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2012年12月 7日 (金)

宮古島探訪、大立大殿みゃーか

 ホテルから平良港に向かって歩いていると、交差点に何かコンクリートの擁壁に囲まれた構造物が見えた。「なんだろう? 観光案内地図ではこんな場所に何も書かれていないし」と思って近づいてみた。裏側に石段がある。登ってみると巨石が並べられている。

「大立大殿みゃーか」の案内板があった。15世紀に、宮古島の主長をつとめた大立大殿(ウプダティウプトゥヌ)恵幹の墓と伝えられている。道路整備で、周囲が掘り下げられたので、2㍍ほどの高台でお墓を残したそうだ。

           

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 墓は、巨石で方形の石室を造り、上部に一枚の墓石を被せて、石室周囲には巨石で外郭を設けている。

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 大立大殿恵幹は、本島の中山王に初めて朝貢した与那覇勢頭豊見親の孫にあたり、第一尚氏の7代目の尚泰久から宮古島の主長に任じられたという。先に墓を見た仲宗根豊見親は、まだ空広と呼ばれていた7歳のころから、養育し17歳のころには政務をとらせていた。恵幹亡きあとは、空広が中山王(尚円)から主長に任じられたという。

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以上は、説明板の要約である。これをみると、宮古島では白川、忠導両氏の二大系統が対立していて仲宗根豊見親が宮古を平定したように、思っていたが、そうでもないようだ。すでに、白川氏系統の恵幹が、忠導氏系統の空広を養育し、政務もとらせたというからである。この2大系統が、支配勢力として共同して、民衆の上に立ち統治していたのだろうか。宮古の歴史をもう少し学んでみたい。

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