛

 人頭税に苦しめられていた宮古島の農民たちが、ついに立ち上がって1893年(明治26年)、官憲らのよるの妨害を乗り越えて、当時としては画期的な国会請願まで行い、悪税の廃止に道を開いた。

新潟出身の中村十作や那覇から来ていた城間正安らの援助があったとはいえ、宮古農民の決起なくして人頭税廃止運動は成り立たなかった。農民代表として、国会請願に行ったのは、砂川間切(マギリ、いまの町村)保良(ボラ)村に生まれた平良真牛(タイラマウシ)と同じ間切の福里村生まれの西里蒲(カマ)の2人だった。

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今回、宮古島に旅したさいは、人頭税廃止の記念碑ほか史跡を見たいと思った。でも、予定の2日目午後は大雨となり、今回は残念ながら見られなかった。ただし、宮古島出身で宮古民謡の名手、Hさんが、保良の出身なので、保良に立ち寄った。Hさんのお兄さん宅を訪ねて、真牛のことについても少し聞いた。それで、平良真牛のことを紹介しておきたい。

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平良真牛は1859年、保良村に生まれ、妻マツとの間に2男1女がいた。保良出身なので、通称、保良真牛とも呼ばれた。1893年当時、村の戸数は135戸、人口768人で士族は30人だった。平良家の収穫高は、粟9俵2斗、小麦3俵をはじめ、黍(キビ)、豆、胡麻の合計13俵7斗余だった。税金としての上納粟は夫婦、妹、長男の4人で、合計7俵余にのぼった。粟だけでみると、2俵余りしか残らないことになる。

真牛とともに上京した西里蒲の場合は、もっと過酷だった。西里家の収穫高は、粟8俵、小麦6俵をはじめ、黍、豆、胡麻の合計18俵2斗だった。夫婦、長男、下男(2人)の5人で、上納粟は16俵2斗だった。西里蒲は「一年の収穫をあげて悉(コトゴト)く納めても、なお不足なるを以ってその不足分は全島民と共に、更に来年度まで延期を請願するつもりなり」とのべるありさまだった(『城間正安伝』)。

 

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薩摩の支配下にあった琉球王府はすでに廃止されたのに、過重な人頭税は明治中期にもそのまま温存されていた。そのなかで、人頭税廃止ののろしがあがった。役人による厳しい支配が続く宮古社会のなかで、人頭税廃止を叫び、その先頭に立って行動することは、とても勇気のいることだっただろう。

上京する農民の代表に選ばれたのは、平良真牛と西里蒲の二人だった。旧城辺(グスクベ)町教育委員会の作成した「人頭税廃止100周年人頭税資料展」では、平良真牛は保良村総代、西里蒲も福里村総代とされている。

かれらが、上京して島政改革を帝国議会に請願し、内務省にも建議書を出した。新聞社にも広く訴え世論にアピールするなど、果敢に行動した。こうした運動が実って、その後、政府を動かし、最終的に1903年、人頭税は廃止された。西里、平良両氏は偉大な功労者である。

ところが、宮古島に帰って以後の平良真牛は、農民には歓迎されたが、役人からはにらまれたと聞く。それは、人頭税時代は、役人が税を割り増しするなど、甘い汁を吸っていたのに、そうした役得を損なうからである。

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真牛は、帰島後の1894年、集会条例違反で逮捕され罰金20円に処せられた。そればかりか、帰島後すぐに“フーブク”された。「フーブク」とは封じ込められること。

以下は、「沖縄タイムス」1987年11月7日付「とどろけ!人間賛歌」から紹介する。

「役人によってサルカやアダンの幹で門を閉じられ、一種の軟禁状態になった。農民には喜ばしいことでも、役人には望ましくなかったのだろう」。親族の砂川盛英さんはこう語っている。

「東京に行って貧乏になった。フーブクもあったし、九頭の牛も役人にとられた。働きもできず、隠しておいた食糧を倉から出して食べていた。私が嫁入りしたころは貧乏だった」。真牛の二男と結婚した平良マツさんは、こう語っている。不遇な暮らしを強いられたそうだ。1939年74歳で亡くなった。

