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2013年2月17日 (日)

嘉数高台にある長嶺城跡

嘉数高台にある長嶺城跡

                         

 

 

 


 
 国場川を挟んで南側、豊見城市の嘉数高台の東端、最も高いところに長嶺城跡がある。琉球が三つの小国分かれていた三山時代、上間は南山と対峙する自然の要塞だったことを紹介した。しかも、拝所の一つは、上間の対岸に位置する長嶺城に向けた「返し」(ケーシ)であった。Img_1340

 上間を見たからには、長嶺城跡も是非見ておきたい。それにわが家からも、すぐ近い。さっそく出かけてみた。地図では城跡の場所を確認したが、実際に現地に行くとわかるのか心配だった。だが、案ずる心配はなかった。嘉数高台を走り、城跡のあると思われる方面に向かうと、すぐに「あれが城跡だ」とピンときた。高台のなかでも、ひときわ、こんもりとした小山のような森があり、いかにもグスクらしい風景なのだ。

Img_1323
  ただ、その小山に入る道がわからない。迂回して近づこうとすると、道路が行き詰まりになった。でも、そこにはなにやら拝所がある。それも「長嶺城」の字が見える。「ヒヌカンヤー」と書かれたコンクリートづくりの建物は、「長嶺城の火ヌ神」だった。「火ヌ神」は沖縄ではどの家庭でも台所に祀ってあるが、村の火ヌ神やグスクの火ヌ神を祀っているところもある。こちらは、2010年改築されたばかりなで、真新しい建物だ。


Img_1320
 建物入口には、「長嶺城の火の神のカー」もある。井戸である。高台なのに、井戸もある。

そばにおじさんが仕事していたので聞いてみた。「長嶺城跡はどちらでしょうか。あそこに見える森ですか?」「そうだよ。歴史の好きな人がよく訪ねて見える。でも、この道からは行けないので、戻って保育園のそばの道から入れるよ」と親切に教えてくれた。

 「長嶺グスク」の史跡の標柱が立っている。小山のようになっているので、登っていくと、拝所があった。香炉が3つ並んでいる。

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何を祀っているのだろうか。長嶺城には、長堂村の御獄「長嶺ノ嶽」や「長嶺城之殿」があるそうなので、それかもしれないと、ブログで書いている人もいるが、よくはわからない。

頂上のすぐ下にお墓が見えてきた。

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 「長嶺按司之碑」がある。その奥には「長嶺按司之墓」がある。大きい墓だ。これは、コンクリート造りだから、古いお墓ではない。改築したのだろう。説明するものは何もない。

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頂上に登ると、石積みの城壁などはない。何もない。測量のための三角点があるくらい。ただ、南西側は、高台でなだらかだが、北東側は、急傾斜でやはり自然の要塞のようになっている。

比嘉朝進著『沖縄戦国時代の謎』を読むと、「南山の群雄割拠 ゆくえを絶った長嶺城主」という史話があった。面白いので、そこから紹介する。

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 国場川の上流に位置し、対岸に南風原の津嘉山集落がある。
 
 その津嘉山の丘に仲間城があり、仲間按司には美しい娘がいて、婚約していた。長嶺按司はそれを承知のうえで、妻にしたいと仲間按司に申し込んだが、断られた。長嶺按司は、「聞き入れなければ攻め滅ぼすぞ、後日、返事を待つ」と、おどした。
 
 仲間按司は長嶺が攻撃して来ることを予想し、隣村に援助を求めた。あす快晴の日、長嶺は部下を連れて、国場川上流で舟遊びをしていた。好機至る、と仲間按司は先手を打つ。両兵は川辺で奮戦したが、長嶺兵は敗れ、長嶺は馬にまたがって城に逃げ帰った。
 
 仲間按司は後を追った。長嶺は城内の井戸に馬を落として投身自殺に見せかけ、ひそかに行方をくらましたと伝えられる。長嶺按司は金良・長堂・嘉数・真玉橋・根差部の村を領有していたようである。
 
 その後、長嶺按司の一族が城を継いだ。長嶺城は南山系であったが、南山王をめぐるうちわもめに嫌気がさし、中山に寝返った。そして、中山の尚巴志軍が南山城(高嶺城)に攻め入ったときは、中山に加勢したといわれる。城跡の手前に長嶺按司墓がある。
 
 数代後の尚金福王(1450年代)のころ、長嶺按司は南京で製糖法を習い、琉球で製糖した砂糖を日本で売りさばいてもうけた。それが王府にばれて、八重山に流刑になった。Img_1339



 こんな長嶺按司をめぐる逸話が紹介されている。ということは、長嶺按司は、一人ではなく、何代も按司としてこの地にいたのだろうか。
 
 上間の石獅子、拝所を見た時は、もっとも上間に近い南山側の拠点として、長嶺城があり、対峙していたので、南山の糸数グスク、玉城グスク、長嶺グスクへの「返し」(ケーシ)があったと理解していた。でも、この比嘉氏の解説を読むと、長嶺城が南山側だったのは、三山時代の尚巴志が中山王になった後くらいまで。尚巴志が北山を攻め滅ぼしたあと、南山の攻略に向かった1429年頃には、中山側に加勢したことになる。となれば、長嶺城の役割も時代によって、大きく変わったことになる。

 

 写真は、長嶺城跡から上間を望む。

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