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2013年2月20日 (水)

喜屋武岬近くにある具志川城跡

喜屋武岬近くにある具志川城跡

                           
 
 糸満市の喜屋武(キャン)岬から東の方に高い崖が続く。その一角に、石積みの城壁がある。海に面した具志川城跡(下)である。行ったのは2009年7月だった。
 この城跡でよくわからないのは、一つは、久米島には同名の具志川城跡があること。何か関係があるのだろうか。ついでに具志川という地名は、沖縄各地にある。もう一つは、なぜこんな海岸沿いに城塞を築く必要があったのかということである。城(グスク)といえば、通常は高地にあるからだ。
そういえば、久米島の具志川城跡も、海岸のそばにある。

Photo

 伝説によれば、およそ500年前、久米島の具志川をおわれた一派がこの城を造ったのだという。

 真偽のほどは確かな手掛かりがないのでわかっていないという(『沖縄県の歴史散歩』)。

 比嘉朝進著『沖縄戦国時代の謎』は、南山の王位をめぐる争いに関わり、次のような話を紹介している。
 
南山王の汪応祖(エージ)を殺害し、王位に就こうとした達勃期(タブチ)を南山の諸按司が連合して誅殺したと史書にあるが、達勃期は、誅殺されず、逃亡した。具志川城にいたかもしれない。久米島に渡り、地元の人から築城に適した場所を聞き、同じ地名の具志川に城を築いた。「糸満の具志川城と同じ地形で、構えもほとんど似ている」。
 
 真タブチ按司を名乗った。真タブチは病死し、その子の真金声(マカニクイ)按司が跡を継いだ。本島から移ってきた、伊敷索(イシチナワ)按司の次男に討ち捕えられ、城を奪われた。マカニクイは、喜屋武岬に逃げ延びて具志川城を築いたといわれる。その子孫は久米姓を名乗り、喜屋武に住んでいるという。下写真は、久米島の具志川城跡。

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 この話も、なにも文献はない。口承と推測を交えた説明のようである。それに、マカニクイは「父の具志川城に居住した。もしくは、マカニクイ、初めて具志川城を築いた」と書いているように、あいまいなままである。
 
 ただ、喜屋武岬の具志川城と久米島の具志川城は、とても城の構え、立地条件が似ており、久米島から逃れて人たちが築いたという伝承があることは興味深い。

 城壁は、一部は切石積みだが、他は野面積みでできている。
 
 城跡内には、海に通じる天然の竪穴がある。城が即、海への出入り口にも通じている。久米島の具志川城も、北側に「ぐしかわの泊」という古い港があるという。喜屋武の城も久米島の城も、海への直近という点では共通している。

城跡の下は天然の洞窟になっているので、沖縄戦の末期、追いつめられた日本軍が隠れた形跡が残っているそうだ。今回はそこまで、見られなかった。喜屋武岬は沖縄戦で、避難住民が最後に追いつめられて、断崖から身を投げるなど、悲劇も起きた場所だ。「平和之塔」が建っている。
 
 

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