しかし、西里蒲と平良真牛の名前は不滅である。「人頭税廃止のあやぐ」にも、真牛が歌われている。

「♪保良真牛が沖縄上り参(くみや)まば 宮古皆の 三十原(みそばら)の男達(ぴきりやた)やピラとらだ 金(かに)うさぬ富貴(うやき)すうま」

「保良真牛が沖縄(東京)上りして使命を達せば、宮古三十カ村の男達は、ヘラや鍬(農具)をとっての人頭税の労苦も免かれ、富貴の世になるだろう」 

 

 

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宮古島市鏡原の馬場で、各地から集まった農民たちが、この「人頭税廃止のあやぐ」を歌い踊ったという。その鏡原馬場にも記念碑があり見たいと思ったが、時間がなく探しきれなかった。「真牛を記念するものは何もないはずよ」と聞いたけれど、生誕地の碑はあるようだ。

人頭税関係の挿絵と写真は「人頭税廃止100周年人頭税資料展」冊子から借用した。

2012年12月10日 (月)

改憲は戦世への道

 総選挙の投票が迫っている。自民党は政権奪還の勢いだという。首相への返り咲きを狙う安倍総裁は「国防軍」創設を打ち出し、憲法9条をはじめ改憲の野望をもっている。第三極といわれる日本維新の党は、党首の石原慎太郎はじめ橋下徹氏らも、勝るとも劣らない改憲派である。

 民主党も改憲派が多く、前原誠司氏らは「改憲して自衛権明記を」と公言する。改憲派は、日本が攻撃されていなくても海外で武力行使ができる「集団的自衛権の行使」をこぞって叫んでいる。

 総選挙で、これら改憲派が多数を占めれば、改憲の野望が現実味を帯びてくることになる。改憲派はまた、15年戦争を「自衛の戦争」として、他国への侵略の歴史をまったく反省しないばかりた正当化する。

 沖縄戦で未曾有の惨状を味わい、戦後は米軍による占領と広大な米軍基地の重圧下にある沖縄では、憲法改悪への強い警戒をもつ。それは、日本が戦後、まがりなりにも他国の人々を殺したり、国民が戦死することのない平和のうちに暮らすことができたのは、憲法9条に象徴される平和と民主主義を保障する現憲法があったからである。

 改憲されて、「国防軍」創設、国民の基本的人権の制限などに突き進めば、いまでも自衛隊基地が多い沖縄は、八重山など先島をふくめ沖縄への軍隊配備はさらに強化され、「国防軍」の名のもとに大手を振って県民を威圧するようになるだろう。

 普天間基地の辺野古への移設のごり押しといっそうの日米同盟強化に進むだろう。軍隊の海外派兵が拡大し、アメリカが行う海外での戦争に、ともに協力することにもなるだろう。こんな、海外への派兵と武力行使は、沖縄が拠点とされることになるのは間違いない。

 改憲は、日本が再び「戦争する国、できる国」への道を進むことになる。
 しかし、日本が他国の人々を殺したり、国民が殺されたりすることを望んでいる人はほとんどいない。改憲勢力の野望を決して許してはならない。

 再び「戦世(イクサユ)」の道を繰り返すことはゴメンである。それは圧倒的多数の県民の声である。

2012年12月 9日 (日)

宮古島探訪、人頭税石

人頭税石(ニントウゼイセキ)

豊見親墓から近くの荷川取(ニカワドリ)に、人頭税石がある。大人の背丈に近い143㌢㍍の高さがある。この石で住民の背丈を測って、この高さになると税金をかけたという伝説がある。077

 1921年(大正10)に宮古島を訪れた民俗学者の柳田国男が、この石を「ぶばかり石(賦測石)」と称し、人頭税の賦課に使われた伝承を著書『海南小記』で紹介しているという。

宮古島は、琉球王国が薩摩に侵略された後の1637年、八重山諸島とともに人頭税制が施行された。人頭税は、貧富によらず、人間の頭数を基準に税金を課す。前近代的な悪税として名高い。男性は粟、女性は宮古上布を納めることとされた。宮古では、1710年には、年齢によって15歳から50歳を基準として課せられた。

