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2013年1月

2013年1月30日 (水)

消えた「オリオン・リッチ」

 沖縄で飲むビールといえば、なんといってもオリオンビールである。県産品だからというのはもちろん、ビールは工場から最も近いところで飲むのが旨いといわれる。それからいっても、本島で製造し、名護工場から直送されるオリオンは鮮度も一番だ。

 といっても、晩酌用に飲むのは、オリオンの中でも「第3のビール」といわれるジャンルの「オリオンリッチ」を愛飲していた。それは、値段が安いからだけではない。リッチと銘打っているだけあって、ドラフトビールではないのに、味わいがあった。具志堅用高がコマーシャルに登場していて、よく宣伝もしていた。Img_1197
 なのに、今年に入り「リッチ」を買いにスーパーに行くと、棚にズラッと並んでいる各銘柄のビール類のなかに、リッチがない!

 たまたまこのスーパーは在庫を切らしているのかもしれない。別のスーパーに回った。なんと、こちらもない。「うーん。なんかの都合で、在庫がなくなっているのか」。念のためにもう一つ別のスーパーに回った。やっぱりない。「これは偶然ではない。やっぱりない。なんかの都合で生産が止まっているのだろうか?」。Img_1201
 おなじオリオンでも、いくつか他のラベルのもあるが、色々飲んでもリッチにはかなわない。あきらめて、よくテレビで宣伝している別のメーカーのものを買った。飲んでみたが、あまり旨くない。

 ツレがとうとうオリオンビールに電話して聞いてみた。なんと答えは「リッチは製造を中止しました」という。その原因は「売れ行きが悪いから」。そんな馬鹿な。「わが家ではいつもリッチを飲んでいたんですよ」と食い下がるが「新しい『麦の雫』も出ているから、飲んでください」という。「『麦の雫』はとっくに飲んでみたけれど、リッチにはかなわないですよ」とあきらめきれない。でも、もはやどうしようもない。Img_1206

 たまたま、八重岳の桜見物で北部に行ったので、ついでに名護市のオリオンビールの工場に、「オリオンハッピーパーク」ができて、展示や工場見学もできるので立ち寄った。しかし、工場直売でも、リッチは当然ない。
 わずかに、これまでオリオンが販売してきたビール類の展示があり、その中に「オリオンリッチ」「リッチスタイル」の姿をとどめているにすぎなかった。リッチを復活してほしい。
 写真はすべて「オリオンハッピーパーク」。

2013年1月28日 (月)

「平成の沖縄一揆」、画期的な東京行動

 沖縄へのオスプレイ配備撤回など求めて、県内41全市町村長、議長(代理含む)、県民大会実行委員会の代表者らが26,27日、東京で繰り広げた集会、政府要請などは復帰後最大規模の行動となった。「平成の沖縄一揆」の声も出た。Img010
   写真は約4000人が参加した東京集会。新聞写真を使わせてもらった。

 市町村長、議長には様々な政党、政治信条の持ち主がいるが、全員が一致してこうした行動に立ち上がるのは、他の都道府県でもないことだろう。オスプレイの配備と飛行訓練によって住民は日々、危険にさらされている。嘉手納基地にはさらに危険といわれる空軍の特殊作戦用オスプレイ配備の計画があることに、県民みんなが不安と怒りを募らせている。その「オール沖縄」の声を政府、アメリカにぶつけようと結集した、まさに画期的な行動である。

 行動には、参加していないので、テレビ、新聞で知るだけだが、政府に提出する「建白書」も歴史的な文書となるだろう。
 「この復帰40年目の沖縄で、米軍はいまだ占領地でもあるかのごとく傍若無人に振る舞っている。国民主権国家のあり方が問われている」と厳しく指摘している。そして①オスプレイの配備撤回、嘉手納基地への特殊作戦用オスプレイの配備計画を撤回すること②米軍普天間基地を閉鎖・撤去し、県内移設を断念することを求めている。

 ここには、沖縄県民の総意が示されている。集会あいさつでは「県民は基地で飯を食っているわけではない」「基地は経済発展の最大の阻害要因だ」という声が、県市長会会長の翁長雄志那覇市長からも上がった。
 

 政府への要請行動では、当初、上京団と面会するかどうか不明だった安倍首相は、27日、要請を受けることになった。「みなさんの声に耳を傾けながら、基地負担軽減に向けて頑張っていきたい」と述べたようだ。要請の内容にはまったく答えていない。実際には、県民の声はまったく無視されている。負担軽減どころか、負担強化ばかりが進む。

  保守、革新の枠を超えた盛りあがる「オール沖縄」の声を、政府が無視して、オスプレイ配備や普天間基地の辺野古移設をあくまでごり押しするなら、沖縄の怒りのマグマは、さらに大きなうねりになるだろう。、日米安保条約への不信や疑問、米軍基地の閉鎖・撤去の声が党派を超えて広がっていくだろう。そのことを日米両政府は真剣に考えるべきではないだろうか。

 

2013年1月27日 (日)

八重岳桜祭り2013

 日本一早い桜まつり、山原の八重岳桜祭りに出かけた。昨年は、ちょっと早すぎて、あまり咲いてなかったので、桜祭りの開始より1週間遅く出かけた。

Img_1163 ところが、八重岳に車で登りはじめると、もっとも下の部分で、なんと花は少なく、葉っぱが出ているではないか。沖縄のカンヒザクラは、寒い北の方から、それも気温の低い高い所から咲き始め、だんだん南部の温かい方に下りてくる。大和のソメイヨシノとは真逆である。Img_1152

 登っていくと、やはり山の中腹、頂上部は当然、もう満開は過ぎて、葉が出ている木が多い。満開の状態で咲いているは、陽の当らない木陰になる場所ばかりだった。

Img_1162 といっても、満開の桜は、ピンクの色も鮮やかで美しい。青空に映えている。
 桜にはメジロが似合う。少し数は少ないかもしれないが、メジロは花弁にくちばしを入れて蜜を吸っているようだ。
Photo 駐車場まで下りてきて、出店の並ぶところまで歩いて行くと、なんか、立て看板がズラッと並んでいる。

