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2013年2月

2013年2月27日 (水)

浜比嘉島にあるアマミキヨのお墓

アマミキヨのお墓

 

 

 

 護佐丸の墓を見た後、海中道路に車を走らせた。こちらまで来れば、浜比嘉島によりたい。浜比嘉大橋を渡ると、左側が比嘉、右側が浜集落となっている。

比嘉の集落は、沖縄の昔の集落の雰囲気が残っている。赤瓦の家、いまはセメント瓦になっている家が多いが、家の周りにはフクギがスクッと伸びている。

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訪れたのは、ちょうど旧暦1月16日。グソー(あの世)のお正月。石垣島、宮古島、本島北部はとても盛んだ。 浜比嘉島でも、比嘉の漁港は船がズラーと陸に上がっていて、漁は休みのようだった。

 

 漁港のそばの東方海岸にアマンジと呼ばれる岩屋の小島がある(上)。そこに洞穴を囲い込んだ墓がある。お墓は、写真のように、海沿いの小道を歩いて行く。この日は、潮が引いているけれど、満潮になれば、海水がひたひたくるのではないだろうか。Img_1523

岩を回っていくと、お墓がある。

地元では琉球開闢伝説で有名なアマミチュー、シルミチューの男女二神およびほかの神が祀られていると伝えられている。見るからに、古い古いお墓の雰囲気。

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 「洞穴墓の一種で、なかには赤土の上に白骨が散乱しているというが、1887(明治20)年頃および大正初期頃の工事で現在のように入口をふさいだ形式になったらしい」(『勝連村誌』、『沖縄の歴史散歩』から)。入口には、改築記念碑が立っているが、その時の工事の記念だろうか。

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 アマミキヨ伝説は、沖縄本島の久高島、玉城をはじめ本島北部まで各地に残っている。浜比嘉島は、ここから島の東南端に行くと、アマミチュー、シルミチューが住んでいた大きな洞穴がある。洞穴内には陰石があり、子宝に恵まれる霊石として、参拝されている。前に行ったが、今回は行けなかった。

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 このお墓では、毎年、旧正月の年頭拝み(ニントゥウウガン)には字比嘉のノロ(祝女)が中心となって島の人々多数が参加して、豊穣・無病息災・子孫繁昌を祈願している。また古くから各地からの参拝者が絶えない。信仰圏の広い貴重な霊場である。解説分に書かれている。Img_1528

墓の前に、ブロックを積んだ一角があり、「うちかびだけ」と書かれていた。沖縄では、お墓の前で、グソーの貨幣である「うちかび」を燃やす習慣がある。アマミキヨが住んだ時代は、貨幣はほとんど流通していなかったのではないか。でも、あの世で使うのだから、まあいいか。

 

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 海辺に立つ海水で足元が削り取られた岩を見ると、沖縄らしさをとても感じる。遠くに浜比嘉大橋がよく見える。

 

 

2013年2月26日 (火)

護佐丸の墓を訪ねる

護佐丸の墓

                           

 

 中城城跡には何回も行ったが、近くにある護佐丸の墓はまだ見ていない。一度見たいと思い訪ねた。中城城跡の入り口の受付で尋ねると、おやじさんが丁寧に教えてくれた。普天間自動車教習所の前の道路を南東に少し進むと、左に入る小道があり、50㍍ほど行くと、標柱が建っていた。Img_1474

 長い石段を登ると墓が見えてくる。この墓は、護佐丸の死後、その子孫の毛氏豊見城家によって築かれたもので、護佐丸をはじめ第7代までの子孫の遺骨が安置されているという。

 現存する亀甲墓としては県内で最も古い時代のもので、文化的にもきわめて価値の高い墓だと、中城村のホームページでは書いている。Img_1478

 護佐丸は15世紀に活躍した按司(豪族)だった。中山王の尚巴志が琉球統一に向けて、1416年の北山攻めを行ったの際は、もともと先祖が今帰仁城を追われた一族にあたる護佐丸が従軍し、今帰仁城を攻略した。護佐丸はその後、座喜味城を築き、さらに中城城に移り、中城按司として城を拡張した。築城の名手と言われた。

 護佐丸の娘が尚泰久王の正室になっていた。しかし、勝連城にいた阿麻和利(アマワリ)が護佐丸に謀反の動きがあると首里王府に告げ、王府は阿麻和利に討たせた。護佐丸は自害したと伝えられる。その後、尚泰久の娘、百度踏揚(モモトフミアガリ)を妻にしていた阿麻和利も、王府に討たれた。Img_1480

 護佐丸は唐名を毛国鼎という。墓の前の碑には、その名が刻まれている。

お墓は、巨石を使った石積みでとても立派だ。屋根も緩やかなカーブを描いて美しい。何か、組踊の創始者、玉城朝薫の墓に似ている。

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ただ、文化的価値が高いという割には、県道からの入り口に案内する看板もない。お墓の説明をするものもないし、文化財指定の標識もないのが残念だ。

墓のある場所は、高台のデーグスク(台城)と呼ばれるところだ。護佐丸の以前に中城を統治していた按司(先中城按司)の居所とも伝えられている。

 

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 中城村ではもっとも高い位置にあり、標高170㍍を超える。絶景の地である。

 眼下には、中城湾と西原、与那原方面が広がり、その先には佐敷から知念半島が見える。

ただ、護佐丸は中城城主だったのに、なぜか中城城跡に墓がない。なぜ台グスクなのだろうか。それが不思議だ。

それにしても、中城城跡にはたくさんの人たちが訪れる。でも、護佐丸の墓まで足を延ばす人は、わずかではないだろうか。といっても、琉球を統一した英雄、尚巴志のお墓が、読谷村伊良皆の山肌にひっそりとあるのと比べると、護佐丸の方が立派なのかもしれない。

2013年2月25日 (月)

瓦の発祥地、国場の瓦屋原

 琉球瓦の発祥の地が、那覇市国場の瓦屋原(カラヤーバル)と伝えられる。『国場誌』には、焼瓦の由来が記されている。

 『琉球国旧記』(1731年編)には、次のような記述がある。和訳の要約を紹介する。
 古老が伝えるには、昔、中国の人が沖縄に来て、国俗(気候・風土・人情・習俗)を慕い、国場村に住みついた。やがて、妻をめとり、子をうんだ。
 後に真玉橋(マダンバシ)の東で陶舎(焼物小屋)をつくり、瓦を焼き、資用(資材)にした。
 そのゆえに御検地帳(慶長検知、1610年)によって、琉球王府は、その土地を渡嘉敷三良にたまわった。これが我国(琉球)での焼瓦の初めである。
 その子孫は、今でも国場に住み、12月24日(旧暦)には祭品をおそなえし、紙を焼いて先祖をまつっている。Photo
              

 渡嘉敷三良(トカシキサンラー)が琉球に来たのは、少なくても1500年代前半で、さらに古老の伝えによれば、さかのぼるかもしれないという。
 

 渡嘉敷三良の子孫の家(上写真)が、いまも国場にあり、家を訪ねたことをブログで書いてある。

 瓦屋原と呼ばれるところは、国場村の南西、古波蔵との境にあり、一番高い丘陵地で真玉橋を前にした場所だとのこと。この付近は、瓦が焼かれていたので、昔は畑を深耕すると、黒い瓦片が出土したといわれる。037                    真玉橋

 三良の家が国場十字路に近いので、瓦を焼いたのはその付近と思っていたが、これを読むと、真玉橋に近いところのようだ。古波蔵との境と言えば、わが家に近い場所となる。

 琉球古典音楽に「瓦屋節」がある。
「瓦屋頂(カラヤチジ)のぼて 真南(マヘエ)向て見れば 島裏(シマウラ)る見ゆる 里や見らん」
 

 瓦屋の丘の上に登って、故郷の南に向かて見れば、生まれ育ったムラは見えるが、愛しい彼の姿は見えない。こんな歌意である。

 三良に見染められた女性には、夫がいた。だが、王命で夫と別れて国場に来て妻となったと伝えられる。女性は、豊見城村保栄茂(ビン)・翁長に住居していた。だから、故郷の南に向かって眺めて恋人を偲んだという。

 民謡では「瓦屋情話」がある。先の琉歌と、瓦屋の伝承をもとにした曲である。これは、すでにブログで紹介した。

2013年2月24日 (日)

国場発祥の地の御獄

 JA真和志の農協まつりが国場支所で開かれた。まつりのついでに、支所の裏側にある拝所を見学した。

 「下国場ノ獄」という立派な建物になっている。珍しく燈篭が両側に並んでいる。Photo
  国場には二つの御獄(ウタキ)があり、その一つがこの御獄だ。通常は「前ヌ御獄」と呼ぶ。毎年3月、8月に4度の祈願をする。
 ここは、国場発祥と地とされている。
 国場の最大、最古の門中(ムンチュウ、男系血縁組織)の城間門中は、もともと13世紀に琉球の開闢の祖といわれるアマミキヨの子孫が、玉城ミントン(明東城)から移り住んだと伝えられる。当初、この支所の場所に住んだという。城間家が国場集落のニーヤー(根屋)になる。