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一年の収穫物の大半を租税として徴収され、「一滴の酒、一片の肉」さえ買えないだけでなく、自分が作った粟さえ口に入れられず、サツマイモで露命をつなぐ状態。収穫物で納めても足りなければ、馬や豚を売って納めた。それも納められず縊死(首つり死)する者もあった。『城間正安伝』から意訳して紹介した。

貢租を滞納すると村番所で「かし木」という一種の拷問を受けたという。

税金は、本租だけでなく、本租より多いほど付加税があった。しかも、役人の数がとても多く、上層役人は免税された。士族の負担は平民の約半分にすぎず、負担の大部分が百姓・平民にのしかかった。

 琉球王国が廃止され、沖縄県になってからも、長く旧慣温存政策で残された。悪税の存続に抗議して、宮古農民が立ち上がり、1893年(明治26)、国会請願まで行い、ようやく廃止に至った。実際の廃止は、10年後の1903年(明治36)だった。

 

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人頭税を象徴するように見られるこの石柱も、実際に人頭税の賦課に使われたのかどうかはよくわからないという。説明板は「何故、この石柱が『ぶばかり石=人頭税石』と呼ばれたのか定かではありませんが、人頭税が年齢による以前、即ち役人の見立てで税を賦課されていた頃、或いはそれ以前に『あの石の高さ程になると税賦課される』という目安のようなものであったかもしれません」と記している。また、「屋敷神」「陽石」「図根点」など多くの説が出されているとのことである。

実際に、石柱を見ると、意外に背丈が高い。沖縄の人たちは大和人(ヤマトンチュ)より少し背が低い。だから、15歳でも、この高さにならない人もいただろう。だから、石柱は実用性からいっても疑問を感じる。では、どういう用途に使われたのかは、まったく判断材料がない。ただ、この石が人頭税の賦課に使われていないとしても、この稀代の悪税の残酷さにはまったく変わりない。石を眺めていると、石柱が人間の姿に似ているので、人頭税の過酷さを石に重ねて「人頭税石」の伝説が生まれたのではないだろうか。そんな気がしてくる。

 

 

 

2012年12月 8日 (土)

宮古島探訪、久松みゃーか(巨石墓)群

久松みゃーか(巨石墓)群

 宮古島市の市街地を少し南に行くと、久松に出る。ここには、「みゃーか(巨石墓)群」がある。久松では古くから「ぶさぎ」と呼んでいる。14~16世紀の創建と推定される。かつては多数あったけれど、現在確認できるのは4基であるという。

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 付近を見て回ったが、確かに巨石が並べられているが、もう墓の形には見えない。がじゅまるがうっそうと茂っている。残念ながら、専門家の説明を受けないとよくわからない。

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宮古の民俗、歴史の研究者である稲村賢敷氏は、「宮古在来の風葬墓地で、15世紀末ごろまで巨大なものへと発達、その後沖縄本島の影響をうけて横穴式へ移行」したと見ている。金子エリカ氏は、「1360年ごろから元・明動乱をさけて、優秀な技術をもって大陸から渡来した一群の人々によってつくられた」という見解だという。

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久貝ぶさぎは、仲宗根豊見親(ナカソネトゥユミヤ)の夫人の父親の墓と言い伝えられている。仲宗根豊見親のころに宮古の石造建築物は著しく発達したとみられる。

以上は説明板から要約して紹介した。

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私的には、稲村氏の見解に説得力を感じる。巨石だからといってすぐ渡来人と結び付けるのは疑問に思う。

2012年12月 7日 (金)

宮古島探訪、大立大殿みゃーか

 ホテルから平良港に向かって歩いていると、交差点に何かコンクリートの擁壁に囲まれた構造物が見えた。「なんだろう? 観光案内地図ではこんな場所に何も書かれていないし」と思って近づいてみた。裏側に石段がある。登ってみると巨石が並べられている。

「大立大殿みゃーか」の案内板があった。15世紀に、宮古島の主長をつとめた大立大殿(ウプダティウプトゥヌ)恵幹の墓と伝えられている。道路整備で、周囲が掘り下げられたので、2㍍ほどの高台でお墓を残したそうだ。

           

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 墓は、巨石で方形の石室を造り、上部に一枚の墓石を被せて、石室周囲には巨石で外郭を設けている。