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 「八重岳桜HISTORY」と題して、桜並木が作られた歴史が、一枚に一言ずつ書かれ、23号まで続いていた。読み歩くと、こんな文面だった。
 先の大戦後、アメリカの統治下にあった、ここ八重岳もアメリカ軍が駐留する基地であった。昭和38年(1963)、基地の一部を残して八重岳が返還された際、本部町役所が緑化推進運動の一環として、5年がかりで八重岳の沿道に桜を植栽したのが桜並木の始まり。その後年々整備され、昭和54年(1979)第1回目の桜祭りが行われ、「ひと足お咲きに」をキャッチフレーズに、日本一早い桜まつりが全国に発信されるようになった。
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 このブログでも昨年、2012年2月18日付け「琉球新報」に掲載された、本部町在住の島袋貞三さんの「桜日和」と題するエッセーを紹介しておいた。
  八重岳には、芭蕉敷(バショウシキ)と呼ばれる集落があった。沖縄戦で、山は戦場になり、米軍の攻撃で焼き尽くされ、双方の兵士や住民ら多くの人々が犠牲になった。戦後、郷土の荒廃とすさんだ人の心を癒すにはどうしたらいいのか。1962年に町長になった渡久地政仁さんは、この課題に向き合い、63年、琉米親善委員会で当時の司令官にかけ合い2万ドルを補助してもらった。
 その金で八重岳の入り口から頂上に至る道路に桜の木を植えた。荒れた山だった八重岳を、桜の花によって癒やしの森につくり変えた。芭蕉敷の人たちにも協力してもらい、年々桜の木は増えていった。
 「戦争で犠牲になった人々の慰霊と、これから育っていく子どもたちの将来への希望を込めた桜並木になるように」と渡久地さんは願ったそうだ。Photo_2

 このブログで「八重岳の桜並木の由来、先人の努力について、書かれた案内板などがなにもないのが残念だ。案内板があれば、見物に訪れる人たちにも広く知ってもらうことができる。ぜひ、町、観光協会などで設置を考えてほしいものである」と書いておいた。
 「八重岳桜HISTORY」という割には、ちょっと簡略ではあるが、桜を見に来る多くの人が、桜並木の由来についてほとんど知らないと思うので、知ってもらうためによい企画だったと思う。感謝。 

追記
 
 

山原に畑を作りにいっているUおじいに聞いてみると、桜の木に花ではなく、葉っぱがたくさん出ているのは、満開が過ぎたからではなく、昨年の台風の塩枯れで、花があまり咲かないまま葉が出ている、満開のところは、台風の被害が少なかったところだ、と話していた。

2013年1月26日 (土)

「伊野波の石くびり」を訪ねる

 琉球古典音楽の「伊野波節(ヌファブシ)」や民謡「石くびり」で知られる本部町伊野波の石くびりを初めて訪ねた。「石くびり」とは、石ころ道の坂のことをいう。

Img_1171_2 八重岳の桜を見た帰りに立ち寄った。前にブログにも「伊野波の石くびり」のことを書いたが、実際には見たことがなかった。県道84号線を伊野波入口から北に入ると、伊野波の集落がある。その小高い丘に石くびりがあり、歌碑もある。Img_1172_6

 石畳の道を上がっていくと、道しるべがあった。右に細い石くびりらしい坂道がある。左に行けば、展望台。といっても、どちらからいっても展望台に着くことになる。ただ、この細い道は、階段状の石積みの道になっていて、これが石くびりの昔のままの姿なのだろうか?

 伊野波節に使われた琉歌の歌碑が見えてきた。詠み人知らずの琉歌である。

「♪伊野波の石こびれ 無蔵つれて登る にへやも石こびれ 遠さはあらな」
 (伊野波の石ころ道の坂は 大変難儀な坂道だけれど 愛する彼女と連れだって 語り合いながら行く時は もっと遠くあってほしいと思う)

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 愛し合う伊野波の男性と伊豆味の女性が、伊野波で一夜を過ごし、翌朝、石くびりを語り合いながら登る。峠で別れなければいけない。仲睦まじく歩く石くびりがもっと遠ければ、もっと長く語り合えるのに。こんな思いが込められている恋歌である。

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 展望台は立派だ。それに、伊野波の石くびりと琉歌についての、これまた立派な碑がある。それによると、伊野波は、尚質王代の1666年、伊野波間切(マギリ、いまの町村にあたる)が新設された当時、伊野波は主邑で、船の碇泊地であったという。
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 いまの渡久地港から入江が入り込んでいたと聞く。いまみると、小さな川が流れているくらいで、船がここまで来たとは信じれない。でも、昔は、船が停泊するので栄えたそうである。上の写真は、展望台から見た伊野波の集落である。


 

2013年1月21日 (月)

映画「ひまわり」を見る

 米軍のジェット戦闘機が1959年6月30日、うるま市石川で墜落した事件を描いた映画「ひまわり~沖縄は忘れない、あの日の空を~」を、沖縄市の「あしびなー」で見た。

 米軍占領下でさまざまな苦難を受けながら、県民は復興へ向けて懸命に生きていた時代だ。当時の石川市宮森小学校では、校庭にひまわりの種を植え育て、給食にミルクが配給されだした。その楽しい学校は一瞬にして地獄と化した。戦闘機が住宅地に墜落し、炎上しながら教室に激突した。住民6人、学童11人(後に後遺症で1人死亡)が死亡、210人の学童、住民が重軽傷を負う大惨事だった。操縦士は、脱出していた。

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 宮森小で事件に遭った山城良太は、年老いて娘の家で暮らすが、事件を忘れようとしても忘れられない。傷跡にいまも苦しむ。孫で沖縄国際大学生の琉一が、ゼミ仲間と沖国大のヘリコプター墜落事件、50年余前の宮森小事件の調査とリポート活動に取り組む。さらに、基地と平和を考えるピースフルコンサートの開催を準備する。映画は、そんなストーリーである。

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 上映前に、出演した子どもたちが登壇してあいさつした。子役は、200人の応募者から選ばれた。みんな熱演して、当時の学校や子どもたちと住民の暮らしぶり、そして墜落による悲劇がリアルに描かれていた。

 子役がたくさん出演していることもあってか、観客も子どもが多く、親やおばあちゃんに連れられて来ていた。平和の尊さ、基地があるため繰り返される悲劇の理不尽さが、子どもたちの心にも、深く印象づけられたではないだろうか。


 民謡を愛好するものとして、感心したのは、島唄が効果的に使われていたことだ。

 主人公の良太は、子どもの時から歌三線をたしなむ。映画は、大人になった良太を演じる長塚京三の「屋嘉節(ヤカブシ)」で始まり、最後はコンサートで演奏する「平和の願い」で終わる。

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 「屋嘉節」は、金武町屋嘉にあった捕虜収容所で作られた歌だ。「故郷の沖縄が戦場になり、世の中のみんなが涙を流した」と歌いだす。代表的な平和の島唄である。