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国場の地名は、窪地という意味からきているようだ。国場川沿いにある。Img_1414
 御獄のそばには、二つの井戸があった。「火神御井」「御願小御井」の碑が建てられている。そばにいたおじいさんに聞くと、「火ヌ神はその向こうにあるよ」と言ったが、見れなかった。二つの井戸が並んでいるのは、珍しいかもしれない。

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 もうひとつ、御獄のそばに小さな拝所がる。「これは大里に向かって御願するところだよ」とおじいさんが教えてくれた。なぜ「大里」なのか。

 「国場の高いところには、今帰仁に向かって拝むところもある。中国に向かって拝むところもあるよ。中国まで行けなかったからね」と説明してくれた。

 御獄と国場の由来などは『国場誌』を参考にした。この本によると、別の場所にある拝所は「今帰仁世」「百名世」「大里世」「東世」「登野城世」など合祀されている。

 沖縄には、各氏族の祖先の生活していたと信じられるところを参詣する「霊地巡り」の習慣がある。「民族祖に関する霊地は、主に本部・知念・玉城に多く、ここへの参詣を俗に『東り巡り』又は『島尻拝み』」などと呼ばれている(『国場誌』で引用された『島尻郡誌』)。

 今帰仁は、尚円王の生まれた島を遙拝するところなので、ここへの参詣を「今帰仁拝み」と言っているそうだ。

 昔は霊地巡りはとても盛んだった。遠くまで行けなくても、霊地の方向に向かって御願するために、遙拝所がある。

2013年2月21日 (木)

金城正篤先生の受賞を喜ぶ

 沖縄の社会・歴史分野研究で顕著な業績をあげた人物に贈られる東恩納寛淳(ヒガシオンナカンジュン)賞を、琉球大学名誉教授の金城正篤先生が受賞することになった。この賞は、琉球新報社が主催し、今回で30回目となる節目の受賞である。

 「受賞を喜ぶ」と書くほど、先生と親しいわけではない。ただ、沖縄に移住して翌年、2006,2007年に、沖縄大学で、2年間に「中国琉球交流史」や「中国近現代史」「東アジア史」の講義を受講したことがある。

 先生はもともと中国近代史が専門のようだが、沖縄の復帰前後から沖縄近代史をけん引し、とくに明治国家が琉球王国を廃止し、日本に組み込んだ「琉球処分」の研究を飛躍的に前進させたことが高く評価された。

 個人的には、聴講生として受講したなかで、とくに「中琉交流史」に感銘を受けた。

 講義では、60歳過ぎは私だけ、他の学生は20歳前後の若者ばかりだった。先生は、学生にとってあまりなじみのないテーマだけに、聴講するものが、理解ができるようにいつも工夫して話された。まとまったテキストになる著書がないなかで、毎回、興味深い史料を配布して講義してくれる。

 講義は、深い学識に裏付けられ、それでいて、とてもわかりやすい内容だった。中国と琉球の長い交流の歴史の全体像と大事な事柄の細部がじつによく理解できる講義だった。

 とかくキーワードになる用語がわからなけばチンプンカンプンになりがちであるため、先生は毎回、基礎的な知識をきちんと理解できるように分かりやすく説明する。素人の質問にも的確に答えてくれた。権威ぶったところはまったくない、やさしさにあふれた先生だった。

 先生の講義は、至福の時間といっても過言ではなかった。

  なお、勝手に「中国と琉球の長い交流の歴史」をブログにもアップしてあるので、興味のある方はそちらを見ていただきたい。

2013年2月20日 (水)

喜屋武岬近くにある具志川城跡

喜屋武岬近くにある具志川城跡

                           
 
 糸満市の喜屋武(キャン)岬から東の方に高い崖が続く。その一角に、石積みの城壁がある。海に面した具志川城跡(下)である。行ったのは2009年7月だった。
 この城跡でよくわからないのは、一つは、久米島には同名の具志川城跡があること。何か関係があるのだろうか。ついでに具志川という地名は、沖縄各地にある。もう一つは、なぜこんな海岸沿いに城塞を築く必要があったのかということである。城(グスク)といえば、通常は高地にあるからだ。
そういえば、久米島の具志川城跡も、海岸のそばにある。

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 伝説によれば、およそ500年前、久米島の具志川をおわれた一派がこの城を造ったのだという。

 真偽のほどは確かな手掛かりがないのでわかっていないという(『沖縄県の歴史散歩』)。

 比嘉朝進著『沖縄戦国時代の謎』は、南山の王位をめぐる争いに関わり、次のような話を紹介している。
 
南山王の汪応祖(エージ)を殺害し、王位に就こうとした達勃期(タブチ)を南山の諸按司が連合して誅殺したと史書にあるが、達勃期は、誅殺されず、逃亡した。具志川城にいたかもしれない。久米島に渡り、地元の人から築城に適した場所を聞き、同じ地名の具志川に城を築いた。「糸満の具志川城と同じ地形で、構えもほとんど似ている」。
 
 真タブチ按司を名乗った。真タブチは病死し、その子の真金声(マカニクイ)按司が跡を継いだ。本島から移ってきた、伊敷索(イシチナワ)按司の次男に討ち捕えられ、城を奪われた。マカニクイは、喜屋武岬に逃げ延びて具志川城を築いたといわれる。その子孫は久米姓を名乗り、喜屋武に住んでいるという。下写真は、久米島の具志川城跡。

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 この話も、なにも文献はない。口承と推測を交えた説明のようである。それに、マカニクイは「父の具志川城に居住した。もしくは、マカニクイ、初めて具志川城を築いた」と書いているように、あいまいなままである。
 
 ただ、喜屋武岬の具志川城と久米島の具志川城は、とても城の構え、立地条件が似ており、久米島から逃れて人たちが築いたという伝承があることは興味深い。

 城壁は、一部は切石積みだが、他は野面積みでできている。
 
 城跡内には、海に通じる天然の竪穴がある。城が即、海への出入り口にも通じている。久米島の具志川城も、北側に「ぐしかわの泊」という古い港があるという。喜屋武の城も久米島の城も、海への直近という点では共通している。

城跡の下は天然の洞窟になっているので、沖縄戦の末期、追いつめられた日本軍が隠れた形跡が残っているそうだ。今回はそこまで、見られなかった。喜屋武岬は沖縄戦で、避難住民が最後に追いつめられて、断崖から身を投げるなど、悲劇も起きた場所だ。「平和之塔」が建っている。
 
 

2013年2月17日 (日)

嘉数高台にある長嶺城跡

嘉数高台にある長嶺城跡

                         

 

 

 


 
 国場川を挟んで南側、豊見城市の嘉数高台の東端、最も高いところに長嶺城跡がある。琉球が三つの小国分かれていた三山時代、上間は南山と対峙する自然の要塞だったことを紹介した。しかも、拝所の一つは、上間の対岸に位置する長嶺城に向けた「返し」(ケーシ)であった。Img_1340

 上間を見たからには、長嶺城跡も是非見ておきたい。それにわが家からも、すぐ近い。さっそく出かけてみた。地図では城跡の場所を確認したが、実際に現地に行くとわかるのか心配だった。だが、案ずる心配はなかった。嘉数高台を走り、城跡のあると思われる方面に向かうと、すぐに「あれが城跡だ」とピンときた。高台のなかでも、ひときわ、こんもりとした小山のような森があり、いかにもグスクらしい風景なのだ。

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  ただ、その小山に入る道がわからない。迂回して近づこうとすると、道路が行き詰まりになった。でも、そこにはなにやら拝所がある。それも「長嶺城」の字が見える。「ヒヌカンヤー」と書かれたコンクリートづくりの建物は、「長嶺城の火ヌ神」だった。「火ヌ神」は沖縄ではどの家庭でも台所に祀ってあるが、村の火ヌ神やグスクの火ヌ神を祀っているところもある。こちらは、2010年改築されたばかりなで、真新しい建物だ。


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 建物入口には、「長嶺城の火の神のカー」もある。井戸である。高台なのに、井戸もある。

そばにおじさんが仕事していたので聞いてみた。「長嶺城跡はどちらでしょうか。あそこに見える森ですか?」「そうだよ。歴史の好きな人がよく訪ねて見える。でも、この道からは行けないので、戻って保育園のそばの道から入れるよ」と親切に教えてくれた。

 「長嶺グスク」の史跡の標柱が立っている。小山のようになっているので、登っていくと、拝所があった。香炉が3つ並んでいる。

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何を祀っているのだろうか。長嶺城には、長堂村の御獄「長嶺ノ嶽」や「長嶺城之殿」があるそうなので、それかもしれないと、ブログで書いている人もいるが、よくはわからない。