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 大立大殿恵幹は、本島の中山王に初めて朝貢した与那覇勢頭豊見親の孫にあたり、第一尚氏の7代目の尚泰久から宮古島の主長に任じられたという。先に墓を見た仲宗根豊見親は、まだ空広と呼ばれていた7歳のころから、養育し17歳のころには政務をとらせていた。恵幹亡きあとは、空広が中山王(尚円)から主長に任じられたという。

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以上は、説明板の要約である。これをみると、宮古島では白川、忠導両氏の二大系統が対立していて仲宗根豊見親が宮古を平定したように、思っていたが、そうでもないようだ。すでに、白川氏系統の恵幹が、忠導氏系統の空広を養育し、政務もとらせたというからである。この2大系統が、支配勢力として共同して、民衆の上に立ち統治していたのだろうか。宮古の歴史をもう少し学んでみたい。

2012年12月 6日 (木)

宮古島探訪、漲水御獄

 平良港のすぐ近くに漲水御獄(ハリミズウタキ)がある。宮古方言では「ピャルミズ」と読む。古くから人々の尊崇があつい拝所である。

 宮古の創世神が天下りした聖地だという。「往古天地開びゃく人類未生以前に恋角、恋玉という男女の二神、漲水のに波打涯に天降りして、一切の衆生を生み成して上天せられたという古伝に依って御獄をつくり、二柱の神を祭った所である」と『御獄由来記』に記されている。
つまり、宮古島ではもっとも神聖な拝所ということになるだろう。

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人蛇婚説話もある。住屋の里(市役所一帯)に美しい娘がいた。結婚もしないのに身ごもり、親がただすと若者が夜な夜な訪れ、夢みる心地になり、いつの間にか懐妊したという。若者が来たとき、麻糸を付けた釣り針を髪にさし、翌朝たどると漲水御獄のイビ(神殿)の洞穴に大蛇がいた。やがて娘が若者の予言の通り3人の女児を生み、3歳になって御獄に連れていくと、大蛇は喜び昇天した。3人の娘は御獄内に入って島守りの神になったという。

 

 「人蛇婚説話にいろどられ、古代宮古人の源流をさぐる上からも注目されている」と説明板に書かれている。宮古の中世に、宮古島を二分する勢力だった目黒盛豊見親が祭政一致のまつりごとをとり、神域を定めたことから人々の信仰心はいっそう高められたそうである。

 南側の石垣は、目黒盛豊見親から5代目の玄孫にあたる仲宗根豊見親が、1500年に、首里王府に反乱を起こした八重山のオヤケアカハチを征討するため、王府軍に参加して先導していったさい、「神霊の加護を祈願、戦勝記念に築いた」そうである。

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 宮古の御獄は、どこでも鳥居がある。戦前、大和化がすすめられた際、御獄には鳥居が建てられたのだろう。石垣島も、鳥居があった。沖縄本島の御獄には、鳥居は珍しい。古いいわれのある拝所なのに、御獄というより神社の風景に見える。

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  すぐ横にも拝所がある。線香とともに豆腐のような物が供えられていた。宮古では、豆腐をお供えするのだろうか。

 ここにも、いつの間にか、猫が1匹、2匹と現れた。「あんたたちも、御獄の守り猫なのかい」と声をかけたが、返事はなかった。

                             

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 近くには、漲水石畳道があった。1696年大地震のあと土木工事の一環として、石畳道は二間半に拡張され、治山事業で得られた石を切り敷き詰めた推定されている。旧藩時代の政庁である「蔵元」が近くにある。その南側にそって漲水御獄前から祥雲寺という寺の北東の辻まで続いていた。その後の築港や道路工事などで損傷し、いまは少ししか残っていない。

   

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 石畳道のそばに小さな拝所があった。「水の神(龍宮)」「豆腐の神」「唐の主」と記されている。「水の神」は船の航海安全を祈ったものだろう。「唐の主」とは、唐は中国の代名詞だから、中国から渡来した人で祀られるような由来があったのか、よくわからない。「豆腐の神」も、わからない。島では豆腐を大切にしていたことの表れだろうか。

 

 

