「汀間当」で歌われた請人・神谷の子孫は神谷幸一氏だった
名護市の東海岸にある汀間を舞台にした民謡「汀間当」(ティーマトウ)は、役人と村娘の恋唄として、よく演奏される。琉球王府の時代、神谷親雲上(ペーチン)厚詮が、王府の御用品を収納する役人・請人(ウキニン)として、久志間切(クシマギリ、いまの町村にあたる)汀間村に派遣された。
村の美人、丸目加那(マルミカナ)と恋仲になり、夜ごと浜に降りて逢引していた。それを、村の青年たちが見ていて、はやし立てる様子が歌われている民謡である。
ところが、請人・神谷の子孫にあたる人がいた。それも沖縄民謡界の重鎮である神谷幸一氏だという。これは「琉球新報」2012年12月21日付、小浜司氏が書いた「島唄を歩く、花咲く島のダンディー神谷幸一」で、紹介している。小浜氏に、請人・神谷との関わりを聞かれて、神谷氏は次のように答えている。
「幼い時、祖父がそんなことをつぶやいていたのを覚えている。先祖御願(ウガン)に首里へ行く時もあったし、系図調べたら7代目にあたるかな。最近の話だけど、汀間(名護市)の神あしゃぎを改築して、落成式に我々メンバーが呼ばれて嘉例(カリー)つけることができた。せっかくだから戦前の部落の井戸跡を拝まねばと、ごちそうも準備した。不思議なことに、土砂に埋まって跡形も無いはずの井戸がすぐに発見できた。それを見たユタ(注・巫女)が驚いて、この人(神谷厚詮)が降りてきて、「ありがとう」と言っている、首里まで来てくれた、丸目加那に向けて「やっとここに来てくれたんだ」と伝えているよ、と言われた」
系図まで調べたというので、神谷幸一氏が「汀間当」の請人・神谷の子孫にあたるのは間違いないようだ。
「♪汀間当安部境ぬ 河ぬ下ぬ浜下りて 汀間ぬ 丸目加那と請人神谷と
恋の話 ふんぬかな ひゃ誠かや」
(汀間と安部の境、井戸の下、浜に下りて汀間の 丸目加那と請人神谷との
恋の話 本当かな 真実かな)
歌は4番まで続く。二人の逢引は村の青年に暴露される。はやし立てられていたたまれなくなった神谷は、首里に帰っていく。年が明け4,5,6月頃になれば呼びに来るから待っていてくれ、と言うが、迎えはない。
「残された丸目加那は涙にくれて、ついに首里まで上ったが、神谷が家族と暮らす現実に落胆し帰郷。そんな彼女を村はく迎えた」と小浜氏は書いている。
神谷幸一といえば、小浜氏が「花咲く島のダンディー」と評しているように、民謡界でもイケメンであり、歌の上手さも抜群である。請人・神谷も、女性にもてるタイプのダンディーだったのだろうか。
それはともかく、古い民謡で歌われている人物と出来事は、ほとんど絵空事ことではない。みんな、実在の人たちであり、現実の出来事が歌となって残されている。そのことを改めて痛感する。しかも、その人たちの血を受け継いだ子孫が、いまも現存している。それも神谷幸一氏のように、民謡界の名高い唄者であることに、驚いた。歴史は生きているのである。
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