頂上のすぐ下にお墓が見えてきた。

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 「長嶺按司之碑」がある。その奥には「長嶺按司之墓」がある。大きい墓だ。これは、コンクリート造りだから、古いお墓ではない。改築したのだろう。説明するものは何もない。

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頂上に登ると、石積みの城壁などはない。何もない。測量のための三角点があるくらい。ただ、南西側は、高台でなだらかだが、北東側は、急傾斜でやはり自然の要塞のようになっている。

比嘉朝進著『沖縄戦国時代の謎』を読むと、「南山の群雄割拠 ゆくえを絶った長嶺城主」という史話があった。面白いので、そこから紹介する。

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 国場川の上流に位置し、対岸に南風原の津嘉山集落がある。
 
 その津嘉山の丘に仲間城があり、仲間按司には美しい娘がいて、婚約していた。長嶺按司はそれを承知のうえで、妻にしたいと仲間按司に申し込んだが、断られた。長嶺按司は、「聞き入れなければ攻め滅ぼすぞ、後日、返事を待つ」と、おどした。
 
 仲間按司は長嶺が攻撃して来ることを予想し、隣村に援助を求めた。あす快晴の日、長嶺は部下を連れて、国場川上流で舟遊びをしていた。好機至る、と仲間按司は先手を打つ。両兵は川辺で奮戦したが、長嶺兵は敗れ、長嶺は馬にまたがって城に逃げ帰った。
 
 仲間按司は後を追った。長嶺は城内の井戸に馬を落として投身自殺に見せかけ、ひそかに行方をくらましたと伝えられる。長嶺按司は金良・長堂・嘉数・真玉橋・根差部の村を領有していたようである。
 
 その後、長嶺按司の一族が城を継いだ。長嶺城は南山系であったが、南山王をめぐるうちわもめに嫌気がさし、中山に寝返った。そして、中山の尚巴志軍が南山城(高嶺城)に攻め入ったときは、中山に加勢したといわれる。城跡の手前に長嶺按司墓がある。
 
 数代後の尚金福王(1450年代)のころ、長嶺按司は南京で製糖法を習い、琉球で製糖した砂糖を日本で売りさばいてもうけた。それが王府にばれて、八重山に流刑になった。Img_1339



 こんな長嶺按司をめぐる逸話が紹介されている。ということは、長嶺按司は、一人ではなく、何代も按司としてこの地にいたのだろうか。
 
 上間の石獅子、拝所を見た時は、もっとも上間に近い南山側の拠点として、長嶺城があり、対峙していたので、南山の糸数グスク、玉城グスク、長嶺グスクへの「返し」(ケーシ)があったと理解していた。でも、この比嘉氏の解説を読むと、長嶺城が南山側だったのは、三山時代の尚巴志が中山王になった後くらいまで。尚巴志が北山を攻め滅ぼしたあと、南山の攻略に向かった1429年頃には、中山側に加勢したことになる。となれば、長嶺城の役割も時代によって、大きく変わったことになる。

 

 写真は、長嶺城跡から上間を望む。

2013年2月16日 (土)

巨人軍紅白戦を見る

 プロ野球キャンプたけなわの沖縄。読売ジャイアンツが13日から那覇キャンプに入っている。16日、土曜日は沖縄出身の宮国投手と、注目新人の菅野投手が紅白戦に先発するというのでかけつけた。

Img_1374 着いた時は2回の裏、菅野が投げていた。スピードはマックス143キロくらいだが、なんか玉が重そうだ。残念ながら宮国は3回は交代で見れなかった。宮国、菅野とも2回、ヒット1本で抑えた。下は、菅野だ。

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 巨人主力は、WBCに行っているので、初めて見る選手が多い。そんななかで、有名選手といえば、高橋由伸。打席に入ると、盛んな拍手が起きる(下)。

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 新外国人のМ・アコスタが登板したが、7年目、横川に右翼席にホームランを打たれた。あまり使えないかも?

 Img_1375 バックネット前の正面に原監督が陣取って見ていた。みんな盛んにカメラを向ける。隣にだれかおじいちゃんが座っている。後ろから見るとわからない。場外の大型ビジョンに映っていた映像を見てビックリ。

Img_1373 この顔はどう見ても、元横浜監督、昨年まで中日投手コーチをしていた権藤さんではないか。右手でホホをつくしぐさが、権藤スタイルなのだ。でも、権藤さんとすれば、なぜコーチでもないのに、グランドに入って、原監督と一緒にいるの?不思議。そのうち、別の人が隣に座った。

 Img_1372 土曜日なので、けっこう観客が多い。県外から来ている人も多い。野球キャンプは、観光シーズンオフの沖縄にとっては、大切なお客さんだ。

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 私の前の席にいた女性二人連れは、いずれも宮国投手のユニフォーム姿。背番号30。沖縄での宮国人気は高い。昨年はプロ2年目で6勝あげた。今年は、もっとブレイクしてほしい。地元糸満からも、応援に来てるはずよ。

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 キャンプガイドブックの表紙でも一番前で投げる姿は、背番号30.宮国だ。

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 澤村は、残念ながら宮崎なので、こんな看板だけ立っていた。別に巨人応援団ではないが、宮国投手には、10勝以上あげてほしいなあ。

 今年のプロ野球では、ソフトバンクに1位指名された沖縄出身の東浜巨(ナオ)投手が注目の的。交流戦では、宮国と東浜の投げ合いが見られるかもしれない。

 














2013年2月15日 (金)

上間・識名と縁が深かった尚徳王

上間・識名と縁が深かった尚徳王

  第一尚氏の最後の第7代国王、尚徳の墓が識名にあることをブログで紹介した。なぜこの地にあるのか、まだよくわからなかった。『上間誌』を読んでいると、尚徳王が識名・上間地域と深いかかわりがあったことがわかる。『上間誌』を参考にして、少し紹介しておきたい。
 
 尚徳は父、尚泰久王の死によって1460年夏、即位する。尚徳は尚泰久の三男である。長男・二男が健在だったにもかかわらず、三男の尚徳が即位したのはなぜか。王としての資質があったのか。それとも長男、次男、四男は母(王妃)が護佐丸の娘で、父の尚泰久が護佐丸を討ったので「父子の仲は悪かったと考えられる」(比嘉朝進著『沖縄戦国時代の謎』)からだろうか。側室の子、尚徳が即位した。
 
 尚徳の養育役である大守役(ウフヤカー)となっていたのは、上間の支配者・安謝名(アジャナ)であった。安謝名にとって、「幼少のころから成長を見守ってきた尚徳が、兄たちを押し退けて王位に即いたことに鼻高々であったに違いない永年の苦労がむくわれた瞬間であった」(『上間誌』)。001
 
 在位わずか9年、29歳の若さで尚徳王は死去した。尚徳は、王府の正史では暴虐な王と評されているが、武芸に秀で、積極果敢な王で、中国への進貢、朝鮮、日本、東南アジアとの積極的な交易など進めたことで知られる。凡庸な王ではないことは確かだ。
 
 尚徳王の死については、さまざまな伝承がある。
 
 久高島に参詣していた折、首里でクーデターが起き、金丸が王位についた。尚徳王は帰途、海上で身を投げたという説。あるいは、王は従臣らと北部に逃れた。喜界島に逃れた。宮古島に逃れたなどなど。
 
 安謝名家の伝承によれば、尚徳王は身を投げたのでも、北部に逃れたのでもなく、安謝名に身を隠していた。しかし、三か月後風邪をこじらせて死亡したという。遺体はカネマン御墓(安謝名家の御墓、今の尚徳王御陵蹟碑)に葬られたとのことだ。 

 もうひとつの縁は、識名には尚徳王の重臣・屋比久(ヤビク)がいたことだ。屋比久は尚巴志(ショウハシ)の長男の子、すなわち尚巴志の孫に当る。尚徳王も尚巴志の孫である。二人は従兄弟の関係にあった。

 識名の屋比久家は尚巴志の孫・屋比久子(ヤビクシー)を祖とする屋比久門中の元屋である。「子」は敬称である。
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 上間、識名に伝わる伝承がある。尚円が首里城でクーデターを起こしたとき、識名の屋比久子が「サッタルムンサッタルムン」(やられた)といって、上間の安謝名子のもとで飛んできた。陵墓が焼き打される前に遺骨を隠さなければならない。二人は密かに行動した。

沖縄タイムス「歴史の舞台」(平成12年12月30日)に次のような記事が掲載されている。

第一尚氏歴代の王たちの遺骨は首里の天山陵に葬られていたが、尚円が陵墓を焼き打ちすると恐れた尚徳の近親者の平田子や屋比久子らが王たちの遺骨を運び出した。天山陵から夜陰に乗じて運ばれた遺骨だが、尚円の追手に捕えられることを恐れて首里金城町に尚思達(ショウシタツ)、尚金福、尚泰久の遺骨を分骨して埋葬した。

