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2013年2月26日 (火)

護佐丸の墓を訪ねる

護佐丸の墓

                           

 

 中城城跡には何回も行ったが、近くにある護佐丸の墓はまだ見ていない。一度見たいと思い訪ねた。中城城跡の入り口の受付で尋ねると、おやじさんが丁寧に教えてくれた。普天間自動車教習所の前の道路を南東に少し進むと、左に入る小道があり、50㍍ほど行くと、標柱が建っていた。Img_1474

 長い石段を登ると墓が見えてくる。この墓は、護佐丸の死後、その子孫の毛氏豊見城家によって築かれたもので、護佐丸をはじめ第7代までの子孫の遺骨が安置されているという。

 現存する亀甲墓としては県内で最も古い時代のもので、文化的にもきわめて価値の高い墓だと、中城村のホームページでは書いている。Img_1478

 護佐丸は15世紀に活躍した按司(豪族)だった。中山王の尚巴志が琉球統一に向けて、1416年の北山攻めを行ったの際は、もともと先祖が今帰仁城を追われた一族にあたる護佐丸が従軍し、今帰仁城を攻略した。護佐丸はその後、座喜味城を築き、さらに中城城に移り、中城按司として城を拡張した。築城の名手と言われた。

 護佐丸の娘が尚泰久王の正室になっていた。しかし、勝連城にいた阿麻和利(アマワリ)が護佐丸に謀反の動きがあると首里王府に告げ、王府は阿麻和利に討たせた。護佐丸は自害したと伝えられる。その後、尚泰久の娘、百度踏揚(モモトフミアガリ)を妻にしていた阿麻和利も、王府に討たれた。Img_1480

 護佐丸は唐名を毛国鼎という。墓の前の碑には、その名が刻まれている。

お墓は、巨石を使った石積みでとても立派だ。屋根も緩やかなカーブを描いて美しい。何か、組踊の創始者、玉城朝薫の墓に似ている。

Img_1483

ただ、文化的価値が高いという割には、県道からの入り口に案内する看板もない。お墓の説明をするものもないし、文化財指定の標識もないのが残念だ。

墓のある場所は、高台のデーグスク(台城)と呼ばれるところだ。護佐丸の以前に中城を統治していた按司(先中城按司)の居所とも伝えられている。

 

Img_1485_2
 中城村ではもっとも高い位置にあり、標高170㍍を超える。絶景の地である。

 眼下には、中城湾と西原、与那原方面が広がり、その先には佐敷から知念半島が見える。

ただ、護佐丸は中城城主だったのに、なぜか中城城跡に墓がない。なぜ台グスクなのだろうか。それが不思議だ。

それにしても、中城城跡にはたくさんの人たちが訪れる。でも、護佐丸の墓まで足を延ばす人は、わずかではないだろうか。といっても、琉球を統一した英雄、尚巴志のお墓が、読谷村伊良皆の山肌にひっそりとあるのと比べると、護佐丸の方が立派なのかもしれない。

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