無料ブログはココログ

« 2013年2月 | トップページ | 2013年4月 »

2013年3月

2013年3月31日 (日)

首里の弁ケ岳を訪ねる、その1

 

                       

 

 首里城の近く、東方約1キロ㍍にありながら、まだ一度も行っていなかった弁ケ岳(ベンガダケ)を訪ねた。海抜は165・7㍍で、沖縄本島中南部では、最も高い峰の一つです。そのため、かつては航海の目標ともなったそうだ。 いまは「弁ケ岳公園」となっている。もっとも高い峰といっても、首里城方面から来れば、小山の感じだ。
 地図では、峰を指す場合は「弁ケ岳」と記されている。でも、古くからある拝所は「弁ケ嶽」である。一般に「ビンヌウタキ」(弁ヌ御獄)と呼ばれる。峰全体がご神体とされていた。戦前までは、琉球松などの大木が茂っていたそうだ。

Img_1911

いまは車で、公園内を通り抜けることができる。あっけないほどだ。もともとは、下方から参詣道があり、歩いて登ったようだ。石畳道が整備されていて、散歩にはもってこいの道である。 参詣道を歩いて登ると、東側の小高い杜になっている方が大嶽(ウフタキ)、西側の低い方が小嶽(キタキ)となっている。Img_1912


 『琉球国由来記』(1713年)によれば、大嶽の神名は「玉ノミウヂスデルカワノ御イベヅカサ」、小嶽は「天子」(テダコ)と記されているとのこと。
「神仙が降りきて遊ぶ聖地である。聞得大君(キコエオオギミ)や君々、神仏がお遊び(共宴)するところ」といわれた。「琉球国の諸峰に冠するので、冕(ベン)嶽と号す」という。冕は冠のことである。比嘉朝進著『沖縄の拝所300』はこのように紹介している。


 

Img_1894

王府時代には、1、5、9月にここを国王が訪れて、祭祀が行われた。

小嶽からは、聖地とされる久高島・斎場御獄(セーファウタキ)を遙拝する。

Img_1901
比嘉氏は、1644年から国王の1、5、9月拝みが始まったが、「斎場御獄への遙拝はおそらく、東回イ(東御回り=アガリウマーイ、南部の聖地を巡礼する)を中止した1673年(尚貞王)からではないだろうか」と推測している。
 参詣道より西側の小高い丘の上にある、石垣をコの字形に積んで簡略な拝所が小嶽である。神名が「天子」だという。さらに西に向かうと、いくつもの拝所がある。Img_1903

 ひときわ目を引いたのは、赤い鉄柵のある拝所である。中を覗かさせてもらうと、5つの石が並べてある。その上に、名前が書かれていた。よく見ると、歴代の王統の初代国王の名前だ。右から、尚思紹王、英祖王、舜天王、察度王、尚圓王と記されている。
 

Img_1905
 琉球は、王統が何度も交代している。とくに、琉球が三つの小国に分かれていた時代、中山国の察度王統は、尚巴志によって倒され、父の尚思紹が王に就いた。尚巴志が三山を統一した。第一尚氏の王統である。それが、クーデターで倒され、金丸が王位に就いて、尚圓王となった。

Img_1904

 この拝所に書かれた名前は、そんな易姓革命による王統交代など、関係ないかのように、国王名が並ぶのは、不思議な感じがする。こんな5つの王統の国王の名前を列挙した拝所なんて、見たことがない。不思議だ。

Img_1906

 香炉には「上赤嶺門中」と書かれている。どうやら、男系血縁集団である「門中(ムンチュウ)」の拝所のようだ。その他の拝所は、何を祀っているのかよく分からない。

2013年3月29日 (金)

会津藩の悲劇

 沖縄と福島は、大震災以後、なにかと比較されることが多い。住民に迷惑な米軍基地や原発を押しつけられた構図が似ていると。ただし、かなれ違いもある。話は最初から横道に入った。
 
 NHK大河ドラマの「八重の桜」を見ていると、会津藩の歴史に関心が向く。

 幕末の動乱期、会津藩は京都守護職を任じられ、曲折を経て、江戸城は無血開城されたのに、藩は会津戦争でたくさんの犠牲者を出した。

 なぜ、東北の会津藩がそこまで犠牲を強いられたのか。会津藩がもともと、藩祖、保科正之が徳川2代将軍、秀忠の落胤で家康の孫だったことから起因する。会津松平家は、「大君(将軍)の義一心大切に忠勤を存ずべし」を15カ条の家訓(カキン)に掲げている。徳川将軍家に忠勤に励むことが第一義となる。
 
 筆頭家老の西郷頼母は、第9代藩主の松平容保(カタモリ)に対し、会津藩を守るため京都守護職には強く反対する。だが、頼母は家老職を免じられ、容保は守護職に就いた。会津藩の領民と藩士を守ることより、徳川家に尽くすことが優先された。
 戊辰戦争となり、将軍・徳川慶喜は新政府に恭順の意を示す。江戸城は無血で開城されたのに、会津藩は旧幕府側の中心となり、会津戦争に突き進む。
 
 鳥羽・伏見の戦いに敗れて会津に帰ってきた容保に対し、5年間閑居したあと復職した西郷頼母は、和議恭順謝罪すべき旨を進言した。しかし、主戦論を覆すことはできず、従軍したという。会津は、鶴ヶ城で一カ月籠城するが、最後は降伏の道を選ぶ。
 
 一方で、「官軍」の進攻を前にして、藩士の家族は悲惨な事態に追い込まれる。家老・頼母の妻、母、妹2人、娘5人ら9人は自害。さらに西郷家の一族、代々仕えてきた者合わせて21人が自害した。藩士の家族の悲劇は、限りなくあるという。

Img_1922_2
         記事とは関係ない。昨日の17夜の月。

 16,17歳の武家の男子で組織する白虎隊が、飯盛山に落ち延びて、19人が自害したのも痛ましい犠牲である。けっして「殉国」といって美化してはならない。

 なにか68年前、米軍の進攻を前にして、日本軍によって住民が集団自決を強いられたことや、「ひめゆり女子学徒隊」など、沖縄戦の悲劇を想起する。

 会津では、「戦争に負けた」とは、太平洋戦争のことではなく、戊辰戦争で薩長に敗れたことを指すという。それだけ、後世に深い傷を残しているのだろう。

 藩士たちには、さらに過酷な運命が待ち受ける。会津藩は没収され、故郷を追われる。移封された地は、青森県の本島最北の下北半島とその南のあたりで、寒冷不毛の地。斗南藩を立ち上げ、17000人余が移住するが、当初は支給された政府の救助も打ち切られ、衣食困窮のどん底生活で、多くの藩士はこの地を去っていく…。

 余りに悲しい会津藩の歴史である。

徳川将軍家に忠勤を尽くすという「この家訓が200年後、結果的に会津を亡ぼす要因となる」。NHK大河ドラマ「八重の桜」の歴史解説でもこう指摘している。

 悲惨な結末は避けられない道ではなかった。少なくても、会津の藩と領民を守ることを第一に考えれば、悲劇を避ける別の道を歩むことができたのではないだろうか。後世の者から見れば、そう思えてならない。

 だだ、「歴史に“もし”は禁物」。歴史は変えられない。できるのは、そこからどのような教訓をくみとるのか、ということだけである。

 花村奨著『風雪会津藩物語』、ネットのNHK「八重の桜」の歴史解説、NPO法人青森県福祉サポート協会「斗南藩の歴史」を参考にした。

 

 

 

 

2013年3月28日 (木)

島添大里城跡を再訪、その4

南山王と大里城跡をめぐる関係について、『大里村史通史編』の記述からも紹介する。

 三山時代に大里の歴史を大きく変革せしめたのが、八重瀬按司、南山の王位を簒奪した稀代の侵略者汪英紫(オウエイジ)その人であったのである。汪英紫は二代承察度(英紫の甥)の柔懦(ジウズ、気が弱く意気地がない)につっこみ、宗家の実権を握って、王位を詐称し、貿易を強化しながら着々と東大里城攻略に勢力を伸ばして来たのである。やがて大里城は八重瀬城主、汪英紫の手中に陥ったのであった。……Img_1801


 八重瀬按司は大里城主におさまり、島添大里按司下之世主と最高の美称をとなえ、島尻全体を睥睨(ヘイゲイ)したが、中山のみは手が届かず苦慮した。そこでその防衛の一翼を担うため長男汪応祖(オウオウソ)を豊見城城に派遣した。たまたま1387年(応永4年)父島添大里按司汪英紫が病死したので、豊見城城主汪応祖は迎えられて大里城主の座につくのである。しかしこれも束の間で、応永10年(1403)南山王承察度が薧じ嗣子がなかったので、宗家危うしとみて、応祖は弟に大里城を継がせ、南山に帰って山南国主となるのである。

 汪応祖が南山王に迎えられて南山に去って後、孤立無援になった屋富祖王子は父や兄のような政治的な手腕がなかったので、新興の大勢力佐敷按司尚巴志とつねに小ぜり合いが続いた。…

                       

 

 智謀に欠けた大里按司は施す術を失ない、佐敷勢を防ぐ力なくついに大里城外で討死、巴志のために城を奪われ、南山系大里は三代にして滅んだのである。時は応永10年(1403)のことである。佐敷按司尚巴志は直ちに、大里城に入り、東西4間切(いまの町村に当たる。大里、佐敷、知念、玉城)を統治して軍備を拡張し、経済をたて直し(与那原を中心に南方、中国への貿易を行う)て南山を威圧するに至った。ところが大里城から南山王の居城までには南山配備の居城が多く、一気に南山と決戦に入るには多くの障碍と危険を伴なうことを知っている尚巴志は、むしろ前衛防備のうとい中山に注目した。


Img_1809



 …尚巴志は遂に中山進出の計略をたて応永12年(1405)大軍(佐敷、大里、知念、玉城の軍)を率いて、中山の首都、浦添に進撃を開始し、一拠に武寧の王城を急襲した。……

中山を亡ぼした巴志は父苗代大親(尚思紹)を中山王の位に即がせ、首里城を整備して、これを中山の居城たらしめた。(このとき大里城の二の丸、三の丸の石垣を手渡しで首里まで運搬させた)。大里城主にはその弟美里按司を封じて東西間切を統治させた。 

 

 『大里村史』によれば、汪英紫は八重瀬按司であり、「南山の王位を簒奪した稀代の侵略者」と見なしているのが面白い。そして、東の大里グスク攻略に手を伸ばし、城主となってから「島添大里按司下之世主」と称した。英紫が亡くなってからも、島添大里グスクは汪応祖があとを継ぎ、汪応祖が南山王となって移ったあとは、応祖の弟の屋富祖があとを継いだ。屋富祖が城主のさい、尚巴志に攻略され「南山系大里は三代にして滅んだ」という。

尚巴志は、佐敷から身を起こし、東の大里グスクを攻略しながら、なぜ南山王の居城を攻めずに、中山王を攻めたのか。その疑問について「大里城から南山王の居城までには南山配備の居城が多く、一気に南山と決戦に入るには多くの障碍と危険を伴なう」、「むしろ前衛防備のうとい中山に注目した」と説明している。
 
 島添大里城跡に立って、見渡してみると、首里は眼前に見えていて、案外近い。王城とされる西の大里グスクのある糸満方面は、逆に遠く感じる。しかも、南山配備の居城が多いとあれば、障碍と危険が多いこともうなずける。眺めていると、600年余り昔の尚巴志の戦略と判断がなんとなくわかる気がする。

2013年3月27日 (水)

島添大里城跡を再訪、その3

東西二つの「大里グスク」の関係は?