 さらに彼らは尚巴志が北山討伐の際に駐屯し、妾の喜名東松田祝女(ノロ)の故郷である伊良皆(イラミナ、読谷村)の佐敷森の岩陰に尚巴志の遺骨を埋葬。尚忠、尚思達の遺骨は同村喜名の東にある竹山慶念堂に葬り、後世になって佐敷森に移したといわれている。

第一尚氏の三王の遺骨を埋葬した平田子、屋比久子の墓も王たちの墓の近くに建てられている…。

 

 読谷の尚巴志らのお墓については、ブログで別途、アップしているのでそちらを見てほしい。
 
 尚徳王の長男、佐敷王子志義は首里城でクーデターがおきたとき、首里城内の真玉森で母とともに殺害された。次男、浦添王子は守役(ヤカー)に助けられ薩摩へ逃亡した。三男、屋比久大屋子は乳母とともに佐敷間切の新里に逃亡した。
 
 

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 屋比久大屋子の碑は現在、上間の石獅子から少し東に行った道路下、墓苑の一角にある。もとは逃げて行った先の佐敷にあったけれど、尚徳王のお墓の近くがいいのではと沖縄戦のあと、ここに移された。

 
 碑の裏に、尚徳王の三男、屋比久大屋子の墓は従来佐敷村字新里仲嶺森に在ったが、1965年、現在地に碑を建立して奉迎した。楊氏屋比久門中と記されている。

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尚徳王が葬られたと伝えられるカネマン御墓は、三山時代の中山王・察度の子、カネマン按司とその子孫の墓であるという。上間の安謝名の娘が、察度王の側室となり、生まれた子がカネマン按司である。その子は、安謝名の養子として迎えた。
 
 尚真王の子が安謝名を継ぐまでの間の、安謝名家の墓がカネマンお墓である。

カネマンお墓について、『真和志市史』に記述がある。
 「識名部落の西表に『カネマンお墓』一名七門お墓(他の人は之を武士墓、又は真栄平墓と称す)というのがあるが、一説には尚徳王のお墓だと伝へられ、上間邑民共同で之を祭祀している。
 
 その構造は、一風異なった、掘抜き墓で、入口左側には袖墓が一つある。或いは殉死者の墓ではなかろうか」
 
 尚徳王のお墓には、七つの門があったというが、戦災と道路工事によって消失したとのこと。そこで、1969年、尚徳王の子孫とカネマン(金満)の子孫が安謝名に集まって衆議を起こし、一門の寄付によって御墓の跡地に[尚徳王御陵蹟]の碑が建立された。識名自治会はこれを祭祀し、6月の綱引きの日に重箱と魚三尾を供え、拝す慣わしになっている。
 
 尚、この地所は現在城間三郎氏の名義で、管理も同氏が行っている(『上間誌』)。008

 

 これらを読むと、なぜ識名のこの地に、尚徳の御陵蹟碑があったのかがよくわかった。この碑を見に行ったとき、丸い穴のあいた大きな岩の碑の裏側を見ると、金満」の文字が見えた。なぜこの碑が金満(カネマン)と関係あるのかが不思議だった。尚徳王とカネマンの子孫の人たちが、建立したのだった。
 
 今回も大半は『上間誌』の要約にすぎない。

2013年2月14日 (木)

那覇にある「ペリー」の名称の由来

 那覇市の米軍那覇軍港から近くの山下町には「ペリー」の名前がついたお店、病院など多い。なぜなのか?

 知り合いのおじいから「ペリーが上陸したところ」という話を聞いたことがある。ペリーは、日本に向かう前に、琉球に来て滞在し、沖縄本島を巡ったこともよく知られている。しかし、沖縄上陸地といえば、泊港のそばに記念碑が建っている。外人墓地の中である。

 2月7日付けの「週刊レキオ」でその由来が紹介されていた。
 「山下町は、土地を接収した米軍によって一時『ペリー町』と変更されたことに由来しているんですよ」と、那覇まちまーいコーディネーターガイドの柴井健司さんが語っている。
 第2次世界大戦中、マレーの虎と恐れられた山下陸軍大将の名前を外すために、自国の英雄・ペリーに改称したという説が有力だとか。

 山下町付近のペリーの名前の付くものを電話帳で調べてみると「ペリー歯科クリニック」「ペリー内科小児科医院」「ペリー美容室」「ペリー保育園」などいくつもある。

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          ペリー艦隊の一行が中城城跡で描いたスケッチ

 ただ、ペリー艦隊の一行が、那覇から本島の東海岸を北上し、金武町から恩納村を回り、西海岸を南下して帰ってくるまでの記録『琉球訪問記』を読んでも、山下町付近に上陸したとか、そのあたりでで何か行ったとか、そういう記述は出てこない。だから、米軍が一時、改称して「ペリー町」にしていた名残だという説明は、説得力がありそうだ。

2013年2月13日 (水)

立派な井泉・上間ガー

立派な井泉・上間ガー
 

   上間は高台にあるが、井泉が9つもあるという。そのうち、公民館近くに上間ガー(村井、ムラガー)を見た。共同井戸とも呼び、飲料用井戸、洗濯ガー、小堀(池)からなる。

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 『琉球国旧記』『遺老説伝』に次のような逸話が載せられている。
 この井戸の北側に、聡明で容貌も人一倍すぐれて、みるからに上品な若い女性が暮らしていた。女性は井戸へ水汲みに行いっていた。王様がこの地を通るたびに見かけて、思いを寄せ、城中によんで妾にして可愛がった。「真嘉戸樽按司」(マカトタルアジ)という号まで付いたので、この井戸は「真嘉戸川」(マカトカア)というようになり、さらに「真川」(マガア)と改名したという。『上間誌』はこの真川が上間ガーだとしている。
 また、大元屋の一つ、外間家の娘マカトラヌアンジが井戸を掘り当てたため、「上間マーカーガー」(真川井)の名前がついたという伝承もあるそうだ。
 上間ガーは、水質、水量ともよく、上間のほぼ全世帯をこの井戸一つでまかなったという。村井は生活用水を供給するだけでなく、一種の社交場であり、村人の心のよりどころでもあった。産湯も村井の水を汲んで沸かしたという。
 
 

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 不思議なのは、上間は高台にあるのに、水が豊富なことだ。『上間誌』は、その理由は地域の地質にあるという。
 本島中南部の地質は、琉球石灰岩層だが、風化を免れた琉球石灰岩層は高所に残って台地を形成する。上間のある識名台地もその典型。琉球石灰岩層は、小さな空洞があり、降雨が浸透して空洞に溜まる。石灰岩の下部にある泥岩(クチャ)は水が浸透しないので、
 石灰岩層はさながら水タンクのようになる。それがゆっくり染み出し、泥岩の表面を伝わって流れ、水脈をつくる。井戸を掘り、この水脈に当たれば井戸になるという。
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 井戸のそばに大きな池がある。村小堀(ムラグムイ)と呼ばれる。上間ガーから流れた水や洗濯水を受け止め、防火用水や馬、野菜を洗うのに利用した。雨水を受け止め、水量を調節して洪水を防止する役目もあった。各地で井泉を見たけれど、これほど大きな池は、沖縄本島では見たことがない。
 上間ガーの小堀は、青年会が管理し、年1回、青年会総出でクムイサレーイ(池の浚渫)が行われ、周囲から流れ込んだ土砂をかきだしたという。
 『上間誌』は、字誌としてよくまとめられているので、読んでいてとても興味がわく。以上の記述も、ほとんど同誌からの紹介である。

2013年2月12日 (火)

長嶺城への「返し」の拝所

長嶺城への「返し」の拝所

   上間の石獅子を見に行った時、上間中央公園(クワディーサーバンタ)の広場に、拝所があった。3個の石と3個の香炉がある。もとは3つの拝所は近接してあったけれど、崖の崩落などによって崩壊したので、公園の整備の時、一か所にまとめたものだ。
 この場には何も説明するものがない。『上間誌』で、この拝所の解説を読んで驚いた。
 向かって右側の拝所は、豊見城市嘉数の崖上にあった長嶺城への返し(ケーシ)で、向こうから上間へ戦を寄せてこないようにとの願いだという。南山勢に対する「返し」は、石獅子だけでなく、拝所まで長嶺城から災いがこないようにという「返し」だったとは。