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 もうひとつよくわからない碑があった。「ニブス川」とあり、その下に「平和の犬川」と記されている。意味不明!水が少なかった宮古では、井泉はかけがえのない存在だ。拝所の前に、井戸のようなコンクリート製の円形の物がある。たぶんこれが、井戸なのだろう。線香がたくさん並んでいるから、住民にとって大切な場所だったことは確かだ。それにしても、「平和の犬川」の名前もなにかいわれがありそうだ。極めてローカルな拝所なのでわからないことばかりだ。

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 この付近の昔の様子を描いた絵があった。中央下が漲水御獄であり、その左上は蔵元である。その奥には、祥雲寺がある。

2012年12月 5日 (水)

宮古島探訪、豊見親墓

豊見親墓

 宮古島で最も有名な墓といえば、豊見親墓である。豊見親(トゥユミャ)とは、宮古地方の名高い首長という意味である。張水海岸にあり、3つの墓から構成されている。
 
 一つは「仲宗根豊見親(ナカソネトゥユミャ)の墓」で、15世紀から16世紀にかけて、宮古の首長をつとめた忠導氏一門が祀られている。

 二つは「知利真良(チリマラ)豊見親の墓」で、仲宗根豊見親の三男で元祖とする宮金氏一門の墓。子孫の寛富が1750年頃造ったと伝えられている。

 三つは「あとんま墓」で、忠導氏の継室が祀られている。

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 説明文によると、これらの墓の特徴は、墓の入り口の正面に「つんぷん」(ひんぷん)があることと、墓室の上部に短い石柱が立ち並んでいることである。石柱の上端には凹状の欠きこみ部があり、祭祀のときは、凹部の部分に桁木をのせ、梁をかけ、屋根を覆うことができる。このような、独特な構造の墓は、県内他の地域ではみられず、貴重なものである。

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仲宗根豊見親の墓(上写真)

 仲宗根豊見親が父親の真誉之子豊見親の霊を弔うために築造したと伝えられている。墓の構造は、宮古在来の「みゃーか」の形式と沖縄本島の形式を取り入れた折衷の形となっている。この時期におけり宮古と本島との石造技術の交流を示す墳墓である。外観は、前庭部を石垣で囲み、墓室外面は階段状に仕上げ、上端に石柱列を設けてある。内部は円形になっており、直径6㍍、高さ2㍍余のほぼ10畳ほどの広さである。

 宮古の支配者として、仲宗根豊見親は1500年、八重山のオヤケアカハチの乱の鎮圧に首里王府軍の先導をつとめ、また島内においては、井戸、道路、橋梁などの開削をすすめたことで知られる。

 沖縄各地で名高いお墓を見ても、階段状の石積みの墓は見たことがなかった。なんか、一見、中米のピラミッドを思わせるところがある。なぜ、こういう石積みになったのか、不思議だ。ただ残念なのは、石積みの上を、セメントで固めたようになっているので、石積みそのものが隠されていることだ。049
 ラジオ沖縄で、赤瓦ちょうーびんさんが、お墓など見るときには、「『今日はお勉強で来ました。失礼します』と挨拶をしてから入ってください」とよく話しているので、必ずそのように、挨拶してから入ることにしている。

 お墓を見ていると、どこからともなく猫が現れ、じーと見つめている。動かない。「あんたはお墓の番をしているのかい」と呼びかけてきた。それでも、動かないで、見守っている様子だった。

 

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 16世紀初期に宮古を支配した仲宗根豊見親を元祖とする忠導氏の氏族の継室(アトンマ)だけを葬ったので「アトンマ墓」と呼ばれている。

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 忠導氏は、数多くの頭職を出し、勢力・財力を誇った系統である。その勢力・財力を背景に、宮古の風習として本妻と同じ墓に葬ることのできなかったアトンマの墓を設け、その霊を弔ったものと思われるということである。

 

 

それにしても、本妻ではない継室のお墓が豊見親の墓の隣にあるのは、興味深い。本島では継室の墓というのは見たことがない。「知利真良豊見親の墓」は、すぐそばにあるけれど、残念ながら見れなかった。

 

 

2012年12月 4日 (火)