 「平和の願い」は「沖縄という島はいったいいつまで戦の世が続くのか、やすやすと暮らせるのはいつのことか」と歌いだす。復帰前の1969年ごろ作られた曲。ベトナムの戦場と沖縄が直結していた時代だ。平和の願いと、復帰によって基地のない平和な沖縄が実現することへの期待が込められた歌である。

 驚いたのは、長塚京三が、みずから三線を弾いて、自分で歌っていたことだ。いっしょに映画を見たツレは、「別の人が歌っているのではないか」と感じたようだが、プロ歌手の歌ではない。映画のために、三線と島唄を習って、これだけ弾けて歌えるとしたら、すごい役者だと感じ入った。

 映画全体でも、音楽と芸能が大事な役割を担っていた。戦後うちひしがれていた人々を、小那覇舞天(オナハブーテン)が「石川数え唄」を歌い、歌と笑いで励ます場面が描かれていた。ピースフルコンサートの開催も、沖縄では古くから苦しいときも、音楽、芸能を力にして乗り越えてきたことを想起して計画したものだった。
 他にも「汗水節」「テンヨー節」「唐船どーい」など島唄が使われていた。
 沖縄だけでなく、全国の多くの人にみてほしい映画である。

 
 

2013年1月20日 (日)

竹富島の世持御獄

竹富島の世持御獄

   石垣島に旅をしたさい、短い時間だが竹富島に行った。島に滞在したのはわずか一時間だった。竹富は小さな島だけど、たくさんの拝所がある。でも、ほとんど素通りせざるをえなかった。見たのは世持御獄(ユームチオン)だけである。
 琉球王府時代の村番所と、村役場のあったこの跡地に、火の神と農耕の神を祀ったのが世持御獄である。


  秋には、国の重要無形民俗文化財に指定されている「種子取祭(タネドリサイ)」が10日間行われる。五穀豊穣と島民の健康繁栄を祈願する島最大の祭り。7日目と8日目は、神事、奉納芸能、世乞い(ユークイ)の行事が夜を徹して行われる。この周囲は、拝所が集中して聖域をなしているため、昔からの森が残されているという。

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 祭りといえば、ミルク神(弥勒菩薩)が登場するが、その際に使われるミルク様のお面を安置する「弥勒奉安殿」もあった。
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  そばには、竹富島唯一の展望台、「なごみの塔」がある。意外にも、ここは平家落人伝説に彩られていた。
 1185年、壇ノ浦の海戦で敗れた平家の落武者、赤山王は遠くこの地、竹富島に漂着し、地の利を占めるここを要害としたとのことである。


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 戦後、1953年に由緒あるこの地が部落に寄贈され、なごみの塔が建設されたとか。塔の右側に「あか山丘」の石碑が見える。 

2013年1月19日 (土)

石垣島の拝所、大浜地区の御獄




大浜地区の御獄

石垣市の大浜地区に、首里王府に反乱を起こした八重山の英雄、オヤケアカハチの立像があるので見に行った。これについては、ブログでもアップしてある。この場所は、ちょうど大浜小学校のあるところだ。それに明和の大津波で大被害を受け、津波で打ち上げられたという伝説のある巨大な津波岩がある。ただ、この岩は、明和の大津波ではなく、もっと昔の大津波で打ち上げられたのではないかと見られる。

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 黒石御獄
 大浜小学校前には、御獄がいくつも並んであった。まるで「御獄通り」のようだ。
 もっとも左側に、黒石御獄(グリシオン)がある。鳥居をくぐると拝殿がある。
 御獄の伝承は途絶えているが、古く黒石村という村があったと言われることから、村の信仰した御獄と推測される。

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 拝殿内に入ってみると、調理場があった。お祭りの際に、使うのだろう。
 「黒石の角皿」という題名で、なにか神歌のような内容を書いた板が掲げられている。「角皿」は「スヌザラ」と読む。各御獄に角皿があるという。
 拝殿を裏手に回るとこんもりした森があり、そこには神が降臨するというイビがある。イビ石を祈願できるのは、ツカサ(神女)だけだという。

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 こちらのイビは、石門は開いていて入れるので、写真を撮らせてもらった。




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大石御嶽
 右隣には大石御嶽(ウイヌオン)がある。旧大浜村の稲福家の伝えによれば、1771年に八重山を襲った明和の大津波で、壊滅状態にあった石垣島の大浜集落を復興させるため、波照間島(ハテルマジマ)から、移住を命じられた稲福、大浜、田盛の三兄弟が中心となり、波照間島の名石集落のブイシワー(大石御獄)から分神を勧請してフルスト原の聖地に祀り、一門の氏神としたのが、このオンの縁起であるという。

 しかし、1950年ごろ、諸事情があって現在の場所に奉遷されたそうである。
 大浜は、明和の大津波で大被害を受けたので、この場所にある御獄もなんらかの関係があるのではないか、と予想はしたが、やっぱり大石御獄には、こんな由来があったのだ。看板は、大石嶽となっている。

 崎原御嶽
さらに右側には、崎原御獄(サキバルオン)がある。ここは、八重山で唯一の鉄器の伝来の伝説をもつ拝所だという。


 上古、大浜に、ヒルマクイ、幸地主カネという兄弟がおり、鉄製の鋤、鍬、鎌などの農具を求めて、鹿児島県の坊津へ行き、買い求めた。その時、白髪の老人が現れ、空の櫃(ヒツ)を渡し、鳴る方向に船を進めよと指示され、無事に帰還できた。伯母、妹に櫃を開けさせると神が乗り移って託宣があり、御獄を建て崇敬するようになった。
 鉄器の農具は、農業生産を飛躍的に発展させるとても重要なものだった。それだけ、りっぱな御獄にもなったのだろう。拝殿の裏はやはり、石門が建てられイビがあった。

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石垣市は『石垣市史 民俗下』など参考にした。

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2013年1月18日 (金)

石垣島の拝所、宮鳥御獄

宮鳥御獄
 桃林寺や権現堂のそばに、由緒ある宮鳥御獄(方言名メートゥリィオン)がある。

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その昔、弱肉強食の時代、石城山(イシスクヤマ)にナアタハツ、平川(ヒサガー)カワラ、妹マタネマシスの三兄弟妹が住んでいた。ある日、神が妹に乗り移り、人間の行うべき正道を教え、慈悲仁愛をもって諸人を愛し、神を敬うべしと託宣があった。神の教えに畏(カシコ)み、ここに一宇を建てて拝所とし、神を崇敬した。また慈悲に愛の心をもって諸人を愛した。兄妹の作物は年々稔り豊作した。人々はこれを見て、次第に集まって村となった。いまの石垣、登野城村がこれだと、伝えられる。400



