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2012年12月 3日 (月)

宮古島探訪、四島の主の墓

宮古島探訪

 宮古島に一泊二日の短い旅をした。宮古島は、由緒ある史跡や興味深い民俗がたくさんある。といっても、ごくさわりぐらいしか見ることができなかった。短時間回った中で、訪れた史跡と井泉をいくつか紹介した。

 

四島の主の墓(ユスマノシュノハカ)

 宮古島の北に突き出た半島に狩俣の集落がある。ここには、「四島の主の墓」といわれている墓がある。「四島の主」とは、狩俣、島尻、大神、池間村落の支配者の俗称である。このうち二つは半島にあり、池間島はいまは橋がかかっているが、大神は離島である。「四島の主の墓」といわれるものは四カ所あるそうだ。この墓はその一つである。

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県道から丘の上に登った場所に見えてきた。丘陵上からは島尻、大神、狩俣、池間の4村落が遠望できる。この墓の構造は、周囲には石積みの外部が二重にめぐらされ、南南西に向かって一枚岩をのせたアーチ門が築かれている。墓室は一室で墓口が2つ設けられている。

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説明板がある。それには、以下のようなことが書かれていた。

 「擁正旧記」(宮古の古い史書)には、「昔、狩俣村四島の親童名百佐盛と申す人は狩俣、島尻、大神、池間あわせて四カ村壱人にてかけ候に付き、四島之親と為申由候」と記されている。

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また、「四島の主のあやぐ」には「何かからが如何からが親なたよ、墨からど筆からど親なたよ」と歌われており、「四島の主」は文筆にすぐれていたことがうかがわれる。

 「四島の主」は、仲宗根豊見親の支配下にあって、仁政を施したが、その業績としては、狩俣・島尻を結ぶ「渡地橋」構築のほか、農道の改修、狩俣・平良間の休憩所設置及び井戸の掘削などが伝えられている。

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 琉球を統一した第一尚氏最後の国王だった尚徳王が、金丸のクーデターで王位を奪われ宮古島に逃げ延びたという伝説があるそうだ。1469年後半で29歳だった尚徳は、狩俣の人々に農作物の栽培を教え、井戸を掘って水を確保したり、道路や広場を整備して信頼を得ていた。狩俣の祖神祭(ウヤーン)を改革した。村内で秀れた人物の呼称「世勝=ユマサイ主」と呼ばれて尊敬されていた。狩俣、島尻、大神、池間の4村を統治したので「四島ぬ主」と呼ばれたという。狩俣吉正さん(前連合沖縄会長)の『狩俣民俗誌』で書かれている話だ。ただ、にわかには信じられない。

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