 三山時代の東の島添大里城跡を見る際、西の島尻大里城跡(糸満市)との関係、南山王の居城との関係はどうみればよいのか、という問題がある。 

そこで、与並岳生著『新琉球王統史2 察度王 南山と北山』から紹介する。

 南山というとき、今ひとつよく分からないのが、東西二つの「大里グスク」の力関係です。
 
 南山王の居城は、西の島尻大里グスクでしたが、一時期は、東の島添大里グスクが西の島尻をしのぎ、南山王の居城であったとも言われているのです。…

 (島添大里グスクの)現在に残る城跡の面積規模はかなりなもので、尚巴志王は首里城を築くとき、ここの城壁の石を運ばせたというほど、城壁も切り石の立派なものだったでしょう。

                         

 

 そこが、事実上の南山の拠点だった時期は、汪英紫(オウエイジ、八重瀬按司)が「下の世の主」として、南山王をしのぐ勢いで、君臨していた時代だったでしょう。

 実際、明国への進貢(貿易)は、基本的に冊封された王だけがおこなえるものでした。しかし王英紫は「山南王叔」の肩書で、王とは別口に、独自進貢をおこなうのです。…

しかも、汪英紫の進貢回数は、南山王承察度(ショウサット)を上回るのです。どっちが王だか、分からないほどの権勢ぶりです。

Img_1803

 島添大里グスクに入って権勢をふるった汪英紫は、島尻大里グスクにいる「甥」の南山王を抑えつけながら、豊見城に二男の王応祖(オウオウソ)を、八重瀬グスクにたぶん長男の達勃期(タブチ)を配して、挟み打ちの形で監視体制を取ったと思われます。…二重、三重に南山グスクを抑え込んだ汪英紫は南山の実権を掌握し、南山王を圧迫したのです。
 
(与並氏は、南山王・承察度は、汪英紫の“謀殺”を恐れて朝鮮に逃げたと見る)

 承察度が逃げた後の南山王城=島尻大里グスクは…伝承では、汪英紫が亡くなると、豊見城にあった汪応祖が東の島添大里グスクに入って父を継いだというのです。その後、南山王が亡くなり、子がなかったので、甥に当たる汪応祖が島添から登って王位を継ぎ、島添には汪応祖の弟の屋富祖が入ったことになっています。Img_1806


 与並氏によると、汪英紫が島添大里グスクにいた当時は、南山の実権を握り、権勢をふるい、西の島尻を上回る事実上の南山の拠点だったという。

やはり、東の島添の現地を見て、西の島尻を上回る勢力の存在を感じるのは、それなりの根拠があるようだ。なお、汪英紫の読み方「オウエイジ」は、八重瀬の音読み「エージ」からきていて、八重瀬按司と考えられている。

2013年3月26日 (火)

島添大里城跡を再訪、その2

城門前にあるチチンガー

グスクの入り口付近に、「チチンガー」と呼ばれるとても深い井泉があった。前に来た時には、うかつにも気がつかなかった。

Img_1792


 グスクは標高150㍍もある高地なのに、こんな井泉があるとは、不思議なくらいだ。でも、グスクのあるところには、たいてい井泉はある。水がなければ、グスクとしての役割を果たせないからだ。Img_1794_2

ただ、この井泉は、島添大里グスクの城門近くの城壁外に設けられた井戸である。西原集落の村の共同井戸として使用されていたという。築造年代は定かではないが、島添大里グスクとの関係から14世紀頃と推定される。井戸の湧水地点はとても深い。地表から8㍍も下にある。
 
 取水地までは琉球石灰岩の岩盤を削って13段の階段が取り付けられている。取水地の岩盤部分は、琉球石灰岩の面取り積みの石垣が積まれている。グスク城壁の一部ともみなされている。Img_1795 

井戸に降りるところには、拝所があった。井戸には珍しく、アーチ型の石積みがされている。この前で祈ると、向こうの下方に井戸が見える。貴重な水源だから、祈願の対象なのだろう。

井戸がこれだけ深いと、水汲みは、かなれの重労働だったはず。

Img_1793

 伝承によれば、井戸が城壁外にあると清水が湧きだし、城内に取り込まれると水が枯れたとのことである。また城内のスクナマヌウカー(御井)が枯れたので築造したとの伝えもある。

いずれにしても、「チチンガーは、島添大里グスクと密接に関わっているばかりでなく、当時の城と井戸との関係を理解するうえでも貴重である」と説明文に書かれている。

2013年3月25日 (月)

島添大里城跡を再訪、その1

 南城市の旧大里村にある大里城跡を数年ぶりに再訪した。城跡の東隣にパークゴルフ場がオープンしている。城跡のある一帯の、整備が進められている。

 大里城跡は、この付近では最も高い、標高150㍍の琉球石灰岩の丘陵台地に築城されている。字西原の北端になる。城跡の北側から西側は急峻な崖状である。その崖を背に堅固な城壁と天然の地形を巧みに利用したグスクである。
 
 この城壁は別称「島添大里グスク」とも呼ばれ、当主であった南山王(?)・島添大里按司(シマシーウフサトアジ)によって築城されたと王府史書「中山世鑑」の中に記されている。Img_1807

「島添」とは「島々を支配する」という意味で、このグスクを造った島添大里按司は、大里、佐敷、知念、玉城地域(今の南城市の全域)を支配下に置くほどの勢力を誇り、中国の明王朝とも盛んに貿易を行ったと言われている(ネット「南城なび」)

 城の規模は東西に長く延び、北側の最奥部の本丸跡を取り巻く形で南側、東側に広く連郭式の城壁が連なり、石積みは野面積みが大半である。上写真は正殿跡。

1991年の村内遺跡分布調査の際、試掘した結果、本丸跡から褐袖陶器、中国青磁、グスク土器、青銅製の飾り金具、丸玉、鉄釘などが出土し14世紀から16世紀の資料となっている。

Img_1804_4




 城壁はかなれ崩れているが、城郭の中がとても広い空間がある。とても立派なグスクだったと思われる。一番高いところは、いまは展望台になっている。眺望が素晴らしい。首里城方面は正面に見え、さらに中城グスク、勝連グスクまで遠望できる。軍事戦略上はとても重要な高地だろうと実感する。

Img_1791_2

復元想像図を見ると、往時の大里グスクが南山でも、最大規模を誇るグスクだったのではないかと、想像される。南山王の居城は、糸満市にある島尻大里城跡か、島添大里城跡か、議論があり、現在では島尻大里城跡という説が有力だと聞く。ただ、現場を見ると素人目には、この旧大里村のグスクが南山王の居城にふさわしいと思えてくる。

実際に、琉球を統一した英雄・尚巴志が最初に攻略したのがこの城であり、さらに中山王を攻め、三山統一のきっかけともなった。とても歴史的に重要なところである。

 

 ただし、復元図で見ると、城壁は長く、高く立派なのに、残っている石垣と積み石の総量が少ない気がする。残っている石も総じて小さい。それには理由がありそうだ。つまり、尚巴志が、中山国の居城として首里城を整備するときに、大里城の二の丸、三の丸の城壁の石を首里まで運んだという伝承があるそうだ。城壁の石は貴重な資材だから、集めるのにも苦労する。護佐丸が、座喜味城を築城する時に、山田城(恩納村)から石を運んだと言われる。年代はこちらが古い。築城の際は、同様のことが行われたのだろう。Img_1802

グスクの正殿のあったあたりに、三つ拝所があった。何も説明するものがないので、どういう拝所か分からない。ただ、『大里村史通史編』を見ると、大里城跡のある字西原には、城にかかわる拝所として、「お嶽(御獄)」では「城内島添アザナノ御イベ」や「殿」(拝殿)として、「大里城之殿」が記されている。写真の拝所は、それらに該当するのだろうか。いまのところ、資料がないので分からない。Img_1808


 

 

 

 

 

 

 

 

 

2013年3月23日 (土)

不意打ちの辺野古埋め立て申請に怒り

 米軍普天間飛行場の名護市辺野古沖への移設のための埋め立て承認申請書を沖縄防衛局が22日、不意打ち的に提出したことに、県内では怒りの声が噴出している。

 県北部土木事務所に現れた職員が書類の入った5箱を庶務のカウンターに置いて、1,2分で立ち去ったという。県知事や名護市長らにも、事前連絡もなかった。県民を欺くようなやり方自体、県民の総意を無視して強行しようとする安倍内閣・防衛省の道理のなさを示すものだ。

 稲嶺名護市長は、「県民の目を欺き、抜き打ち的、ごり押し的に提出したのは、強権的な政府のあり方を示している。断じて許すわけにはいかない」と批判した。仲井真県知事は、辺野古移設が普天間の「固定化そのものだ」とあくまで県外移設を求めた。

 沖縄県議会や全市町村長、議長ら県民代表は1月、安倍首相に会い、普天間飛行場の県内移設反対、閉鎖・撤去を求める「建白書」を提出したばかりだ。そこには、県民の総意が込められている。甘く見てはいけない。

 サンフランシスコ講和条約締結の4月28日、政府が「主権回復の日」として式典を催すことを決めた。沖縄が日本から捨てられた「屈辱の日」の式典開催に対し、県民無視もはなはだしいと怒り声が広がっている。それに続く、県民に挑戦する埋め立て申請の提出。県民は愚弄され続けている。

 こんな県民不在、民主主義不在のやり方を続ければ、怒りのマグマはいっそう渦巻くばかりだ。美ら海の自然を破壊し、県民の命と安全を脅かすことになる埋め立て申請を、県民は決して許さない。日米両政府が断念するまで決して屈することも、あきらめることもないだろう。

2013年3月22日 (金)

繁多川メーミチー沿いの井泉

                           

 

 

 繁多川には、5つの井泉があるそうだ。首里城と島尻方面を結ぶ幹線道路の真珠道の識名坂を登ると、すぐに「ハンタガー」(繁多川)がある。もともとハンタ(端)にある井泉(カー)を意味したとされ、この呼び名に「繁多川」の漢字が当てられた。なるほど、識名坂を登りきったところ、つまり高台の端っこにある。Img_1855


 
 井泉の名が、この地域の地名になったとも言われる。地域の名前と井泉の名称が同じなので、はじめは混乱した。
 
 ハンタガーは、シチナンダヌカー(識名平の井泉)とも呼ばれ、地域の人々の飲料水や生活用水に利用されてきた。井泉の左横には、しっかりとした拝所がつくられている。

Img_1883

 

昔は旧暦の6月26日になると、メーミチー沿いの三つの井泉とも「カーヒラシー」(井泉浚い)が行われた。なかの水を汲み出すと、エビや魚が獲れ、子どもたちの楽しみの一つだったそうだ。

 メーミチーを進むと、ボージガー(坊主川)が見えてきた。

 Img_1858


 その名称は、近くにあった神応寺や識名宮にちなんだものであったといわれている。また『琉球国由来記』(1713年)には「御穀泉」(オコクガー)と記されており、「乳のような泉・善い泉」を意味したようである。ボージガーの水は、非常に美味しく、「繁多川豆腐」作りにはおおいに利用された。繁多川の豆腐は、有名だ。水がよかったのだ。Img_1859

さらに進み、繁多川の大通りに出る手前にウフカー(大川)がある。道路からはかなり深い場所に井泉がある。古来、人々は泉の湧く所を見つけ、集落を形成してきた。そのため、古い泉は人々の飲料水・生活用水として大切にされ、かつ神聖視されてきた。