 この伝承は、御獄でありながら、神の尊崇だけでなく、人間の生きる道、慈悲や愛の心をもって生きる大切さを説いていることが注目される。沖縄の御獄をいくつも見たけれど、現生の人間の生き方を説いた御獄は初めて出会った。
 宮鳥御獄は、石垣の中心部にある四カ村発祥の伝承をもち、字石垣の豊年祭(プーリー)をはじめとする年中行事の舞台となる御獄である。


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 鳥居、拝殿、イビ手前の木造の門(上写真)、石造りのイビ門、イビ内の祠(ホコラ)が南北の軸線上に配置されている。

                             

2013年1月17日 (木)

石垣島の拝所、美崎御獄

美崎御獄
 天川御獄のすぐ西側に、美崎御獄(ミサキオン)がある。御獄の周囲は石垣をめぐらせ、中央部に拝殿がある。


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  もともとは、首里王府に反乱を起こしたオヤケアカハチの蜂起(1500年)のさい、長田大翁主(ナータフージィ)の妹、真乙姥(マイツバ)がこれを制圧した王府軍が本島に帰航するのに、美崎山の聖地にこもって海上平安を一心に祈願し、無事に那覇に凱旋した。それから航海安全の神として崇敬され、御獄となって信仰されるようになった。
 首里王府から派遣された役人の離着任の時、農耕儀礼などに高官や大阿母(ホールザー、神職)によって、拝された。政庁・蔵元が管理し、国家的儀式はすべてこの神前で行われた。公儀御獄(クギオン)と呼ばれた。一般の御獄と異なり、ホールザーを頂点とする七役という組織が存在した。
 庶民が祈願し、豊年祭をおこなうような御獄ではなかったようだ。ただし、現在は、字大川の村拝所として住民の信仰地となっているそうだ。その裏には石門があって、その奥はイビになっている。石門には、しめ縄がかけられている(下)。257




 蔵元の火の神
美崎御獄の境内に蔵元の火の神がある(右)。「八重山島大阿母由来記」によれば、上古、沖縄本島で諸神が集合協議の結果、八重山島守護という任務を帯びて、今帰仁よりオタイカネという神が空から降り、蔵元の火の神として崇敬された。
 当初、1524年、西糖(土木建築家、首里城にある園比屋武御獄石門を建てた)が八重山の頭職となり、竹富島に蔵元政庁を創設したさい、建立したと伝えられる。琉球王国の安定、八重山や蔵元政治の守護を祈るものだったそうだ。その後、石垣島に蔵元が移設されるのに併せて、移された。
 蔵元の構内にあったのが戦後、美崎御獄の境内に移された。

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ユーヌヒヌカン

       美崎御獄の境内には、もう一つ拝殿があった。「ユーヌヒヌカン」である。古くから「ミサキピィナカン」とも呼ばれていた。由来についてはまだ不明だとのこと。ただ、オヤケアカハチの乱のさい、アカハチと対立して首里王府側についた長田大翁主とかかわる説がある。


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 その一つ、オヤケアカハチの乱の時、長田大翁主は崎枝に逃れて、一人の老婆の祀る火の神の下に隠れて危急を脱した。その神恩に感謝して火の神を祀った。もう一つは、やはり長田大翁主が頭職となり、沖縄本島に上国する際に、セジ(霊力)の高い老婆が火の神を祀り、毎日無事帰島を祈った。このような起源で、ユーヌヒヌカンが建てられた。
 

石垣島の拝所、天川御獄

石垣島の拝所

 

石垣島に行ったのは、2011年3月だった。ブログにもいくつか書いてアップしたが、なぜか巡った拝所については、書いていなかった。遅まきながら、アップしておきたい。

石垣市内にたくさんの拝所がある。昔からの御獄は、石垣では「オン」と呼ぶ。たいていは、鳥居があり、それをくぐると拝殿がある。沖縄本島の御獄は、鳥居は少ない。八重山、宮古は、本島以上に、明治以降の大和化が徹底されたようだ。

その奥にまた聖域があって、神が降臨する「イビ」がある。イビのある聖域には、通常は外部の者は立ち入れない。沖縄本島の御獄と少し違う雰囲気がある。たくさんあるので、とても全部は回れない。石垣市街地の登野城(トノシロ)付近にある御獄と大浜地区でいくつかの御獄を見た。

 天川御獄

 天川御獄(アーマーオン)は、古い歴史がある御獄だが、拝殿は真新しい。
                         

 

天川御獄は歴史は古く、伝承では、新城家(アーマーヤ)の祖先で霊験高く篤農家でもあったヌサマ(野佐真)が、アーマーバル(天川原)の霊石を信仰していたことから毎年豊年が続いた。海岸にカイラーギイという漁業施設を作っていたが、霊石に祈願したおかげで、つねに豊漁だった。村人たちも豊年、豊漁の神として尊信するようになったといわれる。

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 首里王府時代には、沖縄本島への貢納船に乗り込む役人の航海安全を祈願する七嶽の一つとされていた。

 
 雨乞いの御願(ウガン)では、登野城全体の雨乞いの御願を一手に引き受けるという。村が供物をささげて祭祀を行う村公事(ムラクジ)御獄である。

 現在も折々の祈願のほか、旧暦6月には豊作への感謝と来る年の豊穣を祈る豊年祭が行われるという。案内板の挿絵(上)では、ミルク様(弥勒菩薩)が「天恵豊」の幟をもっている。

 

 

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 こういう説明を見ると、もともと住民にとっては、豊作、豊年が何よりの願いであり、霊石が信仰を集めたとのことだ。石垣島は、王府時代には人頭税で苦しめられたので、豊年への願いはとくに切実で、豊作だった年は、神に感謝し、税を完納した喜びを祭りで盛大に祝ったという。しかし、役人が航海の安全を祈願するというのは、本来のこの御獄の役割とは異なる。

 
 庶民にとっては、豊作が何より重要な願いであり、役人にとっては、航海安全が一番の願いだったのだろう。祈願する人の立場によって、祈願の内容は変わる。

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拝殿の裏に、石門があり、鉄柵で閉ざされている。その奥にイビがあった(上)。立ち入れないので、門の外から中をうかがった。

2013年1月13日 (日)

アルテで「梅の香り」を歌う

 2013年1月12日、新年最初のアルテ・ミュージック・ファクトリーは、テーマが「始」。みんな新年のあいさつから始まった。今回は、歌三線はエントリーは2人と少なかった。選曲したのは「梅の香り」である。

