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2013年2月11日 (月)

南山のグスクに向かう上間の石獅子

上間の石獅子

 上間には名高い石獅子がある。上間の石獅子は、昔は5体あった。今は3体残っている。設置年代は不明である。
 地図で場所を確認すると、集落の東南端にある上間中央公園の近くにあるらしい。公園でグランドゴルフをしていたおじい、おばあに聞いてみた。ところが、3人に聞いたがいずれも「私は上間の者ではないので、わからない。公民館で聞いてみたらどうですか」というではないか。グランドゴルフは、あちらこちらからプレーするために集まってくるので、地元の人とは限らない。
 ただ、公民館に行くまでもなく、公園から道沿いに少し東に行くと、急斜面の崖上に石獅子はいた。

 『上間誌』で石獅子のことを読んでみると、沖縄の石獅子についての解説があったので、これを参考にして紹介しておきたい。

 石獅子はたいてい、魔除けと火災防止を目的としている。沖縄では、かつて80余りの村落に存在していたが、いまは20余の村落の獅子は消失し、現在では60余の村落に残っているという。Img_1282
          夫婦の「ミートゥンダー」石獅子


 村落の石獅子は、集落の入り口や、村の高台の見晴らしのよい場所に設置されている。あちこちの石獅子を見ていると、ところによって、その目的や対象が異なっている。村に侵入してくる悪霊を追い払うためのものが多い。これは、特定の具体的な物に向けられているのではない。これに対し、火事をもたらすフィーサン(火山)やグシク(城)、怪物と考えられる岩などに向けられているものもある。
 獅子像は、古くは浦添ようどれ陵や首里城、玉陵などにも設置された。「これは魔除けよりも権威の象徴としての目的のものであろう」(『上間誌』)と見られる。
 民間に史実として最初に獅子像を彫刻して用いたのは、富盛の石獅子ではないかといわれる。しばしば火災に見舞われ、風水で八重瀬岳を火山と見立てて、火災を防ぐために造った。「村落獅子が普及するのはそれ以後だろうといわれている」(『上間誌』)。
 那覇市内には7カ所に獅子像が置かれていたそうだ。
 
 上間の石獅子は、いずれも悪風返し(フーチゲーシ)で邪気を払うことを目的としている。
   昔、豊見城軍が攻めてきたという。また糸数城とも合戦したことから、石獅子はこれら、かつて対立していた南山勢力に向かっているようである。
 上間の石獅子は、火伏せ(防火)の伝承はない。「これらのシーサーはすべてフーチ(悪風)を返すムラのフンズンガナシ(本尊さま)であった」そうだ(『上間誌』)。
 12月26日には、豆腐、大根、昆布、豚肉を大鍋で煮て、串刺しにしてから獅子像に供え、ノロ以下神女らがフーチゲーシの祈願を行った。祈願がすむと子どもたちにもウサンデー(供物を下げていただく)させた。
 る。

 
「カンクウカンクウ」
 上間村には現在木彫りの獅子一体と石彫の獅子三体が村の守護神として祀られている。石彫りの獅子は元々、五体あったが、さる太平洋戦争で二体は焼失した。
 「カンクウカンクウ」は、上間村の古くからの伝承で、こう呼ばれている。面白い名前だが、名称のいわれはわからない。制作者、設置年代も不明だ。

Img_1289
 石獅子は、他の地域では、集落の路上や山の上にそのまま据え置かれているものが多いが、上間では頑丈なコンクリートと鉄柵で囲われている。丁寧な説明板も設置してわかりやすくしてい

Img_1285
 この石獅子は、南山八重瀬グスクへの返しといわれている。村の南側のムンヌキムン(魔除け)、フーチゲーシ(悪風返し)、災厄を払う村の守り神である。八重瀬グスクのある八重瀬岳は、通常は「火山」と見られて、「火伏せ」(防火)の目的で石獅子が置かれている例が多いが、上間のこの石獅子は、防火のためではないとのこと。
Img_1286


 「琉球の三山紛争時代、上間は南山との戦に幾度も参戦した。石獅子は敵方からの災いを払うために据えられたもので、すべて南山勢を睨んでいる」と説明板に記されている。
 この石獅子は、頭部だけだ。沖縄戦でも幸い無疵で、昔の場所に設置されていたとのこと。獅子は古いけれど、風化は比較的軽くて、元の姿をとどめている。口は閉じている。私が見たときは、少し草が生えてきていた。2005年に改修して設置場所を高くしたという。
 

     「ミートゥンダーシーサー」

 「カンクウカンクウ」から少し東に回ると夫婦の石獅子「ミートゥンダーシーサー」がある。オスメス二体のシーサーは、いずれも口を開いている。二体ともかなれ風化している。左側の一体は、移転の際に二つに割れたのでセメントで接着したという。

Img_1281



 この石獅子は、糸数グスク、玉城グスクへの返し(ケーシ)と言われている。由来は、琉球の三山紛争時代に上間按司が糸数グスクを攻め滅ぼした。その怨念が悪霊となって寄せてくるのを押し返す悪風返し(フーチゲーシ)で、災いを村に入れないための守り神である。
 「伝承では、玉城グスクと交戦したことは伝えられていないが、玉城グスクと親子の関係にあった糸数グスクと交戦したことが伝えられている」ので、「この時、親戚の玉城グスクとも干戈(カンカ)を交えた」と考えられている(『上間誌』)。


Img_1283



Img_1284         メスとオスの「ミートゥンダーシーサー」


 制作者、設置年代は不明。この二つの石獅子は、沖縄戦で崖下に落ちていたが、草刈りの人たちが運よく見つけたそうだ。もともとはここより24㍍ほど北側にあったけれど、私有地のため、2005年に移設した。

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コメント

シーサーはもともと、瓦職人が家を建てたしるしに、最後に漆喰シーサーを瓦に残しておいたのが始まりじゃないですか?それから門に対面シーサーが魔よけとして置かれるようになって、村落をまもるシーサーは沖縄ではいつ頃から始まったんでしょうね。石獅子はひとつの岩を使って作っていますよね。繁多川のカーは、多くが石大工の手によって周囲を囲まれましたから、もしかして石大工が手を施したかもしれないですね。
石獅子はみんな歴史が古く、その面立ちや形も言われないとシーサーとわからないのが多いですけど、上間のは比較的面立ちがはっきり残っているものもありますね。保存の力の入れ方でしょうかね。

 シーサーは、もともとはエジプトのスフィンクスが起源で、中国か伝わったそうです。浦添ようどれ陵、首里城、玉陵などに、王府の公的な施設に作られてのが早いんじゃないでしょうか。
 村落獅子は、富盛の石獅子が民間で最大最古のものといわれているけれど、1689年にできたので、300年以上昔となります。
 上間の石獅子は、南山に向けられているということは、三山時代に起源があるけれど、作られたのはもっと後でしょうね。
 瓦職人が作るのは、漆喰シーサーですね。瓦ぶきの家は、琉球王府の時代は、規制されていて庶民の家ではできなかったから、民間人の屋根瓦へのシーサーの普及はあまり古くないかもしれない。
 

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