Img_1862

                       

 このウフカーも戦後まで、正月のワカウビー(若水)を汲む井泉として利用されてきた。また、ウフカーの豊富な水を利用して昭和30年代に簡易水道が敷設され、繁多川の各世帯に水が供給された。
 

 「ウフカー」の名前のとうり、見てきた3つの井泉の中では、もっとも規模が大きい。Img_1863

 
 繁多川の井泉は、やはり識名台地という高地なのに、湧水が豊富なことは不思議なくらい。でも、識名台地は、地表の琉球石灰岩層の小さな空洞に雨水が溜まり、石灰岩の下部にある泥岩(クチャ)は水が浸透しないので、水脈をつくる。水脈を当てて井戸としているので、水が湧き出るという。

Img_1865

 ウフカーも、井泉の右横に「水神」が祀られている。「この拝所に拝みに来られるみなさん。拝みを終えられたら、線香、白紙等は必ずお持ち帰りください」と、呼びかける看板が立っている。いまは上水道を使っているけれど、依然として、祈願に来る人は後を絶たないようだ。何百年も、住民の命と暮らしを支え、人々の暮らしの中に、深く根付いてきた井泉であることを感じさせる。

 

2013年3月21日 (木)

真珠道の識名坂を登る

 首里城から南に行く幹線道路として、真珠道(マダマミチ)がある。                 

 

 首里城守礼門の東南脇の石門を起点として、有名な金城町の石畳道を下り、首里・識名台地の間を流れる金城川を越えて、識名坂(シチナンダビラ)を登り、南下して、真珠湊(国場川河口、那覇港)に至る約4㌔㍍の石畳道である。この道路の建設は、15世紀の尚真王代(1477-1526年)の重要な土木事業だった。軍事的な目的があったと聞く。Img_1847

 真珠道の金城川に架かる橋が金城橋(カナグスクバシ)。橋の創建時は不明だが、1677年に木橋から石橋に架け替えられた。1809年に洪水で損壊し、翌年もとの位置から少し下流に移して再建された。
 
 橋のたもとに「重修金城橋碑文」の石碑が建てられている。沖縄戦でこの橋も石碑も破壊されたので、戦後に再建されたのだろう。

 写真の金城橋を渡ると、道路がのびている。識名台地に登る急坂である。この坂が識名平。坂のことをヒラというが、ここの説明文は「識名平」となっている。かつては、松並木の続く石畳の坂道で、王家の別邸、識名園に通じていた。首里から島尻方面に至る幹線道路の一部だった。Img_1852


 この付近は、かつて金城川をさかのぼって船の往来があったという。いま見ると、ここまで船が入ってきたとは、信じられないくらいだ。

その昔、川に身を投げた夫婦の怨念が人魂となって、坂の上から川岸まで漂うという「識名平の遺念火」の伝承が残っている。

  識名坂を登ると高台に出る。識名台地である。ここから、南に向けて「メーミチー」(前道)がのびている。真珠道の一部となる。
 
 このあたりは、繁多川(ハンタガワ)地域である。

Img_1867

メーミチー沿いには主要な井泉が多いこともあって、昔から地域住民の生活に密着した道だったという。水汲みや野菜洗い、洗濯など朝夕、井泉に通う人が多かったのだろう。同時に、首里から島尻方面に至る幹線道路だから、他の地域の人たちの往来も多い道だった。
 案内板にあった昔の写真を見ると、メーミチーの往時がしのばれる。

Img_1850

2013年3月20日 (水)

沖縄民謡の巨星、登川誠仁逝く

 沖縄民謡界の巨星、登川誠仁さんが、3月19日、肝不全で死去した。80歳だった。民謡界にたくさんの唄者はいるが、登川さんは、早弾きの名手。「美(チュ)ら弾き」と評された。私的には、むしろ情け歌などの味わいのある独特の歌い方がたまらなく好きだった。

 Img_1878
 なかでも「屋嘉節」は、他者の追随を許さない味があった。早弾きが上手なのに「ヒヤミカチ節」はなぜか、ゆっくりと弾いた。いまこの曲を弾く人は、だれもが早弾きの腕を競うように軽快に弾く。でも、なぜ登川さんは、ゆっくりなのか、不思議だった。

 アルテ崎山の民謡仲間であるTさんによると、この曲の作曲者、山内盛彬さんが、登川さんに会ったとき「この曲は早弾きではない。ゆっくりと弾いてほしい」と注文をつけた。それ以来、登川さんは、ゆっくり弾くようになったそうだ。なるほど。疑問は解けた。

 登川さん自身が「『ヒヤミカチ節』は何も早弾きを競い合うようなものではないのだ」と強調している(CD「howlinng wolf」)。この曲の弾き方に注文をつけるのは、もともとこの曲を沖縄中に広めたのが、照屋林助と登川誠仁だったからである(同CD)。

 私が登川さんを知ったのは遅くて、沖縄に移住する前、映画「ナヴィの恋」を観てからだ。役者としても、抜群の存在感だった。演技でも、歌三線でも、そのキャラクターは独特で、余人をもって代えがたい。人間国宝は、沖縄では古典音楽・芸能しか指定されないが、民謡界でも、人間国宝に指定してほしいと願ったのは、登川誠仁だった。Img_1871


 沖縄戦の終わったとき、12歳くらいだった。登川一家は捕虜になり、石川(現うるま市)の収容所に入った。まだ年齢が若すぎて軍作業に雇用されない。でも稼ぐには基地の仕事しかないので、ハウスボーイの仕事を手に入れた。米軍の資材をかっぱらう「戦果アギャー」もやり、軍法会議にかけられたこともある。その後、沖縄芝居の地方見習いとなり、琉球民政府によって作られた「松劇団」に入り、珊瑚座を経て新生座に籍を置いたという(『登川誠仁自伝 オキナワをうたう』から)。

 たくさんの民謡を作っているが、民謡仲間のHさんは「彼の作る歌は、恋唄はないんだよ」という。私が通う民謡サークルでも「豊節」「歌の泉」「新デンサー節」がある。たしかに恋唄はない。

 訃報を伝えるテレビで、代表曲の一つに「戦後の嘆き」をあげている。登川さんの作詞作曲である。この曲には、由来がある。以前住んでいた家の裏に三味線屋があり、そこで酒を飲んで泣いている人がいた、彼は大和に行っていたが戻ってみると家族も亡くなっていたという。その話を聞いて作った。ただし、便所に入っている時、歌詞を思いつき、地面の上に書いて、後から紙に写したという。登川さんらしいエピソードだ(ネット「ryuQ」)。歌詞を紹介する。Img_1870

♪見りば懐かしゃ 戦場になとて 世間御万人(シキンウマンチュー)ぬ 袖ゆ濡らち
  戦 我ね うらみゆさ
 (見れば懐かしい故郷が戦場になってしまった。世の中のみんなが涙で袖を濡らした
 私は戦争を怨む)

♪大和から戻てぃ 沖縄着ち見りば 元姿ねらん かにん変わてぃ 戦我 怨みゆさ
 (大和から戻って、沖縄についてみれば、もとの姿はなくなった。こんなに変わり果てた
  戦争を私は怨む )

♪たるん怨みゆる くとぅやまたねさみ 戦はじめたる 人る怨む 戦我怨む
 (私は誰も怨みはしない ただ戦争を始めた者だけを怨む。私は戦争を怨む) 

 強烈な戦争への怨みの歌である。誰も怨みはしない、こんな悲惨な戦争を始めた者を怨むというところに、登川誠仁の真骨頂が表れている。CD「howling wolf」にのっている歌詞は、ちょっと異なる。歌詞はいろいろあるのだろうか。
 80歳と言えば、沖縄ではまだまだ活躍できる。まだ元気そうだった。もっともっと、自慢の歌三線を聞かせてほしかった。

 写真は、RBC、NHKのテレビ画面から紹介させてもらった。

2013年3月19日 (火)

王朝時代の古道、ヒジガービラを歩く

 首里崎山町を歩くと、「ビジガービラまーい」の案内板があった。琉球王朝時代の古い道筋を歩きながら、地域の歴史や文化遺産にふれる散策路。首里城の守礼門からヒジ川橋までの地域回りの道である。崎山町は散策したが、肝心のヒジガービラはまだ見ていなかったので、歩いてみた。Img_1820_2

 ヒジ川(ガー)ビラは、王朝時代に首里から南に伸びる幹線道路の一つとして整備された。16世紀ごろに造られたと推定される。ということは、第二尚氏の尚真王の時かその後になる。首里崎山町を抜け、王家の別邸、御茶屋御殿(ウチャヤウドゥン)と雨乞い御獄の間を越えて南へ降り、金城川にかかるヒジ川橋を渡って、坂道を登り、王家のもう一つの別邸、識名之御殿(シチナヌウドゥン、識名園)に至る。「ヒラ」とは坂道のこと。「ヒジ川」の名は、石畳道の西側にある湧水の名前に由来する。

Img_1823

歩くのは、崎山町から降りるのではなく、金城ダムの上流、ヒジ川橋がかかっている附近から登った。道路沿いに登り口の石段が見える。案内板がある。石畳道は、石段を登りきったところから始まる。

     石畳道は、地面を石でち密に敷き詰めてある。地形に応じて巧みに曲線を描く。かなれの急坂である。両側には石垣や土留めの石積みを設けてある。石畳道は、あちらこちらに残っているが、これほど見事な石垣があるのは珍しい。

Img_1826

沖縄戦までは、石畳道の両側に美しい松並木が続いていたという。戦争でなくなったのだろう。残念なことだ。

ヒジガーの案内板があった。川ではなく、湧水である。でも道から30㍍も下がらなければいけない。小道がもう歩けない状態なのであきらめた。崖の下に大きく垂れ下がる鍾乳石から水がしたたり、その岩が髭(方言でヒジ)のように見えるのでヒジガーと呼ばれるようになった。

昔は、首里から識名方面に出掛ける人が、その帰りに岩からしたたる冷たい水で喉をうるおしたという。

登っていくと、お墓がたくさん見えてきた。しかも、昔からの巨大な亀甲墓がいくつもある。亀甲墓は、中国南部のお墓の影響を受けた形で、17世紀末頃から沖縄で普及したという。首里金城町の石畳道は、両側は民家ばかりだが、こちらの急傾斜地は墓地だ。

 

Img_1833

 亀甲墓からさらに登っていくと、甘藷(イモ)を普及させ、琉球の5人の偉人の一人に数えられる儀間真常(ギマシンジョウ)の墓や御茶屋御殿跡に出る。
 
 ヒジガービラを降りてくると、道路から金城ダムの上流部、金城川(カナグシクガーラ、現安里川上流)に架かる橋が見える。金城ダムのあるこの付近は、川の両岸は斜面になり、V字型の地形だ。橋を渡ると、対岸の斜面はまたお墓ばかり。坂を登っていくと、識名霊園、識名園に至る。金城川に架かる橋なのに、橋の名前はなぜかヒジ川橋である。琉球石灰岩を用いたアーチが一つの橋、単拱橋(タンキョウキョウ)で、17世紀半ばまでには造られていたと考えられている。

Img_1840

 全長13.18㍍、幅5.2㍍で、橋の中央部が少し高くなり、三段の階段式になっている。欄干は、切り石を利用した質素なつくりですが、見えない部分にほぞをつくって巧みに組み合わせている。橋のアーチは円弧を用い、橋脚部は布積みで、その他は相方積みにしている。Img_1842