Img_1276 上間・識名は、識名台地と呼ばれる高地にある。上間の前方、嘉数台地には南山側の長嶺城がある。上間は南山側に向き合う自然の要塞だった。琉球の「戦国時代」と呼ばれる三山時代のことだ。中山王を攻め落とし、南山、北山の制覇を目論む尚巴志(ショウハシ)は、この地の支配者、上間村の安謝名(アジャナ)に識名台地を守護させた。
 南山側にとって、首里城の前面に立ちはだかる上間村の安謝名は、首里城攻略のうえで大きな障害になっていた。識名台地を押さえなければ首里城へ兵を進めることはできない。長嶺グスクと上間は指呼の間にあり、長嶺グスクの兵の動きは上間の物見台から肉眼で監視できるほど間近である。写真の向こうに見える高台に長嶺城跡がある。南山側の豊見城軍にとって、目の上のこぶ安謝名を打ち亡ぼし、識名台地を手中におさめ、尚巴志の南進を阻止したかった。ひいては首里城攻略の足がかりにしたかったのであろう。

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          上間の前方にある嘉数台地


 いつのころか定かでないが、女性がご馳走を作り遊楽するお祭り「三月遊び」の日に、突如豊見城軍が上間に押し寄せてきた。おそらく三山分立の時代のころと見られる。
『上間誌』は、その時の伝承を古老から聞き取り、掲載している。
「その日、上間は三月遊びの当日で道ズネーイ(歌い踊りながら練り歩く)して行進していた。子どもから年寄りまで歩ける者は皆、全女性が道ズネーイに参加していた。チジンとタイコで歌踊りをしながらいつも通り何事もなく順調に道ズネーイは進行し、クワディーサーバンタに近づいた。道ズネーイも終番(盤)になり、行列はいやがうえにも盛り上がって歌や踊りが最高潮に達していた。丁度その時、サーターヤービラ(南斜面の旧道)から上がってきた豊見城(南山勢)の軍勢と鉢合せた。
 当時(三山時代)、上間は有力者安謝名が首里城の南の守りとして南山勢に目を光らせていた。豊見城軍は安謝名を撃たんとして上間に攻めてきたのか、あるいは一挙に首里城まで攻めほろぼそうとしたのか、とにかく女子等はとっさの判断で行く手を塞いだ。
 当時のサーターヤービラは農道で道幅も狭く、しかも登りきった村の入口は割取い(ワイトゥイ)になって道の両脇は土手になっていた。豊見城軍は先頭の行く先を押し止められ身動きができない状態に陥った。豊見城軍は『おんな、子どもに手はかけられない』といってそのまま引き返したという」


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          上間中央公園(クワディーサーバンタ)  


 上間の三月遊びでは、女性の棒踊り「ハイファー棒」が踊られる。この踊りは、豊見城軍が攻めてきたとき、女性たちが真っ先に立って、敵方の進路を遮り、気勢をあげて味方の軍勢を声援し、敵方は勢いを削がれて攻撃を止め退いたという故事に因んで行われるようになったといわれている。
 一時、明治40年頃学校から行事の禁止令が出て三月遊びを中止した。ところがその年疫病がはやり、若者が次々に死亡した。これは行事を止めた天罰だと、協議の結果、上間の三月遊びは豊見城の軍勢を阻止した歴史的な由緒ある行事だから止めてはいけないとして復活したそうである。
 拝所の話に戻る。3つの拝所の中央は、上間の村を守る「ジーチヌカミ(土地の神)」で、サジャカイ(授かるの意で神を斎き祀る者)の拝所である。左側は、「クサンの御獄(ウタキ)」。東御廻り(アガリウマーイ)、米の発生地(三穂田)への御恩感謝のお通し(『上間誌』)だとのこと。つまり、お米の恵みへの感謝と豊作への祈りを込めて、米の伝わったと言われる発生地に向かって祈願するのだろう。
 それにしても、石獅子だけでなく拝所まで、戦による災いを避ける願いが込められているのは、初めて見た。このように石獅子も拝所も、戦がらみの「返し」というところに、上間の置かれた地勢や歴史的な背景がうかがえる。

 以上、大半は『上間誌』の要約である.

追記

 長嶺按司は、尚巴志の南山攻めの時は、中山側に加勢したそうだ。

2013年2月11日 (月)

南山のグスクに向かう上間の石獅子

上間の石獅子

 上間には名高い石獅子がある。上間の石獅子は、昔は5体あった。今は3体残っている。設置年代は不明である。
 地図で場所を確認すると、集落の東南端にある上間中央公園の近くにあるらしい。公園でグランドゴルフをしていたおじい、おばあに聞いてみた。ところが、3人に聞いたがいずれも「私は上間の者ではないので、わからない。公民館で聞いてみたらどうですか」というではないか。グランドゴルフは、あちらこちらからプレーするために集まってくるので、地元の人とは限らない。
 ただ、公民館に行くまでもなく、公園から道沿いに少し東に行くと、急斜面の崖上に石獅子はいた。

 『上間誌』で石獅子のことを読んでみると、沖縄の石獅子についての解説があったので、これを参考にして紹介しておきたい。

 石獅子はたいてい、魔除けと火災防止を目的としている。沖縄では、かつて80余りの村落に存在していたが、いまは20余の村落の獅子は消失し、現在では60余の村落に残っているという。Img_1282
          夫婦の「ミートゥンダー」石獅子


 村落の石獅子は、集落の入り口や、村の高台の見晴らしのよい場所に設置されている。あちこちの石獅子を見ていると、ところによって、その目的や対象が異なっている。村に侵入してくる悪霊を追い払うためのものが多い。これは、特定の具体的な物に向けられているのではない。これに対し、火事をもたらすフィーサン(火山)やグシク(城)、怪物と考えられる岩などに向けられているものもある。
 獅子像は、古くは浦添ようどれ陵や首里城、玉陵などにも設置された。「これは魔除けよりも権威の象徴としての目的のものであろう」(『上間誌』)と見られる。
 民間に史実として最初に獅子像を彫刻して用いたのは、富盛の石獅子ではないかといわれる。しばしば火災に見舞われ、風水で八重瀬岳を火山と見立てて、火災を防ぐために造った。「村落獅子が普及するのはそれ以後だろうといわれている」(『上間誌』)。
 那覇市内には7カ所に獅子像が置かれていたそうだ。
 
 上間の石獅子は、いずれも悪風返し(フーチゲーシ)で邪気を払うことを目的としている。
   昔、豊見城軍が攻めてきたという。また糸数城とも合戦したことから、石獅子はこれら、かつて対立していた南山勢力に向かっているようである。
 上間の石獅子は、火伏せ(防火)の伝承はない。「これらのシーサーはすべてフーチ(悪風)を返すムラのフンズンガナシ(本尊さま)であった」そうだ(『上間誌』)。
 12月26日には、豆腐、大根、昆布、豚肉を大鍋で煮て、串刺しにしてから獅子像に供え、ノロ以下神女らがフーチゲーシの祈願を行った。祈願がすむと子どもたちにもウサンデー(供物を下げていただく)させた。
 る。

 
「カンクウカンクウ」
 上間村には現在木彫りの獅子一体と石彫の獅子三体が村の守護神として祀られている。石彫りの獅子は元々、五体あったが、さる太平洋戦争で二体は焼失した。
 「カンクウカンクウ」は、上間村の古くからの伝承で、こう呼ばれている。面白い名前だが、名称のいわれはわからない。制作者、設置年代も不明だ。

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 石獅子は、他の地域では、集落の路上や山の上にそのまま据え置かれているものが多いが、上間では頑丈なコンクリートと鉄柵で囲われている。丁寧な説明板も設置してわかりやすくしてい

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 この石獅子は、南山八重瀬グスクへの返しといわれている。村の南側のムンヌキムン(魔除け)、フーチゲーシ(悪風返し)、災厄を払う村の守り神である。八重瀬グスクのある八重瀬岳は、通常は「火山」と見られて、「火伏せ」(防火)の目的で石獅子が置かれている例が多いが、上間のこの石獅子は、防火のためではないとのこと。
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 「琉球の三山紛争時代、上間は南山との戦に幾度も参戦した。石獅子は敵方からの災いを払うために据えられたもので、すべて南山勢を睨んでいる」と説明板に記されている。
 この石獅子は、頭部だけだ。沖縄戦でも幸い無疵で、昔の場所に設置されていたとのこと。獅子は古いけれど、風化は比較的軽くて、元の姿をとどめている。口は閉じている。私が見たときは、少し草が生えてきていた。2005年に改修して設置場所を高くしたという。
 

     「ミートゥンダーシーサー」

 「カンクウカンクウ」から少し東に回ると夫婦の石獅子「ミートゥンダーシーサー」がある。オスメス二体のシーサーは、いずれも口を開いている。二体ともかなれ風化している。左側の一体は、移転の際に二つに割れたのでセメントで接着したという。

