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2013年2月15日 (金)

上間・識名と縁が深かった尚徳王

上間・識名と縁が深かった尚徳王

  第一尚氏の最後の第7代国王、尚徳の墓が識名にあることをブログで紹介した。なぜこの地にあるのか、まだよくわからなかった。『上間誌』を読んでいると、尚徳王が識名・上間地域と深いかかわりがあったことがわかる。『上間誌』を参考にして、少し紹介しておきたい。
 
 尚徳は父、尚泰久王の死によって1460年夏、即位する。尚徳は尚泰久の三男である。長男・二男が健在だったにもかかわらず、三男の尚徳が即位したのはなぜか。王としての資質があったのか。それとも長男、次男、四男は母(王妃)が護佐丸の娘で、父の尚泰久が護佐丸を討ったので「父子の仲は悪かったと考えられる」(比嘉朝進著『沖縄戦国時代の謎』)からだろうか。側室の子、尚徳が即位した。
 
 尚徳の養育役である大守役(ウフヤカー)となっていたのは、上間の支配者・安謝名(アジャナ)であった。安謝名にとって、「幼少のころから成長を見守ってきた尚徳が、兄たちを押し退けて王位に即いたことに鼻高々であったに違いない永年の苦労がむくわれた瞬間であった」(『上間誌』)。001
 
 在位わずか9年、29歳の若さで尚徳王は死去した。尚徳は、王府の正史では暴虐な王と評されているが、武芸に秀で、積極果敢な王で、中国への進貢、朝鮮、日本、東南アジアとの積極的な交易など進めたことで知られる。凡庸な王ではないことは確かだ。
 
 尚徳王の死については、さまざまな伝承がある。
 
 久高島に参詣していた折、首里でクーデターが起き、金丸が王位についた。尚徳王は帰途、海上で身を投げたという説。あるいは、王は従臣らと北部に逃れた。喜界島に逃れた。宮古島に逃れたなどなど。
 
 安謝名家の伝承によれば、尚徳王は身を投げたのでも、北部に逃れたのでもなく、安謝名に身を隠していた。しかし、三か月後風邪をこじらせて死亡したという。遺体はカネマン御墓(安謝名家の御墓、今の尚徳王御陵蹟碑)に葬られたとのことだ。 

 もうひとつの縁は、識名には尚徳王の重臣・屋比久(ヤビク)がいたことだ。屋比久は尚巴志(ショウハシ)の長男の子、すなわち尚巴志の孫に当る。尚徳王も尚巴志の孫である。二人は従兄弟の関係にあった。

 識名の屋比久家は尚巴志の孫・屋比久子(ヤビクシー)を祖とする屋比久門中の元屋である。「子」は敬称である。
008_2

 
 上間、識名に伝わる伝承がある。尚円が首里城でクーデターを起こしたとき、識名の屋比久子が「サッタルムンサッタルムン」(やられた)といって、上間の安謝名子のもとで飛んできた。陵墓が焼き打される前に遺骨を隠さなければならない。二人は密かに行動した。

沖縄タイムス「歴史の舞台」(平成12年12月30日)に次のような記事が掲載されている。

第一尚氏歴代の王たちの遺骨は首里の天山陵に葬られていたが、尚円が陵墓を焼き打ちすると恐れた尚徳の近親者の平田子や屋比久子らが王たちの遺骨を運び出した。天山陵から夜陰に乗じて運ばれた遺骨だが、尚円の追手に捕えられることを恐れて首里金城町に尚思達(ショウシタツ)、尚金福、尚泰久の遺骨を分骨して埋葬した。

 さらに彼らは尚巴志が北山討伐の際に駐屯し、妾の喜名東松田祝女(ノロ)の故郷である伊良皆(イラミナ、読谷村)の佐敷森の岩陰に尚巴志の遺骨を埋葬。尚忠、尚思達の遺骨は同村喜名の東にある竹山慶念堂に葬り、後世になって佐敷森に移したといわれている。

第一尚氏の三王の遺骨を埋葬した平田子、屋比久子の墓も王たちの墓の近くに建てられている…。

 

 読谷の尚巴志らのお墓については、ブログで別途、アップしているのでそちらを見てほしい。
 
 尚徳王の長男、佐敷王子志義は首里城でクーデターがおきたとき、首里城内の真玉森で母とともに殺害された。次男、浦添王子は守役(ヤカー)に助けられ薩摩へ逃亡した。三男、屋比久大屋子は乳母とともに佐敷間切の新里に逃亡した。
 
 

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 屋比久大屋子の碑は現在、上間の石獅子から少し東に行った道路下、墓苑の一角にある。もとは逃げて行った先の佐敷にあったけれど、尚徳王のお墓の近くがいいのではと沖縄戦のあと、ここに移された。

 
 碑の裏に、尚徳王の三男、屋比久大屋子の墓は従来佐敷村字新里仲嶺森に在ったが、1965年、現在地に碑を建立して奉迎した。楊氏屋比久門中と記されている。

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尚徳王が葬られたと伝えられるカネマン御墓は、三山時代の中山王・察度の子、カネマン按司とその子孫の墓であるという。上間の安謝名の娘が、察度王の側室となり、生まれた子がカネマン按司である。その子は、安謝名の養子として迎えた。
 
 尚真王の子が安謝名を継ぐまでの間の、安謝名家の墓がカネマンお墓である。

カネマンお墓について、『真和志市史』に記述がある。
 「識名部落の西表に『カネマンお墓』一名七門お墓(他の人は之を武士墓、又は真栄平墓と称す)というのがあるが、一説には尚徳王のお墓だと伝へられ、上間邑民共同で之を祭祀している。
 
 その構造は、一風異なった、掘抜き墓で、入口左側には袖墓が一つある。或いは殉死者の墓ではなかろうか」
 
 尚徳王のお墓には、七つの門があったというが、戦災と道路工事によって消失したとのこと。そこで、1969年、尚徳王の子孫とカネマン(金満)の子孫が安謝名に集まって衆議を起こし、一門の寄付によって御墓の跡地に[尚徳王御陵蹟]の碑が建立された。識名自治会はこれを祭祀し、6月の綱引きの日に重箱と魚三尾を供え、拝す慣わしになっている。
 
 尚、この地所は現在城間三郎氏の名義で、管理も同氏が行っている(『上間誌』)。008

 

 これらを読むと、なぜ識名のこの地に、尚徳の御陵蹟碑があったのかがよくわかった。この碑を見に行ったとき、丸い穴のあいた大きな岩の碑の裏側を見ると、金満」の文字が見えた。なぜこの碑が金満(カネマン)と関係あるのかが不思議だった。尚徳王とカネマンの子孫の人たちが、建立したのだった。
 
 今回も大半は『上間誌』の要約にすぎない。

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