 
 河床部分にも石を敷いて、橋脚部を川の浸食から防いでいる。取り付け道路は、緩やかな曲線を描きながら、勾配を調整して橋に取り付けられている。道幅は約2.6㍍で、橋の東側28㍍、西側18.5㍍が指定されている(橋と取付道路は県指定建造物となっている)。

案内板でこう説明している。Img_1843


 識名園は、王家の保養や中国から琉球国王の任命のためくる冊封使(サッポウシ)の接待に使われた。王朝時代は、王家の人々がこの橋を渡って識名園に行ったのだろうか。

  

2013年3月18日 (月)

首里・崎山町を歩く、その4

首里王府の別邸、御茶屋御殿
 崎山町といえば、首里王府の別邸だった御茶屋御殿(ウチャヤウドゥン)の跡がある。前に見たので今回は、行かなかったが、由緒ある場所なので、ブログを再アップしておく。
                             
 崎山御獄を少し南に歩いて行くと公園の一角に、大きな石造獅子がデーンと鎮座していた。
 1677年に造られた王府の別邸、御茶屋御殿にあった石造りの獅子だ。とても大きく迫力がある。驚いたことに、この獅子は、前に見た八重瀬町富盛(トモリ)の石獅子と関係があるという。富盛の獅子は、火事が多かったため、「火の山」と見られた八重瀬嶽に向かって獅子が置かれていた。この首里の獅子も、火難をもたらすと考えられていた富盛の八重瀬嶽に向けられていたという。御殿を火災やその他災厄から守る獅子だった。059



 この場所にもともとあったのではない。御茶屋御殿跡は、現在は首里カトリック教会の敷地となっており、もとはそこに置かれていた。でもがけ崩れの恐れがあり、いまの場所に移したという。057



 すぐ近くに、雨乞御嶽(アマグイウタキ)がある。雨乞いの祈願をする御嶽(ウタキ、拝所)は、複数あるらしいが、ここはとても由緒あるところだ。
  なにしろ大干ばつに襲われたとき、国王みずからが神女を従えて、雨乞いの儀礼をおこなったという。
   低い石垣が円形にぐるっと築かれ、丸く囲んで区域が聖域とされ、石敷きの壇に香炉が設けられている。こんな円形の御嶽は見たことがない。珍しい。
 このあたりは、崖の上に位置し、眺望が素晴らしい。那覇市内から遠く慶良間諸島までよく見える。いよいよ御茶屋御殿だが、その前に、いったい御殿はどういうものだったのだろう。
 琉球は、中国の皇帝につかえるとともに、薩摩に侵攻されその支配下にあった。御殿は、薩摩の使者や中国から琉球国王の任命のためにやってくる冊封使(サッポウシ)をもてなすための別邸(離宮)である。001

  1677年に、時の尚貞王が造営させた。また、国王が芸能奨励のため、家臣の茶の湯、立花、囲碁、音楽、舞踊、武芸を照覧されたところだという。首里城、識名御殿とともに、王朝文化の華を咲かせたところである。
 御殿があったあたりは、眺めがとてtもよいから別邸を造ったのではないだろうか。
 上写真は昭和前期に田辺泰氏が撮影したという御殿だ。正面から見たもの。
 沖縄戦によって焼失、破壊され、もちろん今はない。しかも、戦後、首里カトリック教会がこの地を取得し、教会の敷地となっている。だからまるで面影はない。

   

063


 教会の前まで歩いてきた。「さて、御殿跡は、この教会の敷地だと云うが、勝手に入っていいのかなあ」と立ち止まっていた。ちょうどその時、そこにいたおじさんが声をかけてきた。「御茶屋御殿跡を見るのだったらこちらだよ」というと、何も返事もしない間に、もうすぐに先に立って案内をしてくれた。敷地に入るとすぐに「このあたりは沖縄戦で亡くなった方の死体がたくさんあったんだよ。その骨を埋めた場所だ。だから、だれもこの土地を欲しいという人がいない。それで教会が買ったんだよ」。


062



 由緒ある場所がなぜ教会の所有地となったのか、その理由を解説してくれた。
 「ここが御殿の跡地だよ」と案内してくれた場所には、標柱が立っていた。 案内板もあった。すぐ側に、御殿の拝所があった。
御殿跡の場所からの眺望には、意味があるという。石獅子のある場所からは、海がよく見えたが、御殿跡からは海ではなく、南部一帯の豊見城市、南風原町あたりがよく見える。
 おじさんが説明する。「このあたりからの眺めは海が見えず、昔は畑や田んぼが広く見えた。中国の冊封使なんかに、琉球は見渡す限り陸地で、海も見えないほど広いことを示したんだよ」。なるほど。
 そういえば首里王府のもう一つの別邸と庭園がある識名園(シキナエン)でも、同じような海が見えず、陸地が広がる眺望の場所がある。そこでも同じ説明を聞いたことがあるのを思い出した。冊封使は中国から船にのって来るから、琉球が島国であることは重々知っているのに、こざかしい知恵も使ったものだ。
 

 004


首里の古地図をのせておきたい。分かりにくいが、一番下に突き出したような場所が、御茶屋御殿である。細かく仕切られているところは、士族の屋敷である。親方(ウェーカタ)や親雲上(ペーチン)をはじめ王府の高い位階の士族や「アムシラレ」という王府の高級神女の御殿などもある。
 首里城などは復元されたが、この御茶屋御殿は破壊されたままだ。御茶屋御殿の復元を求める声も強い。
 それにしても、おじさんが案内してくれなければ、とまどっただろう。おじさんのおかげで場所のすぐわかり感謝!感謝!である。

2013年3月16日 (土)

ヒスイカズラが今年も咲いた

 幻想的な色彩で魅了するヒスイカズラが東村で咲きだしたというニュースを見たので、ならば、昨年見に出かけた南城市の玉城垣花のTさん宅でも咲いているはずだと思い訪ねてみた。咲いていました。ただし、咲き始めで、つぼみがたくさんできていた。

 場所は、県道から垣花集落に入ると、垣花公民館のすぐ後、小さな広場に井戸があり、家の前に大きなガジュマルの木がある。その前のお家だ。家の前には、「自由に見学して下さい」という看板を出してくれていた。

 車を止めて出ると、Tさん宅の前の庭でマンゴーの木の手入れをしていたおじさんが「ヒスイカズラを見るんですか。自由にみていいですよ」と向こうから声をかけてくれた。

Img_1783
 家の塀を越えて、通りまでたくさん蔓が伸びて垂れ下がり、花を咲かせている。

Img_1784

 昨年より少し少ない。「今年は咲くのが早いんじゃないですか」と聞くと「そうだね」という返事。昨年は4月に入って見に来た覚えがある。「4月中ごろくらいがいいんでしょうか?」「いや、もうそれくらいになると遅いよ」とのことだった。

 Img_1785_5




 本当に宝石のヒスイを思わせる色彩と形である。マメ科のつる性植物。フィリピンのルソン島、ミンドロ島などの限られた地域の熱帯雨林にしか自生しないとのこと。Img_1789

 「この木は育ててどれくらいになるんですか」と尋ねると「10年くらいかな」ということだった。これ全部、一本のツルから伸びている。まだ咲く前のつぼみが多い。このつぼみから、エメラルドグリーンの見事な花がさくプロセスが見えた。なんか不思議な感じだ。




首里・崎山町を歩く、その3

                           

 

 首里城の裏門に行こうと歩いて行くと、裏手になるところに、工事車両が出入りするゲートがあった。普段はこんな裏手には来ない。せっかくだから覗いてみると、守衛さんが立っていた。ここから先は、工事関係者しか入れない。Img_1730

首里城は、政治、外交を行う庁舎の部分、神聖な場所と崇められた「京の内」、さらに、国王とその家族、そこに仕える多くの女性が暮らす「御内原」(オウチバラ)があった。正殿をはじめ「表」の世界に対して、女性がすべてを取り仕切った御内原は「奥」の世界である。男子禁制だった。
 
 御内原は、いくつもの建物、門などが整備されている最中だ。だから、このゲートから工事関係の車両が出入りする。工事カ所の名称には「黄金御殿(クガニウドゥン)」などの文字が見えた。黄金御殿は、国王と王妃の居間や寝室があるという。完成するまでに何年かかるだろうか。 
 
 Photo
   ここから、少し東に回ると継世門がある。首里城の東側に位置する裏門である。内郭から張り出した外郭の門である。この門を入り、石段を登っていくと、内郭の美福門がある。そこを入れば、御内原である。
 
写真は、首里城復元完成予想図(首里城公園管理センターリーフレットから)。右下に張り出した外郭に見えている門が継世門である。
 

Img_1733

 継世門(上)は、主には日常の通用として使われたそうだ。だが、門の名称にかかわる重要な役割があった。それは、国王が死去すると世継ぎの王子がこの門から城内に入り、「世誇殿」(ヨホコリデン)で王位継承の儀礼が行われたことから、この名称となったという。別名「すえつぎ御門(ウジョウ)」と呼ばれた。

 知人のTさんによると、首里城から与那原方面に出るときは、表の守礼門の方からではなく、裏手の継世門から出て、崎山を通り下りて行ったという。

Img_1736


Img_1734

 門の両側に2基の石碑が建っている。碑文には、猛威をふるっていた倭寇(ワコウ)に備え、1544年に建てられたという趣旨の事が書かれているという。1998年に復元された。

 

さらに、この門は城外の赤田村に向かって開いていることから「赤田御門」(アカタウジョウ)とも呼ばれていた。

そういえば、民謡の「唐船ドーイ」の中に次の歌詞がある。

♪赤田門(ジョウ)ぬうすく 枝持ちぬ美(チュ)らさ
  城(グシク)
美童(ミヤラビ)ぬ 身持ちの清らさ

(赤田門のアコウは枝ぶりが美しい 首里城の若い女性の身持ちの清らかさよ) 

この門を見るまで、この曲に歌われた情景がよくわからなかったが、この門がたくさんの女性がいてすべて女性が仕切っていた御内原に通じる門で、赤田御門と呼ばれていたことを知ると、歌の意味がよくわかる。

Img_1738

 

継世門のそばに、「寒水川」という井泉があった。鉄格子でふさがれている。説明するものは何もない。首里城の北側には、寒水川樋川(スンガーヒージャー)という立派な井泉がある。名前は同じなので何か関係があるのだろうか。「大東亜戦争記念」「昭和17年改修」の文字が刻まれている。戦時中、コンクリート造りになったのだろう。その上には、石碑が折れたような台座がある。ここにも沖縄戦の名残がある。

Img_1737

継世門のそばでは、もう夕暮れ時なのに、子どもたちがサッカーをして遊んでいた。子どもにとっては、史跡のそばであろうと、芝生のいい遊び場なのだろう。

2013年3月15日 (金)

首里・崎山町を歩く、その2

崎山樋川(サキヤマヒージャー)の先に、崎山御獄(ウタキ)が見えてきた。まてよ、前に見たときと随分、風景が違うぞ、と思う。それもそのはず、数年前はデイゴの巨木に囲まれていたのに、デイゴは根本からバッサリ伐られていた。害虫のヒメコバチにやられたのだろうか。拝殿にあたる門の裏側が、御獄になるだろう。金網で囲われて立ち入れないようになっている。でも神聖な御獄は、丸裸の状態で、露出して太陽にさらされていた。神が降りてくる御獄らしい雰囲気が壊されている。害虫の影響とすれば、残念なことだ。Img_1711