ジョン万次郎の上陸記念碑を建立へ

 中浜万次郎(ジョン万次郎)が10年余過ごしたアメリカから帰国する際、上陸したのが琉球だった。上陸地の糸満市大渡海岸に記念碑を建立しようと11月21日、同市米須コミュニティセンターで、記念碑建立期成会設立総会が開かれた。

 大渡海岸には、万次郎の上陸地を示す木の杭があるだけだった。万次郎は当時、鎖国の日本に帰ると、禁を破ったので処罰される恐れがあり、よくよく研究して、当時は薩摩の支配下にあったとはいえ、独立した王国だった琉球を上陸地に選んだ。
 
 半年間、現豊見城市翁長で過ごした後、土佐に帰り、さらに江戸に行って幕府の通訳として活躍した。当時の欧米の事情をはじめ、民主主義の政治制度なども伝え、幕末の志士らにも大きな影響を与えた。そんな活躍も、琉球への上陸が起点となっている。その意味で、上陸地の記念碑を建立することは、大きな意義があるだろう。
 この碑建立の期成会設立については、米須に住む高知県出身の和田達雄さんの熱心な関係者への働いかけ、努力があったと聞いている。万次郎と同郷の高知人として、和田さんの熱意と行動に感謝したい。記念碑の建立はもろ手を挙げて歓迎する。
 幸い、糸満市の市長も「市としても相談してバックアップしたい」と語ってくれているという。心強いことである。
 もっと早く、ブログでもアップしたいと思ったが、この2週間ほど、パソコンのトラブルで、回復のために悪戦苦闘していて、遅くなった。やっと、なんとか回復したのでアップする。

2012年12月 3日 (月)

宮古島探訪、四島の主の墓

宮古島探訪

 宮古島に一泊二日の短い旅をした。宮古島は、由緒ある史跡や興味深い民俗がたくさんある。といっても、ごくさわりぐらいしか見ることができなかった。短時間回った中で、訪れた史跡と井泉をいくつか紹介した。

 

四島の主の墓(ユスマノシュノハカ)

 宮古島の北に突き出た半島に狩俣の集落がある。ここには、「四島の主の墓」といわれている墓がある。「四島の主」とは、狩俣、島尻、大神、池間村落の支配者の俗称である。このうち二つは半島にあり、池間島はいまは橋がかかっているが、大神は離島である。「四島の主の墓」といわれるものは四カ所あるそうだ。この墓はその一つである。

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県道から丘の上に登った場所に見えてきた。丘陵上からは島尻、大神、狩俣、池間の4村落が遠望できる。この墓の構造は、周囲には石積みの外部が二重にめぐらされ、南南西に向かって一枚岩をのせたアーチ門が築かれている。墓室は一室で墓口が2つ設けられている。

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説明板がある。それには、以下のようなことが書かれていた。

 「擁正旧記」(宮古の古い史書)には、「昔、狩俣村四島の親童名百佐盛と申す人は狩俣、島尻、大神、池間あわせて四カ村壱人にてかけ候に付き、四島之親と為申由候」と記されている。

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また、「四島の主のあやぐ」には「何かからが如何からが親なたよ、墨からど筆からど親なたよ」と歌われており、「四島の主」は文筆にすぐれていたことがうかがわれる。

 「四島の主」は、仲宗根豊見親の支配下にあって、仁政を施したが、その業績としては、狩俣・島尻を結ぶ「渡地橋」構築のほか、農道の改修、狩俣・平良間の休憩所設置及び井戸の掘削などが伝えられている。

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 琉球を統一した第一尚氏最後の国王だった尚徳王が、金丸のクーデターで王位を奪われ宮古島に逃げ延びたという伝説があるそうだ。1469年後半で29歳だった尚徳は、狩俣の人々に農作物の栽培を教え、井戸を掘って水を確保したり、道路や広場を整備して信頼を得ていた。狩俣の祖神祭(ウヤーン)を改革した。村内で秀れた人物の呼称「世勝=ユマサイ主」と呼ばれて尊敬されていた。狩俣、島尻、大神、池間の4村を統治したので「四島ぬ主」と呼ばれたという。狩俣吉正さん(前連合沖縄会長)の『狩俣民俗誌』で書かれている話だ。ただ、にわかには信じられない。

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