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 この石獅子は、糸数グスク、玉城グスクへの返し(ケーシ)と言われている。由来は、琉球の三山紛争時代に上間按司が糸数グスクを攻め滅ぼした。その怨念が悪霊となって寄せてくるのを押し返す悪風返し(フーチゲーシ)で、災いを村に入れないための守り神である。
 「伝承では、玉城グスクと交戦したことは伝えられていないが、玉城グスクと親子の関係にあった糸数グスクと交戦したことが伝えられている」ので、「この時、親戚の玉城グスクとも干戈(カンカ)を交えた」と考えられている(『上間誌』)。


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Img_1284         メスとオスの「ミートゥンダーシーサー」


 制作者、設置年代は不明。この二つの石獅子は、沖縄戦で崖下に落ちていたが、草刈りの人たちが運よく見つけたそうだ。もともとはここより24㍍ほど北側にあったけれど、私有地のため、2005年に移設した。

2013年2月10日 (日)

アルテで「平和の願い」を歌う

 毎月恒例のアルテ・ミュージック・ファクトリーの2月のテーマは「節」。民謡「平和の願い」を歌った。この曲は、いま県内各地で上映中の映画「ひまわり」で、主演の長塚京三さんが、映画の終わりに、三線片手に歌ったのが印象深い。
 映画は、1959年にうるま市の石川・宮森小学校への米軍ジェット戦闘機の墜落事故がテーマだった。沖縄はその後も、沖国大へのヘリコプター墜落事故やいまも危険なオスプレイが飛び回る現実を描く。Img_1290

 「平和の願い」の歌詞は、「沖縄という島はいつまで戦世が続くのか。いったい安々と暮らせるのはいつのことか」と歌う。「節」はウチナーグチでは「シチ」と読む。「安々と暮らす節はいつか」と歌うので、今月のテーマと合っているだろう。
 出番になり三線を弾き出すと、まったく出だしができない。緊張なのか、練習のときはなんの問題もなく弾けるのに、弾けない!何回も出だしをやり直して、やっと軌道に乗った。

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 この歌は、沖縄が復帰する前、1969年に作られている。まだベトナム戦争が激しかった。だから「沖縄はいつまで戦世か」というのは、リアルな現実だった。40年を経た今も、本質的には変わっていないだろう。
 歌詞は、このあと、「忘れるなよ、哀れな戦世。多くの人々の心に記憶をとどめて「上に立つ人も一般の県民も心を一つにして、平和を守ろう」と歌う。
 最後に「思うことはだだ一つ 恋しい大和よ やがておひざ元に帰るうれしいことよ」と歌う。県民は、日本復帰によって、平和の憲法のもとに帰り、米軍基地の重圧から解放されることを夢見た。その心情が歌われている。

Img_1303 演奏は大失敗だった。ただ映画「ひわまり」を見た人、チケットを買って見る予定の人もいた。中でも、自分でギター伴奏をしながら歌うテノール歌手のIさんは「映画は見ました。この歌も、少し前に合唱で歌ったんですよ。私の友人があの宮森小学校の校長もしていたんですよ」と話してくれた。三線仲間のTさんは「私は墜落事故と地の縁があるんですよ。戦後石川に住んでいて、あのジェット機が墜落した家の向かいの家に住んでいたんですよ。事故の時はもう那覇に戻っていたけれど、宮森小学校にも通っていた。映画のチケットも買ってるから、見に行きます」と語っていた。

 意外にも、ジェット機墜落事故は、いろんな形で周りの人々にも関係していたことを改めて知った。

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 三線では、宮古民謡の名手、Tさんが、教えているNさんと一緒に「安里屋ユンタ」を演奏した。Nさんは、まだ習い始めて半年というのに、しっかり演奏し歌っていた。たいしたものだ。

Img_1313 ツレは、ピアノ独奏で3曲披露した。「ムーンリバー」「グリーンスリーブス」「想い出のサンフランシスコ」は、いずれもポピュラーの名曲。緊張してたのか、出だしは少しつまづきがあったが、そのあとは落ち着いて弾けた。みんな楽しめたようだ。3曲目の「想い出のサンフランシスコ」は、ツレの伴奏で私が歌った。

Img_1319 フランク・シナトラ盤にそって歌った。楽譜はピアノ演奏用のため、歌にはキーがシナトラより3度高いので、最後のサビの部分の高い声が出るか心配だった。風呂場で発声練習した成果なのか、なんとか歌いきった。

 ピアノ演奏には、デキシーランドジャズバンドでドラムを担当したSさんが残っていて、ツレが頼んだら、ドラムで加わってくれた。一度も手合わせないまま、ぶっつけ本番だったがピアノ、歌を引き立ててくれた。さすがである。
 慣れない英語歌詞の洋楽ナンバーの歌に、テナー歌手のIさんは「民謡より良かったよ」と声をかけてくれた。ギターのМさんも「英語の発音もバッチリでしたね」と言ってくれた。洋楽はあくまで余興のたぐい。民謡より良かったといわれると、喜んでいいのか、複雑な感じもあるが、素直に受け止めたい。

Img_1299 今回は、珍しくデキシーランドジャズバンドが8人編成で、楽しいジャズを聞かせてくれた。エントリーが少なく、少し寂しい気がしていたが、こういう演奏があると盛り上がる。
 来月は「立」のテーマだ。さあ、何をやろうかなあ。失敗を繰り返さないようにしっかり練習しなくちゃー!

2013年2月 9日 (土)

 稲作発祥の地・受水走水

 稲作発祥の地・受水走水

 
沖縄の稲作の発祥の地として伝えられているのが、南城市玉城にある受水走水(ウキンジュハインジュ)である。
 『琉球国由来記』によれば、その昔、琉球の開闢の祖といわれるアマミキヨ(阿摩美久)がギライカナイ(ニライカナイ、海の彼方の理想国)から稲の種子を持ってきて玉城親田、高マシノシカマノ田に植え始めたという。
 また、伝説によると昔、稲穂をくわえた鶴が暴風雨にあって新原村の「カラウカワ」という所に落ちて死んだ。種子は発芽してアマミツによって受水走水の水田(御穂田)に移植されたという。300

この地は、東御廻りの拝所の一つで霊域になっていて、旧正月の初午の日には、田植えの行事「親田御願」が行われているとのことである。

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受水走水には、もう何回か行った。民謡三線サークルの遠足でも行ったけれど、ウチナーンチュのおじいでも、よく知らない人がいた。
 それにしても、沖縄本島では、いまや水田はほとんど見られない。金武町など少しはあるらしいが、まだ見たことがない。

2013年2月 8日 (金)

アマミキヨが住んだミントングスク

アマミキヨが住んだミントングスク

     南城市玉城の仲村渠(ナカンダカリ)の樋川(ヒージャー)のすぐ近くに、ミントングスクがある。ここに行ったのは2006年だからもう随分前のことだ。
 琉球開闢の祖といわれるアマミキヨが沖縄本島のヤハラヅカサに上陸し、浜川御獄に仮住まいしていたが、やがて丘陵部へ進出。ミントンの森に居住し、安住の地としてここに住み着いた。そしてこの地で子孫が繁栄して沖縄中に広がったと伝えられるそうだ。

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とても由緒ある史跡である。だから、東御廻りの拝所の一つである。

 グスクといわれるが、まだ軍事的な要素はほとんど見られない。小山の上に拝所があるという印象だった。
 「岩山の頂上に厨子(ズシ)を納めた墓がある。風葬の地」だった(『沖縄県の歴史散歩』)という。
 ミントングスクは、私有地で個人宅の庭にある。しかし、「史跡」として紹介されているし、東御廻りの拝所でよく祈願に来ていると聞いていた。それで、沖縄に来て、あまりよく知らないままに、バイクを庭に止めてグスクに登って見学させてもらった。
 下りてくると、この家の主から「勝手に入ってもらっては困る」とお目玉を食らった。当然のことである。事前に見学をお願いして、お許しをえてから見学させてもらうべきだった。そんな苦い思い出のある場所だ。
 沖縄の史跡は、けっこう私有地になっているところがある。中には、閉鎖されて勝手に入れない城跡もある。要注意である。

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2013年2月 7日 (木)

南部最大の城壁を誇る糸数城跡、その2

上間按司の糸数城攻めについて、『上間誌』から紹介する。
 尚巴志が中山王を攻め落とし、首里城を再構築し、琉球統一の準備に取りかかった。上間・識名は、南山側に向かい合う自然の要塞であり、尚巴志にとっても軍事上きわめて重要な地であった。上間の前方嘉数台地には南山側の長嶺城があり、玉城間切糸数城ではグスクを増強していた。Img_1278

 
 