崎山御獄は、旧崎山村の御獄(拝所)で、王府時代は、高級女神官であった首里大阿母志良礼(オオアムシラレ)が祭祀をつかさどった。境内は、琉球が三つの小国に分かれていた三山時代、中山王だった察度(サット)王の子であった崎山子(サキヤマシー)の屋敷跡だったといわれる。古い瓦が出土するとして知られている。

                           

 

Img_1714


 門の形をした建物は、拝殿にあたる。もとは、木造の瓦葺きだったのが、1865年石造切妻型のアーチ門に改造された。だが、沖縄戦で破壊され、コンクリート造りで再建された。前に来た時は、祈願をする人たちがいた。

このあたり一帯は、崎山公園として整備されている。眺めがとてもよい。

Img_1721
 

 

 

 一角に「東姓拝所」の石碑が建てられていた。説明文はない。どうやら一世東開極・東風平親方政真を元祖とする首里士族、東氏一統の拝所のようだ。門中(男系血縁組織)の間では、三山分立時代、中山王察度王の末裔という言い伝えがある。また波之上宮を建立したと伝わる崎山里主の末裔で、崎山里主は察度王の息子という伝承がある。Img_1722

崎山公園の入り口にあたるところに、崎山遺跡がある。ネットのかかった巨岩の根元部分に説明板がある。旧石器時代の遺跡で、鹿や角の骨が発見されたという。
 
 こんな高台に何故遺跡が、と思いがちだが、湧水が豊富だったというから、古代人が住むのに適したのだろうか。Img_1727


2013年3月14日 (木)

首里・崎山町を歩く、その1

 音楽仲間が集うアルテ崎山で、Tさんから「崎山は王府の時代、聖地の斎場御獄(セイファーウタキ)などに行く際は、首里城の継世門を出て、崎山を下りて与那原方面に行ったんですよ。昔の古道がありますよ」と教えてもらった。
 
 先日、アルテに行ったついでに、この古道を通って崎山を歩いてみた。

 県道82号線から、急坂の古道を登る。案内板は出ていないが、細い道だけれど、とにかく曲がらずに一本道が伸びているので、旧街道らしさがわかる。坂を登ると、高台の街並みに出た。Img_1700 首里城の南東に位置する崎山町は、隣の鳥掘、赤田を加えて「首里三箇(シュリサンカ)」と呼ばれる庶民の街だったとか。昔は竹に囲まれた家々のたたずまいで、ひなびた村の趣があった。首里八景の中で「崎山竹離」(サキヤマチクリ)と詠まれたそうだ。Img_1703_2

崎山ギャラリーと名付けられた通りに出た。「歴史散歩の道 ビジガービラまーい」の案内板が立っている。並木道には、野外の彫刻が置かれ、散歩にはとてもよい道だ。

昔は村の中に、王家御用の馬場「崎山馬場」が東西に延び、馬術訓練が行われた。その様子を王様が見るために出たときは、この附近が御桟敷(ウサンシチ)になった。崎山公民館の前に、立つ崎山馬場御桟敷跡の案内板に書いてあった。

Img_1702

 崎山馬場ギャラリーは、彫刻が数メートルおきに置かれているが、具象彫刻もあれば、抽象的な彫刻もある。サガリバナの並木があり、黄葉していた。

Img_1731


このあたりは由緒ある史跡、拝所がいくつもある。崎山は高台にあるけれど、少し窪んだ平地になっていて、水が豊富な土地で、かつては泡盛製造所の一大産地だった。いまは、瑞泉酒造だけになっている。瑞泉酒造は、ツタがからまった建物で、昔からの酒造所の雰囲気がある。沖縄に移住してきた時、「青龍」という泡盛が、品評会で賞をもらったので、よく買って飲んだ。すっきりした飲み口でよい泡盛だった。

 

 瑞泉酒造の角を曲がり進むと崎山公園に出る。その手前に崎山樋川(ヒージャー)がある。水は少し溜まっているが、樋からはいま、水は出ていなかった。

Img_1708

王府時代は、良い方角(恵方)が巳(ミ、南南東)に当たる年には、元旦に王様に献上する若水が汲まれた。年中行事のおりに、高級女神官であった首里大阿母志良礼(オオアムシラレ)が参詣したという。

崎山は水が豊富だという一方で、ここから少し南に、干ばつの時に王府が雨乞いの儀式をしたという雨乞い御獄がある。干ばつになれば、湧水も枯れたのだろうか。

2013年3月13日 (水)

県民を愚弄する「屈辱の日」の式典

安倍内閣は、サンフランシスコ条約が発効(1952年)した4月28日に、「主権回復」を記念する式典を催すことを決定した。この日は沖縄で「屈辱の日」と呼んでいる。県民を愚弄するものである。首相が「沖縄に思いを寄せ」といくら言っても、沖縄県民は眼中には入っていない。

サ条約によって、沖縄は祖国日本から切り離され、米軍統治下に差し出された。その後、伊江島はじめ沖縄各地で、銃剣とブルドーザーによって、米軍基地が拡大された。その出発点ともいえるのがこの日であり、まさに「屈辱の日」である。

いまなお日本の面積の0・6%しかない沖縄に、米軍基地の74%が集中する根源がここにある。安倍首相は「4月28日は沖縄返還の第一歩を記した」と国会で答弁した。とんでもないごまかしだ。沖縄は「主権回復」の質草にされ、見捨てられたもとで、これに屈せず日本の民衆とも連帯した県民総ぐるみの運動で、日米政府を動かして祖国復帰を実現したものだ。

国民全体にとっても、4月28日は果たして祝える日だろうか。同じ国民同胞が分断され、サ条約と同時に、結ばれた日米安保条約によって、首都・東京をはじめ全国各地に米軍基地が固定化された。
 
 今なお、広大な米軍基地によって、沖縄県民と国民の命と安全、人権が侵害されている。欠陥機・オスプレイは、沖縄と各地で傍若無人な訓練を行っている。辺野古には新基地建設が押し付けられようとしている。政府のアメリカ追従は目に余る。主権も侵されている。「日本は主権国家なのか?」と疑われるほどだ。

どうやら、安倍首相が「主権回復の日」の式典にこだわるのには理由がある。現憲法が米軍占領下で生まれたものなので、「主権回復」にふさわしい憲法制定を、という改憲の政治的な思惑があるようだ。今年の4月28日は、沖縄県民にとっても、国民のとっても要注意の日となりそうだ。

 

2013年3月11日 (月)

新唄大賞の公開審査会を見る

 沖縄民謡は、昔の曲を歌うだけではなく、新しい曲がたくさん作り続けられている。そこが、他県の民謡とは違うところだ。新しい曲のコンクールである「新唄大賞公開審査会」が沖縄市ミュージックタウン音市場で10日、開かれて初めて見に行った。

 ROKの主催で今年第24回となる。始まると撮影禁止なので、その前の会場風景。Img_1692
 新唄大賞は30曲ほどエントリーがあり、予選を通過した16曲が出場する。初めて見に行ったのは、F&Yのフォークライブで毎月、見に行っている「ふーみ」さんが、見事予選を通過して出るからだ。

Img_1696
 この曲は、以前ふーみさんの知人が、「こんな曲をつくりたい」と鼻歌で聞かせてくれたのを、曲として整えて、録音してあげたことがあった。知人がその曲をエントリーしたら予選を通過して、ふーみさんが出場することになった。「生き様」(イチザマ)の題名が示すように、人の生きる道を歌った曲。エントリーの16曲の多くは、恋歌や音頭が多い中で異色である。

 16組がそれぞれ喉を競い合った。ふーみさんは、三線も上手く、声もよし。曲もよい。なかなかの出来栄えだ。隣に座った宮古民謡の名手、Tさんも「三線もいいし、これは上位3組に入るね」と太鼓判を押していた。

 ふーみさんの後に続いた伊禮栄勝、大城クラウディアさんがまたとてもいい。この三組から大賞が出るんじゃないか、というのがTさんとのもっぱらの下馬評だった。

Img_1694_2 審査員は、10ある民謡団体の幹部、沖縄三線音楽研究者、ラジオ沖縄社長の12人。審査の結果、ペールー出身の沖縄系3世のLUCY(ルーシー)さんの「恋のヨイすら節」、歌唱賞に大城クラウディアさん「女ぬ夢」が入った。ふーみさんは残念ながら、入賞できなかった。でも、本選まで入ったことがすごいことだ。046

     ふーみさんいつもこんな風に三線を弾いている(恩納村居酒屋「なかや」で)

 審査は沖縄音階を使う、歌詞はウチナーグチを使う、楽譜を見ないで歌うのが、条件になっているというけれど、実際は沖縄音階ではない曲もある。不思議なのは、大和口(共通語)の歌詞も入っていて、しかも「野菜音頭」なんか、野菜名をウチナーグチではなく、大和口で歌っているのに、作詞賞に選ばれたりしたこと。すっきりしない感じが残った。

 審査の時間、昨年大賞をとった伊藤幸太さんが昨年の受賞曲をはじめ八重山民謡を6、7曲歌った。伊藤さんは、大工哲弘さんの弟子。伊藤さんとおなじ弟子仲間の杉田園さんも登場して、伊藤さんと掛け合いで歌三線を披露した。八重山民謡を堪能できた。

2013年3月10日 (日)

アルテで「門たんかー」を歌う

 3月のアルテ・ミュージック・ファクトリーのテーマは「立」。今月はエントリーがすくなくて、全部で17組だ。三線は私一人で、少し寂しい。
 選んだ曲は「門たんかー」。門はウチナーグチでは「ジョウ」と読む。いまだに、なじめない。「たんかー」とは、真向かいという意味になる。「家の真向かい」というような題名になる。

Img_1662
 歌詞は長いが、5番まで歌った。次のような歌詞と歌意だ。
♪門たんかー 美ら(チュラ)二才小(ニセグヮー)やしがよ 七門八門越ちん 縁どぅ選ぶ
 (家の真向かいにきれいな若者がいるが、恋は7,8軒越えても縁を結ぶものだ)
♪我んや門に立てぃてぃ チョンチョンと雨に濡らち 開きてぃ入りる事や ならんばすい
 (私は家の前に立ち、雨に濡れているよ 家の中に入れてくれないだろうか)
♪鬢(ビン)た小(グヮー)や 垂らち 何処(マー)かい参(メ)がウマニよ 赤野原 喜屋武小 ヤッチ忍 びいが
 (ビンを垂らしてどこへ行くの奥さん、赤野原のチャン小と忍びあいなのかな)

Img_1671

♪髪小(カラジグヮー)に一惚り(チュフリ)目眉小(ミマユグヮー)に一惚り 腰(ガマク)小に一惚り 丁度(チント)三惚り
 (結った髪に惚れ、目眉の美しさに惚れ、腰のくびれに惚れ、ちゅうど三度惚れた)
♪太田(ウフタ)バンタ 毛遊(モーアシ)び 唄声小や 田佐原(タサバル)チル小 三味線小
 弾ちゅせ 痩(ヨウ)がりウサ小
 (太田崖の野原で歌い踊り遊ぶ 唄声は田佐原のツルちゃん 三線弾いているのは痩せたウサちゃん)

 いつものように、出だしはつまづいたが、その後はなんとか、歌い終えた。
 宮古民謡の名手、Tさんは「先生についていないのに、難しい曲をよく歌えるね」と、声をかけてくれた。やっぱりなかなか難しい曲だ。

 この曲は「具志川小唄」とも呼ばれる。知名定男さんの父、定繁さんの作品。「ヤッチャー小」をもとにした曲らしい。両曲はとても似ている。アルテで「門たんかー」を演奏する本番の前は、「ヤッチャー小」は練習しないようにしていた。すぐにゴッチャになるからだ。