 梅を育てて初めて咲き始めた梅の美しさ、香りのかぐわしさ、花を咲かせた喜びが歌われている。Img_1105
 歌詞は間違わずに歌えたが、三線は最初の出だしはミスが続いた。でも2番からは落ち着いた。「難しい曲をやりましたね」「私もこの曲を覚えたいんだけどね」など感想が寄せられた。
  歌詞は、1~4番まである。要旨を紹介する。
  「春は花ざかり。いろいろの花が咲いている。朝夕水をかけ、心をこめて育てた梅が咲くのはいつだろうか、奥山の花も季節を待って咲く、梅が咲かないはずがない。さあ咲始めた初花の香りのいいことよ」。043
 西原町小那覇(おなは)出身の、新川嘉徳氏が作詞作曲した。1899年2月10日に生れた新川氏は、14歳でハワイに渡った。一旦帰郷したのは1936年だから、20年余りハワイなど外国暮らしをして、働きながら電気機械工学を学び、蓄音器の針を自動交換する仕組みを発明して特許もとった。帰国してから大阪に住んだ。音楽にも関心を持ち、演奏会なども行っていたそうである。詳しくは、ブログ「歌碑のある風景」にアップしているので見ていただきたい。


 宮古民謡の名手、Hさんは、八重山民謡の唄者、sonoさんとともに「豊年の歌」を披露した。新年のファクトリーにふさわしい曲目で、味わいがある歌声だった。

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 ツレは、年末のギターサンサンブルの夕べで、歌った「花は咲く」。NHKの東日本大震災の復興のテーマソングになっている。今回は、ピアノとハモリで共演してくれる栗田真由さんが
「花は咲く正月バージョン」を編曲してくれた。

Img_1119 イントロで宮城道雄作曲の「春の海」が流れ、「花は咲く」に入る。エンディングは、正月ソング「1月1日」で終わる。楽しいアレンジがされた。

 歌は、二人の呼吸もピッタリ。騒がしかった場内も歌いだすと静まり、最後は「花は花は花は咲く」の全員合唱で終わった。

 年初のアルテは、新しい出演者、飛び入り、数年ぶりの登場などで、最近になくにぎやかで楽しいコンサートになった。

  


 

2013年1月11日 (金)

「島分け」の悲劇と「久場山越路節」、その3

沖縄芝居に使われた「久場山越路節」

 八重山の「久場山越路節」は、沖縄本島の沖縄芝居に使われた。ところが、題名は同じでも元歌とは異なる歌になった。旋律も相当違うので、これはもう題名は同じでも、まったく別の歌の感じがする。

男女掛け合いの恋歌である。次のような歌詞である。

女 衣(ンス)ぬ袖(スディ)とぅやい 我(ワ)がゆ知りなぎな 
如何(チャ)
 ならわん とぅ思てぃ 捨(シ)てぃてぃ いぬんな 

 ヨー里前(サトゥメ)

男 其(ウ)ぬ肝(チム)やあらん 若(ム)しか他所(ユス)
知りてぃ
 世間(シキン)口しばに かからちゃすが 
ヨー無蔵(ンゾ)よ

女 女(イナグ)見ぬなれぬ 義理(ヂリ)恥(ハジ)ん捨てぃてぃ

 焦(クガ)りゆる肝や 里(サトゥ)や知らに ヨー里前

男 嵐声(グイ)ぬあてぃん 靡(ナビ)くなよ無蔵よ 胸内
 (ンニウチ)ぬ 
契(チヂ)り 他所に知らすなよう

男 二人(タイ)が真心(マグクル)ん あだになちなゆみ

女 変わるなよ互(タゲ)に 幾世(イクユ)までぃん 
 ヨー無蔵よ ヨー里前

歌詞の和訳を紹介する。

女 衣の袖を掴まえ 私と知りながら 何とでもなれと思って 
 
捨てて行くのねえ貴方

男 その積りではない もしも他人に知れて 世間の噂に
なったら 
 どうするの ねえお前

女 女の身の習慣の 義理も恥も捨てて 焦がれる心を 
 
貴方は知らないの ねえ貴方

男 誘惑があっても 靡くなよ お前 心の中の契り 
 他人に知らすなよ

男 二人が真心も 無駄にしてはいけない 

女 変わるなよお互いに 何代までも ねえお前 ねえ貴方

本島で歌われた「久場山越路節」は、さらに歌詞が変えられて「桃売アン小(ムムウイアングヮー)」となる。この曲は、私が通う民謡三線サークルの課題曲となっているので、よく歌う。やはり、男女掛け合いで歌う。歌詞は次の通り。

女 桃売やい我(ワ)んね サユン布買うてえくとぅ 
 此りし着物(チン)
縫(ノウ)やーい かなしアヒ小(グヮー)に
 我ね 着(ク)しゆん

女 此りし着物縫やーい 着りぬ余(アマ)ゆくとぅ 我身(ワミ)ぬ

着物ぬ袖(スディ)に 付けてぃ我ね着ゆん ヨー我んね

男 着物どぅ洗ゆるい 布どぅ晒(サラ)するい 水や我が汲むさ 
 
疲(ウタ)てぃや居(ウ)らに イエー 無蔵(ンゾ)よ

女 此りし着物縫やーい アヒ小に着しゆくとぅ 今(ナマ)
からぬ後や
 他所(ユス)とぅ毛遊(モウアシ)び すなようやー

男 誠真実ぬ 形見どぅんやりば 今からぬ後や 他所とぅ毛遊び 
 
我ねすんなあ 

女 云(イ)ちゃんどうやー イェー アヒ小

男 変わるなよ 互(タゲ)に

男女 親に云ち二人(タイ)や 夫婦(ミイトゥ)にならな 
 我っ達(ワッター)二人

歌詞の和訳を紹介する。

女 山桃を売って織った布を買ってあるから それで着物を縫って 
 
愛しい彼に着させる

女 着物を縫った後、切れ端が残るから 私の着物の袖に付け足して 私が着るわ

男 着物を洗っているのか、布を晒しているのか、水汲みは私がするから、疲れていないかい、ねえお前

女 着物を縫って貴方に着させるから、今から後は他所の人と夜遊びはしないでね

男 心からの形見であるなら、今から後は、他所の人と夜遊びはしないよ

女 言ったわよねあなた

男 心変わりはするなよ、お互いに

男女 親に話して二人は夫婦になろうね 私たち二人は

 

