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2013年1月 8日 (火)

「島分け」の悲劇と「久場山越路節」、その1

「島分け」の悲劇と「久場山越路節」

 

 琉球王府の時代、八重山諸島や宮古島では、開拓のために強制移住させる「島分け」が相次いだ。村落を「島、シマ」と呼んだので、村の住民を行政が一方的に分けて、移住者を決めることを「島分け」と呼んだ。

 恋人や夫婦の間でも、無慈悲な線引きで分けられたので、たくさんの悲劇が生まれた。そのために、「島分け」をテーマとした唄は、八重山でも宮古島でもたくさん作られている。

 その代表的な唄が八重山の「つぃんだら節」である。「つぃんだら節」は単独でなく、「退(ピゥ)き羽」として「久場山越路節」(クバヤマクイツィブシ)が続けて歌われることが多い。早く言えば、セットで歌われるということだ。

ややこしいのは、「久場山越路節」の元歌は、久場山の峠道を切り開いて作った苦労が歌われている。ところが、元歌で歌われることはほとんどなく、「つぃんだら節」に続けて「退き羽」として歌われることが多い。その場合は、歌詞はまったく変わり、「つぃんだら節」と同じ黒島の「島分け」の悲劇の内容で歌われる。

 「つぃんだら節」は、すでにブログにアップした「愛と哀しみの島唄」でも、詳しく紹介していた。だが、実はまだこの曲そのものは、歌ったことがなかった。本来、八重山の民謡を歌う時には、最初に手掛けるような名曲だろう。私も遅ればせながら、歌ってみようと思い立って、いま練習している最中である。

 改めて、この2曲を紹介しておきたい。写真は、悲しい伝説のある野底岳。

Photo


「つぃんだら節」

♪とぅばらまとぅ我(パ)んとぅや ヤゥスーリ 童(ヤラビ)からぬ遊びとーら 
 
※ツィンダラ ツィンダラヤゥ

 かなしゃまとぅくりとぅや くゆさからぬむつぃりとーら ※ハヤシ

♪島(スィマ)とぅとぅみで思だら ヤゥスーリ ふんとぅとぅみで思だら ※ハヤシ

 沖縄(ウクィナー)から仰(ウィ)すぃぬヤゥスーリ 美御前(ミョーマイ)からぬ 

御指図(ウサスィ)ぬ

♪島分(スィマバ)がりでうふぁられ ヤゥスーリ ふん分がりでうふぁられ

 うばたんがどぅけなり ヤゥスーリ 野底(ヌスク)に分ぎられ

 

歌詞の和訳は次の通り。

♪貴方と私は子どものころから遊び仲間 貴方と私は幼少からの睦まじい仲だった ※かわいそう、かわいそう

♪島のある限り 村のある限りと思っていたのに 沖縄(首里王府)からのご意思 

国王からの命令だった

♪島分けで分けられ 村分けで引き離され 私が海を渡り 野底に連れてこられた

 「つぃんだら節」は、仲睦まじい二人が首里王府の命令で引き裂かれ、野底に移されるまでが描かれえいる。

 これに続けて歌う「久場山越路節」は、野底に移された女性が、黒島では彼氏と村は一つだった、作業する時も、遊ぶ時もいつも一緒だったと懐かしく回顧する内容となっている。

 

「久場山越地節」

「つぃんだら節」に続いて歌われるときの歌詞は次のような内容である。

♪黒島にうるけや さふ島にうるけや ※ハリヌツィンダラヤゥカヌシャマヤゥ

♪島一(ピティー)づぃやりうり ふん一づぃやりうり ※ハヤシ  

♪ぶなびしん我達(パー)二人(フタルィ) ゆいふなぐん我達二人 ※ハヤシ

♪山行きん我達二人 いす下(ウ)れん我達二人 ※ハヤシ

 

 歌の意味は次の通り。

♪黒島にいた間は さふ島(黒島の別称)にいた間は ※かわいそうな愛しい人よ

♪島は一つだった 村は一つだった ※ハヤシ

♪苧(ブー)作業の時も私たち二人は(注)

 結(ユイ、共同作業)をする時も 私たち二人は一緒だった

♪山に行くのも二人 磯下りの時も二人だった  

 注・苧(苧)は布織りの糸の原料。苧にかかわる作業か、もしくは一般的な夜業、夜鍋か、「ブー(夫役)に服する作業か、いろいろ説がある。

改めて、この歌の背景を見ておきたい。「つぃんだら節」は八重山の石垣島の南に浮かぶ黒島が舞台である。昔は、大きな島である石垣島や西表島はマラリアの危険な地域があり、人口は少なく、小さい黒島や竹富島などの方が比較的、人口は多かったそうだ。

薩摩の支配下で搾取されていた琉球は、財政立て直しのため、八重山で住民を未開拓の地に強制移住させる政策を進めた。役人が村の道路を境に移住者と残留者を無慈悲に決めたので、恋人でも仲を引き裂かれた。「島分け」「村分け」とも呼ばれる。

この歌のモデルである黒島に住む、カナムイと乙女・マーベーとは幼なじみで恋仲だった。首里王府からの「御指図」(命令)によって、黒島から住民を石垣島に移住させることになる。

黒島では一六九二年から一七三二年の間に計四回の強制移住があった。一七三二年には、約四〇〇人も移住させた。石垣島の野底村は、移住者がつくった新村である。

マーベーも、野底に移された。マーベーは故郷にいる彼を見たいと思い、険しい野底岳に命がけで登るが、高い於茂登岳(オモトダケ)にさえぎられて見えない。それでも毎日人目を忍んで山に登り、神に祈った。祈りながらマーベーは次第に石と化した。
 この地は、石垣島でも珍しい円錐形の山がそびえている。野底山は、いかにも物悲しい伝説を象徴するような山姿である。

「島分け」の悲劇を歌ったこれらの曲は、哀調を帯びていて、歌っていても胸に迫るものがある。

 

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