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2012年12月 6日 (木)

宮古島探訪、漲水御獄

 平良港のすぐ近くに漲水御獄(ハリミズウタキ)がある。宮古方言では「ピャルミズ」と読む。古くから人々の尊崇があつい拝所である。

 宮古の創世神が天下りした聖地だという。「往古天地開びゃく人類未生以前に恋角、恋玉という男女の二神、漲水のに波打涯に天降りして、一切の衆生を生み成して上天せられたという古伝に依って御獄をつくり、二柱の神を祭った所である」と『御獄由来記』に記されている。
つまり、宮古島ではもっとも神聖な拝所ということになるだろう。

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人蛇婚説話もある。住屋の里(市役所一帯)に美しい娘がいた。結婚もしないのに身ごもり、親がただすと若者が夜な夜な訪れ、夢みる心地になり、いつの間にか懐妊したという。若者が来たとき、麻糸を付けた釣り針を髪にさし、翌朝たどると漲水御獄のイビ(神殿)の洞穴に大蛇がいた。やがて娘が若者の予言の通り3人の女児を生み、3歳になって御獄に連れていくと、大蛇は喜び昇天した。3人の娘は御獄内に入って島守りの神になったという。

 

 「人蛇婚説話にいろどられ、古代宮古人の源流をさぐる上からも注目されている」と説明板に書かれている。宮古の中世に、宮古島を二分する勢力だった目黒盛豊見親が祭政一致のまつりごとをとり、神域を定めたことから人々の信仰心はいっそう高められたそうである。

 南側の石垣は、目黒盛豊見親から5代目の玄孫にあたる仲宗根豊見親が、1500年に、首里王府に反乱を起こした八重山のオヤケアカハチを征討するため、王府軍に参加して先導していったさい、「神霊の加護を祈願、戦勝記念に築いた」そうである。

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 宮古の御獄は、どこでも鳥居がある。戦前、大和化がすすめられた際、御獄には鳥居が建てられたのだろう。石垣島も、鳥居があった。沖縄本島の御獄には、鳥居は珍しい。古いいわれのある拝所なのに、御獄というより神社の風景に見える。

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  すぐ横にも拝所がある。線香とともに豆腐のような物が供えられていた。宮古では、豆腐をお供えするのだろうか。

 ここにも、いつの間にか、猫が1匹、2匹と現れた。「あんたたちも、御獄の守り猫なのかい」と声をかけたが、返事はなかった。

                             

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 近くには、漲水石畳道があった。1696年大地震のあと土木工事の一環として、石畳道は二間半に拡張され、治山事業で得られた石を切り敷き詰めた推定されている。旧藩時代の政庁である「蔵元」が近くにある。その南側にそって漲水御獄前から祥雲寺という寺の北東の辻まで続いていた。その後の築港や道路工事などで損傷し、いまは少ししか残っていない。

   

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 石畳道のそばに小さな拝所があった。「水の神(龍宮)」「豆腐の神」「唐の主」と記されている。「水の神」は船の航海安全を祈ったものだろう。「唐の主」とは、唐は中国の代名詞だから、中国から渡来した人で祀られるような由来があったのか、よくわからない。「豆腐の神」も、わからない。島では豆腐を大切にしていたことの表れだろうか。

 

 

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 もうひとつよくわからない碑があった。「ニブス川」とあり、その下に「平和の犬川」と記されている。意味不明!水が少なかった宮古では、井泉はかけがえのない存在だ。拝所の前に、井戸のようなコンクリート製の円形の物がある。たぶんこれが、井戸なのだろう。線香がたくさん並んでいるから、住民にとって大切な場所だったことは確かだ。それにしても、「平和の犬川」の名前もなにかいわれがありそうだ。極めてローカルな拝所なのでわからないことばかりだ。

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 この付近の昔の様子を描いた絵があった。中央下が漲水御獄であり、その左上は蔵元である。その奥には、祥雲寺がある。

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