私は、本当で歌われる「久場山越路節」は歌ったことがない。でも「桃売アン小」の方は、よく歌ってみる。少し古い時代の男女のあり様がわかって面白い。とくに、彼女は、山桃を売ったお金で布を買い、彼のために着物を縫ってあげる。その余った布で、自分の袖につけて着るという表現には、女性の愛らしさがとてもよく出ている。彼氏も、女性にとってつらい仕事だった水汲みを私がやろう、疲れていないかい、と彼女へのいたわりをみせる。
 
 面白いのは、着物を着せたあとは、もう毛遊びをしないでね、と迫るところ。毛遊びは、若い男女が夜のふけるのも忘れて歌って踊って遊び。そこは、恋愛の相手を見つける出逢いの場でもあった。夫婦になる誓いをする二人だから、もう毛遊びに行かないでというのも当然なのだろう。

というわけで、「久場山越路節」はもともと峠道を開いたことをテーマとした曲だったのに、時代とともに変貌し、替え歌が作られ、その替え歌の替え歌が作られたという、思わぬ変転をとげた民謡である。

 なお題名では、文献によって「久場山越路節」、「久場山越地節」の表記が使われているが、ここでは「久場山越路節」に統一した。

 

文中の歌詞、和訳は、大浜安伴編著『八重山古典民謡工工四』、當山善堂著『精選八重山古典民謡集』、滝原康盛著『琉球民謡解説集』などを参考にした

2013年1月10日 (木)

「島分け」の悲劇と「久場山越路節」、その2

 「久場山越路節」の本来の元歌は、さきにのべたように「島分け」とはまったく関係のない歌詞である。

この歌の舞台となる久場山越路の峠は、石垣島の東北部、昔の桃里村と野底村の間にあった。曲がりくねって登るので、八重山の峠の中で最も険しい山道と言われている。元歌は、大浜英普(1775-1843年)の作。彼は1836年、野底村の与人(ユンチュ、村長格)を拝命した。

 

 元歌の歌詞を紹介する。

♪越路道(クイチゥミチゥ)ぬ 無(ネー)ぬらば 山道ぬ無ぬらば

♪越路道ん ありばどぅみしゃーりぅ 山道ん ありばどぅみしゃーりぅ

♪何(ナウ)しきぬ 越路道 如何(イカ)しきぬ 山道

♪踏(フ)ん倒(トー)しぬ 越路道 薙(ナ)い倒しぬ 山道

♪越路道ぬ 長ぬまま 山道ぬ 幅(チゥマ)ぬまま

♪絹布延(イチュハ)ゆてぃ 案内(チゥカイ)しぅ 布延(ヌヌハ)ゆてぃ
 
 招待(ウファラ)しぅ

♪誰誰(タルタル)どぅ 案内しぅ 何何(ジリジリ)どぅ 招待しぅ

♪野底主(ヌスクシュー)どぅ 案内しぅ 目差主(メザシゥシュー)どぅ 招待しぅ

 

 

 歌詞の和訳を紹介する

♪険阻な峠道がなければ(いいのに) 険しい山道がなければ(いいのに)

♪険阻な峠道もあった方がいいのだ 険しい山道もあった方がいいのだ

♪どのようにして開いたのか、峠道を 如何なる方法で拓いたのか、山道を

♪踏み倒して開いたのだ、峠道は 薙ぎ倒して開いたのだ、山道は

♪峠道の道のりすべてに 山道の幅いっぱいに

♪絹布を敷き延べてご案内します 布を敷き延べてご招待します

♪どなたをご案内するのですか どのような方々を招待するのですか

♪野底村の与人(村長)役人様をご案内します 野底村の目差(助役)

役人様をご招待します

 

この元歌は、歌詞を見るとすこし複雑な内容である。相反するような要素があるからだ。久場山峠の山道の越路がなかったならばいいのに、どうして開通させたのか、踏み倒し、薙ぎ倒して開けた越路道であった、とその苦労が歌われている。
 同時に、峠道、山道
はあった方がいい、と見方が逆転する。さらに絹布を敷き延べて野底村の与人(村長)、目差(助役)をご案内します、と役人を褒め称えるような内容になっている。
 
 この歌詞には、峠道を開く難工事に駆り出されて、苦労した庶民の側と、開通を計画して住民を動員して進めた役人の側の両方の見方が反映されているような印象がある。
 もともとは、峠道を開く苦労と恨みがこもった歌だったのではないだろうか。それに、役人が手を加えてこのような歌詞に仕上げたのかもしれない。私的な勝手な推測である。

 
 八重山の古典民謡には、他にも同じような例がある。「島分け」を進めた役人の責任を厳しく問う歌詞と、そのあとに、そんな役人の出世を願うという相反する内容が盛り込まれた曲があるからである。たとえば「舟越節(フナクヤーブシ)」である。

 

2013年1月 8日 (火)

「島分け」の悲劇と「久場山越路節」、その1

「島分け」の悲劇と「久場山越路節」

 

 琉球王府の時代、八重山諸島や宮古島では、開拓のために強制移住させる「島分け」が相次いだ。村落を「島、シマ」と呼んだので、村の住民を行政が一方的に分けて、移住者を決めることを「島分け」と呼んだ。

 恋人や夫婦の間でも、無慈悲な線引きで分けられたので、たくさんの悲劇が生まれた。そのために、「島分け」をテーマとした唄は、八重山でも宮古島でもたくさん作られている。

 その代表的な唄が八重山の「つぃんだら節」である。「つぃんだら節」は単独でなく、「退(ピゥ)き羽」として「久場山越路節」(クバヤマクイツィブシ)が続けて歌われることが多い。早く言えば、セットで歌われるということだ。

ややこしいのは、「久場山越路節」の元歌は、久場山の峠道を切り開いて作った苦労が歌われている。ところが、元歌で歌われることはほとんどなく、「つぃんだら節」に続けて「退き羽」として歌われることが多い。その場合は、歌詞はまったく変わり、「つぃんだら節」と同じ黒島の「島分け」の悲劇の内容で歌われる。

 「つぃんだら節」は、すでにブログにアップした「愛と哀しみの島唄」でも、詳しく紹介していた。だが、実はまだこの曲そのものは、歌ったことがなかった。本来、八重山の民謡を歌う時には、最初に手掛けるような名曲だろう。私も遅ればせながら、歌ってみようと思い立って、いま練習している最中である。