 歌三線仲間のTさんは、打ち上げ会に来たが、「ぼくは、ヤッチャー小とこんがらかるから、門たんかーは弾かないようにしているよ」と話していた。やはり同じ感想をもっていた。

Img_1683
 ツレは、「グリーンスリーブス」をピアノで演奏した。といっても、独奏ではなく、ギターとリコーダーが加わって、3人の合奏である。ピアノは習い始めてもうすぐ丸1年になるが、とても1年とは思えない堂々とした演奏ぶり。リコーダーともよくマッチして、美しいよい演奏だった。

Img_1688
 打ち上げ会は、コザから参加したエレキギターのおっさんが、ジャズ、ロックなど次々に奏でて、大いに盛り上がった。

2013年3月 9日 (土)

琉球競馬・ンマハラセー70年ぶりに復活

 沖縄には、王府時代から続く「ンマハラセー」と呼ばれる琉球競馬があった。県内各地を回ると、「馬場」と呼ばれるところが、あちらこちらで見かける。でも、いまは、まったく競馬らしいものはない。なぜだろうか、と前から疑問になっていた。それがやっとわかった。それは、かつては、ンマハラセーが盛んだったことの名残である。

Img_1633
 70年ぶりにウマハラセーが復活した。見には行けなかったが、新聞、テレビでその模様が伝えられてわかった。
 琉球伝統競馬は、世界に類を見ないスタイルの競馬だ。普通は、競馬と言えば早さを競うレースだが、どちらかと言えば、オリンピック競技にもなっている乗馬のような感じ。

Img_1635
 乗る馬に飾りを施し、走りの優美さを競う。ウマハラセー(馬走り)、ウマスーブ(馬勝負)、ウマジュリー(馬揃、馬寄)とも呼ばれた。2頭の馬で競った。馬は、沖縄在来の小型の馬だ。

Img_1641
 馬の走りは、通常は斜対歩(左右対称の走法)で走るけれど、ンマハラセーでは、右の前後の足を同時に繰り出し、その後、左の前後の足を同時に送り出す「側対歩」と呼ばれる独特の走り方で行う。Img_1642


 「速さの代わりに細やかな脚の運びで美技を競うウマハラセー。独自のスタイルは、美を重んじる琉球士族の精神性が生み出したものだろう」。『消えた琉球競馬』の著者、梅崎晴光氏は、こう評している(「琉球新報」3月1日付)。

 沖縄こどもの国で、3月2,10日と2回にわたって行われた。競馬用の馬場は、昔は沖縄本島だけでおよそ100か所もあったという。かつては、村祭りのようなにぎわいで、遠くでも歩いて見に行った。自分の集落の馬やおなじ門中(ムンチュー、男系の血縁集団)から馬が出ると、応援にも力が入ったそうだ。

 Img_1643
 
 なぜ、競馬がなくなったのか。そこには戦争の影がある。戦前、軍馬に適した大型改良馬を生産するため、数え年3歳以上の在来牡馬は去勢された。競争馬は激減していった。1939年以降は、残っていた馬場も軍馬の鍛錬場に代わり、1943年、最後の馬場がなくなって、琉球競馬は消滅したという。梅崎氏の記事を参考にした。画像は、「琉球放送」のテレビ画面から使用させてもらった。

 70年ぶりに復活したンマハラセーの灯を消さずに、これからも続けてほしいものだ。

2013年3月 8日 (金)

宮古島史の不思議、その6

稲村氏の見解は、以下の点で興味深い。

1、与那覇勢頭豊見親は宮古主長になったけれども、平和主義で与那覇原一族との間には武力抗争は起らず、島民は平和を享受できたこと。

2、目黒盛豊見親の死後、あとを継いだ子ども真角与那盤殿は、「よく父の意志を守り、仁政を以て治めた」とのべ、政治権力を行使していたことがわかる。

3、与那覇勢頭の中山朝貢は、「大国に通じてその統治を受けることによって島内の秩序を維持し、平和を致すことにあった」とのべ、交易によって利益を得ることより、「大国の統治を受け、島内の秩序維持」という政治的な目的が主であったこと。

4、大里大殿は、中山に宮古主長として任命され、しばしば中山に朝貢し「権勢並ぶ者なかった」こと。つまり、目黒盛一族は、もはや並び立つ権勢をもっていなかったことを意味する。

5、与那覇勢頭は「いつまでも僻隅地の与那浜で全島の政治をみるわけにはいかなかったろう」として、「全島の政治を見る」という支配的な立場にあったこと。

6、「平良附近に移って祖先の故地を恢復した」が、目黒盛一族と与那覇勢頭一族間は「争闘確執の空気は全然なく、むしろ親和協力して島内の政治に当った」と見られること。「祖先の故地を恢復」しようとすれば、本来は目黒盛一族と確執がおきて不思議ではない。だが、平和裏に移ったとすれば、そういう協調関係にあったことをがわかる。

7、目黒盛豊見親の死後、久しく白川氏に帰していた宮古主長職は忠導氏の手に移るようになったとする。ただ、目黒盛は実権を握っても、中山王から宮古主長職には任命されていない。
 
 稲村氏見解は、宮古の支配者の実権が、目黒盛の死後は、与那覇原一族に移っていたが、大里大殿とその子が亡くなって、再び目黒盛一族に移った見ている。宮古島のなかで二大勢力を形成していたが、政治権力が二分されていたのではなく、中山王の任命した宮古主長が全島を統治していたという解釈になる。

これらの点で『宮古史伝』とはかなれ異なる見解である。109


    仲宗根豊見親が八重山遠征での戦勝を記念して築いた漲水御獄の石垣の碑

 

おわりに

これらを見たうえで、勝手な推測と私見をのべる。

『宮古島記事次第』などを読むと、目黒盛一族は、子どもの真角与那盤殿の代は、「よく父の意志を守り、仁政を以て治めた」と記され、いまだ統治権をもっていたことがわかる。しかし、そのあとの代になると、子どもをめぐる話はあっても、政治を行った事績については記述がない。そればかりか空広は、かつては対立した与那覇原一族の、大里大殿のもとで養育されている。もはや目黒盛系統の権力を継ぐという状況ではない。すにで、承継するような権力がなかったのだろうか。
 
 それに対して、与那覇原一族は、三代目の大里大殿も宮古主長と任じられているように、主長職を継承していて、大いに権勢を誇っている。島の二分派が形成されたあと80年余り間、力関係は固定化していない。変動があったことがうかがえる。

14世紀半ばごろと見られる目黒盛が与那覇原軍を打ち破った時代から、与那覇勢頭の中山朝貢をへて、仲宗根豊見親の主長になる1474年までの間(『宮古史伝』は110年間とする)は、宮古史のうえで、一つの過渡期とみられる。群雄割拠の時代が終わり、島が統一され、さらに単一の政治支配が確立するに至る過程をなしている。

これは、日本史でいえば、戦国時代を制した豊臣秀吉から徳川家康に権力が移り、江戸幕府を開く過程、琉球史では三山時代から尚巴志が琉球を統一し、さらに尚円王が第二尚氏を打ち立てる過程に比定されるのではないだろうか。

与那覇勢頭が最初に宮古主長に任じられた時は、まだ目黒盛が支配の実権を握っていたとしても、与那覇原一族が中山朝貢を繰り返すなかで、王府の威光と宮古主長職の権威が比重を高めたのではないだろうか。王府の権威をもたない目黒盛一族の力は弱まっていったのではないか。大立大殿の時点では、二分派は対等な関係ではない。目黒盛の玄孫が与那覇勢頭一族のもとで養育されたということに、最も端的に表れている。
 
 ただし、重要なことは、両勢力の力関係がどうなったのかではない。互いに宮古島を統治するうえで協調し合う関係にあること。民衆の上に立ち、政治支配と経済的な搾取によって統治秩序を維持する支配的な勢力として、一つに収斂されていく過程にあったことを示しているのではないだろうか。

実際に、仲宗根豊見親が、中山から主長職に任じられたことによって、単一の政治支配が確立する。もはや、両勢力は、合一した政治的な支配勢力として形成されていった。

宮古の支配者の名称は「豊見親」の時代のあと、平良、下地の二頭職、さらには砂川を加えた三頭職へと変わっっていった。


167
               東平安名崎の海岸


 与那覇勢頭系の「白川氏」、目黒盛系の「忠導氏」、仲宗根豊見親の第3子知利真良豊見親から出た「宮金氏」という氏族が、頭職をはじめ宮古の主要官職を占めていくことになった。

明治30年の旧慣廃止まで、宮古の頭職の110名のなかで、その3分の1に当たる35名は白川氏出身。忠導氏の家系からは支流をあわせて17人の頭職を出し、白川氏と並んで島内における二大名門とされる(『宮古島庶民史』)。

「宮古島史の不思議」といっても、素人の独りよがりにすぎない。ただ、いくつか宮古島の歴史に関する著書を読んでみたが、この宮古島が群雄割拠の時代から単一の政治支配が確立する宮古島史のキーポイントともいえる重要な時期の考察に限って言えば、宮古歴史の二大名著といわれる『宮古史伝』『宮古島庶民史』が、もっとも深く検討してまとまった記述をしていると思う。不満なのは、『平良市史通史編』や市町村合併後の近著『宮古島市史通史編』がいずれも、この時代について、立ち入った考察を避けていること。市史では、あまり立ち入った考察と見解は避けているのだろうか。まだまだ宮古島の歴史には、よくわからないことが多い。今後、宮古島史の研究の発展を期待したい。

 

(おわり      2013年3月5日       文責・沢村昭洋)

2013年3月 7日 (木)

宮古島史の不思議、その5

稲村賢敷(イナムラケンプ)著『宮古島庶民史』は、次のような記述をしている。

                           

 

 目黒盛対与那覇原戦争の当時、彼は齢既に五十前後に達していたものと思われる。…(目黒盛)豊見親は持久戦と奇兵戦法によって敵を悩まし、最後は農民兵の来援によって勝利を得たということになる。その武力において与那覇原軍にまさって居たというよりも、智謀と徳の力によって最後の勝利を得たというべきである。

与那覇原軍に勝った後の目黒盛豊見親の政治は、長い間の戦乱時代の後をうけて、農業・牧畜を奨励して民力を休養せしめると共に、御獄を修理建造して神祗崇拝の心を起し、人心を安堵せしめることにあったのである。…

ともかく、この戦争は目黒盛一家と与那覇原一族との間における興亡を決する戦いであっただけに、犠牲は与那覇原だけに限らず、勝った方の目黒盛側でもその子弟および股肱(ココウ)の家臣で戦に殉じた者は沢山あったことと思われるのである。…

113
  上写真は目黒盛と与那覇原軍との戦闘で目黒盛の飼い犬が飛び出して助けた伝説のある「ニブス川 平和の犬川」の碑

目黒盛豊見親の死後、一子真角与那盤殿(マツヌユナバントゥヌ)が継いでよく父の意志を守り、仁政を以て治めた。この頃、与那覇原の後継者与那覇勢頭豊見親は与那浜に遁走した一族と共に敗戦後の勢力恢復に努力していたが、背後における根間地、および長間田等の肥沃なる荘園地によって次第に富強となり、船を艤して中山朝貢の途を開いたのであった。これは宮古と沖縄本島間の初めての朝貢関係であって、中山王察度も大いにこれを喜び、彼を宮古主長の職に任命したのであった。…
 
 与那覇勢頭豊見親は宮古主長になったけれども、彼もまた平和主義で聡明寛大な人であったから、与那覇原一族と目黒盛家の間には少しも武力抗争は起らず、島民は平和を享受することができた。…