識名台地の支配者、上間村の安謝名(上間按司)は察度王(尚巴志に滅ぼされた)の血筋ではあったが、尚巴志はこれを討たず、むしろ味方に引き入れ、識名台地を守護させた。「上間は中山の武将安謝名(子)の本拠地であったゆえ、村人も幾多の戦場にかり出された」とのべている。                
 上間按司は「中山尚巴志の大将として糸数グスクを攻めた」という。つまり、上間按司は単なる按司の勢力争いではなく、あくまで尚巴志の精兵として、三山統一に向けて、南山の有力な按司であり、重要な拠点だった糸数城、玉城城を攻め滅ぼしたということになる。そう考えれば、とてもよくわかる。
 糸数城を攻め落とした後、糸数親雲上(ペーチン、下田門中の先祖)が糸数グスクの監守として派遣されたという。

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    南部の島尻地方を前に見て長めの美しさを詠んだ「栄え行く上間」の歌碑 
 実は、まだ上間の地を訪れたことがなかった。ブログで紹介するうえで、急きょ訪ねてみた。上間は台地の頂上部にあり、国場川を挟んで南部の豊見城から南風原、さらに八重瀬町、南城市まで一望にできる絶景の地である。ただ、琉球の三山分立の時代は、南山と最前線で対峙する軍事的な要衝であったことがよくわかる。しかも、台地の南側は「バンタ」と呼ばれる急傾斜の崖になっており、南部からの攻勢を防御する自然の要塞のような地形でもある。
 この崖の頂上部にあたる場所に、いまも村の守り神といわれる石獅子が、2カ所(3頭)で南部に向かって建っている。その説明でも、「上間は南山勢との戦さに何度も参戦した」と記されている。

Img_1282 糸数グスク、玉城グスクの「悪風返し」とされる夫婦の石獅子
 そのうち「ミートゥンダ」と呼ばれる夫婦の石獅子は、糸数グスク、玉城グスクに向かっている。それは、糸数グスクを攻めたので、怨念が悪霊となって上間に寄せてくるのを押し返す「悪風返し(フーチケーシ)」だと言われる。上間按司が糸数グスクを攻めた歴史が、こんな形で今も残っているのだ。

 

2013年2月 6日 (水)

南部最大の城壁を誇る糸数城跡、その1

   南部最大の城壁を誇る糸数城跡

  首里のアルテで会う三線仲間のTさんと話していた時、南城市にある糸数城跡は、上間按司によって滅ぼされたという史話を教えてもらった。そういえば、糸数城跡は見に行ったけれど、ブログを始める前だった。それで改めて、アップしておきたい。
 

 南部には100余りグスクがあるそうだが、その中でも糸数城跡の城壁は規模が最大で、石積みの技術や保存状態もよいとされ、国の指定文化財となっている。とにかく、世界遺産に登録されている座喜味城跡や勝連城跡と匹敵し、場合によっては凌駕する長大な城壁である。
 座喜味城や中城城は護佐丸が築城や拡張したが、それは琉球が統一された後の15世紀のこと。糸数城は、三山分立の初期に玉城按司の三男、糸数按司によって築かれたという伝承がある。
 

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 城壁は、野面積みを基調としながら切石積みの部分で補強し、「アザナ」と呼ばれる物見台(写真)が特徴である。南北の物見台は高さ6㍍もあり、見上げるような立派な城壁だ。
 これだけの築城には膨大な資力、人力を要する。なぜ、この地にこれほどの巨城が必要だったのか、それだけの脅威があったということだろうか。
 落城については、伝承がある。糸数按司の部下に、比嘉ウチョウという城の兵頭(ヒョウガシラ、侍大将)がいた。ウチョウは大力無双で、その名は遠く首里にまで伝わっていた。
 ウチョウが城を増築するため、北部の国頭にまで材木を買い付けに行った時、ウチョウの留守を見計らっていたように、真和志地方(今の那覇市内)の上間按司が、大軍を引き連れて火攻めで糸数城を攻撃し、糸数按司を滅した。ウチョウも居宅に戻るところを、敵に囲まれて、ついに落命したという。


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 「上間按司は、糸数城の防御が一番弱くなる時期を攻めている」「グスクの拡張時期に滅ぼされた」と見られる(『糸数字誌』)。
 この落城の時期はいつなのか、はっきりしない。琉球が、北山、中山、南山の3つの小国に分立して、各地には按司が群雄割拠していた時代なのだろう。
 真和志といえば、昔は中山国であり、糸数城のある南部の玉城とは、地理的にもかなり距離がある。ただの按司同士の勢力争いとすればちょっと遠すぎる感じがする。

 
 
 注目すべきは、南部の佐敷出身の佐敷小按司、後の尚巴志が、1405年に同じ南部で勢力を誇っていた島添大里城を攻め落とした。さらには中山王、北山王、南山王を攻め滅ぼして琉球を統一したことである。いわば沖縄の戦国時代が終わりを告げることになる。糸数城の運命もこうした琉球の歴史的な波動と関係があるのではないだろうか。
 『糸数字誌』は、「玉城城跡の外郭線に位置するこの城は、群雄割拠と第一尚氏の三山統一の外圧により、次第に大規模で堅固な築城を余儀なくされた」と指摘している。つまり、初期の築城は14世紀前半であったが、尚巴志が島添大里城を攻め落とし、さらに中山王を攻め、琉球全土を制覇する動きの中で、大規模な築城に至ったことを意味  する。そう考えれば、糸数城が南部で飛び抜けた巨城であることも納得がいく。
 落城についても「通説として尚巴志が南山を滅ぼし三山統一をした頃糸数城も落城してその後今日まで廃城となっていた」、「一説によると玉城城に居た後の玉城按司も尚巴志の三山統一の時に滅んだというが、しきりに城を増強して命に服しない糸数按司の動静は中山の注目する所となり、ついに精兵をさしむけて討たせたのではなかろうか」(『糸数字誌』)と断じている。
 尚巴志が精兵を差し向けて討たせたと見られる。上間按司については、次に書く。

自然石のアーチ門のある玉城城跡

     自然石のアーチ門のある玉城城跡

「玉城(タマグスク)城跡」は、南城市字玉城にある。行ったのはもうずいぶん前だが、ブログには書いていなかったので、アップしたい。
 玉城付近は、グスク(城)がいくつもあり、「グスクロード」や「グスクロード公園」もある。由緒ある史跡が多い。
 玉城城跡は、伝承では、沖縄開闢の祖といわれるアマミキヨが築いたともいわれる。城主は、その子孫であり琉球の歴史の登場する最初の王統、天孫氏であったと言われる。でも、これはもう史実とはかなれかけ離れた神話的な世界である。
 グスクは自然の断崖を利用して造られており、一の丸には城門があり、中には方形に形作られた基壇がある。その上に小さな祠が建てられている。基壇の近くには、野積みの石垣に囲まれた岩があり、そこを「天づきあまつぎの御獄」として祀られている。
 なんといっても、頂上の自然の岩石をアーチのようにくり抜いた石門が見事である。沖縄の城跡では、アーチ門は多いがほとんど石積みである。自然の石をくり抜いたアーチ門というのは、他に見たことがない。
 英祖王統の第4代に玉城という王がいた。玉城王は、長男を西威王、次男を大城按司、三男を糸数按司に封じた。この初代の大城按司の次男が玉城按司になったと伝えられる(『糸数字誌』)。
 

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 話のついでに、1313年に王位についたとされる玉城王は、酒色に耽り、狩猟を好んで政務をかえりみなかったため、按司や百姓の信頼を失い、そのため自立して世の主(王)と称するものが、本島の南部と北部とに現われた。沖縄では中部の英祖王統と合わせて、北山・中山・南山の三山が分立する時代が訪れた。
 三山分立以後の英祖王統は、二山との武力抗争に疲れ果ててしまった。5代目、西威王はまだ10歳の若さで、母が専権をもっぱらにし、王統は権威を回復しえず、浦添按司察度(サット)が中山の支配者となった(宮城栄昌著『沖縄の歴史』)。
 

 本題に戻る。三山時代は、100年ほど続いた。玉城城は、三山分立の時代に改築城していた。しかし、尚巴志による三山統一の過程で、滅ぼされたようだ。
 
「玉城按司は、南山系であるので、中山軍の南山城攻略のとき、按司も戦死したのであろう。廃城となり、尚泰久王あるいは先王のころから、知念城・玉城城の御獄は、王家の東御廻りの参詣地となった」(比嘉朝進著『沖縄戦国時代の謎』)とのことである。
 毎年正月に、国王の命を受けた役人が国家の安泰、五穀豊穣の祈願をたて、国王みずからも隔年に1回、聞得大君(祭事を執り行う神女)などを引き連れて参詣したとのことから、玉城グスクは、霊場として古代祭祀をするうえで重要だった(ネットの「まるごと南部沖縄」)。
 城内は全域が聖域とされ、首里王府が雨乞いの時に使いを出して祈らせるなど、祈願所となっていた。「玉城は按司の居城でありより杜グスクであった」(『沖縄県の歴史散歩』)。東御廻り(アガリウマーイ)の拝所の一つとなっている。

2013年2月 4日 (月)