 改めて、この2曲を紹介しておきたい。写真は、悲しい伝説のある野底岳。

Photo


「つぃんだら節」

♪とぅばらまとぅ我(パ)んとぅや ヤゥスーリ 童(ヤラビ)からぬ遊びとーら 
 
※ツィンダラ ツィンダラヤゥ

 かなしゃまとぅくりとぅや くゆさからぬむつぃりとーら ※ハヤシ

♪島(スィマ)とぅとぅみで思だら ヤゥスーリ ふんとぅとぅみで思だら ※ハヤシ

 沖縄(ウクィナー)から仰(ウィ)すぃぬヤゥスーリ 美御前(ミョーマイ)からぬ 

御指図(ウサスィ)ぬ

♪島分(スィマバ)がりでうふぁられ ヤゥスーリ ふん分がりでうふぁられ

 うばたんがどぅけなり ヤゥスーリ 野底(ヌスク)に分ぎられ

 

歌詞の和訳は次の通り。

♪貴方と私は子どものころから遊び仲間 貴方と私は幼少からの睦まじい仲だった ※かわいそう、かわいそう

♪島のある限り 村のある限りと思っていたのに 沖縄(首里王府)からのご意思 

国王からの命令だった

♪島分けで分けられ 村分けで引き離され 私が海を渡り 野底に連れてこられた

 「つぃんだら節」は、仲睦まじい二人が首里王府の命令で引き裂かれ、野底に移されるまでが描かれえいる。

 これに続けて歌う「久場山越路節」は、野底に移された女性が、黒島では彼氏と村は一つだった、作業する時も、遊ぶ時もいつも一緒だったと懐かしく回顧する内容となっている。

 

「久場山越地節」

「つぃんだら節」に続いて歌われるときの歌詞は次のような内容である。

♪黒島にうるけや さふ島にうるけや ※ハリヌツィンダラヤゥカヌシャマヤゥ

♪島一(ピティー)づぃやりうり ふん一づぃやりうり ※ハヤシ  

♪ぶなびしん我達(パー)二人(フタルィ) ゆいふなぐん我達二人 ※ハヤシ

♪山行きん我達二人 いす下(ウ)れん我達二人 ※ハヤシ

 

 歌の意味は次の通り。

♪黒島にいた間は さふ島(黒島の別称)にいた間は ※かわいそうな愛しい人よ

♪島は一つだった 村は一つだった ※ハヤシ

♪苧(ブー)作業の時も私たち二人は(注)

 結(ユイ、共同作業)をする時も 私たち二人は一緒だった

♪山に行くのも二人 磯下りの時も二人だった  

 注・苧(苧)は布織りの糸の原料。苧にかかわる作業か、もしくは一般的な夜業、夜鍋か、「ブー(夫役)に服する作業か、いろいろ説がある。

改めて、この歌の背景を見ておきたい。「つぃんだら節」は八重山の石垣島の南に浮かぶ黒島が舞台である。昔は、大きな島である石垣島や西表島はマラリアの危険な地域があり、人口は少なく、小さい黒島や竹富島などの方が比較的、人口は多かったそうだ。

薩摩の支配下で搾取されていた琉球は、財政立て直しのため、八重山で住民を未開拓の地に強制移住させる政策を進めた。役人が村の道路を境に移住者と残留者を無慈悲に決めたので、恋人でも仲を引き裂かれた。「島分け」「村分け」とも呼ばれる。

この歌のモデルである黒島に住む、カナムイと乙女・マーベーとは幼なじみで恋仲だった。首里王府からの「御指図」(命令)によって、黒島から住民を石垣島に移住させることになる。

黒島では一六九二年から一七三二年の間に計四回の強制移住があった。一七三二年には、約四〇〇人も移住させた。石垣島の野底村は、移住者がつくった新村である。

マーベーも、野底に移された。マーベーは故郷にいる彼を見たいと思い、険しい野底岳に命がけで登るが、高い於茂登岳(オモトダケ)にさえぎられて見えない。それでも毎日人目を忍んで山に登り、神に祈った。祈りながらマーベーは次第に石と化した。
 この地は、石垣島でも珍しい円錐形の山がそびえている。野底山は、いかにも物悲しい伝説を象徴するような山姿である。

「島分け」の悲劇を歌ったこれらの曲は、哀調を帯びていて、歌っていても胸に迫るものがある。

 

2013年1月 7日 (月)

「ハイサイおじさん」余聞

 「ハイサイおじさん」と言えば、喜納昌吉の代表曲である。彼が、高校生の時に、近所にいたおじさんをモデルに作ったという話は聞いたことがあった。ところが、5番まである歌詞もすべて彼の作詞だと思っていたらどうも違うらしい。

というのは、滝原康盛著『琉球民謡解説集上巻』を読んでいたら、意外な記述に出会った。滝原氏が、補作補詞をしたという。滝原氏は、ご自身が民謡「瓦屋情話」の作詞作曲をはじめたくさん民謡をくつられている。しかも『正調琉球民謡工工四』12巻セット、『琉球民謡解説集』3巻など、数々の民謡集を出版されている。これらの著書は、民謡を学ぶ者にとって、とてもありがたい存在である。

 滝原氏は、「ハイサイおじさん」の生まれた事情について、次のように記している。

「この唄は、喜納昌吉が高校一年の時に母親に頼まれて、補詞補作した思い出ゆかしい曲である。彼は当時 ギターで作詞作曲し弾いていたが 彼が作ったのは『ハイサイ叔父さん <(繰り返し) 夕びぬ三合瓶小(ぐわ)残(ぬく)とんな 残とら我(わ)んに分(わ)きらんな アリアリ』迄で そのあとは私が 補詞補曲して 完成させたものである」

 この曲は長くて5番まであるが、滝原さんの言う通りなら、喜納昌吉が作ったのは1番だけで、あとの2-5番までは、滝原作ということになる。

 この曲の、モチーフと主旋律というオリジナリティーの基本は、喜納作品であるが、全体像を構成する上では、滝原さんの助力が大きかったことになる。

 この曲の背景には、沖縄戦の傷跡があると聞くが、出来上がった曲自体には、そんな背景は反映されていない。近所のおじさんに向かって「夕べの三合瓶は残っていないか」「娘を嫁にくれないか」「おじさんのハゲが大きいことよ」「ヒゲが滑稽なことよ」などと、からかうような内容である。滑稽歌の範疇に入るのではないだろうか。

 

 もともとこの曲の5番には、遊郭が登場することをすでにこのブログでも書いたことがある。「ハイサイおじさん ハイサイおじさん 昨日の女郎小ぬ 香(か)ばさよい 貴方(うんじゅ)ん一度めんそうれえ」という歌詞が出てくる。

 和訳すると「今日はおじさん 夕べの遊女の香りが良かったことよ おじさんも一度くらいいらっしゃったら」と語りかける。この曲を自分でも歌ってみたとき、高校生が作ったにしては、遊郭に遊びに行って「香りが良かったよ」と歌うことに、ちょっと不可解な感じがした。