すなわち、(与那覇勢頭)豊見親の中山朝貢の目的は、大国に通じてその統治を受けることによって島内の秩序を維持し、平和を致すことにあったことは明らかである。他の西南諸島の中山入貢が、主として交易上の利を得たいという経済上の理由に存したのとは異なり、彼はその前半生における深刻なる体験から生れた平和思想にもとづいて、人民を戦禍の苦しみから救済しようという政治的意義が主となっていることは明らかである。…
 
 この中山朝貢という新体験にもとづいて島民を指導啓発し、従来小孤島内のことにのみ心を捉われて互いに勢力を争い、攻戦殺伐をこととした愚を悟り、より広大なる世界に眼を転じて通商交易の面にその雄志を伸ばそうとするに至る、島内の人心転換をはかる大きな効果があったのである。…005_2          那覇市にある与那覇勢頭逗留旧跡碑

宮古主長としての彼は、暫くの間は与那浜を中心として民力を休養すると共に、通商交易の利を収めて一族の富強をはかったことであろうと思うが、いつまでも僻隅地の与那浜で全島の政治をみるわけにはいかなかったろうから、再び平良附近に移って祖先の故地を恢復したものと考えねばならない。…
 
 しかし平良付近に帰還した与那覇原一族は、海外通商の利益を知り、より広大な世界に生きる道を知っていたから、固陋(コロウ)なる報復思想や殺伐なる習俗はこれを忘れて目黒盛系統の人々とも円満に協力して島内の平和を維持したことと思われる。これについては、泰川大殿の第三子大里(ウプダテ)大殿が宮古主長となって権勢並ぶ者なかった天順年間の頃、当時七歳の少年であった空広(ソラピイ、目黒盛豊見親の五世孫に当り、後年仲宗根豊見親と称す)の才能非凡なるを見込んで、これを吾が家に引き取って吾が子同様に養育し、17,8歳頃にもなると家権の全部を彼に季せたという美談が残っている。…

彼が大里大殿の恩顧を受けたと称する七歳の時は、天順の末か成化の初め頃で、大里大殿は50歳前後で宮古主長として権勢盛んなりし頃のことである。この伝説によっても知られるように、目黒盛一族と与那覇勢頭一族間には昔日のような争闘確執の空気は全然なく、むしろ親和協力して島内の政治に当ったことが明らかに窺われるのである。…

003
                 与那覇勢頭逗留旧跡碑のそばには「白川宮」がある

大里大殿は天順年間(1460年頃)の初期宮古主長に任ぜられ(白川氏家譜)、しばしば中山にも朝貢して島民の信望も篤く仁政を施した。やがて齢七十を越えて中山への御奉公も思うようにならないので、成化年間の末頃には上表して致仕し、自分の後継者として子能知伝盛(ノチデモリ)大親恵照と忠導氏玄雅の二人を交替朝貢せしめたい旨を乞うて許された(白川氏家譜)という。…

大里大殿の死後恵照は父の家統を継いで宮古主長となったけれど、中山朝貢の帰途逆風に遭うて久米島に漂着し、間もなく病没したので久米島東獄に葬った(白川氏家譜)。かくして島内の政権は自から忠導氏玄雅に集まり、やがて中山の命を受けて宮古主長に任ぜられたので、目黒盛豊見親の死後、久しく白川氏に帰していた宮古主長職は忠導氏の手に移るようになった。

2013年3月 6日 (水)

宮古島史の不思議、その4

宮古島歴史の名著に見る

宮古島の過渡期といえるこの時期をどう見るのか、二つの宮古島史の名著を見てみたい。
 
慶世村恒任(キヨムラコウニン)著『宮古史伝』の記述は、なかなか興味がある。

 察度王から宮古島の主長に任じられた真佐久は、「目黒盛豊見親の施政内に割り込んで来て、一方の勢力を得た。島民はこれを与那覇勢頭豊見親と尊んだ」という。

 与那覇勢頭豊見親は中山に付庸して後は、毎年朝貢したが、それには一定の数量というものはなかった。宮古では、既に施かれた目黒盛豊見親の制度がそのまま存続していたのである。それで、「島内には自ら権勢上の二分派ができたがそれは決して表面には現れなかった。それは確然たるものでなくて、既に根ざした目黒盛の制度を遵奉しつつ一方では与那覇勢頭に帰趨する者もあったのである」

与那覇勢頭が中山に朝貢しても、それで実際については「宮古全島の中山服属とみることはできない。与那覇一族の中山付庸とみるのが妥当であろう」という。「この頃の統治権はやはり目黒盛一族にあったことは確かで、その一族の『島の主長』の職は実際に基づき、与那覇一族の『島の主長』は中山の命令に依るものであった。この二分派が合一したのは、目黒盛の玄孫仲宗根豊見親が与那覇勢頭の孫大立大殿から中山令による主長を受けついだ所に見出されるのである」とのべている。080
           仲宗根豊見親の墓の碑

 二分派が名実ともに一つとなる経過について、次のように記述している。

与那覇勢頭の孫、大立大殿は74歳の時、上奏してその職を嫡子能知伝盛大親恵照(ノチデモリオオヤケイショウ)に行わせ、玄雅(目黒盛の玄孫)を執権たらしめたが、恵照は中山朝貢の帰途久米島に於いて病死したので、彼は…中山に赴き、尚円王に謁し命を奏じて宮古島の主長になった。時に彼は18歳であった。島民はこれを仲宗根豊見親と尊称した。目黒盛豊見親が統一の業を成して島内の統治行われてより一百十年、与那覇勢頭豊見親が中山王察度の命によって主長となりてより八十五年、島内に於ける権勢上の二分派はここに於いて名実相添うて一に帰し、文物制度いよいよ整うようになった。 

 

『宮古史伝』は次の点で興味深い。

宮古島では、群雄割拠の時代を制した目黒盛の治政のもとで、さまざまな政治制度が打ち立てられていて、与那覇勢頭が主長に任じられ、目黒盛の施政下に割り込んで来ても、目黒盛の制度を排除して新たな制度を打ち立てるという関係ではなかった。
 
 中山服属といっても、まだ宮古島全体が服属したのではない。宮古は「二分派」ができあがっていた。統治権は、目黒盛一族にあり、島の主長として実際を握っていた。与那覇勢頭が任じられた「主長」は、あくまで中山の命令によるものと見ている。

                           

 

 ただし、目黒盛と与那覇勢頭とは、かなり世代が異なる。与那覇勢頭が中山に朝貢して帰島したとき、目黒盛一族は、支配者としての勢力を維持していたのだろうか?とくに、与那覇勢頭が主長となってから、仲宗根豊見親が主長になって二分派が名実ともに合一するまで「85年」の間に、宮古の統治の実権をめぐり、その力関係に変容があったのだはないだろうか。

 

2013年3月 5日 (火)

宮古島史の不思議、その3

この間の時代をどう位置付ける

仲宗根將二氏は「島うちはもはやかつての群雄割拠時代ではなく、どちらかが最高の支配者として君臨していたのではなかろうか。それとも海の向こうに大国があることを知った大小の諸豪族は、それぞれの領分を守って、あえて他を押しのけることをしなかったのだろうか」とのべている(『宮古風土記』)。
 
 もはや争いの時代でないのは、確かだ。「どちらかが最高の支配者」だったのかどうか、識者によって見解が分かれる。

与那覇勢頭も、宮古の主長に任じられたけれど、あくまで宮古で争乱の時代に終止符を打ち、平和のうちに安定した社会を願っての中山朝貢だったことから、目黒盛との共存の道をとったのではないだろう。002

       中山王に朝貢した与那覇勢頭豊見親逗留旧跡碑

川満信一著『宮古歴史物語』は、目黒盛豊見親と与那覇勢頭豊見親は、「ただ頭、島主といってもそれぞれのやや広い領地を分け合って治めていた、というだけのことで、宮古島全域に統一の中央集権的制度や権力が成立したと考えるのは、後世の歴史家や系図持ちたちの過剰なロマンにすぎない」と断じている。

川満氏は、豊見親と称される目黒盛や、主長と任じられる与那覇勢頭がいても、宮古島はまだ統一の中央集権的な権力が成立していない。豊見親は制度的な位ではなかった。互いに「やや広い領地を分け合って治めていた」と見ている。

 『沖縄戦国時代の謎』の著者、比嘉朝進氏は、与那覇勢頭は「目黒盛一族と協調して政治に当たった。島民は与那覇勢頭豊見親とよんで敬意を表した。勢頭は船頭の意味であろうか。与那覇が交易を担当し、目黒盛が農業と内政を担っていたと思われる」とのべている。
 
 比嘉氏は、与那覇勢頭と目黒盛は、たんに領地を分け合って併存したとだけでなく、互いに宮古島で支配的地位に立つ者として「協調して政治に当たった」と見る。

 ただ、目黒盛は「農業と内政」、与那覇勢頭は「交易」を担当したというが、果たしてそのような確然とされた「分業」に至っていたのか。根拠は示していない。

いずれにしても、与那覇勢頭豊見親の登場によって、宮古の勢力は二分されたかたちになったが、15世紀なかばに目黒盛豊見親の玄孫(ヤシャゴ)にあたる玄雅(ゲンガ)が与那覇勢頭系の大立大殿に養育されたことによって両派合一の道が開かれた。長じるにしたがって非凡な才能を発揮していった玄雅は、やがて実権を握って仲宗根豊見親と尊称されるようになり、1474年に尚円王から宮古の首長に任じられて統一政権が確立した(新城俊昭著『琉球・沖縄史』)

 

2013年3月 4日 (月)

さんしんの日2013

「第21回ゆかる日 まさる日 さんしんの日」が今年も、読谷村文化センター鳳ホールをメイン会場に開かれた。会場には行けなかったが、ユーストリームで見られるので、リアルタイムで会場の雰囲気が味わえた。

 

Img_1625
 沖縄文化の原点“さんしん”をキャッチフレーズに1993年、琉球放送が提唱して始まったのが「さんしんの日」。生みの親は、上原直彦氏(前琉球放送ラジオ放送部局長)。上原氏は、9時間に及ぶ生放送になる。昨年は、放送直後、倒れて心配したが、彼にとって最大のイベントなので、今年もかなれお年なのに、がんばっている。

 この日は、午後零時から夜9時までラジオで生放送された。とくに、時報ごとに、ツ、ツ、ツ、ツーという時報音に合わせて、古典曲の「かぎやで風」を演奏する。それに合わせて、県内外、海外の三線を愛する人たちが、いっしょに「かぎやで風」を演奏する。それによって、三線愛好者が心を一つにするのがミソだ。

Img_1626
 私も、午後零時と1時の時、いっしょに演奏してみた。時報音の最後の「ツー」の音が三線の調弦C調と同じ高さになる。だから、時報音の最後の音が「かぎやで風」の最初の一音と重なるのが、面白い。

Img_1627
 私が演奏したとき、会場の演奏に続いて南米のボビリアや宮古島などラジオでリレー形式に演奏が流れた。会場に合わせて演奏をはじめ、ボビリアにかわると、なんとテンポがまるっきり違う。早い。それに合わせようとすると、最後にもう一度会場に戻ると、とっくの前に演奏したカ所をまだ演奏するという、なんだか珍妙なことになる。これがラジオから流れる演奏といっしょに弾く時の難しさだ。