季節はチャンプルー

 2月に入ると、好天続きはいいけれど、今日4日は25度の夏日。熱い。夜もTシャツで書いている。カンヒザクラは那覇市内でももう咲き誇るのは当然だ。

Img_1147 奇妙なのは、サクラと同じとき紅葉もすること。漫湖公園のハゼは、台風で塩枯れしてその後、新緑が出たのに、なぜかしっかり紅葉している。

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 それだけではない。菖蒲(アヤメ)のような花も咲いている。これって、東京あたりだと6月位に咲くだろう。Img_1211
 今年はまだ見に行っていないが、ひまわりも北中城村で咲き誇っている。写真は昨年のものだ。
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いったい沖縄の季節はいまいつなのか。まったくチャンプルーである。毎年、経験しても、少し変な気分になる。

まあ、サクラも菖蒲もひまわり咲く。紅葉もするということは、気温が大和的には春や秋の温かさだということなのだろう。

2013年2月 2日 (土)

識名地域福祉まつりは芸能満載

 那覇市の第6回識名地域福祉まつりが2月1,2の両日、開かれた。好天のもと「いちゃい語らな 子孫揃てぃ」をテーマに識名老人福祉センター・識名児童館にたくさんの人たちが集った。

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 青空が広がり、汗ばむ陽気。識名老人福祉センターは昭和60年(1985年)設置されたそうなので、28年になる。それまでセンター祭りだったのが、6年前から地域福祉まつりとなり、近くの老人施設や保育園児から高校生、地域の人々も参加する祭りとなった。

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 会場にはいつも、センターを利用する90歳以上の方々の名前が張り出され、表彰もされる。昨年から大幅に増え、ことし21人の名前がズラリと並んだ。最高齢は96歳、95歳と続く。初日は、来賓席にズラリと顔をそろえていた。

Img_1223 幕開けは、いつも「かぎやで風節」(写真は2日目の古典中級同好会)。スゴイなと思うのは、2日間で50もの演目が繰り広げられること。前は3日間開催したとか。
 それに、70,80はまだ若い。90歳を過ぎても踊るのは当然! 初日は、93歳のおばあちゃんが、一人で「芭蕉布」を踊った。2日目の、民踊「咲かさなやー」は出演した7名のうち5名が90歳以上。あとの2名もやがて90歳になるという。なんと元気なことか。

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 琉舞はとてもあでやかだ。琉舞講座の人たちが「貫花・南嶽節」(ヌチバナ・ナンダキブシ)を踊った。貫花とは、花ビラを糸に通したもので、レイ。みんな首にかけて踊っている。踊る姿は「美童」(ミヤラビ、若く美しい女性)だ。 Img_1250
 太鼓演奏は、意外にも男がいない!女性ばかりだ。でもなかなか迫力がある。舞台には一人で何回も出る人たちもいる。なかでも、知り合いのOさんなんか、日舞に太極拳、民謡三線、それにフラダンスと出演。すごいエネルギーである。よくこれだけ練習できるものだと感心した。「フラダンスの衣装、似合ってますよ」と声をかけると、笑顔が返ってきた。

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 なんといっても人気があるのは、幼児の演舞。「お遊戯」「琉舞」として、合計5組が出た。

Img_1262 出演するのは、みんな地域の保育園、幼稚園の子どもたち。感心するのは、ほとんどが沖縄の芸能を披露すること。みんな楽しそうに踊る。可愛い。拍手喝さいである。
 子どもの出演するとき、舞台前をヤンママ、ヤンパパが陣取り、カメラ・ビデオで撮りまくる。でも子どもの演舞が終わると、さーといなくなるのが少し寂しい。

Img_1241 民謡三線同好会の演奏が始まった。「恋の花」「伊計離り節」(イチハナリブシ)の2曲である。私の通っているサークルである。毎週、練習に来ていても、本番には出たがらない人もいる。でも、昨年、春から曲目を決めて練習を重ねてきたので、ばっちりとあっていた。Img_1247
 歌詞を少し間違えて終わろうとした人がいたが、全体では修正して最後まで弾き終えた。ツレに尋ねてみると、聞いている人にはわからなかったそうだ。
 一番前に座っていた古典上級に出るおばあちゃんは、手で打ち鳴らす三板(サンバ)を持って、歌に合わせて鳴らして楽しんでいた。毎月、アルテで顔を合わせるTさんも、見に来てくれていた。感謝である。
 それにしても、ごく狭い市内の老人福祉センターでの祭りで、地域を含めても、伝統芸能をはじめ50の演目を2日間にわたり披露できるのは、沖縄の芸能の力を見る思いである。

2013年2月 1日 (金)

辺戸岬に建つ「祖国復帰闘争碑」

辺戸岬に建つ「祖国復帰闘争碑」

沖縄がアメリカ統治から日本に復帰してことしで四一周年を迎えた。МV22オスプレイの配備に反対する県民大会実行委員会代表と41全市町村長、議長(代理を含む)、県議会議員による東京大行動が1月27、28両日、繰り広げられた。復帰後最大の要請行動であり、保守、革新の枠を越え、「オール沖縄」による集会、デモ、政府要請は、画期的である。

                           

 

こうした歴史的ともいえる上京行動に、立ち上がらざるをえないところに、復帰41周年を迎えた沖縄の現実がある。危険なオスプレイの沖縄配備、海兵隊普天間基地の辺野古移設――いずれも、県民ぐるみで反対する声を乱暴に踏みにじるものである。015                             辺戸岬


「この復帰40年目の沖縄で、米軍はいまだ占領地でもあるかのごとく傍若無人に振る舞っている。国民主権国家日本のあり方が問われている」と政府に提出した建白書は鋭く指摘している。
 
 前置きが長くなったが、この建白書を読んでいて思い出したのが、沖縄本島の最北端、辺戸岬に建つ「祖国復帰闘争碑」である。

この「闘争碑」に刻まれた文言は、復帰の時の県民の思いを余すところなく伝える歴史的な名文である。沖縄の現実を見て考えるとき、たえず読み返してみたくなる碑文である。辺戸岬に行ったのは、もう大分前だが、ブログにはアップしていなかったので、改めて「全国の そして全世界の友人へ贈る」と題された碑文を紹介しておきたい。Photo


 

「吹き渡る風の音に 耳を傾けよ 権力に抗し 復帰をなし遂げた大衆の乾杯の声だ 打ち寄せる波濤の響きを聞け 戦争を拒み平和と人間解放を闘う大衆の雄叫びだ
 
 “鉄の暴風”やみ平和のおとずれを信じた沖縄県民は 米軍占領に引き続き1952年4月28日サンフランシスコ「平和」条約第3条により 屈辱的な米軍支配の鉄鎖に繋がれた 
 
 米軍の支配は傲慢で 県民の自由と人権を蹂躙した 祖国日本は海の彼方に遠く 沖縄県民の声は空しく消えた われわれの闘いは 蟷螂の斧に擬せられた
 
 しかし独立と平和を闘う全世界の人々との連帯であることを信じ 全国民に呼びかけ 全世界の人々に訴えた
 
 見よ 平和にたたずまう宜名真(ギナマ)の里から 27度線を断つ小舟は船出し舷々相寄り勝利を誓う大海上大会に発展したのだ
 
 今踏まえている土こそ 辺戸区民の真心によって成る沖天の大焚火の大地なのだ
 
 1972年5月15日 沖縄の祖国復帰は実現した しかし県民の平和への願いは叶えられず 日米国家権力の恣意のまま軍事強化に逆用された
 
 しかる故に この碑は 喜びを表明するためにあるのでもなく ましてや勝利を記念するためにあるのでもない
 
 闘いをふり返り 大衆が信じ合い 自らの力を確め合い決意を新たにし合うためにこそあり 
 
 人類の永遠に生存し 生くとし生けるものが 自然の摂理の下に 生きながらえ得るために警鐘をならさんとしてある」

碑文の中の「1972年5月15日 沖縄の祖国復帰は実現した しかし県民の平和への願いは叶えられず 日米国家権力の恣意のまま軍事強化に逆用された」という指摘は、41年を経ても続いている。「基地のない沖縄」への願いは裏切られた。

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政府は口を開けば「基地負担の軽減」と言うが、その約束とは、真逆の現実が進んでいる。2月2日には、安倍晋三首相が沖縄に来る。沖縄関連予算で県の要望に「満額回答」したのを「アメ」として、辺野古移設のなど進めようという思惑があるだろう。だが、そんな「アメ」と引き換えに基地負担の増強を受け入れると見ているとすれば、大いなる思い違いである。東京行動は、もはや引き返さないところに「オール沖縄」として、至っていることを示した。

 県民ぐるみで日米両政府を動かした「復帰闘争」は、40年以上を経たいま、新たな「オール沖縄」の運動として燃え上がりつつあることを感じる。

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