 でもこの部分を含めて、2番以降は、滝原さんの作詞だとすれば、納得がいく。もっとも、これは滝原さんの説明であって、喜納昌吉が曲全体の完成について、どのように説明しているのかは、よく知らない。ただ、曲の完成について、一つのエピソードとして興味深かったので紹介しておきたい。

2013年1月 4日 (金)

見事だった新お笑い王座、ハンサム

沖縄のお笑い芸人がお笑い王座を競う「第7回新春!Oh笑い O1(オーワン)グランプリ2013」(沖縄テレビ主催)が2日、行われた。7度目の挑戦となった「ハンサム」が一般視聴者からのネット投票によって初優勝した。賞金30万円を手にした。「ハンサム」はThis is a 金城と仲座健太の2人組。7回目の決勝進出で見事、初の栄冠を手にした。

 大会は98組が応募し、29組が予選に残り、上位8組と敗者復活戦で勝ち上がった1人が決勝に臨んだ。その中で、3組が勝ち残り、王座を争った。ちなみに、今年は3組とも、お笑い集団「FEC」所属である。毎年、もう一つのお笑い集団「オリジン」が強いが、今年はオリジンは勝ち上がれなかった。

 ハンサムは、コントだが、いずれも社会性のあるテーマだった。1回目は、就職できないで親の脛かじりをしている若者と母親を演じた。エイサーの起源といわれる袋中上人を登場させて、エイサーが本来の芸能から変わってきていることを、風刺する。母親と袋中上人の入れ替りなど意外性のある展開で見せる。

 2回目は、沖縄が全国ワーストワンといわれる飲酒運転がテーマ。男が携帯で運転代行を呼ぶが来ない。そこへ酔っ払いが通りかかる。男がもう一度電話すると、電話に出たのは酔っ払い。飲酒男が代行運転するというとんでもない展開となる。最後はこれまた意外な結末で幕となった。

 二つの作品とも、若手芸人にありがちな、機関銃のようにしゃべくるだけの漫才や小手先の笑いの積み重ねで終わる芸とは異なる。沖縄を題材にしても、表面的なおばあ、おじいネタで笑いをとるとか、宮古方言で笑いをとるとか、そんなレベルでもない。

 二人の掛け合いで笑いをとりながら、風刺をきかせ、しっかりした構想のもとに話が進む。それも意表をつく劇的な展開がある。笑いの芸も、ゆったりとしたテンポと速いテンポの緩急がうまく使われる。笑わせるけれども、笑いだけではすまない、考えさせられるオチがある。なかなかの秀作である。

 ハンサムの二人の漫才は、FECの公演でも何回となく見ている。しかし、今年はずいぶん成熟した芸となっている気がする。仲座健太は、役者としもいい味を出しているし、南風原町民劇「むらやー」の脚本も書いた。歴史の素養と演劇的な構想力があいまって、ベテランらしい作品を作り出しているような気がした。今後の活躍に期待したい。

2013年1月 3日 (木)

初詣はやっぱり首里の寺

 初詣に首里のお寺に行くのが恒例になった。今年も、と思って正月2日、昼ごろから首里に行こうとすると、首里城に向かう道路が大渋滞。どうも初詣の車ばかりで長い列をなしている。この日はあきらめて、3日の朝に出かけた。やはり朝だとすいている。今年は、首里城の裏にある万松院にやってきた。

Img_1061 駐車場もまだすきすきだ。ところで、首里のお寺は、生まれ年の干支によって、守り本尊となる守護仏が決まっている。十二支は、首里の4つのお寺に祀られていている。慈眼院(首里観音堂)が子、丑、寅、辰、巳 午。西来院(達磨寺)が卯、戌、亥。安国寺が酉。盛光寺が未、申となっている。寺はいずれも、臨済宗妙心寺派である。巳年は観音堂である。今年は、それとは関係なく、まだ初詣には来たことがなかったので万松院に来た。Img_1069
 万松院は、薩摩による琉球侵攻のあと1613年、尚寧王代の名僧が隠退して岩頂山万松院を賜り、隠居寺としたというから、歴史は古い。お寺には、沿革が掲げられている。
 

 ただ、万松院は1990年に、12か所巡り(12支の寺回り)の機能を返上したため、普賢菩薩(辰、巳)は慈眼院(首里観音堂)、文殊菩薩(卯)は西来院(達磨寺)に移されたそうである。でも、訪れてみると、おみくじや干支のお守りなどは普通に売られていた。

 Img_1065
  人並みに、家族の健康や安全を祈願した。この寺は、入り口にいろんな展示があるのが特徴だ。なぜか、沖縄戦で首里が廃墟となる前の空中写真もあった。前にこのブログでも書いたが、琉球の歴史や沖縄特有の清明祭(シーミー)のあり方なども展示されている。聞くとところによると、尚敬王の認証のため中国から来た冊封使(サッポウシ)の徐葆光(ジョホコウ)の筆による「授天山」の扁額も残されているそうだ。徐の漢詩が掲げられている。Img_1067_4

 ついでに、首里の12か所巡りには、多くの人が行っているようだが、それが増えたのは戦後のことだと聞く。戦後、民間宗教に仏教の守り本尊が取り入れられ、各寺院を巡拝する習俗が定着したとのこと。参拝者がユタ(沖縄の巫女)を伴って参拝する場合もあるそうだ。(ネット「生まれ年守り本尊解説」を参考にした)。

 せっかく首里に初詣に来たので、やっぱり恒例の首里観音堂にも立ち寄った。万松院は、干支による守り本尊を移したので、参拝者がわりあい少なかったが、観音堂は12支のうち、半分の守り本尊がある。今年の巳の普賢菩薩もあるから、参拝者がとても多い。

Img_1071
 お守り、絵馬などもたくさんある。首里でも人気のある寺だ。
 尚久王が佐敷王子(後の尚豊王)が薩摩に人質として連れて行かれた際、無事に帰国したら観音堂を建立することを誓願した。願いがかなったので1618年、観音堂を首里の万歳嶺という丘に建て、その南に慈眼院を創建したという。由緒ある寺院である。その後、国王が毎年、国の安全を祈願するようになったという。

 民謡の「上り口説(ヌブイクドゥチ)」でも「旅ぬ出で立ち観音堂」と歌われている。

 前に買った車の交通安全のお守りが色あせたので、買い求めた。離れて暮らすツレの両親へのお守り、絵馬、おみくじも買って送った。

 

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