Img_1628 この日は、県内でもJA各支店での14カ所をはじめ、那覇市視聴覚障害者福祉会「若松の会」、宮古民謡保存協会、石垣市文化協会、うるま市文化協会、新赤道自治会、道の駅かでな軒下広場、三線の日inヨロン2013などなど。各地で演奏された。ラジオでは、ブラジル、ロンドン、台湾など各国の模様も放送された。

Img_1609 与那原町では、「兄弟小節(チョウーデーグヮーブシ)」の歌碑の前で、作曲者の前川朝昭さんの本流一門会の人たちらが、奉納演奏をした(上)。

Img_1629 宮古島では、宮古民謡の名曲「とうがにあやぐ」の歌碑除幕式がこの日に合わせて行われた。Img_1631 

 会場は、次々に唄者が登場し、自慢の島唄を披露した。左端は、人気者「ゲンちゃん」こと前川守賢さん。
 最後に、地元、読谷出身の「でいご娘」が出て、「艦砲ぬ喰ぇーぬくさー」を歌った。この歌は、ブログで何回も取り上げた。今年6月23日の慰霊の日には、歌碑が建立される。「あすへつながる平和の歌」(上原さん)として、「さんしんの日」にふさわしい曲目だった。

 画像はいずれも、琉球放送のテレビとユーストリームから使わせてもらった。





2013年3月 3日 (日)

宮古島史の不思議、その2

なぜ、中山国へ朝貢したのか。

 なぜ、敗者であった与那覇勢頭が、中山国へ朝貢したのか。その動機として、「戦禍のもたらす苦しみから島の人びとを救い、もっと大きな統治力指導力に頼って治安を維持し生活の安定をはかろう、とする政治的意図がうかがわれる」、ただし「大国との交流によって交易上の利潤を得たいといったような経済上の狙いから、とは断じ難い」。『平良市史通史編』はこのようにのべている。

 与那覇勢頭の血統の事績をしるす『白川氏家譜』は、「大国たる中山に通じて平和を致さんとす」と記している。
 
 ただし、目黒盛の勝利によって宮古島には一応の平和が訪れ、安定に向かっていた。むしろ、同じ琉球列島の大国である中山王に朝貢し、その「大きな統治力」に頼って、宮古での権威と政治的な影響力を拡張しようというのが、基本的な動機ではないだろうか。交易による利益は当然、付随してくるものである。

 

宮古島出身で『新琉球王統史』の著者、与並岳生氏は、中山王に朝貢し「豊見親」の称号を与えられ、宮古に戻った与那覇勢頭も、宮古は目黒盛が支配していたので、「実際は宮古主長になったわけではなく、八重山に渡り、島の主長たちを説いて、ともに中山に入貢し、中山の支配力を背景に、勢力を広げることを図ったようです」とのべている(『新琉球王統史 察度王・南山と北山』)。中山朝貢は、中山の支配力を背景に、宮古で政治的影響力を広げることが狙いであるという見解である。

 

                           

 

013
            那覇市にある与那覇勢頭豊見親逗留旧跡

宮古の支配者はだれだったのか

与那覇勢頭が中山王・察度に朝貢して「宮古の主長」に任じられたといっても、宮古にはすでに実力で支配者の地位を得た目黒盛がいた。かたや東方の大国中山の名による主長である。「両者の間に確執があったのかなかったのか、“旧記”は何一つふれていない。また伝承らしきものも伝わっていない」(『宮古風土記』)。

旧記の一つ『宮古島記事仕次』を読んでも、両者間でどのような対応があったのか、という記述そのものが見当たらない。ふれていなということは、宮古を揺るがすような確執、騒動らしきものはなかったことを意味するのではないか。宮古の支配的な地位をめぐり、二つの系統が併存することになる。ここで目黒盛と与那覇勢頭系統の系図を記しておく。

目黒盛豊見親―真角与那覇盤殿(マヅヌユナハバトゥヌ)―普佐盛(フサムリ)豊見親―真誉ヌ子(マユヌファ)豊見親―仲宗根豊見親=忠導氏。

与那覇勢頭豊見親―泰川大殿(タイカーウプトゥヌ)―大立大殿(ウプダティウプトゥヌ)―能知伝盛大親(ヌチデムリウプヤ)―下里与人(ユンチュ)=白川氏。131

注・史料によって「泰川大殿」は「代川大殿」、「大立大殿」は「大里大殿」を書く。写真は、大立大殿みゃーか(墓)の碑。下写真が実際の墓。

「与那覇勢頭の方は、子泰川大殿、その子大里大殿と実力者のつづいたことが記されているのに、目黒盛の方は相応しい事績が伝えられていない」(『宮古風土記』)。

 “旧記”は、目黒盛の子二代目与那覇、三代目普佐盛、四代目真誉ヌ子とつづくいずれも「殿」あるいは「豊見親」の尊称を付しながらも、いわゆる「主長」職についてはふれていない。

他方、与那覇勢頭の方は、真佐久の子泰川大殿については有徳の士で、壮年のころ病を得て隠遁、その後に生まれた三代目大里(大立)大殿についてはじめて「当世の主」と記している。




132 


 大立大殿は、子どものヌチデムリを宮古の主長に任じ、養育していた仲宗根(空広)を執権として両人を交互に朝貢させる旨を上申し、王府から承認された。大立大殿の没後、ヌチデムリは朝貢の帰りに逆風で久米島に漂着し病死した。そのため実権は仲宗根が握り、王府の命を受けて宮古首長となった。

これで見ると、与那覇勢頭(白川氏)の系統が主長職を受け継ぎ、大里大殿の子、能知伝盛のあとをうけて仲宗根豊見親が宮古の支配者になり、中山から「主長」に任じられ、名実ともに宮古を代表する実力者として歴史の表舞台に登場することになる。

かくして、白川氏が任じていた宮古主長職は忠導氏に移行した。 

与並氏は、少し見解が異なる。与那覇勢頭が察度から「宮古主長」に任じられても、「恐らく宮古の文字通りの『主長』にはなれなかったのです。目黒盛豊見親が亡くなると、その子らが後を継いで宮古を支配していきます。何代か経て、ようやく与那覇勢頭豊見親の一統が宮古の支配者となりますが、その一統というのは、与那覇勢頭豊見親の孫たちからでしょう」(『新琉球王統史 察度王・南山と北山』)とのべている。与並氏は、宮古で実権を持つ支配者は、目黒盛系統で受け継がれ、与那覇勢頭の一統が支配者となるのは、その孫、つまり大立大殿の代になってからだという立場である。

 

2013年3月 2日 (土)

宮古島史の不思議、その1

宮古島に旅行した際、島の歴史を少しかじった。といっても、宮古島史については、まるで素人である。なかでも、宮古島が統一されるまでの争乱の時代、日本の戦国時代を思わせる激しい争い、戦乱があったことに驚かされた。同時に、宮古島に統一政権というべきものが確立していく過程には、いまだよくわからない、謎というか疑問がある。いくつか史書を読んでも胸におちないところもある。

それで少し「宮古島史の不思議」について、識者の見解を紹介しながら、考えてみたい。

 004

                  宮古島の砂山ビーチ       

「宮古島史の不思議」とは

宮古島は14世紀はじめには、各地に村落が形成された。村落を治めていた首長を天太(テンタ)とよび、村内でもっとも人徳のあるものが選ばれた。

 しかし、14世紀後半になると、武力によって村々を支配しようとする按司が各地にあらわれ、島全体が争乱状態におちいった。いわゆる群雄割拠の時代である。(新城俊昭著『琉球・沖縄史』)。按司とは豪族のような存在である。

 14世紀の後半と推定されるころ、平良(ヒララ)の東方一帯に一千人の軍団をひきい、宮古全域で猛威をふるった佐多大人(サータオプンド)を首領とする与那覇原(ユナパバル)一党がいた。多くの村むらが踏み荒らされ廃墟と化した(仲宗根將二著『宮古風土記』)。
 
 与那覇原軍が宮古の八、九分どおり制覇した。このとき、立ちはだかったのが平良を拠点とする目黒盛(メグルムイ)だった。圧倒的優位をほこる与那覇原軍に追いつめられた目黒盛は、ここで援軍を得て奇跡的に大勢を盛り返し勝利をおさめた。首領の佐多大人は殺されたという。初めて宮古の統一をなしとげたのが目黒盛豊見親であった

 もはや目黒盛に敵対する者はなく、久しくつづいた兵乱闘争はおさまり、宮古は平和な世をむかえた。島の人びとは、目黒盛の勝ち戦に胸をなでおろし、正義と仁慈と島守護の力に期待を寄せ、口をそろえて「目黒盛豊見親(ミグルムイトゥユミヤ)」と呼んだ。これが「とぅゆみや」という尊称のはしりであるとつたえられている(『平良市史第一巻通史編1』)。

宮古島の歴史の不思議は、目黒盛が与那覇原の勢力を打ち破ったのに、敗北した与那覇原の一統である真佐久(マサク、後の与那覇勢頭豊見親=ユナパシドトゥユミヤ)が、その後、沖縄本島の中山王に朝貢し、「宮古の主長」に任じられたことである。しかもこの主長職は、敗者であるはずの与那覇勢頭の一族が受け継いだ。

                           

 二つ目の不思議は、目黒盛から5代目にあたる空広(スウラピル)が、勢力を二分していた与那覇勢頭系統の宮古主長のもとで養育され、執権となり、争乱なしに後に宮古の主長になったことである。つまり、宮古の支配者の地位をめぐり、およそ100年余の間に、逆転に次ぐ逆転が起きている。でも、争乱は目黒盛と与那覇原の決戦で区切りがつき、平和裏に政治的な大きな変動が起きている。この時代と政治支配をめぐる変転が、宮古島史をめぐる一つの大きな謎である。

087
           仲宗根豊見親の墓

敗者がなぜ宮古主長になったのか

両者の決戦のあと、島中の人心は、目黒盛豊見親に結集し、目黒盛をあがめ、目黒盛の治政は深く根をおろしていた。

敗北した与那覇原の一統のなかに真佐久(マサク)という若者がいた。真佐久は「少年」だったとも「20歳」だったともいわれる。真佐久が首領の佐多大人の子どもか、子どもではないなど諸説がある。いずれにしても、目黒盛が島民にあがめられほどの支配者となっているのにくらべ、真佐久はまだ、未熟な若者であり、世代的にもかなれ離れている。
 
 「与那覇勢頭豊見親のにーり」という“神歌”によると、真佐久が20歳の若者として武勇に勝れていたこと、大きな戦争において瀕死の重傷を負ったこと、生死の境にあった身が一族の人びとの介抱によって蘇生したことをうたいあげ、与那覇原の一族であること、宮古島の統治者として東の空の星座を仰ぎ、にいら天太のお慈悲にすがって島建てを考え、大きな国への目じるしをならえと、としめくくっている(『平良市史通史編』)。

 真佐久は、本島の中山国が中国に派遣した進貢船が漂来してきたのをきっかけに、海の彼方に沖縄という島のあること、大明という強大な富国があり貢物を捧げていることを聞き、「我も礼をつくして彼の中山国に至り運命の開拓をしようと、よくよくその地理などを教わった」(『平良市史』)。
 
 そして、真佐久は本島に渡って、中山の察度王に朝貢した。最初は言葉が通じなかったが、3年後の1390年、中山から宮古の主長に任ぜられ、与那覇勢頭豊見親となった。

与那覇勢頭は宮古に帰島すると、ただちに八重山に渡って中山への入貢をうながし、同年、八重山を服属させた。

« 2013年2月 | トップページ | 2013年4月 »

最近のトラックバック

2017年9月
          1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30